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卒業(ラヴ・レター)

作者: Aya


  I


 おねえちゃんが帰ってきたのは朝方だった。

 くたびれたスーツには小じわがついてる。

 鏡台前で念入りにふちどったアイラインでも、ちっとも”くま”をごまかせてない。

「ねえ、水。みず、ちょうだい」

 午前三時、きょうだいふたりでくらしてるワンルームの入り口で。

 すっかり表面がくすんでしまったヒールを脱ぎ捨てるようにして、お姉ちゃんはみっともなくへたりこんだ。

「はいどうぞ」

 仏頂面で、コップに水道水を入れて手渡す。

「遅くなるなら連絡してって言ったよね? 何回温め直したとおもってるの?」

 自然と語調が強くなる。

 なにせ電話もメールもないまま、深夜まで、五時間も待たされたのだ。

 料理担当だからじゃない。心配にだってなるし、愚痴のひとつだって云いたくなる。

「メールじゃなくていいから、何かしらくれたっていいでしょ!?」

「ごめん。疲れてたから」

 お姉ちゃんはしぼりだすようにはきだした。

 つん、と鼻をつくようなにおいがする。

 ——きらいなにおい。アルコールだ。

 お姉ちゃんはお酒に強い。男のひとも顔負けなくらいの、飲み助らしい。

 ここしばらくは遅くまで飲み歩くこともなかったのに、今日にかぎっては、そうしてくれなかったみたい。  だから、機嫌はさらに悪くなる。

「おねえちゃん、いっつもそうだよね。適当にごまかしてうわべだけとりつくろってさ。謝ればいいと思ってるんでしょ?」

 月曜日あさっては大切な日。

 お酒臭いひとになんて足を運ばれたら、せっかくのおめでたい日が台無しになってしまう。

 だから激情に引きずられる。ほとばしる身勝手な自分を、理性が抑えきれなくなる。

「だいたいお姉ちゃんさ、さいきんちょっとおかしいよ?」

「……」

 おねえちゃんは暗い表情でうつむいた。

「あんなにお料理じょうずだったのに!」

 ここ最近作ってくれる卵焼きは、甘いのかしょっぱいのかよくわからない様な出来で、ちっともおいしくない。それに、たべるときだってソースやお醤油をかけまくって、せっかく薄味でととのえたお料理を台なしにする。

「ろくに使わないものばかり買い込んでくるし、それに——」

 きょうだいは、他人の始まりというけれど。

 わたしたちきょうだいの距離は近すぎて。だからこそ、お互いの気に入らないところまでよくみえてしまうのかもしれない。

「うるさいっなぁ!!」

 眉毛を逆立てたお姉ちゃんは、珍しく真顔だった。

「っ……」

 怖かった。

 おねえちゃんの表情なんて、これまでかぞえきれないくらい、みてきたけど。ここまで暗い感情をたたきつけられたのは、初めてのことだったから。

「ご、ごめんなさい」

「あ……、」

 お姉ちゃんは、自分の出した声の大きさに、いまさら気がついたみたいだった。

 明らかにムリをしている様子だったけれど、なんとか柔らかい調子で告げる。

「ごめん、あたし疲れてるみたい。お風呂わいてる?」

「うん」

「ありがと。ほんとにごめんね」

 お姉ちゃんは、無言のまま浴室へと歩いて行く。  

 ひるがえった長髪には枝毛が目立つ。おしゃれ好きなお姉ちゃんにしてはめずらしく、ここしばらくは、地味な服装や控えめなお化粧ばかりだ。

 お姉ちゃんは今年で二九。

 長髪で背も高くて、気取った歩き方でもいやみがない。顔立ちもおとなびてみえるから、学生のころから、男のひとには人気があった。彼氏に困った試しはないのに、どうしてか、結婚までこぎ着けたためしがない。 こんどの彼氏は物作りが好きなひとで、よくレジンキャストで置物を作っていた。お姉ちゃんのおこぼれかもしれないけど、「はい、妹ちゃんにもあげる。ふた組でおそろなんだよ」とかいって、「リードシクティス・プロブレマティカス」の置物を作ってくれた。

