ep.13 世界で一番素敵な嘘
二週間ぶりの山梨。俺は再び勝沼ぶどう郷の駅に降り立った。
自分でもまさかこんなに早く再訪するとは思っていなかった。前回は心の準備もないまま、敦と兼保と一緒に思いつきで訪れたので、また一人で来ると感じ入る雰囲気も違う。
勝沼ぶどう郷駅の出口には、頭上にカラフルなステンドグラスがあしらわれていた。駅舎の隣には小洒落たワインショップなんかもあるし、待合室にはガラスケースにワインボトルがいくつも並べられ、小さなワインセラーのようになっている。
駅を出て左手には一軒家のようなアットホームな交番があり、目の前には赤色の可愛いレンタサイクルが二十ほど整然とおかれている。
自分のペースでゆっくりと見て回れるからだろうか、三人で来た時には気づかなかった発見がいくつもある。同じ場所に何度も旅に行く人の気持ちが少しだけわかった気がする。
けたたましい蝉の鳴き声と風光明媚なぶどう畑の絶景だけは相変わらずで、頭上からは真っ白な八月の太陽が刺すように照らしつけていた。
目指すは紫玉絵画展を開催しているぶどうの丘——
これは調べてみてわかったことだが、絵梨花の故郷であるこの辺のぶどう畑一帯を慣例的にぶどうの丘ともいうらしいが、「ぶどうの丘」と呼ばれる観光施設も別で存在するらしい。なので、地元で「ぶどうの丘」というとその観光施設のことを指すらしいのだ。
そのぶどうの丘までは駅から徒歩でも行けるようだったが、あまりに暑いので結局俺はタクシーを拾った。
道中何台もの観光バスが路上に停車しており、観光農園と思われるぶどう畑に人が群がってぶどう狩りをしているのを目撃した。
きっと今がシーズン真っ只中なんだろう。ぶどうの旬は夏だ。そんな浮かれた観光客を横目に、タクシーはいくつものぶどう畑のあいだを通りぬけ、山道をのぼっていった。
「到着いたしました」
無骨な中年の運転手にそう告げられタクシーから降りると、目の前には大きな噴水広場があった。
噴水の中心に佇む女性の銅像は、左手にぶどうを掲げていた。少しまわりに目を向けてみると、入り口の門にもぶどうの装飾が施されているし、点在するベンチにもぶどうの蔦と思われるオブジェクトがからみついている。
なるほど、ぶどうの丘か——そんな風にひとりごち、俺は奥にある美術館を目指すことにした。
相変わらず太陽は真っ白な光を放っていたが、ところどころに植えられたケヤキと桜の木が青々と茂っており、心地良い木陰を作っていたので歩いていてもさほどしんどくはなかった。
やはり今がシーズンなのか人影は多く、子どもを連れた家族連れや老夫婦、外国人観光客など色々な顔とすれ違った。その手にはお土産だろうか、ワインやらぶどうやらが詰まった袋を提げている。
このぶどうの丘は総合的な観光施設で、美術館はどうやらその一部とのことらしい。
地元の食材を使った料理を振る舞うレストランに、コンサートなどをするホール、ホテルや温泉、果物の直売所など、そういう観光施設がこの「ぶどうの丘」にぎゅぎゅっと凝縮され一カ所に集まっているのだ。美術館もその一つというわけだ。
数百本ものワインボトルが並び、ぶどうの芳醇な香りが立ち込めるお土産ショップを通り抜けると、やっと「ぶどうの丘美術館 こちら」と書かれた立て看板が目に入った。
その横には「紫玉絵画展 開催中」と書かれた看板も立っていた。
これもあとからわかったことだが——
