深夜の襲撃者
女将が部屋から出ていき、ジョナンはほっと安堵の息を漏らした。
ちなみに宿泊料金は依頼料から天引きという形だが、全額から考えると誤差の範囲な金額だ。
ジョナンはもう一度部屋を見回し、息をついてマントを脱ぐと、ベッドに転がった。
微かに脳を侵している酔いが、姿勢を変えたとたん心地よい気怠さに変わっていく。灯されたランプの光もそのままに、ゆっくり目を閉じるとすぐに眠気がやってきた。
白髪頭の町長。その娘。義勇軍。リーダーのキョゼ。お調子者のコーザ。町の者たち。野盗たち。イユエリ……。
今日出会った人物の顔が浮かんでは消えていく。
ひとりだけ、殺してしまった者の顔は……分からない。
やがて、閉じた瞳の奥の闇に、ベッドに横たわったまま弱々しく瞳を開けてこちらを見ている少女の顔が浮かび上がってきた。
(できれば、笑顔のお前を思い浮かべたいな……。アイ……)
肌と同じく色素の薄い唇を動かすが、喉から微かに空気が漏れ出るだけだった。
(「お兄ちゃん」)
不意に声が聞こえた気がした。
自分の問いかけに愛しい者が答えてくれたのか。
(「お兄ちゃん、ごほん、よんで……」)
次第に、その声が夢の中の声なのか、それともただ思い出しているだけなのか、区別がつかなくなってきた。
(アイ……、まだ……帰れそうにないよ……)
遠くに対してか、近くに対してかすらも判らない呟きが声にもならずジョナンの口から流れていく。
彼の故郷ティキト王国は、ここ、カイナドから国や自治区の境界線を十は越えなければならない地にある。緑の〈素〉から生まれた広大な水源、「海」は渡らなくて済む地続きの国だが、おいそれと帰るわけにはいかない。
浮かんでくるその情景は優しくて、温かくて、遠くて儚くて、不意に泣きたくなった。
瞼の奥の景色で、ジョナンの最愛の少女がベッドに腰掛けて微笑んでいる。両腕で大事に抱えた本を読んでくれるのを待っているのだ。
あの絵本の表紙は何色をしていたのだろうか?
――思い出せない。
心の中の風景には、いつも色がついていない……。
ガチャン。
モノクロの夢が途切れる。
まどろんだ静寂の中、ランプに薄く照らされた部屋に突如として物音が響いたのだ。
「…………」
それはさほど大きな音でもなかったらしい。それでも、寝入り端のジョナンを警戒させるに充分だった。
続いてドアが開く音が聞こえる。ジョナンは意識をできるだけしっかりと保ちながら侵入者の気配を窺った。
「起きてる……?」
若い女の声が耳に届く。やや声を潜めた、それでいてよく通る声。
闖入者の目星はついたが、ジョナンはあえて寝た振りを続けながら相手の出方を待つ。
「少し……、いいかな?」
足音を忍ばせることもなく、ベッドに近付いてくる。
「……なんだ?」
いつでも〈素〉の光を使う準備を右手に整えながら――とはいえ、光の力を得られるのがランプの光だけの今、この短時間の集中では使える力もたかが知れているが――ジョナンは体を起こした。
「起きてくれてたんだ」
闖入者――イユエリは今は装備を外して、インナーな服装で部屋に佇んでいる。暗い部屋で、遠慮がちにしている姿はどこか不安定な感じがして、つい先程まで宴の席で見ていた彼女とは雰囲気が違った。
「ねえ、ジョナン――」
その細いシルエットがゆっくりと動き、さらに距離をこちらへ詰めてきた。
緩やかなカーブを描く肢体は女性としての魅力に満ち、見る男性に雄としての本能としての自分を曝け出すよう誘いかけてくる。
ジョナンは一度だけ、このようなシチュエーションに遭遇したことがある。非常に痛々しい記憶だ。できれば思い出したくもない。
