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聖女と月影  作者: ゆず
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 首に巻きつく男のあまりの力に息ができない。

 私はその力からなんとか逃れようと手を伸ばした。触れると、男は外すまいと余計に絞める力が強くした。


「お前のせいだ、お前のせいで私は責任を取らねばならなくなった。お前が真に祈っていれば、真に聖女であればこんなことにならなかったはずなのに」


 男は今度は「お前のせいだ」と繰り返す。

 指先がしびれ、感覚がなくなっていくのがわかる。遠のく意識の中で、ふと視界が変わったのを感じた。

 ベールが取れたのだ。

 呼吸ができないことによってぼやけていた視界が、ベールの白から小太りの男の恐ろしい形相に変わる。

 初めてこの瞳に映したのは、憎い男の顔だった。そのことは私にとって非常に残念なことであったのだが、いっそ好都合であるとばかりに定まらない視点で男を見つめた。

 呪われてしまえばいい、こんな男は。

 そう思っていると、我を忘れて首を絞めていた男が私の視線に気づいた。

 視線が合う。すると―――。

 突然男の手から力が抜けていった。

 私は反射的に一気に空気を吸い込んだ。そしてその反動で咽てせき込んだ。

 喉に手を当てて擦る。痛みは残るが、もう絞められてはいないのだと確認できてほっとする。

 呼吸をくりかえして、やっと落ち着いてから男をもう一度見る。ぼやけていた視界がはっきりとしてくる。押し倒された体制はそのままなので、床を背にして男を見上げる形になっている。そうして見ていると、男は頭を抱えながら小さくうめき声をあげていた。どうにかしてこの体制から逃れたい、そう思った時だった。

 再び男の目が私を捕らえた。

 先ほどのような憎しみを込めた瞳ではない。そこにあったのは別の意味の()を含んでいた。


「いや……」


 思わず呟いた。死の恐怖が去ったと思ったのに、また違う恐怖が訪れたのだと察した。


「いや、いや……」


 先ほど喉を絞められたために、満足に声が出ない。掠れたそれは、おそらく目の前の男にも届いていないだろう。それでも私は恐怖から声を発し続けた。

 しかし、男はそんな私に興味を持った様子もなく鼻息荒くニヤニヤと笑い出した。


「そうだ、そうだ。聖女じゃないのならば許されるはずだ。いや、たとえ聖女だとしても神の代行たる私(神官長)であれば許されるではないか。そうだ。なぜもっと早くこうしなかったのだろうか」


 下卑た笑みと声。

 私は首を振って拒否を伝えた。未だ痺れて言うことを聞かない手足を動かそうとした。

 しかし男の手は私の胸元に伸びてくる。

 男が舌なめずりをした。

 服が引っ張られて、背中の留め具が弾かれた音がした。 

 私はこの先に起きるだろうことを予見して、恐怖で瞳を強く閉じた。

 思うことは一つだった。

 助けて、誰か助けて。

 声が出ない。

 誰か……ベックマン、助けて。

 そう強く思った瞬間、大きな音がしたかと思うと何か生き物がつぶれたような奇怪な声が耳に届いた。続いてドスンという音が聞こえて、男の影になっていた私の顔を光が照らしだしたのが分かった。

 私は半身を起こし、恐る恐る瞳を開いた。

 すると私の体の横に大きな体が一つ転がっているのが見えた。それは白い服を身にまとっていた。金糸で美しい刺繍が施されているその仕立ての良さから、おそらく高位の神官が身に着けるものであろうと推測される。そして状況を鑑みるに現神官長であることは明白だった。その背中には大きな剣が一つ刺さっている。そしてそこからは赤黒いものがじわじわと広がっていて見る見るうちに白を赤に染めていた。