「紫玉」というのは、勝沼で育てられているぶどうの品種の一つらしい。コンクールの名前に引用したのは、紫玉のぶどうのように粒揃いで素晴らしい作品が集まることを祈願してのものだったとか。
目の前に、三階建ての立派な建造物が見えた。日光を反射する淡いイエローの外壁は、さながら南フランスプロヴァンスを彷彿させる。
まだできたばかりの建物なのか、他の観光施設に比べると特別綺麗に保たれていた。
木目調のシックな自動扉を抜けると、受付には綺麗な女性が二人並んで座っていた。
「すみません、紫玉絵画展を見に来たのですが」
「ありがとうございます。ご入場には千円の小冊子をご購入いただく必要がございます」
きわめて事務的な口調で案内され、俺は言われたとおり千円を払って小冊子を購入した。
「こちら、一階の展示室Aと二階の展示室Bで紫玉絵画展をやっております。ごゆっくりどうぞ」
受付を済ませてロビーを見渡すと、館内にはたくさんの人が訪れていた。ブランド物の服で身を固めた高貴な老夫婦や、スーツ姿の外国人の姿まである。
もしかしたらこのコンクールは国際的にも注目されているのだろうか。あるいは今日レセプションパーティーでもあるのかもしれない。どちらにしても、俺とは住む世界の違う人々が集まっている。
俺はその場でしばらく目を閉じた。そして回顧する。
今までの楽しかったことや悲しかったこと。今日ここに絵梨花はおらず、俺が一人で来ているという現実。これからも絵梨花のことをずっと忘れないという、決意。
俺は歯を食いしばり、ゆっくりと目をあけた。
購入した小冊子によれば、絵梨花の絵の場所は展示室Bの一番奥だった。俺は万感の想いを胸に、一歩、また一歩とかみしめるように歩いた。
近づいていくにつれ、胸の鼓動も呼応して高鳴っていった。一歩踏み出すごとに、ドクンという鼓動の音が身体を揺らした。
今日絵梨花の絵を見たところで何かが終わるわけでもない。何かが始まるわけでもない。でも俺は、絵梨花の描いた絵をこの目に焼きつけたい。
そして——
シンプルな金色の額縁に入った絵が目の前に現れた。
「今の私をつくるもの 川原絵梨花」
そこにはあの美しいぶどうの丘の風景と——
「俺……じゃないか」
右下の空白だった部分には、俺と敦と兼保の三人が描かれていた。
三人ともはじけそうなほどのとびきりの笑顔だった。
「今の絵梨花」の心のうちには、確かに俺たち三人がいたのだ。そんなことはわかっていた。俺が一番に知っているはずだった。
なのに俺は——
無意識に涙があふれ、その場で声をあげて泣いてしまった。流せども流せども涙は止まらず、まるで俺は駄々をこねる子どものように、ずっと嗚咽していた。
まわりには一般のお客さんも大勢いた。たいそう白い目で見られていたことだろう。ただ俺にはもうそんなことをかえりみる余裕はなく、ただ溢れ出る涙に抗うことなく泣き続けた。
どうでもよかったはずがない。
俺が想うように……絵梨花も俺たちのことを想ってくれていたんだ。そんなことはわかっていた。わかっていたのに……
涙が枯れたあとも、俺はずっと絵梨花の絵の前で立ち尽くしていた。ずっと見ていたいくらいに、素敵な絵だった。まるでこの絵を通して、もういないはずの絵梨花が語りかけてくるような、そんな気持ちにさせられる。
もし絵梨花が生きている時にこの絵を見ていたら。
俺は——俺は——
絵梨花にあんなことを言ってしまっただろうか?
