ソウシャの焼印
言葉を失ってしまう。ソウシャが神様? 人間ではなく、この世に存在するのかも定かではない神という存在だというのだろうか。残念ながら、すぐに、はいそうですかと納得できるものではなかった。非現実さに、驚きを隠せない。
「この俺、柩婪はそのソウシャ神の神使」
「俺は、ソウシャ神、式神の啉杜や」
「だから、ソウシャと俺らは繋がっている。ソウシャが死ねば、俺らも死ぬ」
「俺はただのしゃべるリスだからな。あ、でも俺の家は高天原にあるけどな」
「センリ」
呼ばれふと我に返るが、それでも信じられない事実を突き付けられたことに、動揺は隠せずにいた。視点が定まらず、なんだかふらふらする。
「ソウシャは天照大御神と呼ばれる、高天原の最高神に気に入れられていて、ソウシャを死なせはしないだろう。ただ、そうなれば俺も啉杜も、テトゥーもソウシャももう、お前とは二度と会えなくなってしまう」
「……その」
「だが、何故かセンリを高天原に連れてくるように言われているらしい」
「ぼく……を?」
「だが、ソウシャの思いは、お前を連れて行かないことだ。だが、このままではソウシャが死んでしまう」
「ソウシャが?」
声が震え、勝手に涙が頬を伝いはじめる。
「可笑しいと思わなかったか?」
「え?」
「この国は、リルオーフェ神国という。普通なら、リルオーフェ王国だ。国王が治める国なら尚更な。だが、ここは神国だ。神が治める国のことを通称、神国と呼ぶ」
「じゃあ、ソウシャが……」
「いや、今はソウシャが治めているわけではない。ソウシャは、この国を見に来ただけだ」
「見に?」
「……ソウシャの昔話を少し聞いてくれるか?」
そして柩婪は語り始めた。ソウシャが、どうして神ながらにこの国に現れ、何故焼印が刻まれてしまったのか。そして、今のソウシャの状態を話し始めたのだった。
‡
ソウシャがセンリと出会う何百年も前……。
ソウシャはひとり、鼻歌交じりに窓から外を眺めていた。高天原を一望できるその部屋には、心地よい風が吹き込み、四季を感じさせることのない花々や木々の香りが匂った。始終、静かなそこは、ソウシャのほかに神使の類を除いて住んでいる者が一人だけである。その者名を、天照大御神といった。
そこに、普段から仲良くしてくれている男神が部屋にやってきた。
「やあ、リルオーフェ!」
私に名はまだ無かった。リルオーフェというのは、私がいずれ統べることになる国の名前であり、私の名前ではない。
窓から視線を逸らし、男神に視線を向けると、彼は私の気持ちなど気にすることなく近づいてきて、肩に手を置いた。
「遊ぼうぜ!」
このとき、私の歳は分からない。だが、たぶん小学生くらいだとでも言っておけばいいだろう。見た目はとても幼かった。
その男神は、一応同い年らしいが、彼の歳すら知らないのだから自分の歳など分かるはずもない。
「やめておきます」
彼の手を払い退け、席を立ち部屋を去って行った。
「ノリ悪いのッ」
背後で彼が舌打ちしたのが聞こえたが、そんなことも気にしない。
広々とした屋敷の中を歩いて行く。
必要最低限のものしか廊下にも部屋にもなかった。それが私の趣味というわけでも、ものが多いと落ち着かないというわけでもない。ただ、そういう家具というものに興味がないだけだった。
薄暗く長い廊下を歩いていると、背後に気配を感じ立ち止まる。
「何でしょう?」
振り返ることなく声を掛けると、背後の人影はフッと笑った。
「相変わらずやのぉ」
その声ですぐに天照大御神だと分かるが、二人しかこの屋敷内にいないのだから当然といえば当然なのかもしれない。
振り返り、ため息を吐く。
「どうされましたか?」
「そなたの年頃よ、遊びに行ってまいれ」
「……それが命令であるならば、遊びに行きましょう」
「命令などせぬ。遊びたいときに遊び、寝るときに寝る。それが子というものじゃろう?」
「分かりません。そんなものに興味はありませんから」
私の冷たいあしらいに、天照大御神は慣れていた。だがいつもならここで引き下がる天照大御神も、今日は下がらなかった。どうしたのかと首を傾げると、ようやく天照大御神は口を開いた。
「今宵、わらわの部屋に来なされ。そなたに会わせたい者がおる」
