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そこから暫くの記憶はない。
気づけば、私は神殿に戻ってきていつもの寝具に寝かされていた。毎日欠かすことの無かった祈りを行わなくなってから何日経ったのかもわからない。食べることも起き上がることすらも無く、泣いて、疲れたら眠って、目が覚めたらまた泣くを繰り返した。手にはずっと彼の濃紺の上着を握っていた。それを取り去ることは誰もしなかった。
身の回りの世話をするため、いつもの女性が甲斐甲斐しく世話してくれた。
護衛は継続されており、交代の度にわざわざ声を掛けてくれた。
神官たちは無理に祈りのためにと私を連れ出すことはなかった。
気遣われている理由はわからないが、意味もなくそのどれもが煩わしく感じた。
私はすべてを無視して過ごした。
そんな生活をしているある日、一人の訪問者がやって来た。
私はいつも通り寝具にくるまったままでいた。しかし相手はそれで構わないようで、気にせず話し始めた。
「聖女様。王よりの命を伝えに参りました」
王、と聞いて嫌な予感しかしない。私は思わず彼の上着を強く握った。
「此度の敗戦により我が国は彼国の属国となります。差し当たって、服従の意を込め我が国から贈り物をすることとなりました。贈り物とは貴女様です、聖女様。王よりの命です。聖女様、すぐに彼国へ立っていただきます」
体のいい厄介払いだと感じた。大方、祈ることしかできないくせに勝利をもたらすことができなかった私を持て余していたのだろう。信心深い我が国から聖女を差し出すということで従属としての誠意を示せれば一石二鳥というところか。
私は了承も拒否を示さず、そのままの態勢で聞いていた。訪問者も決定事項であるが故に私の答えなど求めていなかったのだろう。王の命を伝えるとすぐに退室していった。
会ったこともない王に感じるのはもはや嫌悪のみだ。
しかしここでこのまま生きていくよりはいくらかマシかもしれない。とにかくここから離れたかった。ここでの生活しか知らないくせに、これ以上酷いところなど無いように思えた。
ここは私にとって辛い思い出しかない、そんな場所だから。
王からの命を受け、すぐに準備が始まった。いつこの地を離れるのか明確には言われていないが、荷物などない私だ。時間などかからない。すでに準備が始まっているところから、それほど遠くない話なのだとわかった。私は直接することはない。周囲が滞りなく行ってくれるのだから。
そして僅か数日後、私は無理やり起き上がらされ、服を着替えさせられた。いつもの白いワンピースとベールだが、さすがに新調したと見えて真新しい。
荷物は数箱あった。何が入っているかは知らない。私はいつも握っている彼の服を手に取った。これだけが私の持ち物。唯一私のもの。それを抱きしめながら私は神殿を出た。私の持っているものを周囲の誰もが目にしたはずだが、やはり誰もそれを取り上げることはなかった。
私はいつもの森ではなく、目の前に止まっている馬車へと向かった。
初めて馬車に乗った。
まさかこんな形で馬に乗ろうとは思っていなかった。夢見ていたのは、隣に彼がいて一緒に揺れながら窓から初めて目にする景色について彼に尋ねる、そんな幸せなものだったはずなのに。
ガタガタと揺られながら、数日をかけて移動する。
思いのほか長旅だった。話す相手もおらず、ただ揺られるだけ。しかし話し相手がいないことなど慣れていた。置物にでもなったつもりで黙って座っていた。
あと半日程で目的地だと言う段になって、休憩時間が設けられた。馬車の移動にこまめな休憩が取られるのはここまでの道のりでわかっていたので不思議に思うことはない。それに私は動いていようと止まっていようと馬車の中にいるだけなのだから関係ない。そう思って、いつも通り馬車が動き出すのを待っていた。すると馬車の扉をノックする音がした。
―――あの合図だ。
私は反射的にその音の方を向いた。なぜか彼がそこにいるのではないかと期待してしまって手が震えてしまう。しかしそんなはずはない、彼はもういないのだと思い直す。すると外側から窓が少しだけ開いた。そしてそこから小さな何かがぽとりと投げ込まれた。
