第一話
真夏の暑い日に、遊んでいた。汗をかいたから公園にあった大きな木の下に座る。風が吹くととても涼しい。だれもいないから日陰を独り占めできた。大きな木に守られている気分になったことを憶えている。
蝉の声がミーンミーンと鳴いている。大きな木から聞こえた。上を向くと、とうてい届きそうにない場所にそいつが居た。なんだかムカついたから網を持って、ジャンプして、捕まえようとがんばる。
蝉はどこかに行ってしまう。もう鳴き声が聞こえない。諦めた。汗を拭って、木漏れ日に座った。すると、ふたりの知らないお兄さんがいつの間にか立っていた。
だれもいなかった公園に、自分と知らないお兄さんふたり。そういえば大人たちが話していた。ここ最近、誘拐が続いているらしい。
このとき、恐れていればよかった。
走って逃げたり、助けを呼んだりしていればきっと……否、恐れなかったから今が在る。
あの人は優しかった。だから手を握った。
殺してほしかったとは知らずに、ついていった。
――夢は主の目覚めによって霧散する。
ピポピポ、ピポピポ、ピポポポ。目覚まし時計が電子音を響かせる。がちゃんとやや乱暴にスイッチを切る。針の位置を確かめ、もそもそとベッドから這い出る。
あくびをしながら階下へ移る。一階には亜条がいた。珈琲を飲みながら外国の新聞を読んでいる。青月が見当たらない。
「青月さん、どこに行ったんすか」
「買い出し」
「ふうん」
テーブルに並ぶ朝食を頬張る。味はよし。
ふと、昨日片づけた仕事について回想する。いつもと同じことをしたのに、あたまにこびりつく。少女の顔と最後に交わした会話が離れない。鮮明に再生できてしまう。こんなことは一度もなかったが、どうしてか記憶に残った。目を瞑り、それらを振り払う。
瞼をあげた。手に血が付着している。まだ濃い。昨日今日とでは薄まらないが、ここまではっきりされると本物か幻か区別しかねる。
幻をほうっておいてオレンジジュースを飲む。青い空とのんびり流れる白い雲がグラスに映る。
新聞をめくる音がした。首を後ろへかくんと曲げて、亜条に話しかける。
「親父」
「なんだ」
「あんたが撃たれるときって、どんな顔するんだよ」
「さあな。惨めに泣いてやってもいいぜ」
「かっこわる」
「ふん」
泣く。あの少女もそうだった。いまわの際に涙を零していた、笑みを浮かべて。あんな顔ははじめてだ。どう言葉で表現すべきか悩む。絵にすれば美しいはずだ。まだ憶えているから描くことにしよう。
スケッチブックを用意し、白紙の上に鉛筆を走らせる。
我を忘れて没頭する。住み家に青月が帰還したことさえ知らないまま。
「ただいま。ねえ、あれどうしたの」
「描く絵を思いついたんだろ」
「珍しい。しかも女の子」
筆が興奮するように滑る。形ができてくると、そこに幻が浮かぶ。銃弾で貫いた瞬間の血だ。鉛筆でていねいになぞる。
二時間とちょっとで完成した。色を塗るため、絵の具を探す。
さて、この少女の話をしよう。
すべては二日前、彼らが仕事を頼まれた時間まで、遡る。
×
『ほら、組織が大きくなると末端のところまで目がいかなくなるでしょ。だから動ける連中に調べてもらったら案の定だったわけ。この大道寺の下でとち狂った解体屋がいたのはゆゆしきことだよ』
「身寄りのない幼子や少年少女が売られて、解体屋に預けられると。解体してどうするんだい? まさか自分の性癖のためにやっているわけじゃないだろ」
「臓器の売買か」
『うん、それそれ。皮膚だけでも儲かるからね。解体屋は臓器を売って稼いでいたんだ』
「俺たちになにをしろと? 解体屋を始末すればいいのか」
『解体屋のほうじゃなくて、臓器を買ったほうを消して。だめでしょ、癒着』
