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reminisce.01 出逢い


「おい吉田! 今日の授業内容はなんだ。やる気あんのかよ」

「はい、すみません……次回はもっと入念に準備とシュミレーションをして」

「それはもう聞き飽きた。あのな、もっと生徒の立場になって考えてやらないと高校生はついてきてくれないんだよ。そんなこともわからねえのか」

「申し訳ありません。自分の力不足でした」

 

 大学を卒業し、甲信ゼミナールで塾講師の職に就いてから三ヶ月。僕は毎日のように上司に怒鳴られている。大学時代にバイトで塾講師をしていたからという単純な理由でこの仕事を選んだが、朝早くに出勤して、毎日日付が変わるまで残業して、土日も関係なく親御さんとの面談に借り出される。

 おまけに肝心の授業も一向に上達せず、上司には目をつけられている。

 この前も高校三年の生徒の親に、成績が一向に上がらないとクレームを受けて、クラス替えを直談判されてしまった。


 ……正直こたえる。


 いくら頑張っても、報われることがない。僕はいったいなんのためにこの仕事をしているんだろう。最近ではそんなことばかりを考えるようになってしまった。


 一日の激務を終えて、授業後に僕は事務室で頭を抱えていた。

 すると不意に、僕を呼ぶ声が聞こえた。


「よしだせーんせ」

 扉口からひょっこりと顔を出し、一人の女の子がこちらを見ていた。


「絵梨花か。もう夜遅いんだし早く帰ったほうがいいよ」

「どうせ親が迎えに来てくれるからいいんです。それより十分だけ時間ありませんか」

 僕は立ち上がって絵梨花のもとへと歩いていった。


「時間はあるけど、どうしたの」

「今日の授業でわからないところがあったから、教えてください」

 僕は絵梨花を誰もいなくなった教室へと連れて行き、十分ほど質問に答えた。


「うん、完璧にわかった。やっぱり先生の説明はわかりやすいなぁ」

 絵梨花は嬉しそうに笑みをこぼした。彼女の笑顔は見ているこちらまで楽しくさせる。こんなダメ講師のもとへ質問に来てくれるのは絵梨花くらいだ。頼りにしてくれることが、純粋に嬉しかった。


「先生、実は見せたいものがあってね」

 絵梨花が小首を傾げて僕の顔を見つめた。

「お、なに? 見せてよ」

 彼女は「これです」と三枚の画用紙を取り出した。そこにはメジロや文鳥などの鳥の絵が、淡い水彩で描かれていた。


 恐らく絵梨花の「新作」だろう。


「今度は鳥なんだね。どの子も羽根の質感がしっかりしてて、可愛いなぁ。特にこのメジロなんか、黄緑色の感じを絶妙に表現してて見事だ……」

 僕が感想を熱弁すると、絵梨花は嬉しそうに「えへへ」とはにかんだ。


「先生はちゃんと私の絵を見て感想をくれるから、嬉しい」

「いやいや。絵梨花の絵が本当に上手だから思ったことを言ってるだけだよ」

 僕がそう取り繕うと、絵梨花は「だから嬉しいんだよ」と小さな声で呟いた。


 きっかけは四月のことだった。


 まだ研修を終えて間もなかった僕は、自習室で絵を描いていた絵梨花を見つけて、注意しようとした。

 しかし描いていた絵があまりに上手だったので、僕は思わずそれを褒めてしまった。

 絵梨花はそれに感激をしたらしく、それからというものこうして定期的に絵を見せてくれるようになった。


 僕は理屈抜きに、ただ彼女の描く絵がとても好きだったので嬉しかった。

 ちなみに絵梨花は教育学部美術科志望の女の子。この塾に通いながら、地元の「甲州アートスクール」という画塾にも通っているらしい。将来は絵を描きながら美術の先生になるのが夢だそうだ。


 結局のところ、僕はこういう好きなものに夢中な生徒に弱いのだ。好きでやりたいことがある生徒に、もっと良い大学を目指せとか、そんな進路は辞めた方がいいとか、なかなか言えることではない。本来はそれを口酸っぱくして言う仕事なのだが、僕がダメ講師たる所以だろう。