「私にですか?」
「そなたにとって、必要不可欠な存在じゃ」
「必要不可欠な存在……?」
「……待っておるぞ」
天照大御神はそれだけ言うと、煙のようにその場を去って行った。
そして私も自室へと戻って行った。
自室はとても静かで、窓もカーテンも開けられていないために、少し暗い。棚から本を一冊抜き取り、椅子に座り開き読みはじめる。
ふと顔をあげれば、空は夕暮れを告げていた。
流石にそれほど長く読んでいたことには驚いたが、仕方ないと本棚に戻し部屋を見回した。
高天原。そこは天照大御神と呼ばれる最高神が統べている世界。
私は名のない神。皆にリルオーフェと呼ばれ、周りの神々に比べ高貴な神に値する位に立っていた。生まれてからこの屋敷に住まい、基本的に外出はしない。神という存在にも、学校というものが存在したが、それにも全く出席せず、今の今までを過ごしてきた。私は、皆にこう言われている。『皆が欲しがるものを、すべて手に入れておきながら、あっさりそれを棄ててしまう』それは私のレッテルのようなもので、その言葉に嘘はなかった。確かに私は、皆に比べて欲という欲はなく、何に対しても興味が湧くことはない。それは誰かに対しても、ものに対しても、自分に対しても同じことだった。この世界は、いろんな色に満ちているとよく言う神がいる。だが、私にはそう見えていなかった。この世界も私も、色はたった二つだけ、黒と白というモノクロの世界でしかなかった。実際、色が目に見えないというわけではなく、気持ちの問題であるが、かといって、私が病んでいるということでもない。ただ、それほど何に対しても、無欲無関心ということであった。
私は外が段々と暗くなってきたのを見て、天照大御神の部屋へと向かい始めた。
天照大御神。私の育て親のような神である。私の実の母でもなければ、親族というわけでもない。多忙な父神に代わり、私を育ててくれているだけの神のはずだったが、最近は上からよく言ってくるようになっていた。立場的に上なことに間違いはないが、最近の天照大御神は、私のことを何故か気に入っているらしく、私を早々にリルオーフェ神国という国の神に仕立て上げたいらしかった。
コンッコンッ
部屋に入ると、明かりが何一つない状態だった。
「リルオーフェです……」
一声かけると、瞬く間に部屋に明かりが灯されていった。
そして部屋の中央に佇む女の子。白銀に金の髪、金の瞳を持つ彼女こそが、天照大御神である。
「よう来たのぉ。適当に座りなされ」
言われるままに座り、カタカタと何かを探し出す天照大御神の背を眺めていた。
しばらくして、天照大御神は手に何かを持ってこちらに近寄ってきた。
「これを、そなたに渡そうと思うてな」
持っていた紙を受け取り眺めた。人型を模った紙である。
「これは何でしょうか?」
「神使じゃよ」
神使。その言葉を聞いて、紙を差し出し返そうとした。
「受け取るのじゃ」
「受け取れません」
「そなたには必要な存在よ」
「いえ、私には不必要です」
「形代を使わねば、神使は生まれぬ」
「それは分かっています。ですが、私には神使という存在はいらないのです」
「何故じゃ? そなたはリルオーフェ神国という国を統べるべき神よ。そこら辺りの神々とは違うのじゃよ?」
「それが何だと言うのですか? 高貴とか下賤とかそういうのは、興味ありませんし、私にとってはどうでもいいことです。何なら、他のひとに譲り渡します」
天照大御神は形代を受け取ることなく、私に背を向けるとため息を漏らした。
「そなたはどうして、そう無欲なのじゃ。もう少し貪欲に生きてもよい」
「私は人間のように貪欲には生きたくありません」
「人間やのうても、神でも貪欲に生きよう」
「貪欲に生きる神がいるのなら、無欲に生きる神もいるはずです」
「もっともな意見じゃがのぉ、それでは神の均衡が成り立たぬ」
「私には自由がありませんか?」
「あるやろう? そなたには自由というものが、他の神よりもはるかに多く」
「……でしたら、神使の形代は受け取りません」
「では、致し方ないのぉ。命令といえば、そなたは受け取り、神使を持つのかの?」
「……ご命令とあらば」
天照大御神は納得いかないように、不満気にため息を吐きこちらを振り向いた。
