第一話
着込んでいた衣服を脱ぎ捨てる。色白肌の美しく鍛えられた身体を、仲間に送ってもらった新品のスーツで包んだ。サイズはぴったり、着心地も文句なしである。ネクタイを緩く結び、上着は羽織らなかった。汚れひとつない靴を履く。腕時計をはめて、現在の時刻を確かめる。午前十時半だ。
少し伸びた赤黒い髪を後ろへ撫でつけ、上着を片手に出る。持ち帰る荷物は無い。ここで得た物はすべて置いていく。物に限った話ではない。十年と数ヶ月の間で眺めてきた受刑者たちと刑務官の顔、築いた人間関係を残さず切り捨てる。未練などなし。
五月下旬。晴天である。ゆっくり深呼吸をして、外の空気を味わう。仲間との待ち合わせ場所まで歩を進めた。
某駅の出入り口傍の柱で立ち止まった。宣伝広告だ。しばらくの間、美術館で特別展が開催される。女性の絵画だけを展示するという。広告には、モナリザを中心に、さまざまな画家の絵が載っていた。
広告を背に、柱へもたれる。雑踏から待ち人を探す。発見した。バンダナキャップにストリートファッションで身軽そうな身体を飾る青年、亜条劉鬼だ。手をあげてここだ、と告げる。気だるげに近づいてくる。
「久しぶりだな、我が息子よ」
「……親父、青月さんがお待ちかねっすよ」
「てっきりあいつが迎えに来ると思ったんだが」
「俺への嫌がらせなんですよ。ほら、行きましょう」
駅を離れた。大型ショッピングモールの搬入口付近に停車している黒い車に乗り込む。運転席には青月が居た。男とは思えない女性的な顔と身体つきに、艶のある長い黒髪を結んでいる。
「待っていたよ、摩鬼人。再会の余韻は、仕事をしながらでいいかな」
情報がまとめられた資料が写真とともに手渡される。車が発進した。
頁を捲り、内容を記憶する。標的の顔をしっかり憶えて、どう動くか思考を巡らせた。仕事はシンプル。奪われた金をとり返す。相手がカタギではないため、内容とは裏腹に時間がかかりそうだった。勘が鈍っていないか、確かめるにはちょうどいいかもしれない。
「そいつ、盗んだあと協力していた仲間も殺している。つまり、大道寺組の組員をやっちまったわけだ。おかげで組長の逆鱗に触れて、俺たちが動くことになった。出てきて早々ごめんね。どうしてもってお願いされたんだ」
「かまわねえぜ。暇つぶしにはなりそうだ」
その横顔に、青月はほころぶ。
「きみのその表情、たまらないよ」
眠っていた獣が目を覚ますが如く、男の纏う空気ががらりと変化した。無表情だが、瞳に射殺さんばかりの眼光が宿る。
殺し屋、亜条摩鬼人。劉鬼が親父と呼び、青月が好いている男。
彼が出所したことは、裏側の住人たちに風よりはやく知れ渡った。
×
紺野幸臣の心が痺れるものは、マフィアだ。物心ついたときからマフィアが出てくるドラマや映画をかたっぱしから観ていた。それだけでは飽き足らず、撮影場所となった海外まで足を運んだりした。なかでもイタリアへは何度も行っている。起源たるシチリア島があるからだ。島を目にするたび、憧れる。
あの世界へ行きたい。組織に入りたい。ボスになれなくても、幹部になれなくても、一員として生きる。その道を選ぶ。選ぼう。
だが、彼の夢はひょんなことから叶わなくなった。高校を卒業後、海外留学がしたい望みを両親に話そうとした日だ。クラスメイトたちとわいわい騒いだあと、帰路についた。夕方を過ぎて夜になっている時間だった。門限はないが、遅くなれば進路を話せなくなる。先延ばしにはしたくない。今日でなければいけなかった。反対されても海外留学をする。その意思を伝えなくては――でも、どう言えばいいのか。
家の扉をどきどきしながら開ける。いつもよりか細い声でただいま。
エナメルバッグが肩からずり落ちる。母親ではない人がおかえりと返した。
あんたがこいつの息子? いやあ、ごめんね。お家を汚すつもりはなかったんだけど、こうするしかなかった。きみ、これからどうするんだ。警察に電話してもいいし、逃げてもいいよ。おじさん、なにもしないからね。
ただ者ではない。映像で目にしたマフィアとは比べ物にならない。否、これが本物。紺野幸臣の心を痺れさせる、憧れの存在!
