第一話
めったに振動しない亜条摩鬼人のスマートフォンがその日、震えた。液晶画面には非通知と表示されている。だれだろうか?
心当たりがないため、出ないまま放っておく。外国の新聞を再び読む。なかなか切れない電話にしびれを切らし、出た。
ハロー? 相手は外国人のようだ。英語で話しかけてくる。
「わかった。そこに行けばいいんだな」
亜条も英語で返した。
住み家を離れて、近くの喫茶店へ足を運んだ。
二階建てのアンティーク風な喫茶店は繁盛しているらしく、老若男女さまざまな客が席を埋めていた。亜条は辺りを見回したのち、待ち合わせた人物を発見する。二階へ続く階段を上り、窓際の席に腰を下ろした。
テーブルにはすでにひとり分のコーヒーがある。同じものを頼んだ。
じっと待ち合わせた人物を正視する。懐かしいとも、久しぶりとも異なる、形容できない感覚だった。会えたところで喜びはなく、知っている顔がそこにある、としか思えない。
白人の合衆国民、ニコル・グリップ。後ろになでつけた金髪、彫りの深い精悍な顔立ちとマリンブルーの瞳。肩幅は広く、衰えの知らない筋肉は服で隠れていても、どれだけ鍛えられているかがわかるほど立派なものだった。
「久しぶりというべきか、boy」
流暢な英語。
「もうboyなんて年齢じゃねえよ、ニコルのおっさん」
こちらも流麗な発音の英語で話した。
「いやいや、俺たちからしてみれば、お前はいつだってboyさ。それが名前みたいなものだからな」
「……俺と昔話をしにきただけなら、帰らせてもらうぞ」
「おっと待ってくれよ。お前に手伝ってほしい仕事があるんだ」
「俺に? 俺の現在を知らないわけじゃねえだろ」
「たしか、殺し屋だったな。アメリカにもいるが、まさか平和なジャパンにもいるとは驚きだぜ。現在のboyだから、頼めることなんだ。どうだ?」
亜条がノーというより先に、ニコルがテーブルにUSBメモリを置いた。
「返事はあとでもいいぜ。しばらく俺もジャパンにいるからな」
「駐日大使館職員さまが、裏稼業のやつと話していていいのかね」
「裏稼業の殺し屋なんて俺は知らねえな。今俺が話しているのは、boyだからよ」
ニコルはコーヒーを飲み干して、席を立った。
「あばよ。よい返事を待っているぜ、俺たちのboy」
USBメモリをつまむ。長方形の小さな塊を指でもてあそぶ。
それからぐっと握りしめて、退店した。
帰還早々、書斎兼武器庫へ。パソコンの電源をいれて、メモリを繋ぐ。
なかにはファイルがひとつ。開けば、英文の羅列が現れた。
【この男を殺せ ターゲット「SAMON DAIDOUJI」
タイムリミットは一週間後 殺せなかったときは、お前が消えろ
健闘は祈らない 俺たちのboyならできるからだ
よい報告を待つ 連絡はこちらからする 以上】
文章の最後には大道寺左門の顔写真が載っていた。
亜条は舌打ちをする。
これは一体、どういうことなのか。ニコルはなにをさせたいのか。組の長を殺めればただでは済まない。そもそも、あの男を始末すること自体が難しい。常に周りには唯永や桧森などの組員がいる。負傷させることも簡単とは言えない。それを知っての依頼なのか?
