第三話
午後十一時すぎ。住み家に亜条と青月が帰還した。当然の如く色島千の存在を訝しむ。わけを説明したところ、すんなり納得してもらえた。ついでに一泊の許しも得た。
件の少女はふたりに自己紹介をしたあと、居づらくなったのか、おやすみと一言残して劉鬼の部屋に入った。面影を追いかけるように、劉鬼は自室の扉を見つめる。
彼女はただの女子高生ではない。親からの虐待を受けており、その親も悪事に手を染めている。家族関係からすると、色島千は親のしていることを知らないだろう。けれど、関わっていなくても、この仕事が済めばどうなっているかわからない。
劉鬼はふと、己に疑問を抱く。
なんだろう、この気持ちは。心配しているのだろうか。知り合ったばかりの、標的である男の娘を気にしている。仕事に支障を来すから? それとも、似ているから?
そう、似ている。お互い血の繋がらない親に育てられた。そうしてほしいと頼んでいないのに、こうなってしまった。
「どうした、描かないのか」
いつからか隣にいた劉鬼の育ての親。真剣に彼の描きかけの絵を観ていた。
「はかどらない。……ところで、仕事のほうはどうなったんだ」
亜条ではなく青月が代わりに返答する。ビールを片手に言った。
「色島行永は悪事を暴かれて焦っている。松上けい子がすべて話したと勘違いして、どうにかしようと動き出したところ。その松上けい子は、実の娘の状況を知り、明日十七年ぶりに再会することになっている。万事、予定通りさ」
ならば、この仕事も明日には片づくだろう。彼女とともに過ごせるのも、今晩が最後になる。寂しい気もするけれど、しかたがない。
「これのテーマはなんだ」
劉鬼は自作の絵を眺めた。
絶望と勝ち誇った顔をする男、抜き取られた臓物、鏡を持った天使、その鏡に男が愛した幼い子が映っている。不気味で奇妙な作品である。
「〝人間の狂気〟」
亜条の口から感嘆の声がする。
「解説をお願いしようか、我が息子よ」
「伝わるかどうかわからねえが――
どんなものにしろ、人には必ず〝そうしたい〟と思うものがある。望みや願いとは違う確固たる意思だ。シンプルに言えば好きなことになるかもしれない。趣味でも、勉強でも、スポーツでも、なにもかもを忘れてひとつのことに没頭する一時がある。その精神は尋常じゃない。好きなことならまだいいさ。それが人生をかけてのものなら、並大抵の精神ではいけない。正気を失ってもなお確固たる〝そうしたい〟意思だけで生きていくなんて、狂気の沙汰だ。人生をかけてってことは、自分の命をかけてってことになるし、普通の人間ならそこまでしない。もしもそんなやつがいるなら、もうそいつは、そうと決めたときから、ほかとは違う人生観で生きているんだと思う」
ちらりと亜条を見る。そして、驚いた。彼の瞳に感情の火が灯っている。形容できないけれど、無ではない。たしかに、色がある。
「そうか。……そうか」
ふいに目が合って、逸らす。
「完成を待っている」
亜条はそれだけ言い残して、隣からいなくなった。
そして深夜。
劉鬼はこっそり自室に入り、千を起こさないようベッドにもぐる。はじめてだれかと、それも年下の少女と眠ることへの緊張で目が冴えている。背中合わせで横になっているため顔は見えない。それが幸いだった。ふんわり甘い香りが臭覚を刺激する。
すると、千が話しかけてきた。彼女も眠れない様子だ。
「……あのおじさんたちが、仕事仲間なの?」
「そうだぜ」
「なにをしているか、聞いてもいい?」
「悪いが答えられねえ。あんましいいことしてないからな」
「ふーん。もしかしてわたし、それに巻き込まれているのかな」
「さあな。なんでそう思うんだよ」
「さっき、お父さんの名前が出たから」
