現人神
「じゃあ、今ソウシャが目を覚まさないのは……」
柩婪は哀しげに視線を逸らし、ソウシャを見据えた。
「俺のせいだ。……俺はこのことも、後で知ったんだ。俺は何故か生きていて、ソウシャは目を覚まさないという不可解な状態になっていただけで、知らなかったんだ」
センリはソウシャに視線を向けていた。
ソウシャは柩婪を守るために、自らを犠牲にしたのだ。ずっとその悪魔はソウシャのなかで、生き続け、ソウシャを蝕んでいく。それに耐えるのが、どれほど過酷なものだったのかは想像できない。
「今ソウシャは、どうして」
「悪魔に心のすきを見せてしまったか、己が己に負けたかのどちらかだ」
何故、ソウシャは暴れ狂い、こうなってしまったのか、それはソウシャが目を覚ますまで分からないことだった。
――――ソウシャ……。ソウシャは今、どこで何をしているの?
‡
ソウシャがセンリと出会う八十三年前……。
柩婪の件が過ぎ、再び天照大御神から呼び出しをされてしまった。
部屋に行くと、相変わらずの暗さがある。そこに光が灯され、天照大御神がいた。
「次は何です?」
「命の恩神に向かって、態度がでかくなったのう」
「……それで何の用です?」
「広間に新たな住神を連れておる。今日からこの屋敷に住まう者じゃ。会うと良い」
「え? 新たな神?」
「百聞は一見に如かず。まあ、行ってみるとよい」
言われるがままに広間へと向かうが、何故またここに新たな神が住まうというのだろうか。大体、この屋敷は一応私の所有物であって、天照大御神のものではない。家主は私だというのに、立場といい、今のことといい、どちらが上か分からない。
広間に入ると、いつも私がいる場所に綺麗な装束を身に纏う女神が座り、空を静かに見上げていた。
神と聞いていたものの、神ではないと感じる。
「現人神?」
人間でありながら中途半端に神力を持つ魔ノ子とは違う、きちんとした神力を持つ現人神。
私は人間が苦手だった。嫌いというわけではないが、人間の貪欲さや様々な思いが理解できずに、それはいつしか苦手なものへと変わっていった。
現人神は振り返り、優しく微笑んだ。
「あなたがリルオーフェ様?」
とても綺麗な声だった。ガラスのように透明な声。
「はい」
彼女は微笑み、私に向き直った。
「初めまして、私、センリと言います」
「センリ……」
センリは口元を抑え、咳をする。
「風邪を引いているのですか?」
彼女は首を横に振り、苦笑を浮かべた。
「いいえ、そんなことはないのですよ」
繕う彼女を気にすることもなく、私はこれからどうしていいものかと考えを巡らせていた。行けと言われたから来たものの、居たのはセンリという現人神で、私の何かというわけではない。
「リルオーフェ様」
呼ばれ顔をあげると、彼女は可愛らしい笑みを浮かべ、首を傾げていた。
「この屋敷でお世話になります」
「現人神が高天原に居て、大丈夫なのですか?」
「え?」
「葦原の中つ国は、一人の人間がいなくなるだけで、大騒ぎになるそうですね」
センリは苦笑を浮かべ、空に視線を向けた。
「私なら大丈夫ですよ。人間界の戸籍にも、私の名はありませんし。世の中には存在していない人なのです」
「そうでしたか……。申し訳ありません」
「全然いいのです。もう慣れていますから」
立ち尽くす私を見て、センリは自分の隣に座るように示した。
「私より、いくつも上の神ですもの。座りませんか?」
彼女はまた咳を繰り返していた。
人間の風邪は、神には移らないが、それがもし、神の風邪であるなら移ってしまう。
私はそんなことを考えて座りたくないわけではなかったが、センリの近くまで寄るだけで、隣には座らなかった。
「遠慮しておきます」
「どうしてですか?」
「なんとなく……です」
「私のこと下賤な神だと思っていますか?」
「え?」
「私は高天原のなかでも、下の神ですから、確かに下賤な神ですけど……」
「残念ながら私はそういうものに興味はありません。むしろ私はそれを理由に、近づいてこない、上に見てくる神々が嫌いです。私を地位という飾りだけで、祀り上げて敬い、慕う神など、神の姿をしただけの者に感じられます」
センリはクスクスと笑い、私を見た。
「面白いですね、リルオーフェ様って」
「面白いですか?」
少し驚いて苦笑を浮かべると、センリは咳き込みながらも笑みを返してきてくれた。
