第四話
のそのそベッドから起きた。少女のぬくもりはない。
あたまを切り替える。つい今朝まで一緒に寝た色島千は、殺し屋の標的へ変わった。仕事ゆえ、しかたがない。友が敵になるように、知り合った者が処分するものになるときがある稼業なのだ。
朝食のにおいがした。今日は青月が当番のはずだ。
「おはよう、亜条くん」
「うぃっす」
珈琲を飲む。サンドウィッチふたつをまじまじと見る。
「毒とか」
「入っているわけないだろ」
サンドウィッチをかじる。辛子マヨネーズに咳きこむ。
英語の新聞がテーブルに置かれる。読めない。
「下準備は終わった。あとは予定通り動くよう見張る。さて、我が息子よ」
「なんだよ」
「お前は引き続き色島千を尾行しろ。青月は松上けい子を追え」
「了解」
「ひとつ質問いいっすか、親父」
サンドウィッチを頬張りながら言った。
「俺たちが直接殺さないのはわかるけど、だれが標的を始末するんだよ?」
亜条はじっと劉鬼を正視したのち、返答する。
「色島千だ」
驚かなかった。けれど、疑問が増えた。
「動機がわからねえ。あいつが殺すなら偽の母親じゃないのか」
「虐待が殺す理由か、充分あり得る。だが、この一件には関係無い要素だ」
「なるほどね」青月が口を開く。「もしも虐待を理由に殺させるなら、色島行永ではなく娘を標的にする。言葉巧みに操り、母親を処分させる。でも、今回はあくまで、臓器取引をする買い手の処分。そっちのほうは可哀想だけど、しかたがないね。俺たちは正義のヒーローじゃない」
納得する。臓器取引の買い手殺しが仕事だ。弱き者を救済するとは別の話である。
「そうっすね」
昨晩目にした少女のやわらかな身体にある痣や鬱血、傷が脳裏をよぎった。
血の繋がりがない親子が、彼女と劉鬼の共通点だ。片や虐待、片や誘拐。まともではない。それでも生きている。生かされてきた。愛情か、お情けか、ふたりとも生を謳歌している。ニセモノだらけの道を歩いている。
その歩みを止めにいく。色島千はきっと自分の前に現れる。そのとき、ニセモノしかなかった彼女にホンモノを与える――〝死〟というホンモノを送る。
いつか、自分があの人にしなければならないことを、する。
覚悟はできている。
×
喫茶店は学生やマダムたちの雑談であふれていた。にぎやかな世界から切り離されたように、色島千と松上けい子の席は静かだった。
千ははじめて会う本当の母親を前にして緊張していた。なにを話せばいいか、どこから言えばいいか、悶々と悩んだ。会話の糸口になるようなものが、見当たらない。
すると、松上が開口一番に学校はどこかと問うてくる。ほとんど休みがちで答えにくかったけれど、声を振り絞る。
「**高校です」
「あら、あそこなのね。駅から近いでしょう?」
「はい。……でも、休んでいます」
「もしかして――お父さんかお母さんから」
言い切られる前に頷く。
「そう。……私と話があるそうだけど、それが関係しているの?」
「まあ、そんなところです。あと、お父さんとなにをしているのか、聞かせてください」
手に汗が滲む。スカートを握りしめて、返事を待つ。
ごくりと、唾を飲む。
「相談には乗るけれど、その話はできないわ。あなたを巻き込むわけにはいかない」
松上は俯き、かぶりを振る。
「私がっ――あなたの本当の娘だからですか。だから、巻き込みたくないんですか」
声を張った。周りからの視線が集まったけれど、気にしない。
「どこで、それを……だれも知らないはずよ」