苦笑を漏らす。先の会話が聞こえていたらしい。
「だからって、あんたが巻き込まれたことにはならないだろ」
「親になにかあったら、関係ない子供も巻き添えになるんだよ。なにも知らされないまま、いつの間にか親の痛みが子供に回ってくるんだから」
親という存在を知らない劉鬼にとって、理解しがたい言葉だった。
千は身を丸めた。泣いている。
「じゃなきゃ……わたしが虐待されている意味がないんだもん。謝っても、謝っても、ずっと〝私の子供じゃない。私が産んだ赤ちゃんは死んだからね!〟って……毎日、毎日平手打ちよ。ビンタよ。でもあたまがいいから、見えないところに傷はつけないし、プールがあったら欠席させる準備をすぐにするの」
「……」
「わたしの本当のお母さんは、きっと酷い目に遭った。それがわたしに回ってきた。そう思わないと生きていけない。リスカをしても、首を吊っても、死ねなかった」
苦痛を吐露する少女は起き上がり、劉鬼の前で上半身を裸にした。
「見てよ、これ! こんなになったのに、なにも意味が無いなんておかしいでしょ!? 痛いんだから、お風呂入るたび耐えなきゃいけないんだから……うっ、ううっ」
大粒の涙が少女のやわらかな頬を伝う。
うなじにある首吊りの痕、手首にあるリストカットの傷、衣服で隠れる部分にある多くの痣や鬱血。皮膚の変色はもうもとに戻らないかもしれない。
それらを目の当たりにした劉鬼。隠すように、彼女を後ろから抱きしめた。
「色島行永はいずれ殺される。親の痛みが子供に回るなら、今度はあんたが殺されるぞ」
「それでいいわ。生きる希望はもう、ないから」
「本当にないのか? やり残したことぐらいはあるんじゃないのか」
「……できれば、本当のお母さんに会いたいよ。どこにいるかわからないけど」
「なら、会えるまで生きろ。会ったあと、話したいこと全部話して、それから俺のところに来いよ」
「劉鬼くんのところに?」
「自分で自分を殺せないのなら、俺があんたを殺してやる」
――その台詞をあの男に言えていない。約束を、守れていない。
あの男も同じだ。死に損ないだ。命を絶てなくて、生きることを捨て、だれかが心臓を止めてくれるまで歩く。ただ歩く。流れ弾でも流れ矢でも、どこからでもいいからこと切れさせてほしいのだ。どうしてそんなことになったかは、不明である。
泣き疲れた千は寝息をたてて眠る。
劉鬼も目を閉じて、夢のなかへ旅立った。
×
――夢は回想。過去の映像を再生する。
周りにいた同い年の子が倒れていく。血だまりの上に立つのは少年だけになる。
生ぬるい。履いていた靴下に、赤が染み込んでいった。見慣れた光景を見おろして、屈んだ。つんつんとつついても肉塊はぴくりともしなかった。後片付けをしようとふたつの肉塊を引っ張ろうとしたとき、男が拳銃を、引き金のほうをこっちに向けて、渡してきた。
まただ。ここにきてから何度目だろう。十回から先は数えていない。首を振って拒む。すると、男は残念そうな色を滲ませた。
攫われて早数週間。もうすぐ一か月になる。衣食住に不自由はないが、死体の後片付けは大変だ。汚れるし、においもつく。自分がいつ殺されてもおかしくないが、逃げる選択肢はあたまになかった。どうしてか、男の傍に居たかったからだ。
傍に居たい。それを男の仲間に話した。するとこう返ってきた。
「きみはストックホルム症候群だね。犯人と長く一緒にいるうちに、誘拐犯、摩鬼人に好意を抱いたわけだ。摩鬼人のこと、どう思うんだい?」
どう思っているんだろう。言葉にできないけれど、少なくとも誘拐犯とは見ていない。ごはんも作ってくれる。お昼寝もさせてくれる。お風呂にも入っていいという。まるで小さいときからずっと家族として暮らしてきたかのようだ。