それなら女の暗殺者が寝入りばなの自分を殺そうとしてくる方がまたマシだ。
(だが殺気は……ない、か)
「ジョナン……」
彼女には似つかわしくない艶っぽい声で名前を呼びながら、ベッドの端に手をかけるイユエリ。まさかあの追加報酬の話を本気にしていたわけでもあるまいに。
「お願い……」
「イユ……?」
寄り添ってくるイユエリの動きに、不自然さはない。ランプの灯りだけが、白い肌を照らしている。動かないジョナンに、イユエリは吐息がかかるまでに顔を近づけてきた。ジョナンの体にカッと熱が灯る。
唇を寄せつつ、ゆっくりと閉じられるイユエリの瞼。
「…………」
それは、本当に純粋な求愛の行為に思えた。
のだが。
「――ちっ!」
イユエリが袖に仕込んだナイフが、ジョナンの胸を貫こうとするのと、体を離して右手を突き出すのが同時だった。
「つぅ! く、……あ」
凶刃が脇を切り裂き、苦悶の声が漏れる。イユエリはナイフが外れたことに全く動揺することなく、刃を肉に食い込ませてきた。
「こ、のっ」
その間にジョナンはイユエリの顔面を右手で掴んでいた。ナイフで骨を圧迫された脇に痛覚が悲鳴を上げる。が、それでも〈素〉を使うのをやめるわけにはいかない。
「浅はかなんだよっ!」
イユエリの顔を覆ったジョナンの掌から鮮やかな光が発せられ、激しい色彩を闇の中に撒き散らす。
「が! あうっ!」
後で思えば、襲撃者がイユエリという“女”であったことと、いきなりな状況で〝染脳〟の色パターンを間違えなかったのは、等しく僥倖としか言いようがなかった。
ジョナンが放った眩い光を浴びたイユエリは、びくんと体を仰け反らす。顔を掴んだ手を離すとがくんと力なくベッドに倒れた。
「…………はっ、あ……」
イユエリが幾度か痙攣して、動かなくなる。それを確認したジョナンは傷を押さえて呻き声を漏らした。凶器はすでに彼女の手から離れベッドの上だ。それを掴んでできるだけ遠くの床に放ると、今度はイユエリに寄り添って無事を確かめた。
「……大丈夫、か」
とりあえず、意識を失わせはしたが、呼吸と鼓動は正常のようだ。それを確認すると、ジョナンは指をぱちんと鳴らした。
ぽおっ。
蛍がその場に突如生まれたかのように、オレンジ色の光の塊がジョナンの右手から飛び出した。それは、天井辺りまで彷徨うように昇って、やがて部屋全体を照らしだす。
「イユ……、すまない」
部屋が明るくなって、血に汚れたベッドにイユエリがうずくまっているのが見えるようになった。イユエリは顔にはひどい火傷をして、とくに目の辺りが酷い。しかし、強引にでも光を全力で使わなければ彼女の〝洗脳〟を解く事はできなかっただろう。
イユエリがジョナンにナイフを突き立ててきたのは彼女の意志によるものではなかった。それが分かったのは、顔を近づけてきたときに洗脳に使う改悪植物の独特の匂いがしたからだ(酒臭さが消えるほどの悪臭なのだ)。ジョナンはその洗脳を、幾色の光の明滅を目から脳に叩き込んで――これを〝染脳〟というのだが――上書きしたのである。
匂いを嗅ぎとれたのも、〝染脳〟を即座に行うことができたのも、『運』が良かったからに過ぎない。
こんな悪趣味かつ周到なやり方で狙ってくるとは、賞金目当てなどの突発的な暗殺ではあるまい。イユエリは、ジョナンがこの町にいたが故に巻き込まれたのだ。
「誰だ……、誰が盛りやがった?」
怒りを堪えながらも、ジョナンはイユエリを軽く擁くようにしながら、右手に力を集中した。ほどなく掌が緑に発光し始め、生命力が宿る。
蓄えた〈素〉の光を自分の傷より先にイユエリの顔に翳そうとしたとき。
ボカアアアアアン!