「ならば命令とするしかないの。リルオーフェ神国を継ぐ者、リルオーフェ殿よ、その形代を使い、神使をつけよ」
私はその言葉に、頭を下げることも敬礼することもなく、ただただ天照大御神を見据えるだけだった。だが、今の関係であるならばそれが普通であったが、もしも、この立場が崩れたならそれは大罪でもあった。
形代を手に部屋に戻ってきた私は、特に何を思うことなく形代をテーブルの上に置いた。
神に食事というものは、基本的に必要はない。趣味として、そういうものを嗜む者もいるが、私にとってみればそれは面倒なことのひとつであった。それから睡眠や運動というものも必要はない。眠らなくても朝は来るし、寝なければ身体がもたない人間と違い、身体は丈夫に出来ている。力さえ持っていれば、神力も自由自在に操れた。
平凡に何事もなく日々を過ごしていくだけの人生。
しばらくただ立ち尽くし、呆然としていたが、我に返り形代に視線を向ける。
仕方なく天照大御神の命令を聞く。
机上から筆を手に取り、形代にリルオーフェと記す。本当ならここには自分の本当の名を書くべきなのだが、残念ながら私は名のない神。リルオーフェという通り名しかない。これで神使など出来るのかと不思議に思うが、天照大御神の形代はほかの形代とはまた違ったものであるがゆえに、失敗は絶対にしなかった。
形代に、リルオーフェ、と記したあとはそれを、自らの手から出した火で燃やしていく。そして出た灰を小鉢に入れる。
そこで奥から布を取り出してきた。その瞬間、瞬きする間もなく服を作ってしまう。どんな神使が生まれるかは分からないが、裸で生まれてくる神使を包むものがいるだろうと作ってみたものの、作ったあとに、サイズのことを考えていなかったと少しだけ後悔するが、まあ仕方のないことだと苦笑を浮かべた。
小鉢を床に置き、その周りに服を置いた。そして右手の人差し指をたて、左手のひらの上をスーッとなぞった。すると刃物で切られたかのように切り傷ができ、そこから血が出始めた。それを小鉢の中にポタポタと数滴落としたところで、傷口は塞がっていってしまう。
すると小鉢に奇妙な模様が浮かび上がる。
手を合わせ、目を閉じ唱え始める。
「天照大御神ヲ祀リシ、天ツ神、リルオーフェノ名ノ下ニ従ウ者アリ。義ヲ神使トシ、戒ハ裏切ラズ、願ニ自由デアルヨウニ……。汝ニ遵イ、随ワセル其ノ者ノ名ヲ、柩婪ト記セシ呼名トスル。姿ヲ現セ、柩婪!」
【=天照大御神を祀りし、天つ神、リルオーフェの名の下に従う者あり。義を神使とし、戒は裏切らず、願に自由であるように……。汝に遵い、随わせる者の名を、柩婪と記し呼名とする。姿を現せ、柩婪!】
冷たい霧のような煙と眩しいくらいの光りとともに、神使が姿を現した。
目を開け、小鉢が置かれていた方を向くが、服が散らばっていること以外はなにもなかった。いや、いたようだ。服がもそもそと動いている。そっと手をのばし、服を退かすと、短い黒髪に、うるうるとした灰色の瞳を見せる、小さな男の子の姿があった。私もこのとき、幼かったがそれよりも更に幼く見える。
彼が神使という者だろう。
「初めまして、柩婪」
それが柩婪に初めて声を掛けたときだった。
「ぐらん?」
柩婪は私をまじまじと見ているが、どこかきょとんとしていて、埋もれている服を幼い子どものように散らかしていた。
柩婪の小さな手をとり立ち上がらせる。やはり前もって作っていた服は少し大きかったらしく、仕方なく急ぎ小さめの服に作り直した。
「『柩婪』それが、あなたの名前です」
新しい服に袖を通した柩婪は、どうやら好みではなかったらしく、少し不満気な表情を浮かべたが、大して服には興味がないらしくすぐに視線を逸らした。視線を辿っていくと、そこには本棚があった。
「本が気になりますか?」
柩婪は何も言わなかったが、子どもでも読めそうな本を手に取り手渡すと、柩婪はその場に座り込み静かに読み始めた。
大人しげな柩婪を見て、好きなようにさせておくことにした。
翌日、私が部屋を出ようとすると柩婪が袖を掴んできた。
「どうしたのですか?」
幼い同士、なんだかトモダチが出来たようにも感じる。だが、柩婪にはもとから神使というものが分かるらしく、神使として動くようになっていた。
