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reminisce.02 雨降る夜になったら

 それから一週間後、僕は絵梨花に面談の約束を取り付けた。親や他の講師が介在しない、生徒と担当講師の一対一の個人面談だ。

 授業のない空き時間に僕は絵梨花を塾へと呼んでいた。


 約束の午後七時から五分が経過した頃、面談部屋の扉が勢いよくひらいた。

「せんせー! 遅れちゃってごめんね。学校で色々あってさぁ」

 走ってきたのだろう、絵梨花はぜえぜえと肩で息をしていた。


「別に遅れてもよかったのに。そんなに急いできたら危ないじゃないか」

「だって先生と話せると思ったからさぁ」

 絵梨花は息を切らしたまま「えへへ」と笑ってこちらを見た。どうしていいかわからず、僕はとりあえず苦笑いを返しておいた。


 そう言ってくれるのは嬉しい。とても嬉しいが——

 無邪気な笑顔が僕の心臓を針で突くように痛めつけた。これから話すことを考えると、彼女の気持ちを裏切るようで心が苦しい……


「絵梨花、落ち着いたらそこに座ってね」

「はーい」

 気乗りはしないが、向かいの席に絵梨花を促す。絵梨花は席に着くやいなや、鞄から二枚の画用紙を取り出した。


「ねえ先生、お話する前にどうしても見てほしいの」

 断ることもできず、目の前に差し出された絵を仕方なく受け取った。とりあえずこの絵を見たらすぐに本題に入ろう——

 そう思ったが、描かれていた絵は目を見張るものだった。


「桃の花と、ぶどうの花か」

 一枚には、桃の花が繊細に描かれていた。鮮やかなピンクの花がトンネルのように続いていくその道は、さながら天国のようだ。

 もう一枚には、白いぶどうの花がアップで描かれていた。桃の花に比べると華やかさはないが、素朴な佇まいに心惹かれる。


 相変わらず絵梨花の腕前は大したものだ。僕が素人とはいえ、ここまで美しいものが描けるのは尊敬に値する。


「いやぁ、綺麗に描いてるなぁ。やっぱり僕は絵梨花の絵が好きだ」

「えへへ、そう言ってもらえるとすごく嬉しい」

 絵梨花は無邪気に笑顔をうかべている。


「今回はなんでこの花の絵を描いたの?」

「だって綺麗だったからさ。それに山梨っていったらぶどうと桃じゃない?」

「なるほどね」

 いつも思うが、絵梨花の絵には深い想いがない。ただなんとなく描きたいものを描いてるだけ……そこが本当に惜しいなと思った。


「それでね、私この絵でコンクールに——」

「いや、ちょっと待って」

 絵梨花がさらにパンフレットのようなものを取り出したので、僕は慌てて制止した。


「なに?」

 絵梨花はきょとんとして俺を見つめていた。

 今の止め方は少し不自然だったろうか。しかしこうでもしないと、終始絵の話題で終わってしまう気がした。


「絵の話はもうそれくらいでいいだろ? それより今日は僕からも大切な話があるんだ」

「わかりました……」

 絵梨花は消え入りそうな声で答えると、そのまま俯いてしまった。絵の話をしていた時のいきいきとした表情はどこかに消えてしまった。


 その様子を見て、再び針で刺したようにチクリと胸が痛んだ。

 僕は目を瞑って歯を食いしばった。言ってしまうなら、単刀直入に言ってしまおう。


「大事な話だから落ち着いて聞いてほしいんだけどな」

「はい」

「絵梨花、絵を描くのは諦めないか?」

 そう言うと絵梨花は特に驚く様子もなく、悲しげに僕の顔を見つめた。


「絵梨花の絵が上手いのも、好きなのもわかってる。でも、ここで頑張ったらもっと良い将来が待ってるかもしれないんだ」

 僕は必死に、絵梨花の顔を見ないようにしながら話を続けた。


「絵を描くのもいいけど、もっと上の大学を目指した方が絵梨花のためになるんだよ」

 絵梨花は何も言わずに黙っていた。

「先生の言いたいことわかるよな? 絵梨花、どうだ?」

 すると絵梨花はしばらく考えこんだのち、「やっぱりなぁ」と呟いた。そして俺の方に視線を戻してから、意味深に微笑んだ。その笑顔が意味するところを、僕は理解できなかった。