でも、家族なら拳銃を子供に渡したりするのだろうか。はじめてここにきたとき、あの人から〝逃げてもいい。ただし俺を殺していけ〟と言われた。このときは誘拐されたなんて感覚はなかったから、その言葉の意味がわからなかった。わかったのは、あとから攫われてきた同い年くらいの子供たちが逃げようとして死んだ日だ。
その子たちが殺されていく光景をじっと隅っこで眺めていた。終われば、拳銃を渡される。こんな毎日を送っているせいか、誘拐された実感はなかった。
家族です。返答した。
「そっかあ。残念だなあ」
首を傾げる。
「家族だとさ、摩鬼人を殺せないんじゃないかな。やりにくいと思う」
あの人を殺したいとは思っていません。理由がありません。
「家族が望むことを叶えるのに、理由なんて必要かい?」
望む? まさか、拳銃を渡してくるのは、俺に殺されたいからですか。
「そうとも。もう摩鬼人は生きることを捨てている。自分では自分を殺せなかったらしいから、だれかに望みを託したのさ」
あなたも、亜条さんを殺そうとしたんですか。
「もちろん。だけど、できなかったよ」
あなたにできなかったなら、俺だってそうです。
「わからないよ。一度、摩鬼人から拳銃を受け取ってみたらどうだい。考えが変わるかもしれないし」
その日、またひとりの同い年が倒れた。女の子だった。
またいつものように、あの人から拳銃を渡される。拒んでばかりいたけれど、今日は手を伸ばしてそれを受け取った。ずっしり重い。黒光りする塊を握り、見よう見まねで構えてみた。銃口の先にいる男と対峙する。
引き金に指を添えて、撃った。
銃弾は男の頬をかすって、天井にあるファンを壊す。
反動で後ろに倒れそうになった。すると、男が支えてくれた。
「大丈夫か?」
心配するその一言で俺は泣いた。
――ああ、――優しい人。
――殺せない。殺せるわけがない。
「おとうさん、ごめんなさい……」
無骨で何人もの人を殺した手が、幼い俺のあたまを撫でる。
抱きついて、わんわん泣いた。風邪がぶり返したように、感情がぶり返す。
ぽたり。摩鬼人の頬から落ちた血の雫が涙に交じる。袖で拭った。
恐怖とは違う。罪悪感に似た気持ちで涙した。
「なあ、ひとつ、約束してくれないか」
俺のおとうさんとなった人と指切りをする。
「いつか、お前の手で俺を殺してくれ。今度は、外すんじゃないぞ」
ニセモノだらけのなかに在る、ホンモノ。
物騒な約束を、俺は大切にした。
十年の間、再会するまで、忘れなかった。
×
色島千は、痛みのない朝を迎えた。はじめて味わう時間に浸る。ゆっくり深呼吸をしてベッドから下りる。泊めてくれた青年はまだ夢のなかだった。起こさないよう、静かに着替えて、退室する。
午前七時。いつもの起床時間。いつもと違う光景。こわい母親はいない。父親もいない。身体に痛みがない。作り笑いをしていない。頬の力が抜けている。こんな朝を迎えたのは生まれて一度もなかった。最初で最後というのが惜しい。もう一泊、と頼んでみようか、そう考えてやめる。
ここの住人はおそらく、ただ者ではない。長く居座って、関わりを持ってはいけない気がする。父親である色島行永の名前が出たときにそう悟った。
帰りたくない。でも、ここには長居しないほうがいい。千は心を決めて、置き手紙を書いた。『ありがとうございました 千』
書き終えて、ふと劉鬼が描いていた絵を発見する。布が被されていた。その下から現れたのは、奇妙でいて美しい一枚。
「……すごい。これ、すごいわ」
完成した一枚に言葉を失う。
立ち尽くす彼女の隣に、語り手が現れる。