「ごめんなさい、悪気はないのです。ただ、普通、高貴な神なら俺は偉いんだとか私は私はって頭に乗るものでしょう? なのに、それに興味がないどころか疑問を抱くなんて、とても面白いですね」
そんなことを言われたのははじめてだった。他の神々にそんなことを言えば、皆は口をそろえて、何故だと問うてくるだろう。それなのにも関わらず、そんなことをいうセンリが逆に面白く、不思議に思えた。
私にとってみれば、そんな考えを持つセンリの方が余程面白いものである。
「そんなことを言われたのは、生まれてこのかた初めてです」
そこに天照大御神が現れた。流石のセンリも、天照大御神には頭があがらないようで深くお辞儀をしていた。その顔を私にも見せてくれていれば、私も他人行儀でいられたのだろうと思う。
「仲良う、なれたかの?」
出会ってまだ十分も経っていない。仲良くなるもなにも、まだお互いのことを名前くらいしか知らないのだから、なろうにもなれない。
センリは頭をあげることなく、天照大御神の質問に答えていた。
「少し話を致しました」
「リルオーフェ殿よ、どうかの?」
どうかと聞かれても、現人神で、人間界に戸籍がなくここに住むセンリという神ということしか分からない。
「まあ……良いと思いますが」
「ならば決まりじゃな」
「え?」
「センリ」
「はい、天照大御神様」
「ここを我が家だと思い、好きに使いよ。リルオーフェ殿のことも頼もう」
「分かりました。深く感謝を申し上げます」
天照大御神はセンリから視線を逸らし、こちらを見るなり薄ら笑みを浮かべた。
「リルオーフェ殿」
「何でしょう?」
「今宵は、わらわが忙しいゆえ、明朝部屋へ来なされ」
「明朝にですか?」
「柩婪もともにのう?」
天照大御神は笑みを浮かべてはいるものの、目が笑っていないことに、私は気づいてしまい、私に浮かんでいた笑みも消えてしまった。
天照大御神が何を考え、何を企んでいるかなど、誰に聞いても誰が見ても、考えても分からない。もちろん、この私にもさっぱり分からないことである。
翌日の朝、言われた通り天照大御神の部屋へと行った。相変わらず暗い部屋に、光が灯り天照大御神の姿がうつしだされた。
「何の用でしょう?」
「センリという子はどうじゃの?」
「どうと申されましても、そんなに話してはいませんし」
「わらわが部屋を去ってからはどうじゃったか?」
「天照大御神が去ったあとは、私も部屋に戻りましたから、そのあとはなんとも言えません」
「なんじゃ、戻ってしもうたのか」
「はい……。何か問題でもありましたか?」
「彼女は、そなたの許婚になるものじゃ」
「あぁ、私のですか」
驚きも喜びもせず、ただ納得する私に天照大御神は逆に驚いたようだった。背を向けていた私の方に振り返り、目を丸くさせる。
「なんじゃ、驚かぬのか?」
「……高貴な神には、許婚がいるものですから、特には……。強いて言えば、何故現人神なのかが気になるところです」
「嫌か?」
「いえ……。ただ、私は人間が苦手ですので」
「だからじゃ。そなたは将来、国を治めていかねばならぬという使命がある。それを全うするためには、人間を知ることからじゃ。そう思うての」
「そうでしたか」
だがこのとき、私はセンリに対して恋情も友情も感じてはいなかった。ただ、一緒の立場にある神というだけで、それ以外は何も感じられなかった。
「だがの、問題が一つあっての」
「問題、ですか?」
「センリはのう、生まれたときから脆弱での。昔から病を患っておる」
「咳が出るのはそのせいですか?」
「そうじゃ。……今の段階では、神に移るような病じゃないゆえ、そなたも接してやってくれ」
「今の段階では……。では、後の段階ではどうなるのです?」
「…………そなたの身に、何かあるかもしれぬ。だがの、その前には手をうつから安心してよい」
手をうつ……。その言葉の意味を全く考えていなかった自分に、このあととても後悔をすることになる。
「柩婪よ」
一緒に来ていた柩婪は、床に跪き顔を伏せていた。
「はい」
「具合はどうじゃ?」
「……おかげさまで、前より元気になりました」
十数年経った今も、天照大御神は柩婪の容体を心配していることが多かった。柩婪に会うたびに、身体はどうかと聞かずにはいられないほどに。
「また無理をしすぎてはならぬ」
「今は、リルオーフェに少しずつ相談をするようになりました」
「そうかそうか。それは良きこと」
