第八話
レイカはしくしく泣いていた。恐怖の落涙ではない。自身の売り値を下げるためだ。物心ついた頃、はじめに憶えたことである。繰り返しオークションにかけられても、泣いていれば買い手に渡らないと知った。売られなくても、飛鳥には怒られない。レイカは彼の一番のお気に入りだから、売られないように演じている。
今日も演じた。しくしく泣いた。檻の端っこで蹲って、ぶるぶる震えた。たいていの買い手は近寄らないが、今日の人は違った。檻の前で屈んだ。じろじろ眺めてくる。摩鬼人という大人にレイカのいる檻の錠前を壊させた。驚きのあまり、顔をあげた。
摩鬼人がこちらに手を差し伸べた。レイカは、その手を握った。
「待っていろ、レイ! 必ず、迎えにいくからな!」
ミハルの声がした。たったひとりの友達がまだ、檻のなかに居る。
「ね、ねえ。ミハルも、出してあげて」
「買われたのはお前だ。黙ってついてこい」
「……はい」
そう、買われたのはレイカである。売れ残ったのは、ミハル。持ち主は死んだ。
――きっと、ミハルはあのまま……。迎えにくる、のかな。
貴賓室からどんどん離れていく。大道寺左門と摩鬼人に連れられて、人生ではじめて外の空気を味わった。爽やかで澄みきった青い空を見、レイカのなかの世界が変わる。目に映る色、景色、建物、道、音、におい、植物、動物――すべてがすべて、はじめてなものばかりだった。貴賓室がレイカのすべてだったけれど、それが覆った。
そして、外に出てすぐ訪れたのは、スナックバー『しらぎく』という店。
「ママ、いる?」
「大道寺さん、なにか御用?」
また、はじめて出会う人。このお兄さん(お姉さん?)に売られるのだろうか。レイカが俯いていると、ママと呼ばれた人が顔を覗き込んできた。びくりと跳ね、摩鬼人の後ろに隠れた。
「驚かせちゃった? アタシが今日からあなたのお世話係よ。ママって呼んで」
お世話とは、つまり。
「俺を買ったんですか。いくらですか」
「そうね、アタシだったらあんたに値段はつけないわ。つけられないほど、あなた、とても可愛らしくってきれいだもの」
かわいい。きれい。飛鳥さんも言っていた。ほかの買い手も、ミハルも……。
「ほいじゃ、俺たちは帰るわ。また様子見にくるから、よろしく」
大道寺左門と摩鬼人は店を出ていった。またくるらしい。
ママとふたりきりになった。ふかふかのソファに座って、いろいろ話した。
「あなたのこと、聞かせて。お名前は?」
「……レイカ。飛鳥さんがそう呼んでいました。商品名です」
「本名はなんて言うのかしら」
「知りません。もう、憶えていません」
「そうなの。じゃあ、あなたは今日からレイって名前にしましょう」
レイ。また、男とも女とも見分けがつきにくい品名が与えられる。
「わかりました。私はレイです」
「うん、うん。あなたにぴったり。漢字はそうね――」
ママは紙に書いた。難しい一字だ。
「黎明の黎。これにしましょうか。男らしいし」
レイ。漢字では黎明の黎を使う。
そんなことより、
「私は、男じゃありません。女です。違います。女、なんです」
か細い声でそう言った。
「急にどうしたの? あなたは、男よ」
「ち、違います。女、なんです。男じゃ、ありません。ごめ、ごめんなさい。ごめん、なさい。女、です。ぼく、わた、私は……」
小刻みに身体が震える。あたまのなかで響き渡る胴間声に恐怖する。耳を塞いで、目を瞑った。だが、胴間声は消えない。
そのすがたを目にしたママは優しく彼の背中をさする。そして、とあるものを発見した。
「ちょっと、脱いでもらうわよ」
「えっ」
一瞬で脱がされた上着。そして、露わになった上半身。
「もしかして、自白剤かしら?」
黎は答えなかった。
「答えなくてもいいわ。……そう。辛かったでしょう、痛かったでしょうに」
日に焼けたことのない白い肌には、目を背けたいほど、痣や傷跡が刻まれている。なかでも両腕は酷いものだった。注射器で繰り返し刺された跡がいくつもある。傷が治ったとしても、残るくらいに。
黎は俯いた。改めて、己の身体を見た。今までされてきたことが脳裏をよぎり、涙を流した。堪えていたもの、我慢していたもの、心の奥底にしまっていた感情――それらがはじめて解き放たれた。演技ではない泣くという表現をする黎。声をあげ、ひたすら泣いた。
ママは脱がせた上着を着せ、彼を抱きしめた。あたまを優しく撫でる。
「いいのよ、もっと、たくさん泣いていいの。あなたのために、泣きなさい」
手のぬくもりも、はじめて感じるあたたかさだった。痛くもない、強くもない、叩いたり引っ張ったりしない手。
ああ、こんな世界があるなんて思わなかった。
なんて、いいところなんだろう。貴賓室とはまったく違う。
そう、ずっと求めていたところだ。
ここが、この世界こそが、行きたかったところだ。生きたい場所なんだ。
「ママ」
「なに、黎」
「わた、……俺、を、人間にしてください。お願いします」
ママは頷く。
「わかったわ。あなたを立派な人間にしてあげる。その方法も教えてあげるわ」
「ありがとうございます」
貴賓室とは名ばかりの牢獄から出た青年は、はじめて、その目に生気を宿す。
そうして、二年と半年が過ぎた。
×
一口に人間とは申せ、その形は十人十色、千差万別。容姿、性格、口調、声音、立ち居振る舞いから異なれば、それぞれの歩んでいる人生もまた違う。趣味、思考、生きがい、夢なども同じである。黎は、そのことについて一番に悩んだ。
バー『しらぎく』に来店する客人たちをじっくり観察してきた。
みな、生きている。人間という形で存在している。貴賓室で、命じられた通り動いていた自分はなんだったのか。操り人形か。息を吸いも吐きもしない人形だったのだ。人の形をした商品にすぎなかった……。
活き活きとしている客人を目にするたび、黎は実感する。まだ、自分は生きてすらいないのかもしれない。ならばどうやって、ママや客人たちのように、生きる人間に、活きる存在になれるのか?