冗談のような炸裂音が響いて、宿のドアが吹き飛んだ。
「な、な?」
ジョナンは誰何の声をあげるも、イユエリの治療を優先しようとする。
ばきり、と焦げた木材を踏みしめる音が聞こえた。
「久しぶりなのに、挨拶もなしなの? つれないわね」
煙を纏って現れたその人物は、どす黒い感情を押し殺した低い声音で言ってくる。
「こっちをきちんと見たほうがいいわよ、ジョナン。人が、特に、女が死ぬのは嫌いなんでしょ?」
その言葉に手を止め、きっ、とドアのほうを睨む。
現れた人物。ジョナンが先ず見たのはそちらではなかった。その背後の足元に、宿の童顔女将が倒れている。外傷はないが、『彼女』がその気になればあっという間に――
「……フーコ」
こちらに酷薄な笑みを向けた人物を見据えて、ジョナンは名前を呼んだ。その人物――フーコは〈素〉で作ったランプに照らされたまま囁くように返す。
「ずっと逢いたかったわ。ジョナン」
ゆっくりと近付いてくるフーコ。
まず湧いたのは、自分でも不思議なことに懐古の念だった。
「染めてるんじゃない」と何度も主張していたライトマジェンタの長い髪。肌をあまり出さないローブファッションも記憶のままだ。色は黒だが、腰の辺りからグラデーションが始まり、足首の辺りでは紅色になっている。
色気なく、しかし同時に高貴な気品を漂わせる服装。それに不釣合いな野性味を帯びた顔立ち。女豹の眼光。
そして、彼女の二つ名「赤口」の由来でもある、石榴色の唇――。
懐かしい全てが、今は復讐心に歪んだ表情の所為で禍々しく映る。
「まるで変わってないのね。すぐに女の子をベッドに招き入れて」
「なんで、こんなところに……」
ジョナンは問う。フーコ・フレネル、かつての相棒に。
「なんでと言われても、あなたを追ってきたのよ。仕事もあったし」
「オレの賞金か」
「違うわ。仕事はこの自治区に関わるもの。それがあなたが来たって言うから予定が変わったの。元々、関係ない人に危害を加えるつもりはなかった」
「加えるつもりはないだと?」
声に怒気を込めるジョナン。現にイユエリを洗脳し、女将を人質のように扱っている。
「関係ない、人にはね」
ジョナンの怒気のこもった声に、フーコはそれ以上のマイナスの気を込めて返してきた。彼女の眼光は倒れたイユエリを射抜いている。ジョナンは瞳に冷たい光を宿らせ、だがそれもフーコの瞳を見た途端に哀れみに変わった。
「そんな顔しないで」
フーコが怒りながらも悲しそうに言う。
「それは……こっちの台詞だ。オレはそんなお前を見たくなかった」
「あなたこそ、随分弱くなったものね。あんな肉の塊なんか相手で手傷を負うなんて」
嘲りの口調で言うフーコに、ジョナンの眉がぴくりと上がる。
「野盗とやりあったとき、見てやがったのか」
「ええ、あなたが目くらましの光を使う前から。一度、助けてもあげたじゃない」
私って義理堅い女ね、などと、フーコは氷柱のような棘を含んだ言葉を紡ぐ。
それに対して、ジョナンは何も言えなくなる。
どうしてこんなところにいるのかと再び問えばいいのか。何故助けたと詰問すればいいのか。それとも、今、この場でのイユエリたちに対する仕打ちを責めればいいのか……。
「あなたが思っていること、そのすべて、あなたにする資格はないわよ」
心情を読み取られ、動揺してしまう。左手が震える。その手が思わずイユエリの素肌を求める。いざというときのために、常に彼女に触れられるようにしておかねば。
その動きが、フーコの赤い瞳をすっと細めさせた。
「私はずっとあなたにはあなたでいて欲しかった」
「あのときはなあ……!」
ジョナンが叫ぶと、激情を迸らせてくる。
「あのときのあたしは、ただあなたを!」
「誤解だっ!」
「ただ、あのときは、ただあなたを……」
憑かれたような目で睨んでくるフーコに、ジョナンは怒鳴った。
まるで、あの日からまるで時間が流れておらず、そのまま次の日に続いてきてしまったような錯覚。
「だから、何度も言ったろう?」
