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聖女と月影  作者: ゆず
3/10


 



 私は生まれた時から聖女であるため、名前や誕生日がない。

 誰からも「聖女」と呼ばれていたし、年齢を数えたりすることなく過ごしてきた。毎日同じことを繰り返しているため年月の感覚は全くない。

 しかしベックマンとの話から、私が赤ん坊の頃にこの神殿に来てから少なくとも15年が経っていること、前神官長が亡くなってから4年の年月が過ぎていることを知ることができた。

 その4年という年月が短いのか長いのかもわからないのだが、私にとってあっという間の日々であったのは間違いなかった。

 ずっと食事は一日一度であるのだが、それが少ないのだという事も彼との話から知ったことだ。栄養が足りないのではないかと思い成長が心配だったのだが、この数年でやはり身長はあまり伸びることはなかった。しかしその代わりにというわけではないが、体の凹凸は大人の女性らしいものへと変わってきていた。それは本来喜ばしいことなのだろうが、私は違った。現神官長が偶に私の部屋にやって来ては私の体に嫌らしい視線を送ってくるからだ。ただ、ベックマンをはじめとした護衛たちのおかげで二人きりの時間は決して長くなく、男の指先が私の体に軽く触れることすらも数える程しかない状態は継続している。

 そしてベックマンとの密かな時間も勿論継続している。しかもこの時間のために毎日の仕事をこなしていると言っても過言じゃないほどに大切なものとなっていた。



 そんなある日、朝の身支度を行っている早朝の時刻にも関わらず、神官長が複数の神官を引き連れて部屋へやって来た。何事かと身構えていると意外にもこの訪問は真面目な要件だった。


「現在我が国は隣国と臨戦態勢にある」


 そんな不穏な言葉から話は始まった。

 我が国は信心深く平和的な国柄であり、歴史的には長らく争いがなく穏やかであると学んでいる。そんな国が戦争中などという話は驚くべくことだった。


「本日より平和ではなく戦勝を願って祈ってほしいと王より命があった。心して励むように」


 現神官長はこの数年ですっかり不遜な態度をとるようになっており、いつしか最初の頃の気持ち悪い敬語はすっかり使われなくなっていた。私に対しても、誰に対しても常に命令口調で鼻に着く。私は不快に思いながらも王からの命を伝えに来たということから、恭しく腰を折って了承を示して見せた。話は終わりだとばかりにすぐさま立ち去る足音が聞こえて、私は心の中で舌を出した。実際するのではないにしても、舌を出すなどと下品なことはベックマンと話をするようになって初めて知ったことだ。もっと下品な悪態の付き方も知っている。本当に色々なことを学んだものだ。

 私は戦争という思っても無い状況に驚きつつも、戦勝について、そして戦いに出る人たちについて、既に被害にあっているかもしれない人たちについて考えながら心から祈ることにした。


 その日の夜、リズミカルなノックが三回、部屋に小さく響いた。

 これは私たちの間で決めた合図。

 私は扉の方へと向かった。そして同じリズムでノックを三回。


「聖女様」

「ベックマン」


 どちらともなく声を掛けて、笑みが零れた。

 ベックマンから「来た」「近くに誰もいない」という合図があった後で、私が対応可能であるときに合図を返すという取り決めをしている。そうやって決めておかなければ、他の者にこの秘密の時間がバレてしまいかねないからだ。

 私は扉に背を預けてもたれかかる。


「今日、我が国が戦争を目前としていると聞いたのだけど。本当なのですか」


 尋ねると、ベックマンは溜息を交じりに答えた。


「本当です。ついに聖女様のお耳にも届いてしまったのですね」

「神官長から、王からの命で戦勝を願って祈るよう言われたのです」

「そうでしたか…」


 ベックマンは暫く黙った。そして戦争について差し支えない程度にといくつかのことを教えてくれた。

 1年ほど前に起きた国境の町どうしの小競り合いが発端となっていること。現在のそれらの町の属する領同士の睨み合いにまで発展しており、一触即発状態であること。このままでは国同士の全面戦争に発展するのに時間がかからないということ。戦力を考えると我が国は確実に圧されること。しかしこの神殿は戦火からも王宮からも離れているため、滅多なことでは攻め込まれることはないこと、など。

 私はただただ話を聞いていた。もちろん自分の身の安全も心配ではあったが、私が安全な場所にいる中でこの国のどこかで危険な目にあっている人がいるのだ、戦っている人がいるのだと思うと胸が痛んだ。

 私にできることが祈ることだけだなんて、私はなんて無力なのだろうか。


「私は愚かにも我が国は平和なのだと信じて疑っていませんでした」


 私の呟きに、彼は直ぐに否定してくれた。


「愚かだなんて、そんなことはありませんよ。貴女はいつも私の話から少しでも国や民について知ろうとしていたじゃないですか」


 その真摯な言葉に、却って私は自分を恥じた。私はそんな殊勝な気持ちで貴方と話していたのではないのだと。ただただ貴方と話がしたかっただけなのだと。そう言ってしまえればどれだけ楽だろうか。