「どこに……行くの?」
神使も成長するのだろうか。誰かを可愛いと思ったのは、これが初めてかもしれない。
「広間に行くだけです。柩婪も行きますか?」
「広間?」
「私が普段過ごしている部屋です。とても風が心地よくて、高天原も一望できますよ」
「行く」
小さな手をひいてあげようと手を握るが、どうやらそれは恥ずかしいようですぐに手を弾かれてしまった。
広間につき、いつものように窓際に座る。柩婪に座ってもいいと促すが、柩婪は座ることなく、私を見守るように扉のそばに立っていた。
主を見守るという者が神使というものなのだろうか。神使というものは、神のお世話係という言葉を聞いたことがある。柩婪は、生まれながらにそれを理解しているというのだろうか。
窓を開けると、普段通りの心地よい風と花や樹の香りが匂ってきた。一日中、何もない日はこうしてここで、何もない時間を過ごすのだが、大体は邪魔が入る。
扉がノックされ、またあの男神が顔を出した。柩婪の存在に気付くが、柩婪はどうでもいいらしく、すぐに私の方に歩み寄ってくる。
「リルオーフェ、遊ぼうぜ!」
毎日というわけではないが、そのほとんどの日を、こうして私を呼びに来る日にあてている。遊ばなければ、ここで二人きり談話することもあるくらいだった。彼が何をしにきていて、何故私に構ってくるのかは分からないが、大体私に構ってくるのは、地位に興味があるやつくらいなもので、純粋に近づいてくるような者は誰一人としていなかった。
そんな何気ない日々が変わり始めたのは、柩婪が来てからだった。
それから十数年後、いつものように柩婪は私の部屋に朝からやってきた。
「リルオーフェ様、今日は外に出ましょう」
だが無論、私は首を横に振るだけ。
「柩婪が行きたければ行ってください。私は広間に居ますから」
そんな日々ばかりだったが、ある日のこと、柩婪は私を無理矢理外に連れ出した。そこにどんな意図があるのかは知らないが、柩婪はどうしても私を外に連れ出したかったらしかった。
外はとても明るく、幼き神々らの声が聞こえた。
広間から感じる風よりも更に心地よく、花々や樹々の香りも強かった。どれくらい久しぶりに外に出ただろうか。地に足がつくなど、何十年ぶりだろう。
「ほら、たまには外に出てみるのも悪くないでしょう?」
柩婪の温かな笑みに、私は柩婪に心を許しているのだと気付いた。
だが、このとき既に、柩婪は私を少しずつ蝕み始めていたことに、私は少しも気づきはしなかった。
それから十数年後、私は突然天照大御神に呼び出され部屋に来ていた。
「どうなされたのですか?」
私ももう、見た目は成人男性のように凛々しいはずである。ここにはいないが、部屋で休んでいる柩婪もまた、中学生のように可愛らしい男の子となっていた。だが、目の前の天照大御神の姿はどれほど時間が経とうとも変わらなかった。
「この印に見覚えはあるかの?」
天照大御神が掲げた紙には、神々が使う神力の際に現れる魔方陣のような印の絵が描かれていた。柩婪を作った際にも、この奇妙な模様が浮かび上がったのだ。
「それは神々の印ですか?」
「リルオーフェ殿ならば、流石に知っておるようやのう」
「それがなにかありましたか?」
「人間界でこれが使われておるようなのじゃよ」
「下界で!?」
神々の印と呼ばれるそれは、高天原と葦原の中つ国の神々の間のみで使われている印であった。人間にはこの印は見えず、知る由もない。なのにも関わらずこれと全く同じものが、人間間で使われているというのだから驚きである。
「それは神々の間で使われるものではないのですか?」
「そうじゃよ。だがのぉ、それがどうやら人間界に出ておるようでの」
「どうしてですか?」
「『魔ノ子』という存在が、人間界にいるようじゃ」
魔ノ子。基は人間である者が、何らかの理由で神の力を手に入れた人間のことをさす。基を正しても、それは人間であり神ではないため、神が見えるとか神力が自由自在に神を超越して使うことはできない。
「魔ノ子は今、どのくらいいるのでしょうか?」
「さあ知らぬ。わらわの力をもってしても、所詮は葦原の中つ国の話しよ。大国主に聞かなければ分からぬ」
「大国主様にお聞きになられないのですか?」
