裏の奥に
暗い。
臭い。
汚い。
痛い。
ソウシャ……助けて……。
後ろに縛られた手を必死に動かし、縄を解こうとするが、余計に手に食い込み痛みがはしる。せめて目隠しだけでも取れれば、この状況を把握できるかもしれない。
脳震盪を起こしてしまいそうなほど頭を横に振った。しかし、目隠しはとれない。どれだけ、強く縛っているのだろうか。
深いため息を漏らし、手を休めていると誰かがこちらに近づいてきた。人の気配に、恐怖を感じ、身を引く。
「動かないで」
子どもの声だった。言われた通りに、じっとしていると、視界が少し明るくなった。声をかけた子どもが縛られた手で、器用に外してくれたらしい。
髪が長く、声が高い。背は僕より少し小さかった。女の子だろう。
「ここは……?」
薄暗い部屋だった。どこからか水漏れの音がする。
広さ三十畳ほどのボロボロの木の床に、十数人の子どもが座り込んでいた。全員、後ろで手を縛られており、ボロボロの服を着ていた。見ると、自分も汚らしい服を着ていた。ニスデールと手荷物はどこにもなかった。
「人身売買だよ」
「人身売買!?」
「ユティアは、よく人身売買の商品を見つける場所なんだ」
ソウシャもそう言っていた。
つまり、この状況は、最悪の状況である。
――――どうしよう……
部屋を見回すと、ドアがあった。立ち上がり、その瞬間転んだ。そのときはじめて、足も縛られていることに気付いた。
「クソッ」
這うようにして、ドアまで向かった。ドアノブを噛み、必死に動かしてみるが動かない。体当たりをしてみるが、それもダメだった。それを見ていた女の子は、ため息を漏らした。
「無駄だよ」
全員の顔はひどくやつれ、生気を失っていた。
これが現実ということだ。
僕はソウシャに見つけて貰えずに、ここで売られるか死ぬか……。
――――嘘だろ……
あの場所よりも居心地が悪い。最悪だ。
「なあ、君、名前は?」
「……センリ」
「ふーん」
渋々女の子の隣に座り、くるまった。
「君は?」
「俺に名前はねぇよ」
「……俺?」
女の子……だよな!?
僕が驚いていると、女の子は面倒くさそうに髪を触った。
「悪いけど、俺、男だから」
「え!?」
「人を見た目だけで判断しないでくれる!? 俺、根っからの男だから」
「お、女の子かと……」
「俺に会ったとき、皆そう言うんだ。もう聞き飽きたよ」
「君はここにどのくらいいるの?」
「さあね。ここに来て、一番古株は俺。つまり、商品にもならないし殺されもしないってことだよ」
「それってどういう……」
「俺が聞きたいよ。お気に入りにされているのか、俺にだけはきちんとご飯をくれるから、他の奴らに比べて元気だ。他の奴らは、ご飯さえまともにもらえていないからな」
「じゃあ……僕、ここで死ぬのかな……」
「死なないように精々頑張りなよ」
「うん……」
それから何時間経っただろうか。木の隙間から見える空は、暗く月明かりが見えていた。ソウシャがすぐにでも探しに来てくれるかと待っていたが、もしかしたら探してはいないのかもしれないと、ソウシャを疑ってしまう。
数分前、女の子に似た男の子は、怖そうなおじさんに呼ばれ、連れていかれた。それが夜ご飯ということだろう。もちろん、僕にはない。
お腹が鳴っているのは、僕だけではなかった。
――――どうして、あの子だけ……
‡
「いましたか!?」
テトゥーは首を横に振った。
「見つからねぇ。一体、どこに行きやがった」
「きっとさらわれたのでしょう」
「人身売買の商人にか!? もしそうだとしたら、見つけるのは困難だぞ!?」
「商人は見つからない場所に、商品を隠します。私達が探すには、骨が折れるでしょうね」
「どうするんだよ。あの子は、お前のせいでこうなったんだぞ」
ソウシャは深いため息を漏らし、空を見上げた。いつもなら綺麗に見える星空が、今日は悪魔の影に似た夜空に見えた。
――――どうしたものでしょうね
ため息はおさまることを知らない。
本当に面倒な拾いものをしてしまったのかもしれない。別に良かれと思って、拾ったわけではない。そこまでの善意が自分にあるとは到底思えなかった。
――――私はここにいていいような者ではないのですが……
テトゥーに視線を向けると、テトゥーはどこからか拾ってきたどんぐりを食べていた。
「そういえば、どうして目を離したのです?」
「あ、いや、その……」
テトゥーは確かにセンリといたはずである。
どうやら、どこかに落ちていたどんぐりに気をひかれたらしい。護衛につけていた意味が、全くない。
考えに考えること十数分。背伸びをし、再度ため息を吐いた。
今日は本当にため息しかでない。あまり気乗りはしないが、仕方ない……。
ソウシャはスッと左手をあげた。
『貴方様のお立場をお考えくださいませ!』
『興味ありませんから』
『で、ですが! 貴方様は――』
目を閉じ、呼吸を整える。
テトゥーはその様子を静かに見つめていた。
‡
