最終話 私の王子様
「ねえ、ちょっと。その怖い顔やめなさいよ」
咲が私の顔を指さして眉根を寄せる。私はといえば、そんなの知るかと半ば投げやりに思考を放棄した。
今日は職員会議があるらしく、放課後活動は禁止。授業もいつもより一時間少ない。
「本当にあれきり話してないの? 中原くんと」
あれきり――というのは、私が思わぬ形で中原に自分の気持ちを言ってしまったあれだ。話せるわけがない、気まずすぎる。
中原は先週の金曜日に無事退院した。土日を挟んでゆっくり休み、月曜日――つまり今日から登校している。
「もう私、中原の顔見れない……」
「あほか。今さら何言ってんのよ」
相変わらず辛辣! 咲の言葉にうなだれていると、後ろから肩を叩かれた。振り返ると、そこにはどことなく嬉しそうな雰囲気をまとった大垣くん。
「大垣くん、どうしたの?」
私の問いに満面の笑みを浮かべた彼は、なぜか咲に向かって親指を立てた。グッジョブ、ってか。いや何がグッジョブなの?
「美湖ちゃん、今日の放課後用事ある?」
「え? 別にな……」
「ないよね、うん。というわけで放課後図書室に行っておいで」
人の話は最後まで聞こうね!? まあ別に何も用事ないしいいんだけどさ。分かった、と返そうとした私に、大垣くんは小首をかしげて言い放った。
「――聡が待ってるって。図書室で」
――放課後の廊下。ほとんどの人が玄関に向かって歩いていく中、私は一人図書室へと足を進めていた。
どくどくと上がっていく心拍数に比例して、歩調も速くなっていく。手のひらは震えないように力いっぱい握りしめていた。何を言われるんだろう。どんな顔をされるんだろう。色々なことが頭の中を回るけど。
――中原、私は君に会いたいよ。
目の前には装飾を施された立派な扉。まだ中学生だった私は、ここに憧れてやって来た。あの時はただここの図書室を見てみたくて。この先で出逢う人なんて、想像もしていなかった。
胸に手を当て、深呼吸。収まる気配を見せない緊張に、もうどうにでもなれと扉を開けた。
もう私は出逢ってしまった。あの時とは違う、私の王子様に。あの時と同じ、この先にいるであろうその人に。
「……あれ、いない」
しんと静まり返った空間。人の気配は見当たらない。何となく拍子抜けして、私は息を吐き出した。まだ来てないのかな。
奥に進みながら、懐かしい記憶が蘇る。天井まで届きそうな本棚を見上げて、純粋にすごいと思ったあの日。そのまま進んでいった先に――そうだ、二階があるのを見つけて上ったんだ。
記憶を辿るように、私は二階への階段を一段一段踏みしめる。階段を半分くらいまで上ったところで――
「……え?」
そこにはこちらに背を向けた一人の生徒。本棚と向き合っているので顔は分からない。だけど――あの日出逢った「王子様」と、同じ制服を着ていた。
嘘だ。何でここに王子様がいるの? あの日出逢った彼は、今はもう高校生のはずで。中学生の時の制服を着ているはずなんてないのに。
これは夢なのかと錯覚しそうになる。ならいっそ――私も、夢の中にいようと思った。
「……あの」
中学生だった私は、この人にそう声をかける。そして次はこの人が振り返るはずで。でも、いま目の前にいる彼は、振り返ってはくれなかった。
ああ、これは夢じゃないんだ。だけど今なら――あの日の続きが分かる。ずっと知りたくて、探し続けて、追いかけて。あなたが誰なのか。その真実に手が届く。
「……あなたも、受験生ですか?」
もう私たちの間を遮るものはない。例えあったとしても、そんなものは私が超えていく。
ぱたん、と本が閉じる音。まるでそこだけ風が吹いているような仕草で、彼は振り返った。
「……うん」
あの日より少し低くなった声は、過ぎ去った一年を感じさせる。そしてその声は。合った瞳は。
「そうだよ。――菊地」
大好きな人のものだった。
「う、そ……」
どうして。どうして中原がこんなこと。思考が追いつかなくて、でもなぜだか無性に泣きたくなった。
そんな私を見て優しく笑った中原は、こちらに歩いてくる。
「久しぶりだな。……一年前も、ここでお前に会った」
つまりそれは。
「中原が私の、王子様……?」
震える声で問うと、彼は「俺じゃ不満か?」と返してきたので私は即座に首を振った。そんなわけない。ただ信じられなくて。
「お前は俺の顔を覚えてなかったみたいだが、俺ははっきりと覚えてる。入学式でお前が新入生代表の挨拶をしていた時に『ああ、この人だ』ってな」
そうだったんだ。覚えてないっていうか、見えなかったんだけども。
でも、とふと疑問に思った。私は中学生の頃とは容姿がだいぶ変わったはずで、一目で判断するのは難しい。
「私、中学生の頃とは見た目全然違うよ。どうして分かったの?」
「どうしてって……お前な、」
そこで言葉を切った中原は顔をそらした後、目線だけこちらに寄越して言った。
「気になるやつは直感で分かるもんだろ。例え眼鏡がなくても、髪型が変わっても」
どきん、と心臓が素直に跳ねる。何を思ったのか少しおかしそうに吹き出した彼は、穏やかな目で続けた。
「特に関わる予定なんてなかったし、好きになるつもりもなかった。ただちょっと気になってただけだった」
お互いきっと背中を向けたまま、そのまま過ぎ去っていく予定だったんだ。それを狂わせたのが、あの出会い。
『あんたなんて大っ嫌い!』
『そんなことを言われる筋合いはないな』
