reminisce.03 ぶどうの丘でつかまえて
八月十日、日曜日。
紫玉絵画展に行くその日は、文句のつけようのない快晴だった。
澄み渡る青空のうえで太陽が目一杯手足を広げ、街中を真っ白な夏の陽光に包み込んでいた。
絵梨花と駅で待ち合わせしていた僕は、甲府から電車で勝沼ぶどう郷に向かった。駅前のタクシー乗り場で、自転車にまたがった絵梨花が手を振って待っていた。その姿は私服ではなく制服だった。
「おはよう。なんで制服で来たの?」
「一応おかたい場所だから、この方がいいかなって」
そう言われて、ポロシャツにステテコというラフの極みのような服装で来たことを後悔した。
「大丈夫だよ。ただの展示だから誰も気にしないって」
「だといいけれど……」
話しているうちにも、夏の太陽が僕たち二人を容赦なく突き刺した。
「それにしても勝沼は暑いねぇ」
「ここから歩いて十分くらいだから、暑いけど頑張っていこうね」
そう言って、絵梨花は自転車をひいて歩いた。
「こっちだよ」と促されて進んだ道は、桜並木が両側に生い茂っていた。春には鮮やかに咲き誇るであろうこの桜も、今は青々と木陰を作ってくれている。
「春になるとこの道は本当に綺麗なんだよ」と、絵梨花も楽しそうだ。
しばらく歩くと見晴らしの良い坂道にたどりつき、振り返ると眼下には一面ぶどう畑が広がっていた。炎天下ですでに全身汗だくになっていたが、そんなことは忘れ去ってしまうほどの絶景だった。
「すごいなぁ、本当に見渡す限りぶどう畑なんだね」
感動して絵梨花の方を見ると、「気に入ってくれた?」と嬉しそうに笑っていた。
小走りで絵梨花に追いつき、肩を並べて坂道を歩く。鼻から思いきり息を吸い込むと、青臭さと焦げ臭さの混ざった素朴な匂いが肺を満たした。
「これが自然の香りかぁ……」
「わかるの?」
絵梨花が興味深そうに尋ねてくる。
「うん。なんだか焦げたような匂いがするんだよ。なんで焦げた匂いがするんだろう? 真冬のストーブみたいなさ、懐かしい匂いなんだ」
「先生もわかるの! そうだよね、そういう匂いだよね」
絵梨花は興奮した様子で、僕の意見に同意した。
「家族や友達に言っても誰もわかってくれないんだよ。先生、さすがだなぁ」
「だってさぁ、するんだよ。なんか温かい匂いが」
絵梨花は楽しそうに「うんうん」と何度も頷いた。
「不思議だよね。春夏秋冬関係なく、この懐かしい匂いの風が吹いてるんだよ」
僕と絵梨花のあいだを吹き抜ける風はじっとりとして、到底爽やかなものではない。けれど、確かに懐かしい匂いを運んできていた。一面に広がるぶどう畑の緑は、その懐かしい風に吹かれて、気持ちよさそうにそよいでいた。
「いいところだね」
僕がそう言うと、絵梨花は「ふふ」と小さく笑った。
「私、この景色一生忘れられないな」
「確かに。こんなにいいところだったら忘れられないよね」
僕が同調すると、絵梨花は「ちがうよ」と首を横に振った。
「今日は先生も一緒だから」
絵梨花の恥ずかしそうに笑う姿が、僕の目に焼き付いた。
遠くでツクツクボウシの鳴く声が聞こえる。じわりと額から汗が垂れ落ちてきた。言葉の意味を考えると照れくさくなってしまい、僕は何も言えなかった。
絵梨花は横を歩く僕を見て、「ふふふ」と笑うだけだった。
空には真っ白な太陽が燦々と輝いていた。今日は、すごく暑い日だ。
坂道をいくつも登り、観光施設である「ぶどうの丘」にたどりついた僕たちは、美術館を目指していた。シーズン真っ只中なこともあってか、ぶどうの丘は観光客で埋め尽くされていた。陽射しを避けるように、木陰の下を重い足取りで進んでいく。
「美術館って、けっこう奥の方にあるんだね」
もはやしゃべることすらままならなく、僕はタオルで額を押さえていた。
「そうだよ。けっこうおしゃれで綺麗な建物なんだよね」
絵梨花は自転車を置いて身軽になったのもあってか、まだまだ元気な様子だった。
土産店やレストラン、温泉施設などいくつかの建物を越えた先で、西洋風の淡い黄はだ色の建物が僕たちを迎えた。
「ここが美術館だね」
絵梨花は確認するように呟くと、そのまま進んでいく。
他の施設に比べるととても綺麗で、美術館というよりはホテルのような外観である。木製の自動ドアの横に「紫玉絵画展 開催中」と書かれた看板と、いくつかのスタンド花が立っていた。