おやおや、笑っているね。あたまのネジ吹っ飛んだ?
唾を飲む。あたまを下げて、懇願する。仲間にしてくれ、あんたに一生ついていく。
うん、いいよ。おいで。おじさん、来る者は拒まないから。でも、下働きからだけどいいかな。……選び直さないという目をして、顔をあげろ。
全身が戦慄する。昂ぶり、喜び、期待。選び直す気なんてさらさらなかった。ゆっくり視線をあげる。影になって顔色や容姿はさっぱりだ。ただ、人を支配し、ひれ伏させる威厳だけがはっきりわかる。
迷いを捨てたか、あるいはおじさんみたいな悪い人に憧れていたのかな。ま、どっちにしろ、働いてもらうよ。ようこそ、きみを歓迎してあげる。
紺野幸臣の夢が、歪な方法で叶った瞬間だった。
それから彼の夢だった日常が過ぎていく。
そして、ある男を紹介される。幸臣が組員となって数年、二十歳。彼の両親を殺めたおじさんこと組の長がそいつを連れてきた。年上だ。礼儀正しく座るそのすがたは、およそ組の者とは思えなかった。ここに居るなら同志だろう。それにしては、静かだ。ほかは見た目だけでも荒々しく血気盛んだけれど、そいつはあまりにも静かだ。存在感がないのではなく、気配が薄いわけでもない。ただ、しんとしている。
幸臣くん、今日はこいつと働いてもらうね。なに、犬みたいに従順だから適当に命令してあげて。
はい。ところで、名前をまだ聞いてないんですけど。
組長がそいつの名前を口にする。マキト。
仕事中、しんとしていたそいつが動いた。幸臣は呆然と立ち尽くすしかなかった。戦闘に加われば自分もやられる。そいつは、あれは、敵味方を区別しない。〝やれ〟という命令に従うだけだ。なんて出来た犬だろう。飼い主にまで噛みつく狂犬だ。否、犬なものか。あれは間違いなく化け物だ。鬼だ。摩擦で角を無くした鬼が人の皮を被っている。ゆえに摩鬼人!
あれがもしも、自分を襲ってきたら勝てるのだろうか――。
銃声がしてはっと我に返った。周囲を見渡せば、肉塊がごろごろ転がっている。最後のひとりが命乞いをしていた。鬼は無言のまま、撃った。ゆっくり銃口を下ろし、初めて会ったときのように静かになった。息が乱れておらず、あれだけ動いたのが嘘のようだった。
こちらが突っ立ったままで居ると、鬼がこちらへ歩み寄ってくる。咄嗟に、命令を下す。〝来るな。そこで止まれ〟。歩みが停止する。
十数歩の距離で対峙する。幸臣の呼吸が浅くなっていく。摩鬼人を覆う空気が、どす黒い鬼に見えた。そいつが眼前に迫っている錯覚を憶え、彼はまたひとつ、命令する。
〝二度と俺を殺そうとするな! 絶対に俺を殺すなよ、化け物が!〟
紺野幸臣は組長に憧れている。だから組長の言葉に従う。
組の一員だから、長の言葉を信じていた。
――そして、彼はかつて憧れた存在を裏切った。子供の成長がそうさせたのだ。
身分を隠して恋人と愛を育み、幼い命を誕生させる。それをきっかけに、幸臣が妻に語る。自分は組の人間だ。それでも、一緒に居てくれるか。返答ははやかった。もちろん、一緒に居る。幸臣は嬉しく思った。だが、妻はさらに言った。
一緒に居るけれど、この子が大きくなったら、遠いどこかに置いていく。施設に預けるとかじゃなくて、養子に出すの。私たちから産まれたことを、忘れてもらう。大丈夫、産んだ事実はちゃんと残る。ただ、裏のない人に育ててもらうのよ。
しかし幸臣の妻は、有言実行することなくこの世を去った。抗争に巻き込まれたのだ。子供は小学生になっていた。
復讐より喪失感に蝕まれる。そんなとき、組長が彼を呼ぶ。
先に釘を刺しておこうと思ったんだ。いいか、復讐なんて考えるなよ。
それは考えていません。ただ、これからどうすればいいかわかりません。
そうさな。あんたには子供がいる。あんたの心は傷ついている。今、こう悩んでいるんじゃないのか。このまま組に残りたい、だけどそれでは抗争に参加しなければならない。また大切な存在を失うのが恐ろしい――だろう?