彼女を、フーコをこのようにしてしまったのは他でもない自分だ。しかし、全く罪も関わりもない人間を巻き込んでまでジョナンを殺そうとする、今の彼女は見ていられない。
「誤解なんだ! オレはお前を軽んじたわけじゃない!」
「黙って! 聞き飽きたわ、ジョナン。あたしは、あなたに弄ばれたのよっ」
怒鳴って、手を振り上げるフーコ。その掌から塵ほどの大きさの、赤い光が幾つも生まれ出る。
ジョナンと同じく〈素〉使いであるフーコの赤き〈素〉の力。それは、怨嗟の炎だ。ジョナンに対する、愛憎の感情の爆発だ。
「くっ!」
「焼け死になさい!」
ジョナンは咄嗟にイユエリを抱きしめ、全身から〈素〉の白い光を放つ。
赤い塵状の光はジョナンに襲い掛かると、ひとつひとつが高性能の火薬であるかのように炸裂した。しかしそれも、ジョナンが放つ白光に飲み込まれ、ジョナンたちに害なす事はなかった。
「やめろっ、フーコ!」
爆発の余波が、宿の壁を、ベッドを破壊していくのを見て、ジョナンは訴える。それでも無論、彼女が聞き入れるはずもない。
「また他の女とっ、他の女とぉっ!」
激しい癇癪を起こした子供のように〈素〉の粒を放ち続けるフーコ。ジョナンの疲労は彼の意識を奪い、眠りへの誘惑を続けていたが、気力で爆発に耐えつつ説得を続けた。
「違うんだ!」
「なにが違うのよっ、今だってその女を抱きしめてるじゃない?」
「だからオレはこうしてないとダメなんだってば!」
「死になさい!」
宿が、フーコの〈素〉の力、〝紅塵〟で崩れ去っていく。問答はまるで意味を成さず、彼女の攻撃の勢いは増す一方だった。夜なので周りから<素>の光を補給するのも難しいというのに、まったく相変わらずとんでもない赤の<素>の使い手だ。
あの、子供っぽい風体の女将はフーコの背後、ドア辺りにいるおかげで被害に遭っていない。が、目を覚ましたときにこの宿の有様を見たらまた卒倒すること間違いなしだ。
「誤解じゃないなら、その女を離してから説明しなさいよっ」
フーコの強烈な言葉責めは続く。正直ジョナンには〝紅塵〟よりもこっちの方が痛い。
「だからお前がいつもそうやって攻撃しながら言ってくるからオレは女を抱きしめてないといけないんだろうが!」
「まったく理由になってないじゃない! あの朝だって通りにいた女の子を抱きしめて『誤解だ、誤解だ』って」
思い出したくない過去を、きつく蓋をした心のトラウマを、錐でこじ開けるようなことをわめかれる。
(なんでだ、なんで今オレはこんな目に遭っている? 今日のどこで間違えた? なんだて、とっくに撒いたと思っていたフーコがこんな片田舎に現れたんだ?)
ジョナンは必死でイユエリにしがみつきながら白い光の壁を維持しつつ考えた。
赤い〈素〉による炎の盾や、青い〈素〉による風の衣と違い、白き〈素〉での防御光は他の色での〈素〉を飲み込んで無力化する。よって、相手も白の〈素〉を使わない限り、展開している者はダメージを受けない。
その効果と引き換えに、必要な〈素〉の量も半端ではなく、その欠片たる日から降り注ぐ白の〈素〉を頼れない今、長時間の維持はまさに命懸けだ。
(くそっ、光の壁を解くわけにもいかない。かといって反撃もできない。ていうか、しようとしてる隙にイユが焼き殺される)
得意の脳内文学さえも覚束無いまま、必死で策を練る。が、耐え続ける以外のことが思い浮かばない。
イユエリはまだ目を覚まさなかった。不幸中の幸いだ。この場合は覚まされるととても厄介なことになるのが想像つく。
「うん……?」
ふいに、爆音に混じって腕の中から声が聞こえた。
ジョナンは「あちゃ~」となり、撒き散らされてくる炎から守りつつ、声をかける。
「イユ、目ぇ覚めたのか」
「だれ……?」
「非常事態だ。襲撃されてる」
イユエリのほうを見る余裕はなかったが、状況は説明してやった。だが、彼女からの返事はない。
「このっ、このっ、この女タラシっ! 見境無しのオオカミっ!」
「…………?」
気がつくと抱きしめられていて、周りには真っ白い光が満ちて、その向こうで紅い光が幾度も明滅を繰り返す。更に、聞こえてくる女の罵声。訳が分からなくて当然だろう。