ママに相談してみた。
「難しいことは考えなくていいのよ。あなたはこうして、生きているんですもの」
その返答は、黎の悩みを解決しなかった。
本当にそうだろうか。生きているというけれど、ただ息を吸って吐いているだけ。ママの指示通り動いているだけだ。それで本当に、生きていると言えるのだろうか。以前とあまり変わっていない。商品だった頃と、なんの変化もない。
なんだろう、この感じは。空虚? 中身がない? がらんどう?
黎は悩む。そして二年が経った。
その日、魔鬼人が店にやってきた。
「いらっしゃい、ませ」
「……獅子蛇はどこだ?」
「奥です。呼んできます」
一度会ってはいるものの、ちゃんと顔を合わせるのは今日がはじめてである。摩鬼人という男の存在感に触れて、黎の身体はこわばった。蛇に睨まれた蛙のように。
ママと摩鬼人はカウンター席をはさんで話し込んだ。みかじめ料がどうとか、アガリはなんとか、など、黎にはさっぱりわからない会話が続く。
カウンター席の一番隅っこから、摩鬼人の横顔を見つめた。
赤黒い髪と鋭い目つきが印象的だ。表情は無。口数は少ないようだ。とても静かな雰囲気を纏っており、気を抜けば存在を忘れてしまう。この静けさをたとえるならば、獲物を狙う獣。身を低くしてひそみ、じっと機会を待つときの、あの静けさ。
ふと、摩鬼人がコーヒーを飲もうとして黎と目が合った。黎はとっさに目を逸らす。
「使えるようには、なったのか」
低い声にどきりと心臓が跳ねあがった。
「ちょっと、その言い方はないでしょう? もう、大道寺といいあんたといい、人をなんだと思っているのよ」
「殺しの世界だ。使えなきゃ意味ねえよ」
「はあ。一理あるけど、言葉選びなさいな。この子、ちょっと悩んでいるみたいだし」
「悩みだ?」
視線が黎へ集まる。
「あの、いえ、別に、なにも」
ぐるぐるあたまが混乱する。唐突なせいで口ごもる。
すると、摩鬼人の声が真横から聞こえてきた。
「落ち着け。それで、なにに悩んでいるんだ」
びくりと跳びあがった。危うく椅子から落ちそうになり、座り直す。
いつからそこに居たのか。さっきまで少し離れたママの立つ位置に座っていたはず。けれどほんの瞬く間に、黎の横に来ていた。まったく動いた気配を、感じなかった。
「はあ……説明せにゃならんのか」
「だれだって驚くわよ、あなたのそれ。忍者みたいだし」
「ニンジャなわけねえよ」
「黎、驚いたでしょう? この人ね、気配を消せるのよ。すごいでしょ」
「はい。……どうして、そんなことが」
「俺にもわからん。気づいたときには、できていた。そこを大道寺に買われたんだよ」
摩鬼人はそう言いながら、黎の隣に腰をおろした。ママもやってくる。
「お前、薬が効かない体質らしいな」
「……そうらしいです」
「いつからなんだ」
「あなたと同じです。気づいたとき、飛鳥さんが困っていました。クスリが効かないなら自白剤を打っても意味がないって、怒られました」
「ふうん」
黎はぽかんとした。
「どうした?」
「いえ、もっと、根掘り葉掘り訊いてくると思ったので」
「余計な詮索はしない。それに、他人の過去なんざ知っても一文の価値もないだろ」
摩鬼人はママの淹れ直したコーヒーを飲んだ。
「話を戻すぞ。お前の悩みは?」
黎はまた口ごもった。
「言うのが難しいことなのか」
「そういうわけじゃありません。ただ、どう言えばいいか」
「……なら適当に言えばいいじゃねえか。きれいに言葉で言う必要はない」
「はい。――ここで働かせてもらって、二年が経って思ったんです。俺は、どういう人間なんだろう。どう生きていけばいいんだろうって。ここに来る人もママも、みんな活き活きしていて、なにかしらやりたいこととか、夢とかがある人たちばかりです。それと、みんなよく笑って、よくしゃべって、いっぱい飲んで、酔っぱらったりそうでなかったり、寝てしまう人もいました。とにかく、いろんな人の形を見てきました」
黎はぎゅっと拳を握る。
「俺は、今まで言われるがまま、演じていただけだった。それを痛感しました。だからかもしれません。自分がわからないんです。ママからいろいろ教わりましたけど、なんていうか、それは俺じゃない気がしたんです。飛鳥さんのときと変わらない、ただ言われた通り顔を作っているだけ。本当の自分がない気がするんです。中身がないというか、からっぽというか……そんな感じ」