誘拐され一日が経った。未だにソウシャは迎えに来ない。
空腹の苛立ちとソウシャに対する不安や憎悪が芽生え始めていた。
うずくまり、涙を流していると名もなき女の子に見える男の子が隣に座ってきた。
「大丈夫?」
彼は何故か特別扱いをされ、きちんと食事も与えられている。それに嫉妬しないはずがなかった。人間は極限状態になったらどうなるのだろう。そんなことを昔考えたことがあった。今、その状況に立たされると、疑心暗鬼でしかない。
一日一度与えられる食事は水だけだった。これでは、数日持ちそうにない。ここが、僕の死に場所というわけである。
「もっと……生きたかった」
僕の声に、男の子はただただ静かに背を撫でてくれていた。
‡
その日の夜になってもソウシャは現れなかった。
空腹を紛らわすために、眠りにつく。そのとき僅かに気配を感じ、目を開けると男の子が部屋を出て行っていた。
「え……」
一瞬見えた男の子の手の中には、この部屋から出るためのドアの鍵があった。しかし、そのまま眠気に負け、深い眠りについてしまった。
次に目を覚ましたときは、ガタガタと音がしはじめたときである。多分、朝を迎える少し前のことだろう。
そこに隔離されていた誰もが身体を起こし、怯えていた。
身体を丸め、がくがくと怯えているとドアが破壊されてしまった。全員の恐怖にひきつった顔は、一斉にドアに向く。その一点を集中して見ていると、人影が入ってきた。一瞬恐怖に身構えるが、見たことのある人物だと気付き、安堵の表情を浮かべた。
「こんなところに捕まっていたのですか……」
目をこすり、見上げると、そこには面倒くさそうな表情を浮かべたソウシャが立っていた。白いニスデールが土で汚れている。一生懸命探してくれていたのだろうか。まさか、そんなはずはない。僕のことなんて放っておいてもいいはずなのである。ただの他人を助けるほど、優しすぎる人間がこの世界にいるだろうか。いないと、僕は信じている。だから、ソウシャが助けに来てくれるはずなどない……。
「なのに、どうして……」
涙声であることに自分も気づいた。目からこぼれそうな涙を拭い、ソウシャを見据えた。すると、ソウシャは軽々と僕を抱き上げた。
「帰ったらお風呂ですね」
「どうして……」
「自分の子を助けない親がどこにいますか?」
――――僕はソウシャの子ども……
ソウシャに怯えている子供たちを見回す。
「彼らは?」
「既に縄は解いています。帰るも帰らないも自由です」
いつの間にそんなことまでやったのだろう。
「でも待って! 商人が!」
「商人? あぁ、もしかして人身売買のために自分がさらわれたとお考えですか?」
「違うの!?」
「確かに攫った人間はそういう裏の商人です。ですが、これは違いますよ」
「え……じゃあなんのために?」
「分かりませんか?」
「え?」
「この中に、少なくても太っている人がいるのではないですか?」
確かにいる。ただ、一人だけ。
反応に困っていると、ソウシャは話を続けた。
「その者こそが、一番の商品です。選ばれなかった人たちが、こうやって飢え死にしていくのです」
「選ぶって!?」
「身体を売るのです」
「か、身体!?」
「商人はかなりの幼い子ども好きのご様子。気に入った子どもを抱いては、その対価に食事を与えているのです。つまり、センリが思っているその子どもは、身体を商人に売っていたのです」
「そんな……」
「ユティア街では、当たり前のような光景です。ですが、私も、はじめは人身売買の商人かと思っていましたから、そちらを探っていました故に、遅れました。申し訳ありません。怖かったでしょう」
言われ自分の身体が震えていることに気付いた。ソウシャの服を掴み、顔を埋めると涙が頬をつたった。
「助けに……来ないかと……」
我慢し続けていた恐怖が、今になって押し寄せてきていた。
「ここで……死ぬのかと……」
ソウシャは、小さな手から伝わってくる震えに、静かにセンリを見据えていた。
ソウシャにとって、センリの気持ちが分からないわけではない。寧ろ、痛いほど伝わってきていた。
「僕は…………」
センリも気付かないほど小さなため息を吐き、微笑んだ。
「センリ、帰りましょうか」
怖い思いは、もうしたくなかった。見放したと思ったソウシャが、ちゃんと助けに来てくれた。それだけで、とても嬉しかった。心からソウシャに安心感を覚える自分が、いることに今頃気づくのは遅いだろうか。
ソウシャがどんな人でもいい。
僕を裏切らないなら、それで十分だ。
だから、ソウシャ。どうか、最期まで僕を裏切らないで……。
でも、きっとソウシャは僕の本性を知ったら手放してしまうだろう。仲間を見捨てた僕を、ソウシャは許してくれるはずはない。また、僕は独りになってしまう。
――――ねぇ、ソウシャ……
僕にとって、今大切な人はいるのかな。
‡
『私たちを見捨てるのね。この裏切り者』
どこからか聞こえてきた教会の鐘の音に、僕の服は血に染まっていた。