薬学者でもあるフーコにかかれば、何時如何なるときでも相手に液状の薬品の匂いを嗅がせることくらいはわけない。ただ、襲撃者として自身ではなくイユエリを据えたことに、彼女の心の傷の深さが現れている。
一言で言えば、あの森での襲撃の後、軽く肩を抱いたりしたのが気に入らなかったのだろうが。
そこへ、フーコの一際大きな声が轟く。
「こっのおおおっ!」
〈素〉の壁を通して見えた景色では、フーコが淡紅色の髪を振り乱していた。その手にはナイフが握られている。先程イユエリが仕込んでいたナイフではない。懐かしい、あのナイフだ。
(今も、使ってるんだな……、あれ)
感傷にほんの一瞬浸る心。
そのフーコの手のナイフは何度も、何度も血に濡れてきたナイフだ。
人間をはじめ、多くの生き物が体内に持っている赤き<素>の源である血を吸うことで所有者の赤の<素>の力を強める金属できたナイフ。
「ゆるさない」
掠れた声で言いながら、フーコは白い光の向こうの景色で、刃を自分の腕に押し当てる。
(やべ、マジだ)
フーコが〝あの〟力を使えば終わりだ。白き〈素〉で護られているジョナンとイユエリ以外、発動後に残っているものはないだろう。
〈素〉の収斂。
『そんな小難しい言い方じゃなくて、〝プロメテウス〟とかにしたいなあ』と、古代文明の兵器名をさらりと出していた無邪気なフーコの顔が浮かんでくる。
そんなモノを彷彿とさせる威力を〈素〉で実現してしまうのだ。
この、ジョナンの元相棒にして元恋人、赤口、フーコ・フレネルは。
「やめんかあああああ!」
兎に角、ジョナンだけなら、イユエリがいるならこの状況を生き延びる自信はある。しかし、少なくともこの町が消し飛ぶ。たまたま立ち寄って、成り行きで救って、うっかり滅ぼされました、では寝覚めが悪すぎる。
「こうなったら……」
相も変わらず状況についてこれていないイユエリを強く、強く抱きしめる。できるだけ肌と肌が触れるように。それはすでに抱擁ですらない。イユエリが痛みに呻く声を上げる。それを耳から追い出し、全身に〈素〉を漲らせる。
体の芯が火柱になったように熱くなる。頭の中は真っ白だ。そんな白さの中、ただひたすらに、フーコの〈素〉をかき消すことだけを考える。
フーコは〈素〉の収斂をほぼ完了させていた。〈素〉を集め、凝縮する赤い水晶体。余波で自身の纏うローブを焦がしながら、ナイフの刃を柔肌に食い込ませている。
「……もう、いいっ」
突然、そんな言葉が聞こえ、轟音が止んだ。
嘘のように、〈素〉の圧倒的な存在感が消えていく。
「ジョナン、もういいっ」
「フーコ?」
「は、あっ、はあっ……、はあっ……」
広がった視界には火の粉と煙のベールの向こう側に、肩で息をし、膝をついているフーコが見えた。ローブの袖で額を汗を拭って、呻いてくる。
「あなた……、私が、殺す気で〈素〉を使ってるのに、そうやって……、ただ耐えて」
ジョナンは、急に弱々しくなったフーコの声に戸惑いを覚えつつも、耳を傾け続けた。
「ただ、女の子を抱きしめるのを止めてくれたら、それだけで、許してあげるのに……」
フーコが、灼熱地獄の中、凍えそうになっているかのように自身を両腕で抱く。
「私……、私……、いつか、ジョナンと偶然会えたら、あのことも笑って想い出にできるかも……って思ってたのに」
「ジョナン……?」
そこで、イユエリがジョナンの名を呼ぶ。今の今まで、自分を抱きしめていたのがジョナンであると気がつかなかったらしい。
ジョナンは、警戒しつつも白き〈素〉の壁を解いた。
「あなたが誰かひとりを大事に思うなら、いいの。あたしをフッたことも許してあげる。けど、いつも……、いつも……毎回違う女と仲良くしてるから腹が立って……」
「ふ、フーコ?」
「うわあああああん、ジョナンの馬鹿! いつか殺してやるんだからあああああっ」
いきなり泣き出したフーコは、きびすを返して宿の壁を突き破って出て行った。おそらくは、この町から……。