……。あなたに憧れてこの世界にきた。組を抜けたいとは思っていません。でも、あなたの言う通り、子供を失う恐ろしさに勝てません。
抜けたくない、だけど子供を失いたくない。組には妻子持ちが何人も居るからな、その気持ちはよくわかるよ。二兎追う者は一兎も得ずなんだが、あんたはふたつとも得たいわけだな。じゃあ、こうしよう。
組長が大きなバッグを幸臣の眼前に置く。中身は空っぽだ。
あんた、子供をどうしたい?
遠くへ、送りたいんです。組のことを知らずに育ってほしいんです。
そして、お前は組に残ると。うん、うん、正しい判断だ。だから俺は助けよう。今から組の資金を一部だけ与えてやる。だが、組の資金だからタダでは渡さんよ。俺ちゃんのかわいい犬を使うからね。
はい? 組長、言っている意味がわかりませんよ!
だーからー、あんたは今から教えるところへ行って、俺からの資金を奪う。見事成功した暁には、子供の移動費に使えばいい。そしてお前は組に戻ってくるのさ。逆に失敗したときは、裏切り者扱いするからそこんとこよろしく。
にひひ、と組長が無邪気に笑った。面白がっているのだ。反して幸臣は青ざめていた。少しでも不安を消すためおそるおそる、長に問うた。
組長が使う犬とは、だれのことですか。
うん? あんたもよく知るやつだよ。ほら、十年前なぜかム所に行っちゃったやつ。今日出てくるんだって。十年だし、たぶん姿かたちは変わっているかな、いや、そうでもないかな。まあ、話はわかるやつだから、話せば見逃してくれるよ、子供はね。
亜条、摩鬼人……。あいつ、生きているんですか。てっきり――
あいつが処されるようなヘマをするわけないだろ。噂は簡単に信じるもんじゃないよ。
幸臣は空っぽのバッグを正視する。あそこに資金をめいっぱい詰めて、少しでもいいから子供に渡す。そして自分はここへ戻ってくる。シンプルだが、ゆえに危険だ。ただの犬から逃げるわけではない。あの化け物から逃げなくてはいけなかった。
恐れおののくなか、ふと脳裏によぎるものがあった。はじめて化け物と対峙したときである。絶対に殺すな、と命令した。あれはまだ有効だろうか――
紺野幸臣は深々とあたまを下げる。
組長、すみません。一生仕えるつもりでしたが。
あんたはとてもよく働いてくれたからね。なくすのが惜しいよ。
裏切ります、あなたを。ここには、戻ってきません。
うん、いいよ。できるわけがないんだからね。
「おとうさん?」
まだ声変わりしていない幼い声にはっとする。
「ああ、ごめんよ。いいか、この紙に書かれたところへ行くんだ」
組長が教えたところへ行って入手した百万円。札束をバッグに詰め込むさい、同志に見つかってしまった。これで組へは戻れなくなった。長の命令だと言えば丸く収まったかもしれない。それでは、長が同志たちを裏切ったと思われる。そして、そう言った自分が狙われる。だから同志たちを、殺した。口封じだ。
二兎追う者は一兎も得ず。そも、組長の話にはおかしな点が多い。組の資金を与える。奪えたら組に残っていい。できなかったら裏切り者扱い。――否、資金に手を出したときから裏切り者だ。いずれみなに知れ渡る。組に残っても、ばれてしまったら追放される。それがわからない長ではない。追放までが、長の描くシナリオだろう。
紺野幸臣は己の行動に呆れる。長の考えが見え見えだというのに、従った。今更やめられない。やめてしまっては、子供を救えない。せめて、悪人になっても、父親らしいことをさせてほしい。贅沢だろうか。いいのだ、これで。
「こんなにも財布に入らないよ」
「財布には、千円札を五枚でいいんだ。あとはリュックに」
小さなリュックサックに札束を入れていく。重要なのはこれではない。子供の生命と新しい日々である。
ああ、そうだ。大切なのは子供だ。守らなければ。
「どうしたの」
「さ、背中を向けて、そう。……必ず、この住所のところへ行くんだよ。わからなかったら駅員さんや、お巡りさんにその紙を見せて、どう行けばいいんですかって訊くんだよ」
「どういけばいいんですか」
「えらい、えらい。……あばよ」
子供を見送る。小さな背がどんどん遠くなっていった。
そして、ふたりで過ごした秘密基地を去っていく。
紺野幸臣は拳銃を握りしめる。
読了、感謝。