「子供は、親が思う以上に勘が鋭くて、あたまがいいんです。お願い、教えて」
くださいまで言えず、嗚咽を漏らす。涙を拭き、正面を向いた。
「父が危険なことをしているのは風の噂で知りました。有名人なので、ネットや雑誌で探せば噂くらいすぐ見つかります。いっぱいあって驚きました」
「あなたが確かめたい噂って、色島院長が昔、子供を取り替えたことかしら?」
「はい。あれは、本当なんですか?」
松上の顔がよろしくない色になる。ためらっているようだ。
「答えたくないと言っても、あなたは私を帰さないつもり?」
「真実を知りたいんです。それだけで、私の毎日が変わります」
「……そう、そうよ。あなたの言う通り、私が本当の母親よ」
――。――、会えた。
「おかあ、さん」
やっと、見つけた。
「千、ごめんなさい。お母さんを許してね」
「あやまらないで、なにも、お母さんはなにも悪くないんだから」
色島千は身を持って、生きている実感を味わう。
感動の再会を果たしたふたり。
余韻に浸りつつ、本題へ入った。
「話してしまうと、あなたを巻き込むことになるわ。危ない目に遭うかもしれない、それでも聞きたいの?」
「お願いします。色島行永はなにをしているんですか」
「残酷、だけじゃ言葉足らずなことをしているの。そして私は、それに加担した。脅されたのよ。あなたが酷い目に遭わされている、助けたかったら手伝えって。でも、今のあなたを見ていると、嘘だったのね……」
「父はほとんど夜が遅くて、家のことはあんまり知らないと思います」
偽の母親と千がなにをしていても、行永にとって与り知らないことなのだ。
またズキズキと痛みはじめる。躾と称されたうっぷん晴らしを思い出すたび、身体が悲鳴をあげる。両手で自分の身体を抱きしめて、凌ぐ。
「大丈夫?」
「ええ、まあ」
松上は席を立って、千の隣に腰を下ろす。彼女を抱き寄せた。
「お、お母さん!?」
「どこか、遠くに行きましょうか」
「え? 遠く?」
「あなたは母親と、私は色島行永と縁を切るの。そして、ふたりでゆっくり暮らしましょう」
喜びの声をあげそうになって、口を閉じた。この先どうなるかを、悟ったからだ。父である行永はあの人たちに狙われている。きっと自分もただでは済まない。遠くへ行きたいけれど、いつかきっと警察が追いかけてくる。残酷では言葉足らずなことをしていた父の罪が子供に回ってくるだろう。知らぬ存ぜぬではどうにもならない。
縁を切っても、本当の母親もいずれ捕まる。逃げても、逃げても、だれかが必ず後ろにいる。ゆっくり暮らせる日なんてくるとは、思えなかった。
ああ、でも、神様。
せめて、ニセモノとのつながりを断ち切らせてください。
そう、断ち切ろう。まずはそこからはじめよう。新たな一日のためだ。
「お母さん、うちに来て。お父さん――ううん、色島行永を呼ぶから」
×
双眼鏡を下ろして、座席にもたれる。
「まーさかふたりが会うとはねえ」
「白々しいっすよ、青月さん。親父がやるってわかっていましたよね」
「まあね」
色島千と松上けい子を尾行していたふたりは車内から、喫茶店のなかの様子を監視していた。会話まで聞こえないけれど、表情でどんな内容かは読めた。
標的を直接殺さないとなれば、あのふたりのどちらかが殺しに手を染めるだろう。染めたほうを今度は、こちらが処分する。だれがそうなっても、迷いはない。
――迷う。あのとき、あの人を殺すことに迷ったのか? どうして?