 私は言葉を飲み込んで、気持ちを切り替えるために息を吐いた。


「いいえ。やはり私はもっとこの国のことを知らなければなりません。この国のために祈ることが私の務めなのですから」


 この言葉は心からの言葉だ。そう思って口に出すと、扉の向こうから温かい笑い声が聞こえてきた。


「どうしました?」

「いえ、本当に貴女はひた向きで、真面目な方だと思いまして。…そんな貴女にお仕え出来て私は幸せです」


 優しい声に、胸が大きく跳ねる。そして締め付けられる。

 ああ、それはこちらの台詞だ。貴方がいてくれて私がどれだけ助けられているか、どれだけ幸せなのか、筆舌にしがたい程だというのに。

 そんな風に思いながら、同時に私はこんなことを考えていた。

 貴方はその言葉をどんな表情で言ってくれているのかしら。その温かい笑い声はどんな笑顔から零れたものなのかしら。

 しかしそれは決して考えてはいけないことなのだ。

 歴代の聖女は皆、瞳が赤い。そしてその赤い瞳には何も映してはいけないのだとされている。その瞳に映して良いのはこの世で神だけなのだということらしい。もし万が一他の誰かを瞳に映した場合、その者は呪いを受けるとまで言われている。それはつまり、この世では誰もこの目で直接見ることができないということに等しい。そのことを残念に思うことはあっても、そうしなければいけないということを小さな頃から教えられているために既に私にしっかり根付いている。

 それでも。

 それでも近頃考えてしまうのだ。このベールを取り去って、彼の顔を見てみたい。どんな顔をしているのかしら?髪は、瞳はどんな色をしているの?そんな風に考えたのは一度や二度ではない。

 私は貴方に支えられている。それだけではない。私にとって貴方はこれ以上ないほどに特別な存在なのだと言ってしまいたい。そんな衝動に駆られることもある。

 それすらも出来ないことなのだ。

 なぜ、私は聖女なのだろうか。




 それからというもの、学習の時間やベックマンとの会話のほとんどは戦争についてのものとなった。

 戦争の状況がわからなければ本当にただ祈ることしかできない。せめて戦況や被害状況などを聞いたうえで祈りたかったのだ。

 そうして過ごすうち、一触即発状態と聞いていた戦況はたった数か月であっという間により危ういものへと変わっていった。

 睨み合いを続けていた我が国の領が、ついに落ちたのだ。

 そうなるといよいよ王も黙っていることはできない。本来であれば軍を率いて国同士争うことになるところであるだろう。しかし、我が国は本来平和主義であるために隣国との戦力差は明らかだ。どのように収めるのか、または収まらないのかと皆戦々恐々としている状況だという。

 私は不安に思いながらも祈り続けるほかなかった。




 そして、あの恐ろしい日を迎えることになった。




 私はいつものように食事を済ませ、学習担当の神官がやってくるのを待っていた。

 すると、聞き覚えのある足音が一つ、近づいてくるのが聞こえた。この音を聞くだけで体が恐怖と嫌悪で震える。扉の前で護衛がはねつけてくれれば一番良いのだが、業務上必要である場合があることやこれまで実害がないということから、部屋に通さないわけにはいかないらしい。今日もあの男はノックも無く部屋に入ってきた。


「聖女様、ご機嫌はいかがかな」


 その声はいつもよりも落ち着きのない焦りのようなものを感じさせるものだった。そういえば、足音も心なしか早くバタバタとしていたように思う。

 私は不審に思いながらも勿論無言を貫いて顔を背けた。しかし、私のそんな態度を気にした様子もなく男は話し出した。


「さて聖女様、貴女は本当に戦勝を祈っていたのかな」

「どういう意味ですか」


 私の仕事に文句を言いに来たのかと腹立たしくなり、思わず言葉を返した。

 ちゃんと私なりに戦争のことを考えて毎日祈っている。そのことをこの男に否定されたくはなかった。


「それではなぜこんなことになったと言うのだ。お前は、聖女なんだろう?なぜ祈りが届かないんだ。おかしいじゃないか。なぜ、なぜ負けるんだ」


 男は最初のうちは私を責めるように大きな声で怒鳴っていたが次第に独り言のように小さくなっていき、最後には「なぜ、なぜ」と繰り返し呟き始めた。声には焦燥や困惑が色濃く出ている。

 その様子から「ああ我が国は負けたのか」とそのことだけが残った。そして、私の祈りが、願いが届かなかったのだと知った。私にできる唯一のことが何の役にも立たなかったのだという事実に心が沈んだ。

 そうしていると、暫くして男が動く音が聞こえた。

 確かに耳ではその音を拾っていたのに、私は自分の無力さを嘆くのに集中していて反応するのが遅れてしまった。

 気づいたときには、男に押し倒され首を絞められていた。




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