「安心して下さい。私、絵を描くのはやめようと思ってたんです。進路希望票も書き直したんですから」

 差し出された紙を見てみると、第一希望の箇所には上位旧帝大の名前が書かれていた。


「絵の道に進むって夢、誰にも応援してもらえなかったんです。父親にも、学校の先生にも。今通ってる画塾も近いうちにやめます」

 予想以上に淡々と物事が進んでいき、僕は呆然としていた。絵梨花はそれでいいのだろうか? 本当に彼女自身が納得して決めたことなのだろうか?


「吉田先生のおかげで、踏ん切りがつきました。誰にも応援されないことはもうやめます」

 絵梨花はそう言い残すと鞄を持って立ち上がった。


「待って絵梨花。まだ話は終わってない」

「もういいんです。明日から真面目に勉強頑張ります」

 扉に手をかけ部屋を出て行く直前——彼女は振り向いて一言だけ口にした。

「いつも絵を見てくれて嬉しかったよ」

 そしてそのまま、勢い良く部屋から出ていった。廊下から彼女の走り去る足音が響いてきた。追いかける気力も湧かず、足音の残響が虚しく室内にこだました。


 ふと机の上に、一枚のパンフレットが残されているのが目に入った。さきほど絵梨花が取り出して忘れていったのだろう。紫の光沢紙に「紫玉絵画展」と格式張った明朝体で書かれていた。


 手にとって目を通すと、どうやら勝沼の「ぶどうの丘」で開催される絵画コンクールのパンフレットのようだ。どうしてこんなパンフレットなんか持ってきたのだろう。

 なにか僕に相談したかったのだろうか。もしかして絵梨花は、この紫玉絵画展に絵を出すつもりだったのでは?


 僕は座ったまま、しばらくその場で固まってしまった。

 ……これでよかったんだろうか。

 絵梨花は本当に諦められたのだろうか。


 得体の知れない胸のざわつきと、じっとりとした嫌な予感が僕を包み込んだ。残されたパンフレットをズボンの後ろポケットにしまうと、僕は大きなため息をついた。



 この出来事から一ヶ月あまりが経過した八月の初旬。嫌な予感はすぐに現実のものとなった。面談以来、絵梨花は一度も甲信ゼミナールに顔を出さなかったのだ。

 四月から一度もサボったことのない彼女が一ヶ月も来ないなんて一大事だった。家へ電話しても絵梨花が電話口に現れることはなく、室長に相談しても「受験生はそういう時もあるだろう」の一点張りだった。


 絵梨花の夢を奪い、心を折ってしまったのは自分なんじゃないのか——そんな思考に襲われ、僕は自分を責め続けた。


 塾の方針なんかに従わず、もっと絵梨花の言葉に耳を傾けていれば。絵梨花の夢を素直に応援することができれば。

 大事な生徒の気持ちを踏みにじるなんて、僕は本当にダメ講師じゃないか……


 定常授業後、二十四時の事務室で残業をこなしながら暗澹たる思考は延々とループした。考えれば考えただけ、鬱々とした気持ちになってくる。

 なにがあの子の期待だけには応え続けようだ——


 結局は慕ってくれていた大事な生徒の気持ちさえ粉々にしてしまうのか、僕は。

 

 突然、事務室の電話がけたたましく音をたてた。外部から電話がかかってきたのだ。室長は本部に戻ったのでいないし、他の上司も先に帰ってしまったので、今事務室にいるのは僕だけだ。