「聞かぬ。わらわは会いたくもない」
聞けば早いものだが、天照大御神の大国主嫌いは高天原でも有名だった。だがそれも理由はあるようだった。
天照大御神は印の記された紙を燃やし、私に背を向けた。
「それでの、その魔ノ子のことよ」
「はい」
「どうやら発端は、リルオーフェ神国のようじゃよ?」
振り返り、意味あり気に笑みを浮かべる天照大御神から視線を逸らせない。
「リルオーフェ神国、ワシュア街のユティア街寄りに、研究室があるそうじゃ。そこに、その印を持った魔ノ子はおる。全員ではないようじゃが、その半数が魔ノ子と呼ばれる者となっておる」
「それが……私と何の関係がおありですか?」
「自国やのぉ?」
だから何だと言いたかったが、それは呑み込み我慢する。
歳を重ね、段々と立場が分かってきたようだった。
「今、その神国を治めているのは父神様です。私ではありません」
「それは責任逃れやのうて。少し調べてみて欲しいのじゃよ」
「ですが……」
「話はそれだけよ。早々に去れ」
呼び止めようとした手をすぐに引っ込め、一礼して部屋を出て行った。
廊下を歩き、階段を昇っていると、身体の異変に気付いた。
一階分も昇っていないのに、息があがっているのだ。
頭にはてなが浮かび、ふと柩婪の部屋の方を見た。
「まさか、あの柩婪が……」
そんなはずはないと、柩婪の自室へと向かった。
コンッコンッ
「誰? あぁ、リルオーフェ様。どうなさいましたか?」
柩婪は私の姿を見て、苦笑を浮かべた。部屋を隠すようにして、扉の外に出てきた。
「柩婪、最近なにか変わりはありませんか?」
「え? 俺ですか?」
私の質問に、瞳が揺らぐ柩婪は、少し汗をかいているようだった。
「大丈夫ですよ。もしかして、痛みましたか?」
その言葉に、私は胸に手をあてる。いや、痛んだわけではなかったが、何となく、柩婪が何かを抱えているのだろうと思っていた。だがそれは勘違いなのかもしれない。
「……いえ、何もないなら構いません」
「えっと、それでどうしましたか? 俺、実は部屋が散らかっていて、片づけ中なんです」
「あぁ申し訳ありません。……リルオーフェ神国に、魔ノ子が現れているそうです。数も一番多く、ワシュア街が発端とみられています」
「下界に降りますか?」
降りる気は正直全くなかった。それが、命令に変わっても正直、人間界にだけは降りたくないという気持ちがあった。
人間と神は違う。それが、心のどこかにあった。
「いえ、降りません。しばらく様子見します」
それでも浮かない私を見て、柩婪は心配するように顔を覗き込んだ。
「リルオーフェ様、顔色がよくないようですが……。本当に大丈夫ですか?」
「え、えぇ。大丈夫ですよ。柩婪、心配は不要ですから」
「そうですか?」
私は柩婪にこれ以上心配を掛けないように、足早に去って行った。
だがそれからも異変は続いた。
柩婪と一緒にいるときは、何も感じず寧ろ温かく感じるだけだったが、柩婪が一人になると様子は一変した。
柩婪に何があったのか問うこともせず、何も言わない柩婪を放置してしまっていた。
日に日に、歩くだけで疲れるようになり、熱が高くなっていった。医神に助けてもらうが、原因は外にあるわけではないと言われるだけだった。外にないのなら、内からということになる。
内の原因。それはひとつしかなかった。
神使。神に仕える使いの者。主となる神につくられ、血の契約が結ばれる。それは、神使は決して主である神を裏切らず、見捨てず、いつでも味方であり、いつもそばにいること、そして神は神使を使い、自分に足りない部分をそれで補うことが出来る。だがその反面、神使は神の一部であり、神は神使の一部であるために、神使の思いは痛みや感じとなって神に伝わる。その痛みが、度を超えると神は最悪、死に至ることもある。そして、神が死ねば神使は死に、神使が死ねば神も死ぬという命の契約でもある。
つまり、神使の精神状態は神の精神や身体に影響を及ぼしてしまうのだ。
この痛み、このだるさ、この苦しさは全て柩婪からくるものだった。
私が不甲斐ないばかりに、柩婪に負担をかけているのだと思えば思うほど、自分の苦しみも上乗せされていった。
そんな私のもとに、毎日顔をだしてくれていたのが柩婪だった。