そう、ニコルは知っているはずだ。大道寺左門のことも、組のことも、どこかで情報を手に入れている。駐日大使館に属する人間がなぜ、日本の裏世界に首を突っ込んでいるのだろうか。――否、駐日大使館の人間として、ではない。
「……スパイか」
スパイであれば、日本の裏世界に関わるのも頷ける。
ニコルは亜条に、スパイとしての仕事の手伝いを依頼してきたのだ。
「……いろいろと訊きたいところだが、今はじっとしているしかないな」
ニコルとの接触が大道寺側に知れ渡るのはよろしくない。じっと、事が動くのを待つほうがよい――亜条はそう決めた。
パソコンを閉じて、部屋を出た。
リビングのソファに落ち着くと、劉鬼の唸り声が聞こえた。
「どうした、我が息子よ」
亜条劉鬼は絵を描くことを趣味としている。その絵は独特かつ奇妙な画風ばかりだ。なんでも生きた人間は描かない主義らしく、たいていはグロデスクな絵が多い。なかにはグロデスクでありながら、どこか命の尊さを感じさせる代物もある。
そんな彼が、真っ白なキャンバスを前に首を捻っていた。
「なにを描こうか悩んでいたんすよ。どうもここ最近、はかどらないんだよな」
「たまには違った趣向のものを描けばいいんじゃないのか」
「うーん……。ところで親父、さっきどこに行っていたんすか」
「近くで人と会っていた。依頼を受けただけだ」
「ふうん。親父にだけってことは、ワケありな人ですか」
「まあな」
亜条はタバコを咥えて、点火。紫煙を吐く。
ソファに戻り、脱力した。
ニコルからの依頼については、劉鬼と青月には黙っておくべきだろう。ニコル・グリップを知ることとはつまり、亜条摩鬼人の過去を知ることになる。
どこからはじまっているのかわからない己の過去で、唯一、はじまりとも言うべきあの日を語らなければいけない。それだけは、避けたい。
だから、黙っていよう。これは、個人の話である。
灰皿に灰を落としたとき、青月が帰ってきた。両手には買い物袋があった。
「ただいまー」
「おう。今日はお前が当番だったか」
「そうだよ。まだなにを作るか決めていないけど、摩鬼人はなにがいい?」
「美味なものならなんでもいいぞ」
「いつもそればっかりだね」
青月が買ってきた品々を冷蔵庫にしまう。
日常の風景に、ニコルの顔がちらつく。なぜ、何十年も経った今、彼が現れたのか。もうあの頃には戻れない。今見ているこの風景こそが、日常だ。これが壊れる、そんな気がしてならなかった。
胸のうちがざわつく。すっきりするためには、ニコルともう一度会う必要がある。会えなくとも、これでもかと詰問せねば、胸騒ぎがおさまらない。
彼の胸騒ぎは夜になるとますます騒がしくなった。夕食を終えたのち、自然な足取りを装って書斎兼武器庫へ移る。
ドアを閉めて、窓のない一室にて呼吸を整える。もとより思っていることが顔に出るタイプではないけれど、長く共にいるあのふたりには通じないだろう。
落ち着くためにも、あたまのなかを整理する。そして、先々を予測する。
ニコル・グリップはスパイだ。目的は不明だが、大道寺左門を狙っている。裏世界の均衡を崩しかねない愚行だ。それに協力しろとばかりに今日、亜条摩鬼人に接触してきた。大道寺組専属の殺し屋だと知っていて、話を持ちかけた。
そして、ニコル・グリップの存在がまもなく大道寺左門の耳に届くはずだ。となれば、大道寺左門も亜条たちに、スパイを殺せという指示を出すだろう。
なぜだ? なぜこうなる? この板挟みのような状況はなんだ。
大道寺側は、組の情報を漏洩させないためにスパイを処分する――なにも怪しむところはない。尤もな話だ。あのロマンチストでリアリストな男が余計な考えを起こしていなければ。
わからないのは、ニコルのほうだ。スパイともなれば、どこかの組織から命令を受けているだろう。では、その組織とは? まさか――
「CIA……なのか」
遠い彼方の映像がわずかだけよぎった。瞼をおろし、映像をあたまから退かす。
否、ニコルへ命令を下した組織のことは後だ。
――では、先のことを予測しよう。
いずれどちらかに銃口を向けなくてはいけない。そのとき、己はニコルと大道寺のどちらを選んでいるだろうか。
「どっちを選んでも、正しくはない。大道寺組から、ニコルを送り込んだ連中から追われるはめになる。生きて、この一件を終わらせられねえな」
事が済んでも、自分は生きていない。死んでいる。
ずっと、望んでいたことではないか。死にたがり、生きることを捨てた身。ゆえに、どちらを選択しても望むままのはず。恐れるものがあろうか。