 僕は受話器を握りしめたまま、鳴り止まない電話を見つめていた。こんな時間にかかってくる電話なんて、大抵がろくでもないものだ……できれば対応したくない。


 そう思って粘っていたが、十コールを過ぎても電話が鳴り止むことはなかった。根負けした僕は、大事な電話だったら困るしなと思って受話器を上げた。


「はい、甲信ゼミナール甲府教室です」

「もしもし、わたくし川原の母なんですけれども」

「ああ! いつもお世話になっております」


「あの——そちらにうちの娘は行っていますでしょうか?」

「……いえ?」

 電話は絵梨花の母親からだった。

 震えるようなこわばった声だったので、ただごとではないとすぐにわかった。


「まだ家に帰っていなくて。もしかしたらそちらに行っているかと……」

「こちらには来ていませんね。絵梨花さんから連絡はないんですか」

「それが……なんの連絡もないんです。学校の先生に連絡したんですが学校にもいないようで。知る限りの友人の家にも連絡したのですが……」

「てがかりなし、ですか」

 僕がそう訊ねると絵梨花の母親は「はい……」と息を殺すように返事をした。


 まずいな、と思った。


 あの面談以来ずっと嫌な予感はしていたが、僕は自分が落ち込むばかりでまったく絵梨花のことを考えられていなかった。絵梨花はきっと一人で悩んで苦しんでいたはずだ。

 こうなってしまったのは僕のせいだ。


「こちらでもやれる限り探してみますので、お母さんは心当たりのあるところを引き続き当たってみてください」

「わかりました」

 勢い良く受話器をおくと、ワイシャツの袖を捲ってすぐに外へと飛び出した。

 真夏のじっとりとした夜気が身体中にまとわりついた。短距離走者のスタートのように、甲府駅の北口方面へ向かって一目散に走りだす。

 顔を掠める風にはほのかに雨の匂いが混じっていた。近いうちに一雨くる。そう直感した。


 建設途中の大きな新県立図書館を横目に走り、甲府駅北口にたどり着いた。

 駅前のロータリーは再開発の途中で至るところに工事用の仕切りやパイロンがおかれていた。

 サラリーマンらしき男性が点々と歩いているばかりで、人気はほとんどない。駅へと続く細い道を走り抜けると、点滅する赤色灯がいくつも視界をよぎり、目がチカチカした。


 工事のために一時的に設置された簡易階段をやっとの思いで登りきり、改札にたどりついた。

 額の汗を拭いながら駅の中を見回してみるが、ちょうど小淵沢方面に向かう最終電車が発車した直後で、駅構内には人っ子一人いない。


 ちなみに絵梨花の家がある勝沼方面に向かう最終電車は、一時間前に発車している。

 やはり駅にはいないか……

 僕はそう考えると駅を通りぬけ甲府駅南口の方へと向かった。


 エスカレーターを駆け下りて南口に出ると、いくつかのネオンサインが視界に飛び込んだ。南口は繁華街になっているので、北口に比べるといくらか人通りが確認できた。

 とはいえ決して栄えているわけでもなく、歩いているのは酔っ払いか元気な大学生くらいだ。駅に併設するファストフード店は閉まっていたので、僕はバスターミナルを突っ切ってそのまま繁華街方面に向かった。


 県庁近くにある「オリオン通り」と呼ばれる商店街はほとんどの店がシャッターを閉めており、やはり人の気配はない。一軒だけ、「おもちゃ屋ないとう」の店先で主人が片付けをしていたので話を聞いてみた。


「すみません、この辺で高校生の女の子を見ませんでしたか? 南高の子なんですけど」

「こんなに時間にけ? いやぁ、見なかったけんどねぇ」

「そうですよね……ありがとうございます」

 甲府の高校生が遊ぶとしたらこの周辺なのだが、もしかしたらこの辺りにはいないのだろうか。そのあとさらに走り百貨店やゲームセンターがある通りも見に行ったが、絵梨花は見つからなかった。


 最後の希望と思って地元の高校生が利用する旧県立図書館の方を見に行ったが、建物の前にも、目の前の公園にも絵梨花の姿はなかった。

 

 落胆した僕の頭にぽつりと一粒の雨が落ちてきた。

 雨滴の勢いは瞬く間に強まり、すぐに土砂降りのようになった。あっという間にびしょ濡れになり、ワイシャツもズボンもぐしゃぐしゃになってしまった。


 肝心の絵梨花の高校は、ここからだと徒歩で三十分以上かかる。これ以上自らの足で捜索を続けるのは困難だと判断し、僕は一度塾へ戻ることにした。

 車に乗って絵梨花の高校の近くまで行こうと考えたのだ。


 不穏な雷鳴の轟くなか、再び甲府駅方面に向かって前のめりで走る。

 夜の街の灯りが、雨のせいで朧気に溶け出していた。信号もタクシーのヘッドライトも繁華街のネオンも、すべてがプリズムのように拡散して視界を横切った。僕に向けられたいくつものクラクションの音はもう気にならなかった。


