第二話
色島千が通う高校は駅のホームから下りてすぐのところにあった。レベルが高い進学校であり、駅に近いため遠くから来る生徒も多い。通学時間になればホームはその高校の生徒で埋まる。
だが、劉鬼がやってきた時間はそのときを過ぎており、駅はがらんとしている。
生徒たちは校舎に入っており、標的を探すことは難しいと思われた。そう諦めかけたとき、年季の入った木のベンチに座る彼女を発見する。写真と同じ少女だ。隣に座り、声をかける。
「なんですか」
弱々しい声音だ。
「あんた、色島千か?」
「そうですけど、なにか用ですか」
「その痣、どうしたんだ」
首筋を見やる。制服の襟で隠された。
「なんでもありません」
「首と手と足か。目立ったところに作ったな」
「だから、なんでもないってば。転んだのよ」
「包帯で隠しても逆に注目されるんで、がんばって服で隠しているわけか」
「なにも……知らないくせに!!」
スクールバッグが勢いよく振り下ろされる。
劉鬼は片腕でそれを受け止めた。
「なにも知らねえよ。あんたが話してくれなきゃわからねえって」
千が脱力するに伴って、バッグもベンチに下ろされる。彼女は蹲った。
「知らないままで……いてほしいんだけど」
するりと長い黒髪が肩から滑り落ちた。うなじのところに鬱血した痕がある。視界に入らなかったことにして、劉鬼は空を見上げる。
色島行永は亜条と青月が始末するだろう。劉鬼の役割は、少女がこちらの仕事に支障をきたさないよう動向を見張っていることだ。彼女のプライベートまで踏み込む必要はない。痣についてはこれまでにしておく。
深く関わることは避ける、しかし傍まで近寄る。親父と呼ぶ男から学んだ。
「悪かったよ。もう訊かない」
少女が怪訝そうな顔をする。黒髪を耳にかけ、おそるおそる問う。
「……何者、あなた」
「通りすがりです」
「嘘よ。いきなり人のことずかずか言うような人が、通りすがりなわけないわ」
「殺し屋です」
「冗談やめて」
「じゃああんたも、嘘をついてみろよ」
千は考える素振りをする。視線を校舎へ向けながら言った。
「そうね――サボりよ。人生初のサボりをしている学生です」
「人生初って、優等生かよ。まじめちゃんかよ」
「ええ、そうよ。わたしはまじめちゃん。ばかまじめよ」
ふたりは一緒になって笑った。和やかな空気がふたりを包む。
駅のホームに電車が到着する旨を伝えるアナウンスが流れた。ほどなくして向こう側のホームに電車が停まる。乗る人降りる人が入れ替わり、扉が閉まる。そして電車は次の駅へ発車した。
劉鬼も千も、ベンチから立ち上がろうとしなかった。
「あなた、どこへ行くつもりなの」
「決めていない。ただ、ふらっときただけだ」
「わたしも、決めていない。家には帰りたくないし、……」
家。親。色島行永。彼女は父親がなにをしているのか知っているのだろうか。十歳にもならない幼子の体内から引きずり出された臓器を買っていると伝えたら、どんな顔をするか。嘘よ、と言うかもしれない。
しばらく静かになる。電車も来ない、アナウンスも流れない、人の声もなかった。
彼女に視線を向ける。思い詰めた表情だ。よほど家に帰りたくないらしい。街に出ていけばいいだろ、というと、退屈、と返ってきた。ここにいたほうがヒマなんじゃないか。遊んだらあっという間に帰る時間になるから、このままでいいの。ふうん。
「あの、お願いがあるんだけど」
「なんだよ」
「一晩だけでいいから、今日、泊めてください!」
予想外の発言に耳を疑った。ていねいに両手を重ねて深々とあたまを下げられたため、困惑する。断る理由はないけれど、仕事中はまずい。標的と親子である彼女が傍にいては、やりにくい。
否、と逆の考えが巡る。
自分の傍に置いておけば、標的と遭遇することもないのではないか。色島千を留めておけば尾行する手間も省ける。亜条と青月のふたりが住み家に帰ってくる頃は深夜になるはず。だったら――
「いいぜ、泊めてやるよ」
千がぱっと明るい笑みを浮かべた。
「いいの!? ほんとに!?」
「一晩だけだぞ」
「ありがとう、えっと」