 よくわからないけど、とっても大きい古代魚らしい。あまりの大きさに、玄関の靴箱の上しか置くところがなかった。

「ふぅ」

 短く息を吐き出して。ベッドに仰向けに寝転がりながら、なんとはなしに手の甲をながめる。

 ここ数日のいらだちには、いろんな原因がある。それくらいわかる。

 両親が居なくなってからずっと、お姉ちゃんには面倒をかけどおしだ。引け目もあるし、それに当然、生活には余裕がない。  イヤリング、ネックレス、ネイルアート。クラスメイトの身につけているきらびやかなよそおいをみるたび、心が少しだけ痛くなる。

「……わたしも、おしゃれ、してみたいな」

 爪にはマニキュアも塗られてないし、ネイルチップもつけていない。

 お料理や洗いものをするのに邪魔だから、伸びるとすぐ切ってしまうのだ。

「はー。なにやってんだろ、わたし」  

 冷静になってみると。  どうして、さっきあれだけ頭にきていたのかわかった。

 制服も着替えずに、お姉ちゃんをずっと待っていたから。なんの連絡もなしに家を出て行ったあのひとたちみたいに、お姉ちゃんまで居なくなっちゃうんじゃないかって、不安だったんだ。

 どうして上手く出来ないんだろう?

 「何かあったの? 心配してたんだよ。ごはんつくって、待ってたのに」って、やさしく声をかけてあげればよかった。

 学校でも小説でも、大人の人は口をそろえてこう言う。「ひとの立場になって考えなさい」って。  でも、そんなの出来っこないに決まってる。 ——だっていちばん身近なひとの気持ちになって考えることさえ、不出来ないもうとには出来ないんだから。


  Ⅱ


 お姉ちゃんが目を覚ましたのは日曜日の、それもお昼過ぎだった。

 口を開こうとするいとまさえあたえず、お姉ちゃんは開口一番「ごめんね」とあやまった。

 お化粧はむざんにくずれてしまっていて、すっぴんはひどいものだった。

「ううん。わたしこそごめん。お姉ちゃんのこと、わかってあげられなくて」

「別れたんだ、あいつと」

「えっ?」

 驚いた。  こんどの彼氏とは、いちばん長い間続いていた。やさしいひとで、高校生のじゃまな妹がいたのに、ことあるごとに気を遣ってくれた。

 ……ずっと続くと思ってたのに。

「あたしが悪いんだ。ちっともかまってやれなかったから。年下は難しいねぇ」

「……」

「ほらほら、もうこの話はおわり。今日の朝ご飯は、トースト?」

「うん。じゃことチーズ載せてみたの。自信作なんだ」

 朝は時間に追われているから、メニューはいつも、手短に用意できるものに限られてしまう。

 トーストに、じゃことチーズをマヨネーズであえてからのせる。刻んだのりを添えてあげれば、ヘルシーな朝ご飯のできあがりだ。

「おっ、身体に良さそうだね、ありがと」

 お姉ちゃんは控えめなほほえみを浮かべる。  信じられないことに、このひとのなかでは、彼氏さんと別れたことはすでに踏ん切りがついているようだった。

「お姉ちゃんはさ」

「なに?」

「つらくないの?」

「……」

 お姉ちゃんは、テーブルにひじをつきながら、ちょっとだけ揺れるカーテンに目をやった。

「それは、あいつと別れたことについて?」

「うん」

「そりゃあ、辛いよ。  でもさ、『あたし辛いです、かまってください』って顔してるの、もっとかっこわるいじゃん。あんたにもそのうちわかるよ。失恋ってやつはさ、自分の感情に名前を付けられるようになって、こころの引き出しにしまい込むって事なんだ」