劉鬼はソファから起き上がり、標的についての話に耳を傾けた。雑誌の記事に載るような有名人らしい。病院の院長を勤めているとか。なるほど、病院であれば臓器を正しく使える。ドナーを待つ患者がいるから臓器提供はありがたいだろう。しかし、その出所が悪い。明るみになるのは時間の問題だ。ほうっておけばいいのに――劉鬼は心中でぼやく。
ちなみに解体屋は組で拘束しているという。
「まだ生きているなら自白剤を試させてよ」
『だーめ。会いにくるならうちが管理している倉庫においで。それじゃあね』
通話はそこで切れた。
どう動くか、亜条に視線を送る。彼は黙考したあと、決断を口にする。
「院長とやらを、俺たちが直に接触しない方法で処分する。殺し屋が表の人間と会えばサツに目をつけられるからな」
肯く。
「青月は解体屋から取引内容を聞き出せ。俺と我が息子は、標的の血縁者を探る」
それぞれ行動に移った。
亜条と劉鬼はまず、解体屋の拠点へ向かう。とある人物と会うためだった。
廃墟と化したスナック店は細い路地裏の突き当りにある。看板はなく、中は暗闇だ。ぼろぼろの扉をそっと開けて入店する。鉄臭いにおいに劉鬼は顔をしかめた。
カウンターの端にシーツを被ったものが三つあった。シーツをめくると、ホルマリン漬けの臓器が並んでいた。新しくはないが古いわけでもない。まだ取り出されて半年ぐらいしか経っていない、そう判断した。
「きれいだ。特にこの腸が。どうやって抜き取ったんだ?」
「お前の場合はそういうことより、絵で映えるかどうかだろ」
「どうやって抜き取ったかも知りたいんすよ。それで絵も変わるから」
「女がいいのか」
「いや、男だ。男の表情を絶望と勝ち誇った感じにすればおもしれえかも」
彼が腸に見入っていると、キッチンのほうから怯えた声が発せられた。すぐさま亜条が物陰から引きずり出す。小柄で猫背の青年だ。生まれたての小鹿の如く震えている。
会うべき青年が登場しても、劉鬼の集中は切れなかった。やれやれと亜条は呆れる。
「あ、亜条さん……噂はほんとだった。出てきたんですね。いやあまた会えるなんて嬉しいなあ。ところで今日は、どんなご用件ですか。解体屋なら大道寺さんにつれていかれましたよ。俺はずっと地下に隠れていて」
「無駄話はいらん。情報がほしい。解体屋が臓器の取引をした色島行永と、そいつの血縁者のネタをくれ」
青年は首をおおげさに上下させて頷いたあと、淡々と話す。
「色島行永ね。病院の評判はいいですが人物としての評判は下の上ぐらいです。病院の評判がいいのはドナーがすぐ見つかるから。人物が悪いのは、ドナーの出所が怪しいとドクターや看護師たちに噂されているからです。ご存知の通り臓器提供はここ、解体屋のアジト」
「取引は頻繁だったのか」
「いえいえ。そう何度もドナーが見つかっては怪しまれます。それに臓器の合う合わないもあります。回数は一回や二回で留めていました。その分お金はたんまり」
「色島本人がここへ出向いていたわけじゃないだろ」
「もちろん。代わりに女を使っていました。血縁者ではなく、どうやら色島に弱みを握られた人でした。松の上、ひらがなでけい、子供の子。松上けい子って名前ですよ」
「色島の血縁者は?」
「女ひとり、子供ひとり。ただ子供がワケありですね」
「詳しく聞かせてもらおうか」
「それが面白いんですよ、――」
名も無き青年こと情報屋が報酬を受け取り、つぶれたスナック店を去った。
それに伴って、劉鬼の視線が臓器から外れる。
「あれ、話は終わったんすか」
「ああ。今回は長丁場になるかもしれん」
「俺はなにをすればいいんですか」