「劉鬼。劉備の鬼でリュウキ」
「劉鬼くん、ありがとう!」
ふたりは駅のホームから電車に乗り込む。
劉鬼たちの住み家に到着したのは正午頃だった。デリバリーのピザを頼んで昼食にする。
その間、千ははじめてくる家のなかを見渡した。
とても広い。天井は高く、二階建てだ。一階は壁の仕切りがなく、開放感がある。リビングからキッチンへは段差をのぼるだけだ。大きな窓から溢れる陽射しがあたたかい。黒いソファは、吸い込まれるようにふかふか。
劉鬼にとって因縁のある住み慣れたところだ。ここで殺しがあったと知らずに、目を輝かせている彼女から目を逸らす。もそもそとピザを食べた。
「ねえ、絵を描くの?」
壁際に放置していたキャンバスが千の目に止まったらしかった。
「まあな」
「見てもいい?」
「ピザ食べてからにしろ」
ごちそうさまをして、さっそく観賞会がはじまる。
かぶせていた白い布を外すとキャンバスに描かれた絵が現れる。
「まだデッサンだけどよ、ご感想どうぞ」
千が目を見張る。絵に触れながらぽつりぽつりと言った。
「天使、男の人、これは――ナイフ? 真ん中がなにかわからないわ」
「人間の腸だぜ。感触がわかるように、ぶよぶよさせてある」
「背景はまだみたいね」
「そこで悩んでいるんだ。どんなものなら、絵が映えると思う?」
「……鏡とか」
鉛筆がすらすらと走った。ほどなくして鏡が浮かび上がった。
「あとはそうね、かわいらしい女の子なんてどうかしら」
鏡のなかにそれが形づくられる。表情はおだやかだ。
劉鬼は一歩下がって絵の全体像を観察した。きれいだ。
「ありがとよ、これで完成だ。あとは色を塗る」
床が汚れないようにシーツを広げる。さまざまな色が混ざり合ったその上に、イーゼルとキャンバスを乗せる。それから丸椅子と机を持ってくる。最後に絵の具と筆を運んで準備は完了した。後ろから見守る千をちらりと見、色を塗りはじめた。
一室が静まり返った。さらり、さらり、筆の走る音のみ聞こえる。
だれかに見られながら描くことはいつものことだ。青月が茶化してきたり、亜条が辛辣な感想を言ってきたりする。こうして静かな一時で描いたことはあまりなかった。おかげで少し緊張している。
劉鬼は筆を止めて、千のほうを見やる。とても真剣な眼差しだ。
「絵に興味があんのか」
「えっ、まあ、少しだけ。画集をぱらぱらって見るぐらいだけどね」
「好きな絵はあるのか」
「そうね――ゴッホの『ひまわり』が好きよ。あなたは?」
「ルーカス・クラナッハの『ユディト』」
千がぽかんとした。自室からクラナッハの画集を持ってきて、彼女に見せる。
「うわ、やだ……生首いぃ。こういうのは苦手。だめ、ダメ」
「そうじゃない絵だってある」
頁をめくった。
「なんだか、女の人が不気味。これも、これも。絵はきれいなんだけど、じっと見てたら怖くなってくる」
とは言うものの、千は絵画の横にある解説をしっかり読んでいた。
色塗りを再開する。男が持つ腸の部分は、細心の注意を払った。解体屋のアジトで目にしたそれの感触、色の具合を再現するためだ。グロデスクな絵は苦手という千が気になったけれど、進める。
今頃、亜条と青月は標的を策に陥れる準備をしているはずだ。
自分はなにをしているのか。見張っていろと言われた少女を住み家に連れ込んで、絵の話をしている。一泊させる約束もある。そして、珍しく饒舌だった。なぜだろう。よくわからないが、彼女と話していたい気持ちが心の隅にあった。色島千がこの先どうなるかさっぱりだ。親の悪事を暴かれたときの少女は、一体どんな色を浮かべるのだろう――。
「ねえ、あなたってここにひとりで住んでいるの?」
「いや、仲間と」
「仲間って……ルームシェアみたいな?」
「そんなところだ」
ふと、劉鬼は千に問う。
「お前の親って、どんな人なんだ」
返事がない。筆をおろし、彼女のほうを振り向く。
俯いていた。駅のときと同じだ。
「ひどい人だよ。お母さんはわたしを叩くし、お父さんはわたしと話したがらない」
千は吐露する。胸の内を。
劉鬼は心耳を澄ます。新鮮な話に。