 早く行かなければ。どこかで絵梨花が待っている。

 僕の心のざわめきも、絵梨花の抱える不安も、すべて雨が洗い流してくれればいいのに。この掠れたフィルムのような嘘くさい街並みが、雨上がりに生まれ変わるように。

 


 甲信ゼミナールの教室まで帰ってくると、僕は持参していたハンドタオルをかぶりすぐに車のキーを取り出した。そのまま出ようとしたところで、絵梨花の母親に相談して警察に連絡するか考えた。

 警察にまで連絡して事を荒立てても、もし絵梨花が見つかったときに彼女を傷つけやしないだろうか。しかし今は一刻を争う状況だ……。


 そんな風に逡巡していると、入り口のガラス戸がひらく音が聞こえた。


 すぐさま事務室から飛び出すと、そこには全身ずぶ濡れになった絵梨花が立っていた。制服のポロシャツも灰色のスカートも抱えている鞄も、すべてびしょ濡れで全身からぽたぽたと雫が垂れていた。


「先生、こんばんは。雨の中を歩いていたらこんな風になっちゃいました」

 彼女はけろっとした様子で僕に挨拶をすると、照れ笑いをした。


「いったいどこにいたんだ! お母さんからも連絡があって必死に探してたんだぞ」

「それは……」

 彼女は俯くばかりで何も答えようとはしなかった。


「とにかくそんな格好でいたら風邪ひくよ。僕のタオルでよかったら貸すけど、いい?」

 絵梨花は黙って頷き、僕のタオルを受け取った。

 とりあえず彼女を受付の椅子に座らせ、僕は母親に連絡をした。すぐに車で迎えに来てくれるということだった。


「お母さんに連絡したら迎えに来てくれるってさ。三十分くらいで来ると思うよ」

「………」

 やはり絵梨花は答えない。こくりと頷くだけで何も言おうとはしなかった。彼女は唇を噛み締め、小刻みに震えていた。


「寒いのか? なにか羽織るものもってこようか」

 そう尋ねると、絵梨花は首を横に振った。その顔をよく見ると、瞳から涙がこぼれていた。僕は彼女の背中を優しくぽんぽんと叩いた。


「なあ絵梨花、何があったんだ? こんなことするなんてお前らしくもない」

「………」

 絵梨花が答える気配はない。僕は根気強く彼女に言葉を向けた。


「黙ってるだけじゃわからないんだぞ。絵梨花、先生にだけ教えてくれないか?」

 すると彼女は「ねえ先生」とゆっくり口をひらいた。

「絵を描くことの何がいけないの? 私がやりたいと思うことをやって何がいけないの?」

 ここに来るまでずっと泣いていたのだろうか、真っ赤に充血した目を僕に向けていた。


「いい大学に行ったらそれで幸せになれるの? 学校の担任もお父さんも、みんなそればっかり。私はただ絵を描いて、先生みたいに見てくれる人がいたらそれで幸せなのに」

 やっぱりそのことだよな……と思って言葉が詰まった。

 きっとあの面談の日から、絵梨花は暗闇の中をもがくように一人で悩んでいたんだろう。


「私の描いてる絵なんて見もしないくせに、ただいい大学に行けって言われるのはもううんざり」

「けど——」彼女の瞳がわずかに細まった。「吉田先生だけは違った。ちゃんと私の描いた絵を見てくれた。褒めてくれた。私は……それが嬉しかったの」


「だからね」絵梨花は僕の腕をつかむと、希うような上目遣いでこちらを見た。

「私、先生の言ってくれたことなら信じられる。先生は他の人とは違うから。ねえ先生、私はどうしたらいいのかな……」


 そう訊かれて、僕が悩むことはなかった。

 だって、答えは最初から決まっていたのだから。塾とか仕事とか、そんな建前は一切抜きにして、僕という一人の人間が彼女に向き合った時、その答えは一つしかないのだから。


「それは僕が決めることはできない」

「……そっか。そうだよね……」

「でも」僕は絵梨花の頭にぽんと手をおいた。


「絵梨花の未来は絵梨花が決めるんだよ。僕はそれを応援したい」

「先生……」

