EP03 ◆ きみの面影 #05
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書店に向かう途中、パンケーキの看板を見付けたのはイチゴだった。
カフェの店頭のA形看板に、二段重ねの分厚いパンケーキの写真がでかでかと貼られていたのである。どうやらパンケーキで有名な店らしい。
大きなバターの塊が溶け、メイプルシロップが流れる。パンケーキからは湯気が立っている。
その写真は、ムクロとイチゴの興味を惹くには充分過ぎる効果があった。
二人は書店で買い物を済ませたあと、少し並んで店に入った。
だが食べ終えてカフェを出たムクロは、不服そうな表情をしていた。
「先ほどのパンケーキはイマイチでした」
店の前の行列はまだ続いていたため、イチゴにだけ聞こえるように囁く。そしてため息をつきながら、大きめのショップバッグを右手に持ち替えた。
「どうして? 雲みたいにふわふわだったよ。あたしあんなの食べたの初めて」
イチゴは満足したらしい。購入した文具と雑貨が入っているショップバッグを軽く振りながらムクロの後に続く。
「僕も初めてです。でも僕の好みとしては、もっとしっかり食べたいんですよね。フワフワ過ぎてお腹に溜まらないというか……ブルーベリーは粒が大きくて、甘みも強くて好みだったんですけど」
「ムクロって、普段は小食なのに、甘いものだとたくさん食べるんだね」
イチゴはくすくす笑う。今までムクロが食べ物について物足りないと言うのは聞いたことがない。だからムクロのそんな言葉がとても新鮮だった。
「そ、そんなことないです。それより、次は何を食べましょうか。この時期、パンプキンパイにはまだ早いのですが――」
いつの間に手に入れたのか、ムクロは『スイーツ食べ歩きマップ』という小冊子を手にしていた。買い物の合間に効率よく食べ歩きたいらしく、真剣な表情で冊子を見つめている。
「そんなに食べたら、お昼ごはん入らなくない?」とイチゴは苦笑する。
お昼にはピザを食べる約束だった。正午まで、あと三十分くらいしかない。
「そうですか? じゃあ軽く――クレープとかどうです?」
カフェが並ぶ通りをお喋りしながら歩く。
緩い下り坂になっている道を、あと数軒分も歩けば広場に出るという場所で、ムクロは突然肩を掴まれ、耳元で怒鳴られた。
「シェリー! 何度も呼んでるだろ? 何故無視するんだこの野郎!」
怒鳴り声とともに酒臭い息が掛かる。通りを行く人々や、オープンテラスにいた客たちの視線が一斉に集中した。
ムクロ自身も一体何が起きたのかと驚いたが、隣にいたイチゴは驚愕を通り越して、恐怖の表情になっていた。
どうすべきか――ムクロは逡巡する。
自分より弱い者を捕まえて、因縁をつけるタイプの人間は世の中に巨万といる。こういう場合、反射的に言い返してもろくなことがないのも経験している。
まず酒臭い空気をできるだけ吸わないよう、さり気なく顔を背けた。それから肩を掴んでいる手に自分の手をそっと添えて、相手に向き直る。
「――すみませんが、僕はこの街には知り合いがいません。人違いでは?」
ムクロは困惑の表情を作り、相手の目をじっと見つめた。
三十代半ばだろうか。服は若者向きのものを着ているが、肌につやがない。
息の酒臭さでも充分わかるが、男は相当飲んでいるらしい。固めていたらしい髪型は崩れているし、白目はすっかり充血して、目付きも座っている。
何故か時々、ムクロはこういった手合いに絡まれる。
ベリーヌでの一件もある意味ではそれと同じで、本音を言えば「またか」という気分だった。しかも今回は、相手がくだを巻くようならイチゴの安全を確保しつつこの場から逃げなければいけない。
だがその男は、ムクロの顔をまじまじと見つめ返し何度かまばたきを繰り返すと肩から手を離した。
「あん? そうか……シェリーじゃないのか――よくみたらあいつよりちっせえな。あいつの妹か?」
どうやら相手は、酔ってはいるようだが比較的まともな人らしい。
ムクロは安堵する。しかしさり気なく一歩身を引き、イチゴも自分の後ろへ移動させる。
「どなたか存じませんが、そんなに似ていますか? その……シェリーという方は女性なんですよね?」
「そりゃそうだよ。まさかお前、その顔で男って……いや、その」
ムクロを会話している間に、男は段々酔いが醒めて来たらしい。
ポカンと口を開けたまま周囲を見回し、止めに入るかどうか迷っている風情のウェイターと目が合うと、ボリボリ頭を掻いた。
「まぁいっか……俺の勘違いだ。邪魔したな」
ろれつの回らない口調で男はそう言い、ウェイターに向かって歩き進んだ。そのまま大人しく引き下がってくれるようだ。
男はウェイターにテーブルのひとつを指し示し、何事か指示する。そこには何本もビールの壜が並び、まだ食べ掛けの腸詰めやチーズの小皿が残されていた。
ウェイターは愛想笑いでうなずき、ちらりとムクロたちに視線を寄越した。
「ああびっくりしたぁ」
男が通りの向うに消えてからようやく、イチゴは肩の力を抜いた。
「すみません」
「ううん、ムクロのせいじゃないよ。でも、ムクロみたいな人が他にもいるって、そっちもびっくりしたよ」
そう言って、イチゴはクスクス笑い出した。喉元過ぎれば面白い『事件』だったらしい。
「そう……ですか?」
ムクロには、イチゴが何故そんなことで驚くのか理解できない。
「うん。だってムクロはこんなにキレイな顔してるんだもん。似てるって人もきっと美人だよね」
無邪気に笑うイチゴに対し、ムクロはなんとも言えない罪悪感を抱いた。
「僕は、美人ではありませんよ――それを言うなら、イチゴの方がずっと美人だと思います」
真顔で言うとイチゴは赤面する。
「えー? やだなぁ、からかわないでよ」
いつの間にか雑踏は元に戻っていた。ムクロたちが気にする様子もなくお喋りをしているので、カフェの客や通りの野次馬たちも興味を失ったのだろう。
ムクロはテーブルを片付けていたウェイターに声を掛けた。
「すみません。さっきの人はこのカフェによく来るんですか?」