天照大御神が柩婪の容体を心配する理由に、純粋なものは存在しなかった。すべて、私の身体に障らないようにとの考えからであった。どれほど、天照大御神が私を失いたくないのか、身に染みて感じられた。
「リルオーフェ殿も、痛みがあったらすぐいうのじゃよ」
「分かりました」
それでも痛みは時々あったが、それを柩婪に聞いたとしても天照大御神に一度たりとも話したことはなかった。
その日も、広間に行くとセンリが先にいた。
広間に入り、立ち止まると、センリがこちらを向き、笑みを浮かべた。
「いらっしゃい、リルオーフェ様」
許婚と聞いても、興味もわかず、どうでもいいとさえ思っている。センリ自身がどう思っているのかだけ、少しばかり気になっていた。
近くまでは行くものの隣に座ることはせず、そばの柱に背を預け立っていた。それでもセンリはそれを見て、仕方ないという表情を浮かべ空を見上げた。
「私、外にあまり出たことがないのです」
「私もありません」
「奇遇ですね。どうして、リルオーフェ様は出られないのですか?」
「……私は何に対しても特に大きく興味を抱くことがありません。出て、散歩するだけの日々などただ疲れるだけです」
「高貴な神なら、そこら辺を歩いて自分の存在を見せびらかしそうなのに、やはり、リルオーフェ様は行かれないのですね」
「そういうものに興味ありません。それに、私は下賤な神でも構わないのですよ。高貴というその飾りを、センリにあげますよ」
センリは笑い、咳き込んでいた。
本当に咳き込んでいるだけなのだろうかと少し不安になる。
「私は高貴な神など気にしたこともありません。寧ろ、リルオーフェ様のように自分を卑下なさっている方の方が気になります」
「何故です?」
「普通と少し違うからです」
センリは面白い神だと感じた。何を言っているのか、正直少し理解できないことはあったが、それでも天照大御神以外、高貴だろうが下賤だろうが関係なく接しようとするセンリの姿に少しだけ気を許していた。しかし、柩婪のようにすぐには打ち解けられないのもまた事実であった。
それから数日間、広間で会うだけの日々を過ごし、ともに質問しあい、ともに笑った。ただ何もない日々に、花が咲いたような日々が過ぎていった。
だがそれから数日間、センリは姿を現さなかった。
一人で過ごす何気ない日々は、笑いもなければ味気もないものだった。いつものように窓から入る心地よい風と四季を感じさせない香りを身に感じながら、高天原を見下ろす。時々聞こえる鳥のさえずりに耳を傾けながら、ただ単に、何もない日々が過ぎていくだけだった。いつしか、明日はセンリが来るかもしれないと待ち望むように広間へと入るようになっていた。だがそこにセンリの姿はなかった。
それからまた数日後、いつものように広間で外を眺めていると突然、広間の扉が開け放たれた。反射的に視線を向けると、そこには少し痩せたセンリの姿があった。
驚く私のもとにセンリは近づき、私の前まできて一礼した。
「ごめんなさい、少し体調が優れませんでした」
ぺこりと頭を下げるセンリに、私は優しげな笑みを向けた。久々会えた嬉しさとまた笑顔が見られたという安堵があった。
「少し様子を見に行こうと思ったのですが、部屋がどこか分かりませんでしたし、行かない方がいいかと思いまして……お見舞いに行けず申し訳ありません」
「いいえ、構いません。移らないものだとはいえ、リルオーフェ様にそんな時間をとらせてしまったら申し訳なく思いますから」
やはり誰も、私のことを高貴な神としか見ていないようだった。
そんな思いが私の顔に出ていたようで、センリは慌てて訂正した。
「あのっ、その高貴な神様にということではなく、あなたはここでこうしてのんびり何気ない日々を過ごすのがお好きなのでしょうから、その憩いの時間を邪魔したくなかっただけです。決して、あなたが高貴な神だから恐れ多いとかそういうものはありませんので、安心してください」
そうだった。センリだけは私を高貴な神として見ていなかった。あなただけは、私をたくさんいる神々の中で普通の神として見てくれたのだった。
だが数多くいる神のなかで、一人や二人、そんな神がいたところで不思議ではない。完全に気を許してはいけない。
私は取り繕うように笑みを浮かべ、彼女に席を譲るように立ち上がった。
「ありがとうございます、センリ。立っていてはきついでしょう。どうぞ、センリの席です」