「どうして、殺さなかったんだ……」
「独り言かい?」
「なんで俺、亜条さんを殺さなかったんですか」
「俺に訊かれても答えられないよ」
「そうっすね」
「でも、気持ちはわからなくもないよ」
青月は両手をあたまの後ろに組んだ。
「摩鬼人って不思議だよね。死にたがりだけど、弱いわけじゃない。強くて、狙った標的は必ず倒す。暗殺者みたいに気配を消せる特技もあるし、隙がない。それなのに、だれかに殺されたいって考えている。でも」
「だれでもいいわけじゃない」
「そう。銃を渡して、撃ってくれって言えば解決するけど、だれかれ構わず頼んでいるわけじゃない。どういう基準で選んでいるんだろうね」
「過去になんかあったとか。死にかけたけど、わざと生かされたみたいな」
「あり得るかもね」
「青月さんは、亜条さんを殺そうとしたりしたんですか」
「したよ。でも、摩鬼人が怖くなって、やめた」
「怖くなった?」
「あいつ、俺が毒を入れるところをはっきり見ていたんだ。後ろでずっと、気配を消して、ちゃんと入っていくところを目に焼きつけていた。てっきり飲まないものだと思っていたけど、あいつ……毒が混ざっているって知っているのに、飲もうとしたんだよ」
初耳だった。そんな話は聞いたことがなかった。
開いた口が塞がらないでいると、青月が続けた。
「数えきれないぐらい始末してきたけどさ、あんな堂々として、迷いも恐怖もない顔で毒入りを飲もうとしたところははじめて見たよ。だから怖かった、途中でとめたんだ」
悲痛な横顔から視線を外し、窓の外を眺める。
「毒を入れたのはなんでなんすか」
「わざとじゃないよ。あいつがそうしろって言ったのさ」
「迷わなかったんですか」
「そりゃ迷ったよ、拒否したよ。でも……」
そうしてしまった。同じだ、自分のときと似ている。拒んでも、あの人は諦めずに頼んでくる。あまりにも真剣で、こちらが怯えるほどに、覚悟がある瞳をする。拒みきれない。頼みを聞いてしまう。そこまでさせるあの人は、殺し屋以上にただ者ではないかもしれない。人間ではないかもしれない。それこそ、人の皮を被った化け物だろう。化け物が、死にたがっているとは、滑稽な話ではある。疲れた、とか? いや、違うか。
「――さあ、おしゃべりは終わりみたいだよ。ふたりがどこかに行くみたい」
店から色島千と松上けい子が出てきた。松上の車に乗って、駐車場を離れる。そのあとを追いかけた。駅ではなく、住宅街へ進んでいく。
高級そうな家々の前を通り、ややあって車が停車する。青月と劉鬼が乗る車は角に隠れるようにとめた。
豪邸の門の表札には『色島』とあった。なにをしにきたのか?
喫茶店のようになかを覗けず、じっと待つしかなかった。
胸騒ぎが、する。
×
帰宅して早々、行永のビンタが千を襲った。
「どういうことか、説明しろ」
恐ろしい形相の父を睨み、震えながら口を開く。
「縁を、切るの。家を出ていくわ。本当のお母さんと一緒に」
手が振り下ろされる。ぎゅっと目を瞑り、痛みを堪えようとする。
「待って。今度は私が話す番よ」
寸前でビンタは回避された。松上が庇うように千の前に立つ。
「私もね、あなたと縁を切るわ。臓器の運び屋はほかをあたってください」
わなわなと行永が震えた。あたまをかきむしり、拳をテーブルに叩きつける。
「そんなことが許されるとでも思っているのか」
「許されないでしょうね、悪事に加担したことは。でも、あなたから離れることはそうじゃない」
「……」
偽の父がずいと松上に歩み寄った。
そして、鋭利な光るものを首筋に突き刺した。
「え、……」
実の母が崩れ落ちていく。よだれを垂らし、苦しげに首をおさえている。
瞬く間の出来事に千の思考が追いつかない。逞しい母の背中を見上げていたはずなのに、いつの間にか見下ろしている。苦悶する松上を見下ろしていた。