「お母さんが言うのよ、わたしはお母さんの子供じゃないって。なんでそんなことを言うのって訊いたら、答えてくれなかった。本当のお母さんがだれなのか、探したこともあるんだけど、お父さんに止められたの。余計なことはするなって」
目が潤んでいる。零れそうになる涙を、彼女は袖で拭う。
「どうしたらいいかな。わたし、このままじゃおかしくなりそう」
かける言葉が見つからなかった。わからなかった。
筆を置き、千へ歩み寄った。
ぎこちなく彼女のあたまを撫でる。細くさらさらした髪だ。
千は顔をあげ、劉鬼に抱きついた。
×
おぼろ月夜。亜条の策が動き出す。
モダンな造りのバーに色島行永を呼ぶ。奥の個室で青月と対面させた。
「こんばんは」
行永は怯えと警戒を合わせた色をして、腰を下ろす。
「お前が、連絡をよこしてきた男か。探偵とかいう」
探偵はにせの職業だ。
「そうです。依頼を受けて、あなたの周辺を調べ回っていました」
凍てつく視線を標的に送りながら言う。
「臓器提供者はいても、求める人の身体と合った臓器でなければいけない。そう考えると移植は難しいですね。何日、何か月、何年も待っている患者がいると聞きます。あなたの病院はよくドナーが見つかるそうですね。救われた患者が大勢いるとか。しかし、臓器の出所が怪しいという噂もあるみたいですね」
ハンサムな顔が歪む。
「おや、図星ですか。臓器をいけないところからもらっているようだ」
「貴様、なにが目的だ」
「探偵ですからね、依頼人が納得する真実がほしい、それが目的です」
「……話さんぞ。なにもな」
行永は口を閉じる。断固として話さないつもりらしかった。
ならば、切り口を変える。青月は身を乗り出して、声を潜める。
「色島さんあなた、過去に産まれた子供を取り替えましたよね」
すると、強烈な一撃を浴びたように、行永がうろたえた。
「――なぜ、知っている? まさか、貴様の依頼人が話したのか!?」
青月はかぶりを振った。
「私が独自に得た情報です。十七年前でしたっけ、ある学生が妊娠をしたらしいですね。親に内緒で産んだそうですが、あなたは学校を卒業していない学生が幼子を育てることをよしとしなかった。だから子供を取り上げた」
標的の色がみるみるうちに悪くなっていくさまを、青月は心中で楽しむ。
ややあって、色島行永が告白した。覇気のない弱々しい声音だ。
「俺の娘と血液型が一緒だった。ドナーにすると決めた矢先、娘は亡くなった。残ったのは未成年が産んだ子供だけ。だから、取り替えた」
「なるほど。死んだのは学生が産んだ子供、生き残ったのは自分の娘としたわけですか。学生さんはさぞ悲しんだでしょうね、痛い思いをして誕生させた子供がまさか死んでしまったと嘘を聞かされて」
行永は大きなため息を漏らす。悪事を暴かれて、精神的に参っているようだ。
にやり、青月は口の端をあげて、疲れ切った標的にとどめを刺しにゆく。
「臓器は、少年少女を攫って解体している男から入手していますね。危ない取引だから代理の人物を利用し、ずっと続けてきた。代理に選んだのが、あなたから産まれたばかりの赤ちゃんを奪われた女子学生――俺の言っていること、当たっていますか?」
標的が動く。青月の手を掴んで羽交い絞めにし、テーブルに叩きつけた。液体が入った注射器が首筋にあてがわれる。
「当たっているぞ、このクソ探偵が! てめえ、だれの依頼でそこまで調べたんだ? 俺はきっちり白状した。次はてめえだ。依頼人を言え!」
青月もまた、細く小さな針で標的の手首を狙っていた。
「あなたにはすべて話してもらいましたから、俺も言いますよ」
「はやくしろ。騒げば殺す」
「依頼人は、あなたが利用していた代理人ですよ」
言うが早いか、弁慶の泣きどころを蹴る。標的はおもわず声をあげた。
怯んだ隙に手を払う。
「俺に毒とか薬とかあんまり効きませんよ。小さいときから慣らされてきたんでね」
スーツを整えて、さようなら。
青月は退店した。
からん。ころん。扉が開閉されたことを報せる鈴が鳴った。
相棒が去るに伴って、亜条の標的が店にやってくる。ショートヘアと桃色の唇、スタイルのよい女性だ。目立たない色の私服に身を包んだ彼女は、亜条が座るカウンター席に落ち着いた。マスターにカクテルを注文した。