 抑えていた感情が溢れだしたのか、絵梨花はぼろぼろと涙を流した。

「嬉しい。何があっても先生にだけは応援してほしかったから。……嬉しい」


 激しく嗚咽を繰り返す彼女の背中を撫でながら、僕は優しく語りかけた。

「本当のことを言うとね、僕は絵梨花に好きなことを続けてほしいんだ。夢中になれることがあるって、とても素敵なことだと思うんだよ」

 僕は腰を落とし、泣きじゃくる絵梨花と目線を合わせた。

「だって僕は……絵梨花の絵が大好きだから」


 すると絵梨花は、「せんせぇ……」と大号泣して僕の胸元に飛び込んできた。泣いているせいか、彼女の火照った体温が伝わってきた。

「私、描ぎたいよぉ。絵が描きだい」

「うん、描けばいいんだよ。周りになんと言われようと、先生だけは味方になってやる」

「ほんどうに?」

「ああ、本当さ。僕は絵梨花のやりたいことを応援する。誰がなんと言おうとね」

 ちょうど僕の胸のなかにおさまっている彼女の髪は、雨のせいでしっとりと湿っていた。僕はその髪を優しく何度も撫でた。


「いっぱい迷惑かけてごめんなさい」

「もうそれはいいんだよ。お母さんもじきに迎えにくるし、気にしないで」

「うん……」


 絵梨花は両手で目をこすると、僕から一歩離れて「えへへ」と照れくさそうに微笑んだ。

「ありがとう。私、絵を描くよ。誰に反対されようと……もう挫けないから」

 彼女の笑顔は、まるで雨上がりの晴れ間のように、瑞々しい希望に満ちていた。


「先生が応援してくれたこと、ずっとずーっと、一生忘れないからね。」

 一生だなんて大げさだなぁと思ったけど、絵梨花が立ち直ってくれたことが嬉しかった。自分の大切なものを失わなくてよかった。

 絵梨花にはずっとそのままでいてほしい。それは僕という一人の人間の、心からの願いだった。


 絵梨花は僕の顔を見上げると、「あのね」と呟いた。

「先生に、ひとつだけお願いがあるの」

 その声の調子から、真剣なものであるとすぐに察知した。

「言ってみてよ」

「……一緒に行ってほしいところがあるんだ」

「一緒に?」

 彼女は真面目な表情でゆっくりと頷いた。


「実は私、地元のコンクールに挑戦しようと思ってたんだけど……」

 コンクールという単語を聞いて、僕はぴんときた。急いでズボンの後ろポケットをまさぐり、雨に濡れてよれよれになったパンフレットを取り出す。

「コンクールってこの……紫玉絵画展?」

 絵梨花はパンフレットを確認すると、目を丸くした。


「そうです。どうして持ってるの……?」

「面談のときに絵梨花が忘れていったから、大事なものかなぁって思って持ってたんだよ」

 そう言うと、「その割にはボロボロだね」と笑われてしまった。


「絵梨花はこのコンクールに絵を出したの?」

 訊ねると、絵梨花はかぶりを振った。

「出さなかった。今の私には足りないものが多すぎると思って」

「そうなんだ……」

「そこで、先生にお願いがあるの」

 絵梨花はぱっと顔を上げると、真っ直ぐに僕を見据えた。


「その紫玉絵画展に、一緒に行ってくれない?」

 僕を見つめる絵梨花の表情は——瞳が充血して鼻も真っ赤だったが——晴れやかな笑顔だった。

 どうして僕と……と訊こうとしてやめた。


 その笑顔を見ていたら、理由なんてどうでもよくなって、ただ彼女の期待に応えたいと思った。

「うん、いいよ。といっても、僕は日曜日しか休みがないけどね」

「知ってるよ。だから……八月十日、今度の日曜日に行こう」


 誰もいない校舎の中に、僕たち二人の声だけが響いていた。外からは雷鳴まじりの雨音しか聞こえず、車やトラックが通る気配もない。


 まるで世界に二人だけしかいないような、そんな錯覚を覚えた。

 僕は——世界に二人だけでもいいかもしれないなと思った。


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