亜条は情報屋からもらった一枚の写真を劉鬼に渡す。
「色島千だ。そいつを見張っていろ」
隠し撮りされた少女は学生服を着ている。おおらかな印象を受けた。
ふと、熱心に観察していた臓器と比べる。
「やっぱ男がいいな、これは」
×
某所、組が管理する倉庫内に悲鳴があがる。ひとり青月を除いた組員たちが耳を塞ぐ。
尋問か、はたまた拷問か。傍から見れば拷問だろうが、青月にとってはおしゃべりにすぎない。午後の紅茶を楽しむように、片手に自白剤が入った注射を持って、優しい声音で会話を紡ぐ。
「取引内容を教えてほしいんだ。話せるところだけでいいよ。あとはこれが喋らせるから」
ドラム缶に縛られた解体屋は必死に抵抗する。だが、あっけなく腕を掴まれた。
鋭利な尖端がわずかに食い込む。
「やめでえええ……それだけは、それだけは」
「やめてほしいよね。これってさ、全部吐かせるから危ないよね。きみが今までしてきた取引が暴露されてしまう。そうしたら組が黙っていない」
「し、色島の野郎がよこせって言ったんだ、ガキの臓物を! ドナーがいなくてやばいとかなんとか――とにかくめちゃくちゃ欲しがっていた。だけど俺は断った。あんなえらいさんと繋がったら商売上がったりだぜ」
「でも取引していたんだろ」
解体屋が青月の背後にいる組員をちらりと見て、言った。
「大道寺さんの名前を出されたんだよ……」
青月は口笛を吹いた。
「ビッグネームじゃないか」
「カタギがなんで街の長を知っているか聞いたら、繋がりがあるっていうし」
「……」
「嘘だって気付いたときには、遅かった。取引を中断すれば、告げ口するぞって脅してきやがった。あいつなんかの話に長が聞く耳持つわけねえが、俺が商売しているってばれるからよぉ……言い値で買わせた」
注射器が腕から離れていく。
「つまりきみは、半ば脅されて臓器の売買を行っていた。色島行永は大道寺の名前を使ってそれを続けさせたわけか」
再び針が解体屋の腕の皮膚へ。
「きみはただ臓器を売っていただけなのかい?」
「そ、そうさ。俺のルールだ、深いところまで首をつっこまねえ。危なっかしいことをやる連中は一目でわかる。そんなことに巻き込まれるのはごめんだからな。色島の野郎もおんなじだった。どこで俺のことを知ったか知らねえが、こっち側にまで来るカタギなんざ、ただ者じゃないぜ」
解体屋の告白はやや早口になる。
青月は色ひとつ変えることなく情報をあたまに記録する。
「医者だから臓器選びは悪くなかった。だが、買ったあとのことはわからねえよ。途中からあいつじゃなくて代理の女をよこすようになったからよ、あいつと直接取引したのははじめのうちだけだ」
「代理の女? そいつは臓器の知識があったのか」
「そこまでは知らねえよ。ただ、メモ書きしたもんを俺に渡していた。たぶん、色島の野郎が書いたやつだ」
「ふうん。ありがとう、もう話さなくていいよ。解放してあげる」
ぷすり。自白剤が解体屋の首筋からゆっくり投与される。
悶える声を背に、青月はあとのことを組員たちに引き継いだ。倉庫を出て車に乗る。亜条へ電話をかけた。ツーコール目で繋がる。
『収穫はどうだ』
吐き出させた一連の情報をすべて伝えた。
『なるほど。代理の女は松上けい子、色島行永に弱みを握られたやつだ』
「そいつも消す?」
『消しはしないが、消える結果にはなるだろうな』
スマートフォン越しに、ふたりは笑った。
「じゃあ俺は色島を脅せばいいんだね」
『そうだ。俺は松上けい子と話をする』
「嫉妬してもいい? その女に」
『お前が妬むようなやつじゃねえよ』
「そうかなあ」
『そうだとも』
倉庫からまたしても悲鳴がする。
青月は通話を切った。