「い、いえ。そこはリルオーフェ様の席です」
「私はもう充分楽しみました。そろそろ交代です」
センリに一礼し、広間を後にした。
廊下を歩く私は立ち止まり、ため息を漏らし、廊下の窓に近づいた。
一緒に空を見上げ、高天原を眺めればいいものを、不思議な気持ちがして落ち着かないために逃げるように去ってきてしまったことを後悔していた。でもどうしてか、彼女を見るだけで落ち着かない気分になっていた。それが私にとって、少し怖いものであった。彼女、センリが一体どうしたというのだろうか。ただの同居人のようなものだ。それ以上も以下もない。
――――私はどうしたのでしょうね……
自分に呆れ、フッと笑みを漏らしそのまま部屋へと戻って行った。
翌日からセンリは普段通り広間に現れては、一緒に談笑を繰り返した。
日々を重ねるにつれ、私の気持ちはセンリに傾き始めていた。だが、それを食い止めようとしていたのは他ならぬ自分自身であった。
センリに心を許す度、私は少しずつセンリと距離を取り始めた。やがて、私は広間へ行かなくなりセンリと会うこともなくなった。
「行かないのですか?」
「どこにです?」
柩婪は私のことを気にして、センリに会いにいかなくてもよいのか聞いてくるようになったが、私の答えはいつも変わらない。
「センリ様に会いにいかれないのですか?」
「柩婪、私は一応これでも仕事くらいはあるのですよ。彼女に構っている暇などありませんよ」
その言葉は自分自身に言い聞かせているものだった。正直なところ、少しだけセンリに会いたいという気持ちはあったが、これ以上会ってはいけないような気がし始めると、会うに会えないでいた。
「リルオーフェ?」
そんな気持ちに一番気づいていたのは、私ではなく柩婪だったのかもしれない。
ため息交じりに立ち上がり、柩婪の横を通り過ぎるときに柩婪の手のひらにお金を手渡した。柩婪は驚いて振り返るが、私は片手を振るだけで何も言わない。柩婪はここ最近、私のことを考えてか好きな本すら買いにいけていなかった。
それに気づいたのはリルオーフェだった。柩婪はそんなリルオーフェの背を、笑みを浮かべ眺めた。こういうところは優しく気遣ってくれる。
リルオーフェは、誰もいない庭に出ていた。久しぶりに自ら出た外は、少し心地よい。見上げた空はとても青く、至極澄んでいるようだった。
深呼吸を繰り返し、野原に寝転んだ。
こうして温かな日差しのなか、眠るのも久しぶりである。
なんて心地の良いものだろう。これなら、毎日今度からこうして眺めていられそうだ。神に日焼けというものがないのなら、尚いいが……。
そんなことを考えながら、気付けば少しの間眠ってしまっていた。
目が覚めると夕暮れを告げる空の色となっていた。ハッとして起き上がり、ため息交じりに苦笑を浮かべた。
「余程心地よかったようですね……」
立ち上がり、屋敷内へと戻って行った。
そこに柩婪が現れ、天照大御神が呼んでいると伝えられ、今度はなんだろうかと天照大御神の部屋へと向かった。
「今度は何でしょう?」
「センリとは仲良うなれたかの?」
「それなりには……」
「好きにはなったのか?」
好き。その気持ちがどういうものなのかが分からない。それは一体どういうものなのだろうか。苦手の反対という意味ならば、別に苦手ではない。寧ろ、一緒に居たいと思うほどであった。
「その気持ちが分かりません。それに、最近は会っていないのです」
「なんと!? 会っておらぬのか!?」
「はい」
「何故じゃ!? 体調も良かろう?」
「そうなのですが……」
「そなたが優れぬのか?」
「いえ、私はとても元気ですが」
「ならばなぜ会わぬ?」
「……何となくですが、センリに心を開き始め、センリの笑顔を見ると安堵するようになりました。数日間顔を見せなかったとき、はじめは然程気にしていませんでしたが、気付けば、見舞いに行こうかと考えてしまう始末です。私の中で、センリが他の神々と少し違うようにも思えてきました。ですが、その正体が分かりません。胸がざわつく感じと言いましょうか。私にはそれが分からないのです」
「……ほう。だから逃げたのか?」
「逃げる?」
天照大御神は不適な笑みを浮かべ、私の方に向き直った。そしてひとつ息を吐くと、珍しく可愛らしい笑みを浮かべた。
「リルオーフェ殿よ、それは所謂『恋』じゃの」
「コイですか?」
「恋じゃ。そなたは、センリに惹かれておるのじゃよ」
私が?