俺の心には今だに後悔が残っている。結局絵梨花の約束の人だって見つけられず、ここでただ泣いているだけだ。
「絵梨花、本当に入選したんだな……」
ふとささやき声のようなものが聞こえたので振り返ると、俺のすぐ後ろにスーツ姿の男性がいた。俺は「すいません」と会釈して、彼が見えるように横へと避けた。
彼は一言「ありがとう」と笑うと、また食い入るように絵梨花の絵を見つめ始めた。
俺は言いようのない既視感を覚えた。
この男性、どこかで見た記憶がある。でもこんな知り合いはいない——
「あっ」
既視感の正体がわかった。
この人は——吉田先生だ。絵梨花の絵で見た、あの男性に間違いない。特徴的な黒縁の眼鏡に、太い眉毛に優しそうな笑顔。
そして何より、今ここに来ているということ。
この人は吉田先生だ。
にわかに足が震え始めていることに気付いた。話しかけないと——今、声をかけなければ。
「あの。もしかしてあなたは……吉田先生ですか?」
「はい、僕は吉田ですけど。どうして僕のことを?」
吉田先生は驚いたようにこちらに顔を向けると、嫌な顔一つすることなく答えた。
「自分、絵梨花の大学の友人でして……話を聞いていたもので」
「なるほど、そういうことだったんですね」
吉田先生は納得した様子で、ぽんと手を叩いた。
「吉田先生は、どうして今日こちらに?」
俺が訊ねると、吉田先生はなにやら照れくさそうに苦笑いした。その笑い方から人の良さがにじみ出ているような気がした。
「その、恥ずかしい話なんですけどね。絵梨花と約束をしてたんですよ」
約束という言葉を聞いて、俺は生唾を飲み込んだ。
「約束ですか?」
「ええ。四年ほど前に。このコンクールで絵が入選したらもう一度会おうって、約束したんです。馬鹿馬鹿しい話なんですが、その約束をずっと覚えてて……今日来たんです」
ああ、やっぱりな。
吉田先生が、約束の人だった。
この人はその約束をずっと覚えていて……今日ちゃんと来てくれたんだ。絵梨花が入選したことも、自分で調べてホームページで知ったんだろう。
色々と考えてしまう前に、俺は口に出していた。
「突然なんですが、絵梨花から伝言を預かっているんです」
「そうなんですか。それは会えて良かったです」
「ええ、本当ですよ……」
ゆっくりと深呼吸してから、俺は吉田先生の顔を見た。
「今でも貴方が好きです……だそうです」
俺がそう言うと吉田先生は「はい?」と裏返った声を出した。赤面し、なんと言ったらいいかもわからず困惑しているようだ。
「よわったなぁ」
吉田先生は真っ赤な顔で照れくさそうに頭を掻いた。
「どうしてあの子も、そんなことを友達に伝言させるんでしょうねぇ。なんかごめんなさい」
「いえいえ、俺もやりたくてやってることなんで」
俺は自分の感情を表に出さないように必死に愛想笑いした。
こんなにも無邪気で、幸せそうに笑っている吉田先生を見ていると、すぐにでも涙が出てきそうだった。
「あ、それなら」
吉田先生が思いついたように話しかけてきた。
「僕の方からも絵梨花に伝えてほしいです」
「ええ……いいですよ。なんでしょうか」
吉田先生は「ふふふ」と楽しそうに笑みを浮かべた。
「僕もずっと好きでした、と」
吉田先生は顔を真っ赤にしてはにかんでいた。その表情は温かくて優しく、絵梨花がパステルカラーで描いた気持ちがわかった。
俺は全力で歯を食いしばっていた。だめだ。ここで泣いてはだめだ。
「わかり……ました」
吉田先生は恥ずかしいのか、話を逸らすように辺りを見回して言った。
「でも……今日絵梨花は在廊していないんですかね。初日だからいるかと思って来たんですが」
俺はしばらく何も答えず黙っていた。というより……答えられなかった。
「大学のお友達の方ですよね? 絵梨花は今どうしてるんですか?」
吉田先生は何の疑いもない目で俺を見て、尋ねてくる。
言わなければ。吉田先生に言ってあげなければ。
言って……どうする?
「絵梨花はちょっと忙しくて、来れないんですよ。でも、東京で元気にやってますよ」
「なるほど、それなら良かった。じゃあまた次の機会には会いたいなぁ」
そう言うと、吉田先生はにこにこしてまた絵梨花の絵を見つめていた。
「う、うう……う……」
俺は耐えられなくなってしまい、ぼろぼろと涙をこぼしてしまった。
「どうされたんですか? 身体の具合でも悪いんですか」
吉田先生が眉を八の字にして、心配そうに見ていた。
「いえ、なんでもないんです。突然すいません」
……これで良かったんだ。俺は自分に言い聞かせた。
これで吉田先生が傷つくことはない。彼は幸せなままでいられる。このままずっと、幸せでいられる……
俺はどうするべきだったのか。彼に真実を告げるべきだったのか。
そんなこと、できるわけがない。
彼に真実を告げたところで……その先に待ち受けているのはなんだ?
願わくば、彼の中で絵梨花が生き続けますように。だって二人は、やっと心を通い合わせることができたのだから。
絵梨花の……いや、二人の。
幸せがいつまでも続きますように。
俺はきっと……世界で一番素敵な嘘をついた。
そう信じさせてくれ。