「リルオーフェ様、お身体どうですか?」
ベッドに寝転がっていた身体を起こし、柩婪を見据えた。原因は分かっている。だが、それを問い詰めることは出来なかった。
「大丈夫ですよ」
大丈夫。それしか言えなかった。
「リルオーフェ様……」
柩婪とは壁がある。その壁を少しずつ崩していかなければ、私はこのまま死んでしまうかもしれない。柩婪を生かすためにも、自分が死ぬわけにもいかなかった。
「リルオーフェ」
「え?」
「様はいりませんから、リルオーフェとそう呼んでください」
突然の私の言葉に、きっと柩婪は驚いただろうが、それでも柩婪は笑みを浮かべて私の名を呼んだ。
「リルオーフェ!」
そう柩婪に呼ばれるだけで、その痛みも少しは和らいでいくような、そんな気がしたのは私だけの秘密だ。
その夜、痛みがなかった。柩婪の気持ちが安定しているようだ。
久しぶりのゆっくりとした一人の時間に、ベッドから立ち上がり空を見上げた。月明かりが照らす私の身体を、眺めるが、普段服から見える手足や顔、首には何もない。だが、少し服を捲るとそこは赤黒く変色していた。手で触れると、熱を帯びていてとても触れられるほどの熱さではない。
――――これが柩婪の痛み……
そう思えば耐えることが出来たが、本当にこのまま放っておいてもいいのかと悩んでいた。このままでは、二人とも死んでしまうのではないかと思い始めていた。
ため息を漏らし、引き出しから笛を取り出した。
意味もなく笛を見据える。
コンッコンッ
ハッとして笛を落としてしまう。そこに天照大御神は入ってきた。
「あ……」
「あの日会ってから見ないと思うての。体調が悪いそうじゃな?」
足元に転がっている笛を拾い上げ、私に差し出した。私はそれを受け取り、机上にそっと置いた。
「大したことはありません……」
私のその言葉に鋭い視線を向ける天照大御神は、ため息を吐き、疑いの視線を向けてきた。
「脱いでみよ」
「え?」
机上に置いた笛が転がり落ちる。
「装束を脱いでみよ。全てじゃ」
その視線はとても鋭いものだった。一歩後退り、苦笑を浮かべ手を前に出す。
「大丈夫ですよ、私は元気です」
「嘘を申すな。早う、脱いでみよ」
「で、ですが」
「それとも、わらわに無理矢理脱がされたいのか?」
唇を堅く結び、仕方なく帯を外していった。するすると脱いでいき、天照大御神と視線を合わせると、天照大御神はかなり不機嫌なようだった。
「柩婪か……」
「違いますっ、柩婪はなにもっ」
「その様子じゃ、柩婪やのう」
「柩婪は何もっ!」
「……柩婪を切れ」
「え……!?」
天照大御神が言っていることは理解できる。だが、柩婪を切れというその言葉だけは理解できなかった。
柩婪は私の神使である。全く情がないわけではない。寧ろ、少しずつではあるが心を開け始めたと思っていたところなのだ。
「柩婪を棄てよ」
「それはどういうことですか!? 柩婪は私の神使です」
「そのままでは、そなたも死んでしまう」
「これは柩婪ではなく、私がっ」
「柩婪を庇っておるのか?」
いつもの天照大御神はそこにいない。いるのは、私の身を案じすぎる天照大御神だけ。彼女を怖い、そう思ったのは初めてだった。
「違っ」
「ならば、柩婪を切ってみよ。そなたの体調もすぐによくなろう」
「柩婪はなにも悪くありません」
「その赤黒い傷は、外からくるものではない。内からくるもの、つまり、柩婪からくるものじゃ」
「それでも、柩婪は悪くありませんっ!」
「何故そのように柩婪を庇う? そなたは他人のことなどどうでもよかろう?」
「ですが、彼は私の神使です。私の神使に、勝手な真似はさせません」
天照大御神は私の言葉に聞き呆れてか、それ以上言うことはなかった。天照大御神が手を動かすと、私は服を着せられた。
「柩婪が倒れたら切れ。そのときは、そなたが死ぬ日となろうて」
そう言って天照大御神は去って行った。
その背が見えなくなった途端、崩れるように座り込んだ。落ちた笛が視界に入る。
「……柩婪……」
私にとって神使とは何なのだろう。
私にとってあなたは何なのだろう。
瞳から零れ落ちた涙は、何を意味したのだろう……。
それから数日間、私は患いながらも、柩婪と普段通り接し続けた。