だが、この胸騒ぎはなんだろう。ようやっと巡ってきた死の機会に昂ぶっているとも、恐れ戦いているとも、違う。
そっと胸に手をあてがう。鼓動がはやい。
ゆっくり深呼吸をする。今は冷静でいなくてはいけない。焦らず、慌てず、乱れる自身をコントロールする。平静さを失ったもうひとりの己を抱きしめるイメージを描く。もうひとりが大人しくなるまで離さない。威嚇して毛を逆撫でる猫が心を許して大人しくなるように、乱れる己が平静さを取り戻すまで、そのイメージを続ける。
室内の明かりを点ける。黒革のソファに寝転ぶ。ふう、と一息ついた。
いずれ、大道寺左門から連絡がくる。内容はそう、ニコル・グリップを始末しろというもの。亜条がニコルと接触していることを知っているか否かはともかく、まちがいなくその指示を出す。亜条はそれを待った。
スマートフォンが振動する。噂をすればなんとやら。
「そろそろ来るとは思っていた」
『あれえ、それじゃあニコル・グリップと会ったのかな?』
「さてな。ご想像にお任せするぜ」
『ま、どっちでもいいんだけど。明日、こっちに来てくれるか? 話は、わかるだろ』
「ああ」
『ひとりで頼むよ。これはけっこう、デリケートなものだからね』
「……」
『お前がどう踊ってくれるのか、楽しみだぜ、アンジェロ・マキースン』
「そっちの名前で呼ぶな。そいつは死んだ」
『からかっただけだよ~。それじゃあね』
翌日。大道寺邸、奥の間にて。
上座で脇息にもたれかかり、くつろぐ大道寺が亜条を迎えた。傍にはだれもいない。
後ろ手に襖を閉めて、腰をおろす。ししおどしの音が聞こえた。
「現在のニコル・グリップは、スパイとして各地を転々としているようだ。米駐日大使館職員というのは表の顔、裏では得た情報をCIAに送っている。しかし」
扇がぴん、と天を向く。
「今回は、スパイとして動いているわけじゃない。奴は単独で行動している。狙いは、お前だぞ、亜条摩鬼人」
扇の先は天から亜条のほうへ向けられた。
「なぜだ。俺に用があるなら、お前に悟られるような真似はしないはずだ」
「そこなんだよねえ。どうして俺の耳に届くことになったのかなあって、俺もずっと考えていた。それでやっと、わかった」
大道寺の目つきが鋭いものになった。
「お前が生きていると知ったからだと思うぞ、アンジェロ・マキースン」
男の顔色は変わらなかった。けれど、さまざまな色が目に宿った。
大道寺は続けた。
「ニコルは驚いただろうな。仇である俺のところで殺し屋をしている。ペットみたく飼い殺されている様を見て、我が目を疑ったかもしれねえ。かつての仲間が、死んだと思われた男が生きて、仇の下で殺し屋をしていると知っちゃ、放っておけないだろうさ」
男は視線を外へやる。
「アンジェロ・マキースンは死んだ。死者は蘇らない」
「その通り、死んだ者は決して生き返らない。だから、俺はお前を絶対に生き返らせることはしないぞ、アンジェロくん」
にへら、と奇妙で独特な笑みを浮かべる大道寺。
男は、亜条は、やれやれと呆れ顔になる。
「それで、お前は俺になにを言い渡すつもりなんだ」
「もちろん、ニコル・グリップを殺してもらおうか」
「あいつは表とはいえ、米駐日大使館の人間だ。大使館の人間を消せば、この組もただで済むわけがない」
「言っただろう、あいつは単独で行動しているんだ。大使館もCIAも関係ないさ」
「そうだといいがな」
立ち上がり、亜条は退室する。
帰路につく。住み家に到着するまでのあいだ、思考を巡らした。
己は一体、どちらを選ぶべきなのか。ニコルは大道寺を、大道寺はニコルを始末するよう要求してきた。予測した通り、必ずどちらかに銃口を向けなくてはいけなくなった。ただの仕事で済むものではない。亜条摩鬼人という死人の生命に関わってくる。
いわば、分水嶺。二手に分かれた道を前にして、佇んでいるのだ。
引き返すことも、このまま佇むことも許されない。必ず選択して、そちらの道へ歩を進める。ゆく先がどんなところでも、そうすることが、今の亜条がすべきことである。
「俺は、どうすればいいんだ」
ふいに、大道寺の言葉が脳裏をよぎる。
「仇……あいつの、仇」
……雨音がする。耳の奥から、聞こえてくる。銃声と雨と、声。――だれかの、笑み。
…………これはいつの記憶だろう。微笑みかけてきたのは、だれだろう。
………………なにか、大切な人を忘れている気がする。けれど、思い出せない。
……………………堅く封じられていて、はじまりがわからなくて、はっきりしない。
…………………………なぜって、これは、亜条摩鬼人の記憶ではないからだ。
「〝俺〟は死んだ。そう、もう生きていないんだ」