私はそれに手を伸ばした。
拾い上げると、それは何かを包むようにして小さく折り畳まれたまれていた紙だった。開いていくと、中にあったのはまた折り畳まれた紙だった。
最初に開いた方の紙を見た。そこには「聖女様」と私宛の文章が書かれていた。
私はまずこの文章を読んだ。
『聖女様。直接話しかけることが叶わないためこのような形をとったこと、再びあの合図を使わせていただいたことをまずはお詫び申し上げます。もうすぐ私は貴女の護衛の任を解かれます。その前になんとしてもこれを渡さなければならないと思った次第です。貴女はさぞ私や我が王、我が国の全てが憎いことでしょう。貴女の悲しみや苦しみを見るに、許していただけるとは決して思っていません。ただ、これだけはお渡ししたかったのです。我が友人の思いを知っていただきたかったのです。最後に、貴女のこれからに幸多からんことを...』
読み終えて、この手紙の差出人が誰であるかがわかった。そして、この包まれているもう1つの紙に彼の思いとやらが記されているということもまた理解できた。
私は小さな紙をぎゅっと握り込んだ。そして手元に置いてある濃紺の服を見る。
彼とはあのやりとりが最後だった。
あの時、神殿に戻ったところを捕まったのか、それともただ私を騙して離れただけだったのか。この紙を開けばあの時の真実について知ることができるのかもしれない。今は前者だと信じることで彼に騙されたのではないと思うことができ、救われているところも少なからずある。でも見てしまえば、お前のせいで面倒なことになったと書かれている可能性だってあるのだ。
彼の思いというのがどういうものなのか知りたくないと言えば嘘なのだが、その勇気がない。怖いのだ。
それに今更彼の思いを知って何になるというのだ。私は隣国へ行く。あのまま神殿にいても地獄だと思っていたが、よくよく考えれば敗戦国からの贈り物など大切に扱われるはずもない。死んだ方がマシだという状況も考え得る。地獄から出て、辿り着くのは結局地獄かもしれない。そんな中で今彼の思いを知ったところでどうだというのだ。
もう、彼はいないのだ。
結局馬車が動き出してからも、私はその紙を握ったまま手を開くことはなかった。
暫く馬車を走らせると、私は無事目的地である隣国の王宮に辿り着いた。
到着してすぐにどう扱われるのだろうかと不安になっていたのだが、宰相と名乗る男に出迎えられすぐに広い客室に通されることとなった。その部屋には私の世話をしてくれるためにとすでに数人の侍女と騎士が待ち構えていた。こちらから一緒にやって来たのはいつもの世話をしてくれる女性と護衛が2人、御者が2人。その人数よりもよほど人数は多く驚いた。そしてそこで宰相より、王との謁見は数日後であること、暫くは長旅の疲れを癒すようにとの王からの伝言を受け取った。
私だけでなく同行者全員が疲れを癒すようにと迎え入れられている様子を見てさらに驚いてしまう。ただ、御者は馬の世話を、護衛も女性も王都の謁見が終わってそれぞれの任を解かれるまでは私から離れないとのことで、それは即座に断っていたのだが。
戦後すぐである多忙な王とすぐに会うことになると思っていたわけではないが、それにしてもこのような対応を受けるとは想像もしていなかった。どう考えても思いもよらない好待遇であるのは間違いない。
宰相が出て行ったあと、私はその広い部屋のどこにいていいのかもわからず立ち尽くした。すると、世話係として立っていた侍女のひとりが自然に案内してくれ気づいたらソファに腰掛けていた。そうすると今度は別の侍女が即座に目の前に温かい紅茶が用意してくれる。しかも茶菓子付きだ。その流れるような動作にただただ驚いてしまう。良い香りのする紅茶、初めて見る小さく可愛らしい茶菓子。これが私のために用意されたものだとは思えないほどだ。
その後も、広い浴室で温かい湯につかり、ふかふかのベッドで眠り、温かい朝食をいただいた。
このような対応を受けつつも、侍女や騎士たちは私に対する「会話」や「触れる」ことをしてはいけないこと、私がベールを付けている理由などを聞いている様子で、つかず離れずという対応である。しかしそれが気にならないほどに大切に世話をしてもらっていると実感できる手厚さだった。