受付で二人分の小冊子の購入を求められたので、僕は絵梨花の分も支払った。「自分で買うよ」と断られたが、強引に二人分を支払ってしまった。
受付を済ますと係員に誘導されて、一階の展示室Aへと向かった。絵梨花の後ろをついて歩き、しばらくは黙って展示されている絵を見ていた。
館内には艶やかな薄紅色の和服を身に着けた女性や、外国製のいかにも高そうなスーツを着た老人など、格式高い人々がそこら中にいた。やはり芸術を嗜む人々は、自分とは住む世界が違う。
それでも展示されている絵は素人の僕にもわかりやすく、鑑賞していて飽きなかった。
ふと三十分ほど経過し、足が疲れてきたなぁと思った頃、絵梨花が突然口をひらいた。
「わたしね。この紫玉絵画展に入選するのが夢だったの」
夢。絵梨花の口からそんな言葉がこぼれて、僕の鼓動は少しだけ高鳴った。
「そうだったんだ。でも、どうして?」
「私がまだ小学生だった時、この絵画展を見に来てすごく感動したの」
そう言うと彼女は薄く笑みを浮かべた——それはどこか恥ずかしそうな——そんな表情だった。
「この世界にはこんなに素敵な絵を描く人たちがいるんだな……って。それで私、絵を描きたいって思ったの」
「なるほど、そういうことだったんだね」
「ここは私にとって絵を描くことになったきっかけ……とても大切な場所なの。四年に一度開かれるこの紫玉絵画展で、いつか入選する絵が描きたい」
一心に語り続ける彼女の瞳には、強い光が宿っているように感じた。その光に惹き寄せられたかのように、僕は彼女の瞳から目が離せなかった。
「でも——」
絵梨花は俯き、悲しげな表情になった。
「今の私には足りないものが多すぎるって言ったよね」
「言ってたけど……それがどうかした?」
絵梨花は唇を噛みしめると、首を横に振った。
「やっぱり、今回は出さなくてよかったって思うの。今の私にはここにあるような絵は描けない」
飾られている絵を見回して、絵梨花はため息をついた。
「私の絵に足りないものって、何なんだろう……」
悩む絵梨花に、僕は一つ質問してみることにした。
「絵梨花は、なにが描きたいの?」
「なにって? モチーフのこと? それはやっぱり綺麗なものが描きたいけど……」
「そういうことじゃなくてさ。絵梨花が本当に描きたいものってなんだろう」
そう訊ねると、絵梨花は難しい顔をして首を傾げた。
「どういうこと? 綺麗な景色や草花や鳥じゃいけないの?」
「それでもいいけど、それは絵梨花以外の人にも描けるわけでしょ」
そう言うと、絵梨花は今にも泣き出しそうな顔で僕を見た。
「じゃあどうしたらいいの?」
「だからね」僕はゆっくりと答える。
「絵梨花は、絵梨花にしか描けないものを見つけるべきなんだと思うよ」
「私にしか描けないもの?」
「そう!」
僕は大きく相槌を打った。
「素人の意見だけどさ、絵梨花はもう十分すぎるくらい上手いと思うんだ。だから、絵梨花が本当に描きたいものを見つけられれば、一歩前に進めると思う」
力強く鼓舞したものの、絵梨花の表情はいまだに曇ったままだった。上手くイメージできないのだろう。
「私にしか描けないものって言われても、難しいよ」
俯く彼女を見て、弱ったなと思った。なんて説明してあげたらいいのだろう。
「そうだ。たとえば……先生だったらどんなものが描きたい?」
絵梨花にそう訊かれて、僕はすぐに答えていた。不思議と——ぱっと心に浮かんだのだ。
「大切なものだね」
僕が答えると、絵梨花は何度か瞬きをして興味深そうにこちらを見た。
「大切なもの……?」
「うん。自分にとって大切な場所だったり、大切な思い出だったり……大切な人だったりね。僕だったら、そういうものが描きたいな」
「大切なもの……大切なもの、か」
絵梨花は頬を右手で押さえ、確かめるように呟いた。
「たとえばね」僕は絵梨花にわかりやすいように具体例を出すことにした。
「人物画を描くとして——見知らぬモデルよりも、自分の好きな人を描く方が素敵な絵になると思うんだよ」
熱心に説明をすると、絵梨花は「うんうん」と頷いて、「そういうことだよね」と納得したようだった。
そして僕の方に顔を向けたかと思うと、「わかった気がする」と白い歯を見せた。
「今までそんな風に考えたこともなかった。でも言われてみれば……大切なもの、たくさんある」
絵梨花は頬を緩めて、楽しそうに話し続ける。
「今すぐ描きたくなってきた。私の大切なもの……帰ったらすぐにでも描くよ!」