 あまりの光景にひゅっと息をのんだ。


 状況がわからず辺りを見回そうとすると、大きな手に視界を遮られた。

 恐怖に震えると聞きなれた声がした。


「見てはいけません」


 ベックマンだった。


「いえ、違いますね。貴女にこのようなものを見せてしまい、申し訳ありません」


 その声は力強いのにどこか不安定にも感じるものだった。


「ひとまずこれを」


 そう言って彼は後ろから上着を肩にかけてくれた。それは温かく、彼がさきほどまで身に着けていたものなのだろう。そしていつもの白いベールを頭からかけてくれた。

 私は上着を掴んで前を隠しながら、彼の方へゆっくりと向き直った。


「貴方が…貴方があの男を?」


 明確な言葉を避けて尋ねる。すると、彼は静かに「はい」と応じた。

 あの男は私を殺そうとしたし、おそらく辱めようとしていた。だから彼は私にとって恩人であるはずだ。

 それなのに、怖くなってしまった。優しいと思っていた彼が、急に怖くなってしまった。

 私は言いようのない戸惑いに、両手を握りしめた。


「いつものようにノックをしたのですが、返答が無く。おかしいと思い部屋に入りました。そこからは頭が真っ白で…。怖がらせるつもりはなかったのです。貴女をお守りしたかったのです。それだけは信じてください」


 どんどん弱々しくなっていくその声は、後悔からなのだろうか。それとも私を恐れているのだろうか。真意は測りかねる。しかし、彼の言葉に嘘が無いだろうことは、これまでの彼の行いからもわかることだ。

 私は恐怖で震える唇を一度引き結んだ。


「助けてくださったこと、感謝いたします。しかし、これだけのことをしてしまっては……」


 そこまで言って、次の言葉が続かなかった。

 いくら王の配下であっても、私を守るための行いであったとしても、神官長を殺めてしまってはお咎めなしというわけにいかないのは明らかだ。それがたとえ、敗戦についてなんらかの責任をとる予定であった男だとしても。まさか命まで差し出すことにはなっていなかっただろう。それに、特に信心深い我が国の国柄として神官長を殺めるということは非常に罪深いこととされることだろう。当然このことを隠し立てすることもできないし、すぐに白日の下にさらされることになる。私を救いはしたものの、彼にとって代償があまりにも大きいように感じた。 

 彼に対する恐ろしさは勿論あるが、助けてくれた感謝とこのようなことをさせてしまったという申し訳なさが次第に大きくなっていく。


「これから、どうされるのですか」


 尋ねると、彼は少し考えた後でこう言った。


「報告をします。ああ、勿論あの男が貴女にしようとしたことについては伏せますのでご安心ください。あの男が貴女の首に手をかけたことだけは、その痕から明らかなので隠しようがないでしょうが」


 あれだけきつく絞められたのだ。やはり首には痕が残っているのだろう。しかしそれは彼が私を守ろうとしてこのようなことをしたのだという証明になるかもしれない。しかし―――。


「ありのままをおっしゃていただいて構いません。首のこの痕のことだけではなく、ありのままを。それで貴方のためになるのであれば、私は喜んで証言いたします」

「そのお気持ちだけで充分ですよ。……人を呼んできますね。このままここでは眠れませんからね。他の部屋を用意してもらえるよう頼んできますから」


 ほとんどすべてを聴覚で判断している私には、彼の言葉が必死に明るく見せようとしているものだとすぐにわかった。かける言葉が見つからず黙っていると、彼は「ああそうか」と呟いた。


「たとえ一時でもこの部屋に残されるのは嫌ですよね。気づきませんで、申し訳ありませんでした。しかしどうしたものか、一緒に来ていただく訳にもいかないし……」


 彼の呟きに、突然あることを思いついた。我ながらおかしな思い付きだと思う。成功するはずはない、決して許されないこと。それなのに今はこのことが最良のことであるように思えてならなかった。私は勢いよく彼の方に向き直った。


「一緒に、行きます。一緒にここから出ましょう。まだ気づかれていない今なら、きっと逃げられます」

「聖女様、何を……」


 驚いた様子の彼に、私はさらに詰め寄った。不思議と彼を怖いという気持ちはどこかへ吹き飛んでいた。


「そうしましょう。そうすべきです」


 唯一家族と思える人は数年前に奪われた。毎日続けてきた仕事は意味を為さない。そして、この数年支え助けてくれていた人までも失ってしまったら…。私は今のこの状況に対する恐怖よりも、彼を失うことの方が恐ろしいのだ。私はもう、何も失いたくない。


「一緒に逃げてください」


 私の言葉に、彼はどうして良いのかわからないのだろう。何も言わずにおろおろしている。私はそんな彼の手をとった。彼は驚いて体を揺らした。これまで数年そばにいたというのに、触れたのは初めてのことだった。一度そうして見れば、「会話」してはいけないということを守っていなかったのに「触れて」はいけないということだけを守っていたのはおかしなことのように思えた。節だった手は温かく、前神官長を思い出した。




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