 好きなことや夢があるのは素晴らしい。本当は大手を振ってそう叫びたい。でも僕たちは成績向上のことだけを考えて、塾の進学実績を伸ばさなければいけない。

 正直絵梨花の成績なら、上位の旧帝大を狙うことも可能だ。なので上司からは絵梨花に進路変更を促すように再三迫られているが——


 つらつらと頭のなかでそんなことを考えていると、正面にいる絵梨花と視線がぶつかった。彼女は真剣な表情でじっと僕の目を見つめていた。


「どうしたんだ、そんな難しい顔して」

「先生、何か悩み事でもあるの」

 そう言うと、絵梨花は上目遣いで僕の顔色を窺った。

「……いや」


 よわったなぁ、と思った。

 本来なら僕が生徒に対してかけるべき言葉を、僕が言われてしまっている。やっぱり僕はダメ講師だ。


「別に、何も悩んでいないけど?」

「嘘です。先生絶対なにか悩んでる」

「……どうしてそう思った?」

「さっき事務室で頭を抱えてたから」

 見られていたのか。これは迂闊だった。やっぱりここにいる時は一秒も気を抜いてはいけないな。でもそれならまだ言い逃れはできる。


「さっきのは疲れていただけだよ。だからなにも問題ない」

 絵梨花は勢い良くかぶりを振った。

「それだけじゃないもん。先生最近ずっと元気ないし」

「何を言ってるんだ。そんなことはない」

「私にはわかるんです。隠したってムダだよ」


 ……絵梨花は僕が初めて授業をおこなったクラスの一員だった。僕が塾に来た日から、毎日とは言わないが頻繁に顔を合わせている。

 いくら僕が隠しているつもりでも、彼女にはお見通しだったようだ。


「実は少しだけ……少しだけ悩んでる」

「ほらぁやっぱり。どうしたんですか」

 絵梨花は優しい口調で言うと、うっすらと笑みを浮かべた。その顔を見つめていたら、この子になら言ってもいいかなと思ってしまった。

 それは気の緩みだったのか、絵梨花に甘えてしまったのか——どちらかはわからない。


「なにをやっても上手くいかないんだ。先輩には怒られてばかりだし、授業も下手で生徒からも信頼を得られないし」

「何言ってるんですか? いるじゃないですかここに」

 絵梨花は自分の顔を指さし、無邪気に笑っていた。


「どういうこと?」

「だから、先生のことを信頼している生徒です」

「え——」

 絵梨花があまりにあっけらかんと言うので、僕は照れくささも相まってかひどく困惑してしまった。


「そんなお世辞言わなくていいんだよ」

「お世辞なわけないじゃん。少なくとも私はこの塾で吉田先生が一番話しやすいな」

 絵梨花の真っ直ぐで純粋な言葉が僕の胸に突き刺さる。そしてじわじわと胸が温かくなってくる。


「誰だって最初は上手くいかないと思うし、たくさん失敗しますよ。でも吉田先生ならきっと大丈夫。私が保証します」

 絵梨花は晴れやかな笑顔になると、僕に元気なピースサインを向けた。その屈託のない笑顔を見ていると照れくさくて、僕は何も言葉にすることができなかった。


 しばしのあいだ、時が止まったように二人で見つめ合ってしまった。絵梨花のように慕ってくれている子もいる。こんなダメ講師でしかない僕を。頑張っても報われないなんて、そんなことはないかもしれない。


 たとえ塾内の全ての人間に愛想を尽かされたとしても——

 この子の期待にだけは応え続けよう、そう思った。


「……なにか言ってくれないと、困るじゃないですか」

 絵梨花は恥ずかしそうに下を向いてしまった。

「まったく、絵梨花にそんな心配されちゃおしまいだな。くよくよするのはやめて、頑張ることにするよ」

 強がってそう言うと、絵梨花は「なによー」といたずらっぽく笑った。

「せっかく真面目に心配してあげたのにさぁ。恥ずかしいこと言って損した」

「さ、もう遅いしご両親も心配しちゃうね。帰る準備しよう」

「はーい」


 帰り際、絵梨花は「まったねー」と手を振って小走りに教室から出て行った。彼女だって一日学校もあって疲れているだろうに、明るさを絶やさないことに驚かされる。

 今日はその明るさに救われたかもしれない。絵梨花の後ろ姿を見送りながら、僕は心の中で「ありがとな」とお礼を言った。


 せっかく話す時間があったのだから、絵梨花に志望校を変更しないか持ちかけてもよかったのだけど。絵を描くのは諦めて、もっと高いレベルの大学を目指すようにけしかけてもよかったのだけど。

 それはまた今度だなと思った。


「おう、吉田」

 振り返ると背後に室長が立っていた。その表情に余裕はなく、眉間には彫刻刀で彫ったような深い皺が浮き出ていた。


「室長、どうしたんですか」

「お前……川原に進路のこと話したのか」

「まだですが」

 僕が俯きがちに言うと、室長は凄むように思いきり睨んできた。彼の充血した瞳で睨まれると、迫力が何倍にも増すなと思った。


「いつまでも絵を描いたりして遊んでられねえんだぞ。お前も生徒が大事ならちゃんと教えてやれ」

 室長は僕の肩をぽんぽんと叩いてから、事務室に戻っていった。それを確認してから、一つ大きなため息をついた。


 遊び……か。

 絵梨花の進路は絵梨花が決めるものなのに。どうして僕はこんな仕事に就いてしまったんだろうか。


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