どうやら何かをつかめたようで、絵梨花は興奮を抑えきれない様子だ。それを見ていたら、僕も不思議と嬉しくなってきた。
「いいヒントになったみたいで良かった。それで絵梨花は……今なにが描きたいの?」
そう訊ねると、絵梨花は恥ずかしそうに視線を逸らした。
「だめだよ。先生にだけは絶対言えない」
「どうしてさ。完成したら見せてくれるんだろう?」
「それもだめ。先生には絶対見せないからね」
絵梨花はそう言うと、いたずらな笑みを浮かべた。
その笑顔にほだされるように——これ以上追求する気も消えた。絵梨花がどんな大切なものを描くのかは気になったが、彼女が一歩前に進む手伝いができたのなら、それでいいと思えた。
きっと、素敵な絵が描けることだろう。
そんな風にして二人で無邪気に笑っていると、出し抜けに絵梨花が口をひらいた。
「先生、ひとつ聞いてくれる?」
先ほどまで満面に笑みをたたえていた絵梨花が、急に真剣な表情で話しかけてきた。不審に思った僕は、恐る恐る「なに?」と答えた。
「私ね、もうここにいられないの」
「……どういうこと?」
絵梨花が何を言っているのか、すぐにはわからなかった。
「家の事情で、八月末に引っ越すんだ。お母さんの実家がある大宮に」
「大宮だって? 埼玉じゃないか。それじゃあ転校だし、塾だってもう……」
「やめないといけないね」
彼女はまるで感情を押し潰したかのように、淡々と答えた。
引っ越すだって? それも大宮に? いくらなんでも急すぎる。絵梨花は悪い冗談でも言っているんじゃないか。
「なに言ってるんだ……絵梨花、嘘だろ?」
彼女はゆっくりとかぶりを振った。
「もう決めたの、行くって。お母さんは私の進路には反対してないし、大宮なら美術予備校もここよりずっとあるからね」
「それはそうかもしれないけど……」
「それに、お母さんを一人にはできない」
彼女のなかですでに決心は固まっているようで、その話し方には揺らぎがなかった。
「私、大宮に行っても絵を描き続けるからね」
そう言うと彼女は微笑み、僕を見つめた。その笑顔はどこか力なく、切なさをはらんでいる気がした。
僕は「頑張ってね」とは言えなかった。
卒業するまでずっと一緒で、絵梨花の未来を見届けられると思っていた。彼女のそばで、彼女の力になれると思っていた。
それがこんなにもあっけなく終わりを迎えてしまうなんて、信じられない。
ただ悲しかった。彼女が僕のもとを離れて遠くに行ってしまうことが——悲しかった。
講師や生徒という関係を抜きにして、僕は絵梨花という子に惹かれていたのだ。
「それでね、今日ここに先生を連れてきたのは……一つ約束をしたかったから」
「約束?」
悲嘆に沈んだ僕はよそに、絵梨花が話しかけてくる。
「このままお別れしたら、先生は私のこと……忘れちゃうかもしれない」
絵梨花が悲しそうに呟いたので、僕はすぐさま反論した。
「なに言ってるんだ。忘れるわけないだろ」
「そう信じてるけど……先生は忙しいし、毎年たくさんの生徒が来るし、いつか私も過去の人間になっちゃうよ」
「そんなことは——」
しゃべりかけたところで、絵梨花に「私の話を聞いて」と止められた。
「だから一つだけ約束してほしい。先生と私が、ずっと繋がっていられる大切な約束」
「わかった……いいよ」
そう答えると、絵梨花はまっすぐに僕を見つめた。
よく晴れた夏の青空のような、どこまでも澄み切った瞳だった。
「四年後、またここで会おうね」
「四年後に、ここで?」
「うん、そうだよ。四年後には、次の紫玉絵画展があるから」
「そうか……四年に一度だった。またあるんだな、このコンクール」
僕がそう納得すると、絵梨花は満足げに頷いた。
「その時、私はきっと夢を叶える。今よりもっともっと努力して、必ずこの紫玉絵画展に入選する」
絵梨花の澄んだ瞳に、はっきりと僕の姿が映っていた。
「私の絵が入選したら、その絵の前で待ってる。だから——先生、来てくれるよね?」
「もちろん、必ず行くよ」
僕がそう答えると、絵梨花は照れくさそうに笑みをこぼした。
四年後……どんな風に過ごしているのだろう。その頃絵梨花は大学四年生で、僕は社会人五年目だ。
どちらにしても、また笑って会えたらいいな。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
貴方の貴重な時間をこの小説に捧げてくださり、本当に感謝いたします。