 ——知りたくなった。

 お姉ちゃんは。これだけさばさばと語れるようになるまで、どれくらいの出会いと別れを経験してきたのだろう。

「でも、珍しいね」

「うん?」

「あんたがそんなこと聞いてくるのさ。好きな子でも出来た?」

「……違うって」

 恥ずかしくなって、そっぽを向く。

「ねえ、春、まだ来ないのかな?」

「まだじゃん? うちの近くの公園のサクラ、花つけないけど」

 桜の季節にはまだ間がある。  窓の外には、ここ数日降り続いた雨にやられたのか、向かいのベランダにつり下げられたてるてる坊主が頭を垂れている。

「明日あたり、晴れてくれないかなぁ」  

 部屋干しはにおいがつくのだ。

 まる一日降り続く雨をみていると、青空が恋しくなってくる。

「雨、嫌いなの?」

「うん。ほとんどの人はそうだと思うよ」

「そっか」

 お姉ちゃんは何も言わずに、ただ雨音に耳を傾けていた。

 それからお掃除を始めたけど、お姉ちゃんは床に寝転がって雑誌を読んでいるようだった。

「ねえ。いまから、出かけよっか?」

 雑誌の付録だったクロスワードパズルをまたたくまに完成させたお姉ちゃんは、何でもないことのように、意外な提案を口にした。

「え、たまご買ってあるよ?」

「スーパーじゃないってば」

「だいたい、お姉ちゃんは『休日はずっと寝たい』っていってるタイプでしょ」  

 お姉ちゃんはめんどうくさがりなうえに出不精だ。たまの休日とあればここぞとばかりに、惰眠をむさぼっている。

「ほんとはそうしたいけどさ」

「じゃあそうすればいいでしょ」

「いいから。あ——」

「なに?」

「制服着て来なよ。今日だけは、どうしても必要なんだから」

「せっかくのお休みなのに……」

 くちびるをとがらせる。いったいなにが悲しくて、日曜に窮屈なセーラー服に袖を通さなくてはならないのか。

「あんたさぁ。あたしだって休日なんだけど」

「あ、うん、わかった」  

 不機嫌になりかけたお姉ちゃんを踏みとどまらせるべく。  迅速に出立することとあいなった。   


  *


 駐車場へと歩くみちすがら、お姉ちゃんの傘の内側に、青空がペイントされていることに気がついた。

「ねえねえ、それ、どこで買ったの?」

「シアトルだったかな、アメリカの……。怪しげな店でね、頭のはげたペンギンのぬいぐるみとかも置いてあったんだけど」

「なにそれ。面白いんだけど」

「だろー?」 

 不敵に笑みを浮かべるお姉ちゃんの横顔はさっぱりとしていて、やっぱりドア口でのあの出来事は「夢」だったんじゃないかと感じてしまう。

「あんたさー」

「なに?」

「最近みた映画ってある?」

「全然」

「ふうん」

「いきなりどしたの?」

「DVDでもブルーレイでも、映画なんていくらでも見られるじゃん?」

「それはそうだけど……」

 両親は二人とも、映画が大好きだった。ふたりが出会ったのだって、大都会の片隅、場末のうす汚れた劇場だったと聞いている。

 むかしは、あれだけ好きだった映画。

 毎週のように、映画館に連れて行ってくれとせがんだ記憶がある。

 月に一度、奇しくも今日と同じ第三日曜日。ファミリーデイは、そろって映画館を訪れる特別な日だった。

 古ぼけた劇場はまるで魔法の国みたいで、そこで語られるおとぎ話に、おさない女の子を夢中にさせた。

「そろそろ、許してあげたら?」

 お姉ちゃんは、不思議な声色で言った。感情に色のついていない、透明な声色で。

「ずっと憎んでばかりいるのって、けっこう疲れるよ」

 そういった口元は、どことなくさみしげだった。

「お姉ちゃんは、映画見てるの?」

「たまには、悪くないよ」

「映画に罪はないから?」

「そういうこと。  ……とりあえず、ひとつめのプレゼントあげる」

 まるで、好きな女の子を前にした、小学生くらいの男の子みたいに。

 あさっての方向を向きながら、お姉ちゃんは映画のDVDなのだろう、薄いケースの入ったレジ袋を差し出す。 「ありがと!」

 早速袋を開けようとすると、お姉ちゃんは指をこちらに突きつけた。

「だーめ。

 おうちに帰ってから開けなさい」

「えー。じゃあ、タイトルだけでもいいから教えてよ」

「だめ」

「なら、ヒントちょうだい」

「ダスティン・ホフマンが主演の映画」

「聞いたことないって。俳優さん?」

「古いやつだからなぁ」

「ねえタイトルは? 『ひとつめ』ってどういう意味?」

「ひ・み・つ」

 こちらの質問にはいっさいこたえずに。

 おねえちゃんは、ニコリともせずにそういって、三階フロアへむかって歩き続けた。

 ……。

 ……。

 さすが週末だけあって、デパートはどこのフロアもごった返していた。

 百貨店の中を闊歩していると、着飾った、華やかな人たちばかりとすれ違う。