それを呆然と見送ってしまうジョナン。
「た……、たすかった、のか?」
口を動かしても、無事で済んだ実感が湧かない。自分は許してもらえたのだろうか。それとも、さしものフーコも町を消してまでジョナンを殺すのは忍びないと判断したのだろうか。
「そういえば……、あいつ、よく勝手に怒って勝手に機嫌直してた事、あったよな……」
女性が不可解なのは、いつものことだ。
心身ともに疲れがやってくる。もう疑いようもない。今日は、厄日だ。
脱力し、ジョナンはとりあえずこの名もない町がカイナドの地図から消えなかった安堵を噛み締めた。
そんな感情を理解しているのかいないのか、イユエリは黙っている。いや、何ひとつ言ってこない。
「あ」
何も言ってこないことで気がついた。ジョナンは彼女のほうを向く。
「う……」
思わず目を背けたくなるような火傷の痕が目に飛び込んできた。心の安堵も掻き消え、おぞましい現実を見せられたようにその肌の変貌振りに顔をしかめる。勇ましくも愛らしいあのイユエリの面影は、もはや口元と顎にしかない。
「ジョナン……なの?」
火傷で瞼を開けることもできないイユエリは、こちらに顔だけ向けて問いかけてくる。ジョナンは宿が、町の一部が焼け爛れたこともよりも、自分の手によるこの小さな面積の爛れのほうに胸が裂かれる気持ちになった。
「今、癒してやるから」
イユエリの長袖のシャツから伸びた手に触れる。
今度こそ、緑の〈素〉の光をイユエリの顔に翳さなければ。彼女につけられた脇の傷の痛みがなくなったわけではないが、そんな痛みよりも罪悪感が体を動かした。
ジョナンの右掌から発せられる鮮やかなグリーンがイユエリの両目の周りを照らす。すると、醜く爛れた肌が元の日に焼けた肌に少しづつ戻っていく。本来、植物が持つ再生能力を皮膚に与えるこの力は、熟達すれば痕さえも残さずに傷を治すことが可能になる。
「うっ……、く。やべ……」
だが、あまりに長時間の白き〈素〉の連続放出が堪えた。ジョナンの目の方が開けているので精一杯になっていく。
(ずっと女が近くにいたっつっても限度があるか……、せめて陽が昇れば……)
イユエリは、その不思議な光が目の前から消えたときに、瞼を開けた。
微かに開いたその黒い瞳に、ジョナンは愕然となった。
大きく見開かれたイユエリの瞳には、ジョナンの姿が映っていなかった。
そういえば出しっぱなしにしていたオレンジ色の<素>ランプの光のおかげで暗さはない。しかし、イユエリはしっかと目を開きながらも腕をあちこちへ彷徨わせる。
「あれ?」
あんまりに、間の抜けたイユエリの声。
「ここ、どこ……?」
治ったばかりの瞼を開いては閉じる。ジョナンにはもう、それを見ている力すら残っていなかった。おろおろと、乾いた血の付着した手でジョナンの顔に触れてくるイユエリ。
「う……」
小さな呻き声が聞こえた。イユエリのものではなく、あの童顔女将のものだ。それとほぼ同時、夜明け前の町が騒がしくなってくる。ようやく、この宿の惨状に気がついたのだろう。それとも、一時的な睡眠薬品を空気に混ぜてフーコが町に撒いていたのか。
「く、あ……」
はっきりと見えた、イユエリの光ない瞳が、ジョナンの心に絶望を満たした。
闇に堕ちる最後の意識の中、ジョナンは自身の荷物をまさぐった。
さして大きくもない腰の巾着。その中に小さな瓶が一つ入っていた。
「これなら、もしか、もしかすると」
蓋を取り、イユエリの口を頬を押して無理矢理開け、その中に瓶の中に入っていた液体を流し込んだ。
このとき、ジョナンは必死で<素>たる白き光に祈った。
(たとえ失敗作でも、万病を治す酒よ。イユの目を癒しておくれ…)
研究機関から念のため一瓶分だけ受け取っておいた試作品だ。
いずれ、彼の妹が完成されたこの薬を飲み、元気な体を得る日を夢見て、作りだそうとしたものだ。今はまだ遠くとも、いつの日か…。
そこまで思いを馳せた時点でジョナンの意識も闇へ落ちた。
名前の由来紹介
フーコ・フレネル:「不幸」のもじりとフレネルレンズから。