から、ころ。グラスをゆらす。女性がはっとこちらを向いた。
「〝いつから居たんだ〟って顔ですね」
「気付かなくて、ごめんなさい」
「謝らなくていいですよ。俺の特技みたいなものだから」
「特技?」
「人ってほら、存在感がなかったり、影が薄かったりしますよね。それと似たようなことができます。自分で思うまま、気配を消せるんです」
女性はまじまじと亜条を見つめる。
「あなたもなにかありますか、自慢できること」
「ありませんよ。取柄が、ないので」
「好きなものは? なんでもいいですよ」
カクテルが運ばれてきた。女性がそれを一瞥しながら、答えた。
「ここのカクテル。味がマスターの気分で変わるから、いつも違うんです」
こちらへの警戒心が緩んだのか、女性が微笑む。
「へえ。今度頼んでみようかな」
ウィスキーを飲む。仮面を外して、口火を切った。
「本題に、入ってもよろしいですか」
低くよく通る声に、女性――松上けい子が驚く。
「あな、た……まさか、私を呼んだのって」
「あんた、色島行永に利用されているんだってな。臓器の取引に加担しているだろ」
松上がかぶりを振りに振った。
「違う。私はただ、運んだだけ……そうしなきゃいけなかったのよ!」
「それは、脅されているからか」
「うっ――しゃ、しゃべらないから。なにをされても、このことだけはしゃべらないんだから。もう帰ります」
彼女の腕を掴み、引き寄せた。
「は、離して!!」
「俺はあんたを排除しにきたんじゃない。色島行永のほうを処分したいんだ」
「あいつを? 処分? 逮捕じゃ、ないのね」
耳元に顔を近づけ、囁く。
「そこであんたに白羽の矢が立った。うまくいけばあんたの娘、色島千を取り戻すことができる。協力してほしい」
松上は困惑の色をする。
彼女を座らせ、さらに言った。
「奪われた子供が今、どんな暮らしをしていると思う?」
「わからない……」
「ずいぶん苦しい生活をしているぜ。解放できるのは、あんたしかいない」
色島行永が松上けい子から子供を奪ってからの話だ。あるとき、顔が似ていない、愛人の子供だ、などの噂が色島夫婦の耳に入った。ご近所の噂だからほうっておこうとする。だが一瞬にして噂は広がっていく。行永が院長を勤める病院内では、子供が亡くなり、それを隠すために別の赤ちゃんを取り上げたという話が出る。
どこから流れて、だれが言い始めたのかわからない。収拾がつかなくなり、もはや虚偽と真実が入り混じった語りへと膨れ上がっていた。
それに苦しめられていたのが、行永の妻だった。彼女は千が、行永が奪った子供だとは知らされていない。夫の愛人が産んだ、と噂を信じてしまう。そして、千に手をあげた。日に日に増えていく痣や傷を、行永が知らないわけがなかった。
すべては松上けい子が仕組んだことだ。色島家の赤ちゃんが亡くなったこと、松上の子供を奪ったことを知る人物は、あの女子学生――松上けい子しかいない。彼女が復讐と称して噂をでっちあげた。だとすれば、口封じをしなければ。そこで行永が思い立ったのが、解体屋から入手していた臓器を運ばせることだった。松上が産んだ子供が今、妻から虐待を受けている。救い出したければ悪事に加担しろ、と脅したのだ。
松上けい子は我が娘を助けるため、運び屋として在り続けた。
色島千はまだ、その身体に痣を作っている。
以上が、亜条が情報屋から得た色島行永と松上けい子の関係である。
「あの子を助けるために、運んでいたけど……あれは嘘だったのね」
「おおかた、あんたが余計なことをしないよう縛っていたんだろうさ」
グラスをずらして、奥の個室が映るようにする。人が居た。色島行永だ。
鈴は一回しか鳴っていない。つまり、青月の標的はまだバーにいる。
「私はなにを、すればいいんですか」
「そうさな、自分の娘に会って、ゆっくり話を聞いてあげてやれ」
「そ、それだけ?」
拍子抜けした松上。ぽかんとしている。
「明日、会わせてやる。時間を空けておけ」
亜条は立ち上がり、バーを去った。