 さながらまるで王国みたい。

 あたりにいるのは荘厳な粧いに身を包んだ、貴婦人のクイーンや、英国ばりのキングばかり。わたしのようにみすぼらしい下級兵ポーンなんて、探してみたってどこにも居ない。

 ここは非日常の世界なのだ。一般人はどうやったって「灰かぶり」にはなれないのだから、制服を着ている自分こそが、場違いな存在なのかもしれない。

「ねえ、幸運の女神様の後頭部ってつるっぱげなんだって」

「え!?」

 おねえちゃんは、ときどき真顔で変なことを言う。期待通りの反応だったのか、満足げにくすくすと笑った。

「もー」

 でも、不思議なことに。

 そうやってお姉ちゃんに話しかけられたあとは、きまってしゃちほこばった身体がほぐれるのだ。

「ねえおねえちゃん。目的地ってどこ?」

 西館から東館へと、渡り廊下を横断して。

 いい具合に身体も暖まって、でもいい加減、ちょっと歩き疲れたあたりで。

「あそこだよ」

 おねえちゃんは、しゃれたたたずまいのお店を指さした。

 指先にはスーツ屋さんがある。

「おねえちゃん、これって……」

 きらびやかなショーウィンドウに陳列されたスーツはどれもぱりっとしていて、みるからに高価たかそうだった。

「あたしから、最後のプレゼント。どれでも一着好きなやつ、買ってあげるよ」

 お姉ちゃんは、泣いていた。

 ——明日げつようびは、卒業式だって。

 妹にとって一番大切な日だって。ほかならぬお姉ちゃんが、わかってないはずなかったのに。

「——」

 ああ、と思った。

 おかしいとはおもってた。

 あれだけおしゃれ好きだったお姉ちゃんが、めぼしいお洋服はみんな手放してしまって、手元に残ったのは安っぽいヒールばかり。

「ごめんね。ごめんね、お姉ちゃん」

 みっともなく泣きじゃくる。次から次へ流れ落ちる涙を、どうしてもとめられない。

「なんだ、どした?」

「わたしね、おねえちゃんのこと、ちっともわかってあげられなかったの」

 いったい、どれだけお姉ちゃんに、我慢させてきたのだろう。

 朝早くからでかけて、夜はいつも十一時近くにならないと帰ってこない。お姉ちゃんがずっとそうやって働き続けているからこそ、学校にだって通えていたのに。

 いつもこうだ。

 気づいたときには、すべてが遅すぎる。

「いいよ。子どもはさ、ひとりで歩けるようになるまで、大人に迷惑をかけるものだって」

「どうして? どうしてそんなにわかったようなことを言えるの!? 怒ってよ!! 世間知らずで、どうしようもなく馬鹿なわたしをしかりつけてよ!!」

「……」

 お姉ちゃんは、しばらくだまったあと。

「あたしもそうだったから」

 なんて笑った。

 その笑顔は、昔からずっと見慣れてきたもので。苦笑いにしてはすてきで、わたしはどうしようもない気持ちになって、すっかりやせ細ってしまったお姉ちゃんの瘦軀を抱きしめた。


 Ⅲ


 お姉ちゃんの部屋で大量のお医者さんのレシートと錠剤を見つけたのは、それからまもなくのことだった。あのひとはできるだけ他人に迷惑をかけようとしない。今度の彼氏さんと別れたのも、おそらくはそれが原因だったのだろう。

 あれから何が変わったのだろうか、と自問することがある。

 いつまでたっても答えは出ない。

 きっと、そういうものなのだろう。

「今日は残業があるから、遅くなるね!」

 ワンルームの玄関口で、わたしはお姉ちゃんに向かって声をかける。

「わかった。卵焼き作って待ってるから」

 お姉ちゃんはすっかり板についたエプロンを着て、笑っている。

 ここ最近はささいな出来事に振り回されて、気持ちが不安になることも少なくなってきた。

「……行ってくるね」

 声を潜めて、玄関にある古代魚の置物にも声をかける。

 彼氏さんは、あれからしばらくすると、いままでと変わらずこの部屋にやってくるようになった。とりとめのないことだけずっと話して、ときどき怪しげな置物を作って、プレゼントしてくれる。

「それじゃ、行ってきます!」

「いってらっしゃい」

 いつもの朝、いつもと同じセリフ。

 声をかける側とかけられる側は、変わってしまったけれど。

 わたしは今日も、あの日買ってもらったスーツに袖を通して、仕事へと出かける。

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[良い点] 姉のすり減り具合と、それでも朽ちない妹への優しさに、妹自体が気づくこと。それでも決して幸せな終わりとならず、姉に暗雲が漂っているところ。 姉の彼氏出さなかった辺り、これが姉と妹の話なのだ…
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