「薬を持ってきましたよ、リルオーフェ」
「ありがとうございます、柩婪」
柩婪を私が傷つけてしまわないように、私が柩婪を見捨てないように……。柩婪に背負わせている裏切らないという誓いの戒を、私が壊してしまわないようにしなければならない。
「リルオーフェ?」
「大丈夫ですよ。もうそろそろ治ってきますよ、きっと」
「それなら嬉しいですね」
その翌日、柩婪は倒れた。
私の全身に赤黒い傷が広がり、私も立てるような状態ではなかった。吐血し、痛みと苦しみが全身を襲った。
これが柩婪に背負わせていた何もかも。
私が悪かったのだ。私が柩婪と一線をひいていたから、本当の神使と神になれなかった。悩みごとを相談せず、自分の心のうちに留めておくから、こうなってしまうのだ。柩婪がすべてを吐き出せるような、そんな環境であったなら、私も柩婪も、こうはならなかったのかもしれない。
私のせいで、柩婪を苦しめてしまう。
「リルオーフェ殿!」
そばにいる天照大御神の声が遠くに聞こえる。
助けて、苦しい……。
「リルオーフェ殿! 柩婪を切るのじゃ!」
私は首を横に振った。
「ならば、わらわが切る。それでも良いか?」
いいわけがない。必死に天照大御神の服を掴む。
「リルオーフェ殿、そなたを失うわけにはいかぬ」
「ぐっ……んは、悪くっ……ないから…………」
「誰が悪いというような問題ではないのじゃ」
「おねがっ……ぐら……傷つけないで……!」
天照大御神は私の気持ちの強さに、折れたようで私の傷に触れた。
触れられても痛みはないが、この傷はうつるものだ。触っても大丈夫なのだろうか。
「リルオーフェ殿。三つ、選択肢を与えよう。その三つのうち、ひとつを選びなされ」
苦しい……。それは柩婪も同じだった。
柩婪は自室で、天照大御神の神使らに囲まれていた。周りには小さな結界が張られ、もがき苦しむしかない。
「やめッ……、お願い、やめてッ。りるっ……おーふぇ!」
柩婪の身体には赤黒い傷はなかった。代わりに黒紫のようなものが火花のように身体から出ていた。
呼吸は乱れ、身体には激痛がはしっていた。
「離して…………」
柩婪の身体は、薄ら光り始めた。
それが死ぬということだったのは、後に知った。
天照大御神が提示してきた条件は、三つ。
「リルオーフェ殿、答えられぬか?」
柩婪を失わないために、柩婪のために出来ることはひとつだけだった。
「……私に……ぐらっんを…………」
その言葉に、天照大御神は私に触れたまま何かを唱え始めた。私の身体が薄ら光り始めたが、私も柩婪も、死ぬことはなかった。
『リルオーフェ殿。三つ、選択肢を与えよう。その三つのうち、ひとつを選びなされ』
『みっ……つ?』
『一つ、このまま柩婪を切る。一つ、リルオーフェ自身の体内に、柩婪が患った痛みをすべて背負い込む。もう一つはその逆じゃ』
『それは……』
『どちらかの体内に双方の痛みを封じ込めておくことで、どちらも生きることは可能になるのじゃ。だがの、これは封じ込めている側にはリスクが高いのじゃ。体内の痛みはいずれ、宿主を喰らおうとし始める。それにどれだけ耐えられるかの問題になるのじゃ』
柩婪に背負わせるわけにはいかない。柩婪を手放すわけにも、殺すわけにもいかないのなら、選べる選択肢はひとつだけ。
それから数日後、目を覚ました私の視界に、明るい陽射しが入り込んだ。何度か瞬きをして、目を開けると隣では目じりに涙を溜める柩婪が眠っていた。神使は神と違い、食事は必要ないが睡眠は時々いる。それでも柩婪は珍しい方で、一ヶ月に一度ほどしか眠らないのだが、よほど疲れていたのだろう最近はよく寝ていたそうだ。
座り、柩婪に掛布団を掛け心地よい風が吹き込む空を眺めた。
そのとき、ズキンッと胸が痛み、苦い顔をして胸を掴んだ。
今、自分の身体には、自分を殺そうとしていたあの赤黒い悪魔と柩婪を殺そうとしていた黒紫の悪魔が宿っている。今はたぶん、天照大御神の力で少し抑え込まれているのだろうが、完全に自分が制御することになると、抑えきれるかが分からなかった。痛みがひいていくのと同時に、柩婪が目を覚ました。
「リルオーフェ? ……リルオーフェ!?」
笑みを浮かべ柩婪を慰めるように頭を撫でた。
「怪我はありませんか?」