センリの何に惹かれたというのだろうか。そんなことは戯言に過ぎないのではないだろうか。私がセンリを好きに? これが、好きという名の恋というもの。
誰かに友情を感じたことのない私が、恋情までもいくのだろうか。
胸に手をあてて考えてみるものの、答えが出てくることはなかった。
「私は……」
「リルオーフェ殿よ、いい加減向き直ったらどうじゃ? 自分と、過去に」
「過去……ですか?」
「そなたは本当に記憶がないのじゃのう」
「記憶?」
私の記憶? 私に過去、何か遭ったのだろうか。私に何が?
柩婪と出会い、柩婪と自分の悪魔をすべて取り入れ、センリと出会った。それ以上も以下も、私の知る記憶はない。気づけばこの世界に生まれていて、気付けばリルオーフェと呼ばれていた。それ以外に……一体、何が……。
「その記憶とは何ですか?」
「そなたが自ら思い出さなくてはダメなのじゃよ。わらわが思い出させるのは簡単じゃ。柩婪と出会う、少し前のこと。それを思い出して、自分と向き直ってみよ」
柩婪と出会う少し前。私は今と変わらない日々を送っていた。広間へ行き、風を感じ、花々や樹々の匂いを覚え、何もない一日を過ごす。そうして過ごしていた。そんな記憶しかない。私が何かを忘れているのであれば、思い出したいが、ならばなぜ私は記憶を無くした?
「リルオーフェ殿」
悩み頭をフル回転させていたが、それでも記憶を無くしているという記憶はない。天照大御神のハッタリかと思ったが、こういうときに、嘘を吐くような神ではない。それは自分自身が重々承知していた。
顔をあげると、心配しているのか何かを考えているのか分からない、そんな表情を浮かべこちらを真っ直ぐに見据えていた。
「……はい」
「センリとの恋沙汰のことじゃがの、センリに触れてみれば分かることよ?」
私が、センリに触れる?
「そなたのことよ、センリに触れたことが一度もないのやろうて。触れるのが怖いのなら、もう答えは出ておるがの」
話は以上だとでも言うように私に背を向け、椅子に座った。
「あのっ」
聞きたいことはまだ山ほどあった。答えてくれるかは分からない。だが、聞いてみないことには答えにも辿り着けない。
「そなたの記憶の話しなら、それ以上は何も話せぬ。さあ行くがよい、センリは広間にいるようじゃよ」
そして段々と暗くなりはじめる天照大御神の部屋から、暗さが増す度に一歩ずつ後退り、そのまま走り去っていった。
私は一体何者!?
リルオーフェ神国を次に統べる神……。高貴な神……。
私の失った記憶?
分からない。何が一体、どうなっているのだろう。どうして私は、記憶を失ったのだろう。どうして……どうして……。
私はどうして、天照大御神と一緒にいるのだろう。
ずっと何故か疑問に思わなかったことである。何故、天照大御神がここにいるのかという疑問はいつも抱えていたが、何故一緒に居るのかまでは考えたことがなかった。ただ、一緒に居ることが嫌でも苦でもなく、むしろ一緒にいなければいけないとさえ思っていたのだ。
天照大御神は絶対に何かを知っている。
だがそれを応えてくれるはずもない。
センリに恋をした? だから何かが動き出した? 違う……。何かが違う……、根拠はないが、そんな気がしてならないのは私が何かを知っているせい? センリ……。私は昔、あなたに会ったことがあるのだろうか。天照大御神と私の関係は一体……。
動き出した歯車は、止まることを知らず、狂い始めた時間は、二度ともとには戻ることを知らない。
『そなたをわらわが救ってやろう。そなたの名は、リルオーフェ、そう名乗るがよい』