鼓動がはやまる。背筋が凍る。足が竦んで動けない。まだ光るものが相手の手中にある。逃げたい、逃げなくては、遠くへ、行かないと――。
「そこを動くな。もう、お前もいらない」
プツンと切れた。千のなかで今まで張りつめていた糸が千切れた。
それからの彼女は我を忘れて、ネジを巻いて動きはじめる人形の如く、行動に移る。
食器棚からナイフを持ってきて、行永に向けた。
「ははは! それがどうした? 私を殺す気か?」
少女は一歩、二歩と進む。
そして、毒針よりはやく、ナイフを心臓めがけ突き刺した。
繰り返し、繰り返し、切っ先で肉を抉る。実の母親を守れなかった悔しさ、いらないと言われた悲しみをぶつけていく。
これがだれかの思惑どおりでもよかった。今はこの手をとめたくなかった。心と身体が別々になった感覚があるけれど、気にしない。とにかく、この、溢れかえる感情をすべて吐き出したい。
――おかあさん、おかあさん。おかあさん。おかあさんを、かえして。
力尽きた千はぼんやりと天井を仰ぐ。
眼下にあるふたつの肉塊を目にして、ようやく我を取り戻す。
「ああ、あ、っああ……うああああああああっ!!!!」
床に突っ伏して、あらんかぎりの声をあげ、落涙する。
母親を失った。偽の父親を殺めた。仇を討った。人殺しになった。
どうしよう、どうしよう。どうしたらいいのだろう。
「――ああぅ、ぁああぁぁぁああ……」
だれか。だれか。だれかいませんか。
わたしは、どうすればいいのですか。
わたしは、自由になれたのですか。
「……そう、だ。いこう」
劉鬼の顔があたまに浮かぶ。
「いかなくちゃ」
×
駅前で会った。はじめてのときと反して、髪も服もぼろぼろだ。話をする前にトイレで血を落とさせた。通行人がいないうちに人目のないところへ行く。劉鬼が選んだのは、廃墟ビルの屋上だった。
空は晴れて、そよ風が吹く。
「親を殺すって、どんな気分だ?」
「わからない。どうしてそんなことを訊くのよ」
「俺もいずれ、そうしなくちゃいけないからな」
「……からっぽよ。喪失感っていうのかしら、とにかく、からっぽ」
「そうか」
「ねえ、わたし、どうしたらいいの」
「そうだな、行きたいところへ、行けばいいさ」
「じゃあ、遠くへ連れていって」
「わかった。すぐに、そうしてやる」
ためらわない。迷わない。
ただ一点を見つめて、引き金を引く。
「ありがとう、お母さんに会えたわ。痛みのない日って、こんなにも気持ちいいのね」
「そうだとも。安心しろ、これからずっと、痛みのない毎日を送れるぜ」
銃弾が放たれた。
撃たれる間際、彼女は微笑んでいた。
仕事が終わった。
少女だった肉塊の目を、そっと閉じてあげた。
美しい眠り顔だ。
「さてと、帰るか」
ああ、ひどく疲れた。
あの人を殺めるときも、こうなるのだろうか。
劉鬼はゆっくり息を吸い、吐いた。
別れの言葉を、口にする。
「あばよ、お千。お前といるのは、楽しかったぜ」
×
そうして時は現在に戻る。
劉鬼はパレットと筆を持ってキャンバスの前に立つ。筆先で色を掬い、真っ白な上に滑らせる。標的を鮮明に憶えているためか、いつもより捗った。
しばらくして筆がキャンバスから離れる。一歩下がって、全体像を確かめた。
微笑むおおらかな少女。両手を心臓に添えている。背景には黒い悪魔が憤怒の形相で心臓を狙っている。悪魔から少女を護ろうとする聖母の手が、少女の代わりに悪魔の刃を受けている。
完成とするには物足りなさを感じた。あとひとつ、加えたい。
佇み、少女の瞳を凝視する。
再び筆を走らせた。描き加えたのは、聖母の手とは別の両手だった。少女の両目を隠すように在る。その両手は青年らしさを表すため若々しくする。さらに、ほんの少しの赤を混ぜた。
「……よし」
右下に、小さく文字が書き付けられた。
一枚の絵が仕上がった。タイトルは、そう――