柩婪は私の声を聞くなり、泣き出してしまう。
「柩婪?」
「よがっだぁ……。ずっど、寝だままだがら…………、ばかぁ」
可愛らしさに自然と笑みが零れる。親が子どもを慰めるように、優しく頭を撫でた。それくらいしか出来ないが、柩婪はそれでも泣きじゃくっていた。
私が傷つけた柩婪。
本当に申し訳ない。
「柩婪」
顔をあげるが、柩婪の顔は涙で濡れていた。
「本当に申し訳ありませんでした」
「俺が、お前を傷つけたんだっ」
「いいえ、柩婪は悪くありませんよ。私が悪かったのです」
「でも、俺は……。俺はリルオーフェを傷つけてばかりで…………。段々と体調崩していくあなたがいるのに……。俺は、それなのに……」
柩婪から手を退かし、布団を退け、向き直った。
「柩婪。私を傷つけたということは確かに事実かもしれません。でも、それがあなたの私に対する気持ちだったのです。それを放置していた私に非があります」
「俺が相談しなかったのが悪いんだ。悪かった」
「大丈夫、柩婪のせいではありません。それも事実です」
そっと柩婪を引き寄せ、少し強めに抱き付いた。
「柩婪、申し訳ありません……。それから、生きていてくれてありがとうございます」
柩婪の涙が私の寝衣を濡らしていった。柩婪の私を掴む力が強い。
神と神使だからなのか、一緒に過ごして来たからなのかは分からないが、私は柩婪に心を許してしまっていた。
「リルオーフェ……、ありがとう……」
その声はとても小さく、微かに耳に届く程度だったが、それはとてもハッキリと聞こえるものだった。
微笑み、柩婪としばらく抱き寄せあっていた。
その日の夜、天照大御神が部屋に来た。普通に顔を出して、労わってくれてもいいものだが、どうやらかなり不機嫌のようだった。
ベッドから降りようとすると、天照大御神に阻まれてしまう。仕方なくベッドに座り、天照大御神の方を見据えた。
「この度は、大変ご迷惑をおかけしました」
「そう思うのなら、柩婪を手放していただきたかったのぉ」
「私が柩婪を手放しても、手放さなくても、結局柩婪は死んでしまいます」
「そうせねば、そなたが死んでおった」
「私は自分の死に関しては、どうでもよいのです。ですが、そこに柩婪を巻き込みたくないのです」
「そんなことを言うやろうて思うておうた」
天照大御神は机上に置かれた笛を手に取り、私に投げてきた。受け取り、首を傾げる。
「そなたの身体には悪魔がおる。絶対に、我を忘れるでない。少しでも隙を与えれば、そなたは死ぬか乗っ取られて終わりじゃ」
「……一生付き合っていくものでしょうか?」
「そうじゃのぉ、いずれは解けるかもしれぬが、今の段階ではそなたと悪魔を引きはがすものはないのぉ。一生と思うておうたほうが良かろうて」
一生……。
柩婪の命と引き換えに、大きなものを背負ってしまったようだ。
「あぁそれから、それは柩婪の悪魔でもあるからのぉ、そなたがもし、柩婪なんか嫌いだとか死んでしまえばいいと思えば、悪魔はすぐに柩婪を殺す。悪魔にもう一回や待ては無いからの。そなたの柩婪に対する気持ちを、気を付けよ」
「……ありがとうございました、柩婪を助けてくれるとは思っておりませんでしたので」
「殺すつもりでおった」
「ではなぜ……」
「無欲、無関心、無頓着なそなたが、柩婪のことを思い、自分より柩婪を優先したからじゃの」
「ですがそれは、前にも……」
「そうじゃの。だが、わらわにとってそのときはどうでも良かったのじゃ。神使くらいいくらでもそなたの力であれば作れるからの」
「柩婪は」
「そなたを責めていたわけでも、嫌っていたわけでもないようでの。どうやら、そなたが外に出ない、誰かと接しようとしない、自分とも距離を置こうとするその態度やらで、悩んでおうたようじゃ。柩婪を助けたいというその思いがあるのなら、もう少し、柩婪を大切にしてやるがよい」
私が誰かを大切にしたところで、それは何の意味を成すのだろう。
でも少しだけ、柩婪と遊んであげてもいいとそう思った。立ち上がり、窓の方に向かう。笛を唇にあて、吹き込むと綺麗な音色が調子となって鳴り響いた。
――――柩婪。これからもよろしくお願いします
そんな私に鋭い視線を向けている天照大御神に、私は気付かなかった。