「男は少女のすべてを愛したけれど、天使が少女を連れていく。手元に残ったのは臓器だけだった、愛した身体の一部だけだった。それでも男は嬉しかった。天使が持っていかなかったものが自分の手のなかにある。絶望と勝ち誇った顔をしているそうだ」
「まるで、私みたい。お父さんの本当の子供を天使が持っていって、同じ日に産まれた私を置いていった。嬉しくなかったと思うけど、私を手に入れたお父さんは、勝ち誇っていたのかな。この絵の人みたいに、絶望して勝ち誇った顔をしていたんだわ」
千は亜条を見上げ、問う。
「あなたたちは、何者なんですか。父を、殺すんですか」
「それが仕事だからな」
「そう、ですか」
「今ここで俺を殺して、阻止することもできるぞ」
「そうしたほうが、家族を守れるからいいかもしれませんね」
両親のすがたがあたまに浮かぶ。すぐに振り払った。
「もういきますね。それでは」
去り際、制服の胸ポケットになにかを入れられる。びっくりしてそこに手を当てた。紙切れがある。電話番号らしき数字が書かれていた。
「あの、これって――」
だれもいない。
しんと静まる殺し屋の住み家。一晩過ごした場所。一歩でも戻れば、気持ちが変わってしまう。ぐっと衝動を堪えた。お辞儀をして、そこを後にした。
もう会わないであろう人たち。街のどこかですれ違ったとしても、知らない人になる。だから、彼らと共に居た短い一時の記憶を、引き出しの一番奥にしまう。鍵をかけて、思い出さないようにする。
「自分で自分を殺せないなら、俺があんたを殺してやる」
ふいに青年の言葉が蘇った。
そんなときがくるだろうか。
ぼんやり歩いて、駅に到着する。ホームに佇み、電車を待った。
殺し殺される日はいつだろう。母親に与えられる痛みで倒れる前に、その日がきてほしい。家の住所を教えておけばよかったかな、行きつけのお店とか、通学路とか、言っておけばそこにきてくれるかもしれない。あの絵に描かれた天使のように、魂だけでも連れていってくれると信じたい。
「その前に、本当のお母さんを探さないとね」
どこにいるかわからない。どんな人なのかもさっぱりだ。顔も見たことがなく、手がかりも――
「あ! もしかして、これって」
数字が書かれた紙切れとスマートフォンを手に握る。慣れた手つきで番号を入力する。心臓が飛び出るぐらいどきどきしている。まだコールは続く。
『はい、もしもし』
出た。女性の声だ。
『あのすみませんが、どちらさまですか?』
緊張で固まる。ゆっくり深呼吸をし、名前を言う。
「私は、色島千といいます。私を、知っていますか?」
電話口の向こうから、ひどく驚いた様子の声音が聞こえる。
『色島……って、もしかして、あなたの父親は』
「はい。病院の院長をしています、行永です。私は一応、娘の千です」
『せん、千なのね』
「はい。あなたのお名前を伺っても、よろしいですか」
『……松上けい子。松の上、ひらがなでけいと書いて、子供の子』
まつがみけいこ。それが本当の母親の名前だ。
千は噛みしめるように、口にする。
「これから、会えませんか。話したいことが、たくさんあるんです」
『えっ、……』
「お願いします。どうしても、あなたと会いたいんです」
顔が熱い。興奮しているせいだ。ここまで活き活きしたことなんてない。生きている実感が湧く。今ならなんでもできる気がした。
松上はしばし無言だった。繰り返し彼女が懇願し、ようやく折れた。
『そこまで言うなら、会いましょう。どこに行けばいいかしら』
駅から徒歩でいける喫茶店を伝えた。
『わかったわ。一旦、切るわね』
「はい。それでは」
ぷつん。通話が終わる。
まだどきどきしている。声が耳に残っている。嬉しさのあまり声をあげそうになるが、それは心の中で。
やってきた電車に乗り、松上けい子がどんな人か、想像を膨らませる。