摩鬼人は煙草を咥えた。黎は反射的にライターを点け、それに火を灯す。
「やればできるじゃねえか」
「ママに教えてもらいました」
「ほかにも教えてもらったことがあるだろう」
「はい。お金の計算とか接客とか、お酒のこと、ワインのこと、ここに来るお客さんのこと、それから極道のことも、ちょっぴり」
「やりがいを感じたりはしないのか」
「……それは、よく、わかりません」
「ふむ。欲がないんだな」
「欲、ですか」
灰皿に煙草の吸いカスが落とされる。
「自分がわからないと言ったな、お前」
「はい」
「なぜか、わかるか」
黎はかぶりを振る。
「なぜなんですか」
「お前にはまだ、欲がないからだ。人間ってのは、悪く言えば欲望の塊だ。まずは好きか嫌いかではじまり、好きのなかで己を満たすものを趣味とする。その趣味で満たされ続けることで、ひとつの望みを得る。しかし、だ」
紫煙が吐かれる。
「満たされるっていうのは、ほんの一瞬だ。わずかな間でしか、満たされた感覚を味わうことができないのが、人間だ。そしてそれを追い求めることが、欲望、願望、野望だ。望みを叶えんとするあまり、逸脱した行動に出る奴もいるだろうし、輝かしい功績を得る奴もいるだろう」
「……それが、人間なんですか。たったわずかしか感じられない満たされた感覚を追い求めるなんて、ただ者じゃない。狂っています」
「そうさ。人間は狂気で動いている。そしてそのなかで、認められる欲求を得ようともがくんだ。狂気は認められることではじめて、満足になる」
黎は摩鬼人の言葉に聞き入る。いつしか身を乗り出していた。
「つまり、俺には欲がなくて、だから、自分がわからないというんですか」
「俺はそう思うぞ。そもそも、自分をわかっている人間なんざひとりもいねえよ」
「どうしてですか」
「言っただろう。人間は狂気で動いている。狂っている最中に、己を振り返る奴がいると思うか?」
「……なるほど」
「要はこういうことね」
ママがにこりと微笑んだ。
「黎、あなたの悩みはすぐには解決できない。けれど、まずは好きを見つけてみなさい。そうすればきっと、自分がわかるはずだから」
暗雲立ち込めていた道に、光と道しるべが現れた。ような気がした黎であった。
「はい! ありがとうございます、摩鬼人さん、ママ」
「礼はいらん」
「うっふふ。がんばってね」
それから半年経った。
黎は、摩鬼人から名字を授かった。
――お前の髪、黒いが光に当たると青く見えるな。
――ママにも言われたよ。
――青月。青月黎でどうだ。
――青い月でアオツキ?
――そうだ。俺の仲間になるんだ、ちゃんとした名前がないとな。
――ありがとう、摩鬼人。
青月黎。それが、人間となった青年の名である。
レイカはもう、いない。
×
長い夢から目を覚ました。貴賓室だった一室を見渡したけれど、御堂ハルキのすがたはなかった。痺れと痛みが残る身体をどうにか起こし、壁にもたれかかった。足枷は外されている。手のみ拘束されたままだ。
「あんまり、よくない夢だったなあ。せめて、ここじゃなくて摩鬼人の横で見たかった」
乾いた笑い声を漏らす。
立とうとして、壁に身体を押しつけながら足を動かす。
息を切らしつつ、出入り口に向かって歩く。痺れのせいで足の感覚がなく、うまく進まない。
「くっそ。あいつ、どこ行きやがった」
手の拘束具は外れそうにもない。外せそうな物も見当たらない。青月はその場に崩れ落ちる。出られそうなところを探すものの、それも発見できなかった。
ややあって、一室の扉が開く。御堂ハルキがすがたを見せた。
「よう、お目覚めのようだね」
「まだ俺をここに閉じ込めておくつもり? 悪いけど、きみの思い通りにはならないよ」
「はっ。本当、あの頃の面影がまったくねえな」
「……」
「まあいい。もう過去の話はこれで終わり。あんたに、やってもらうことがある」
「俺に?」
御堂が薄気味悪い笑みを浮かべた。
「あんたのお仲間がすぐそこまで来ている。そいつらを、殺してもらうか」