「第一印象は最悪だったな。気になってた自分がバカみたいだった」
ひ、ひどい。そこまで言わなくても! だけど、と彼は言う。
「だけどいつの間にかお前が隣にいる日常が普通になってた。いつの間にか……目で追いかけてた」
それは私も同じだよ。中原が隣にいる日々が増えていって、たくさんのことを共有して。気が付いたらこんなに大切な人になってた。
「本当にバカだし、すぐ泣くし、何でも一人で抱え込む。めんどくさいやつだよ、お前は」
「今それ言う!?」
思わず叫んだ私に、中原はぶはっと盛大に吹き出す。そして急に真面目な顔に戻ると、私の目を見据えた。
「でもお前は、誰よりも優しくて人の気持ちに寄り添える。お前の笑顔が人を元気にする」
もし私の笑顔がそうなんだとしたら。私にとっては、中原の笑顔が元気の源だよ。
「今から大事なことを言う。目そらすなよ」
うん、そらさないよ。いつだって、いつまでだって。視界に君の笑顔を映しておきたい。
中原は着ていた中学のブレザーを脱ぎ捨て――朝ヶ谷高校の、藍色の制服があらわになる。
「菊地。――お前が好きだ」
ほろりと、頬の上を温かいものが流れていった。それを気に留める余裕なんてないほど、目の前の彼に夢中になって。
「お前の王子様だからじゃなくて、純粋に一人の男として――俺を見て欲しい」
そんなの、反則だよ。かっこよすぎるよ。もうとっくのとうに、中原しか見えてないんだから――
滲む視界がもどかしい。嬉しくて温かくて、どうしようもなく愛おしくて。
私は口を開く。
「今から大事なこと言うね。目そらさないで」
まっすぐな瞳に映るのは、私ただ一人。どれだけそれを願っただろう。どれだけ私を見て欲しいと思っただろう。
「――中原が、好きです」
言った途端、また涙が溢れてきた。今まで胸の奥にしまっていた気持ちが、一気に押し寄せてくる。
「王子様だから好きになったんじゃない。でも中原が王子様だったらって何度も思った」
これが私の本当の気持ち。中原に頭をなでられる度、抱きしめられる度、強くそう思ったんだ。
「いま私が王子様だって思うのは……中原だよ」
目の前の彼はみるみるうちに顔を真っ赤に染める。でもごめんね、まだ言い足りないや。私はすうっと息を吸い込むと、一気に吐き出した。
「中原が好き! 無愛想で素っ気なくて照れ屋な中原が好き! でもすごい優しくて笑うとすごいかっこいいとこも好、」
抱きしめられた。力強い腕が私の背中を覆う。伝わってくる鼓動は、きっと私のと同じくらい速い。
「……言うな。それ以上は俺がもたない」
夢みたいだ。まだ夢なんじゃないかって、どこかでそんな気がしてる。でも、私たちはここにいて。私たちの想いも確かにここで通じ合ってる。
いいんだよね? 私、信じていいんだよね?
ゆっくりと中原の背中に自分の腕を回した。もうどっちの熱か分からないほどのそれに溺れそうになる。
「菊地」
今一度、その愛おしい声が私の名前を呼んだ。だから私も、大好きな人の名前を口にする。
「中原」
こつん、と額がぶつかった。至近距離で視線が交わり、顔に熱が集中する。――ああ、幸せだ。
「……お前、顔真っ赤」
そう言った彼に、私は「中原だって真っ赤じゃん」と対抗すると、
「当たり前だろ。人生初の告白だぞ。……これくらい、許せ」
さらっとそんなことを耳元で囁かれる。きゅん、と胸が痛いほど鳴った。そして再び目を合わせると、中原は恥ずかしそうに笑う。
「菊地。…………俺と、付き合って欲しい」
ああもう、どうしてこの人はこんなに愛おしいのかなあ。
「はい。私でよければ」
熱い熱い空気が図書室に立ち込める。
お前がいいんだよ、バカ。そう言った中原は、すごく嬉しそうに私の頭を小突いた。
*
「おめでとう――――――!」
パン、と衝撃音がして、私はとっさに身構えた。しかしそれはクラッカーの音だとすぐに分かる。
「ついに! とうとう! やっと! カップル成立!」
「いやー、長かったー!」
「このリア充め!」
「おめでとうございます」
咲、大垣くん、安本くん、森岡くん。教室に入った途端、口々にそんな言葉を浴びせられ、私は混乱した。えーと、ここ教室ですよね? 私、間違ってませんよね? どうしてみんなここにいるんだろう……
周りを見ると、クラスメートも全員祝福モードらしい。拍手が鳴り響いていた。
「お前らな……」
と後ろからため息をついたのは中原。さっき玄関で会ったのでここまで一緒に来た。
「えー、ではここで本人たちからお話を伺いたいと思いまーす」
大垣くんがみんなの注目をひくためか、手を挙げて発言する。いやいやいや、話すことなんて何もないんですけど!? 手で作ったマイクを向けられ困惑していると、中原が物凄く面倒そうに言い放った。
「俺がこいつを幸せにします。以上」
待って今すごい棒読みだった! まったく感情こもってなかった!
大垣くんがつまらなさそうに「ありがとーございます」と冷めた目で返してきたので、とりあえず私は愛想笑いで誤魔化した。
もう用は済んだ、とばかりにみんなが席についたので、私はほっと胸をなでおろす。すると頭を軽くなでられた。
「……じゃな」
見上げると微笑んだ中原の顔。私もつられて笑顔になった。
「ん、……じゃあね」
中原が立ち去るのを見届けて席に着いた私に、早速からんできたのは咲だ。
「おめでとー。詳しい話は後で聞くとして……王子様の件、ネタバラシしてもいい?」
「え、知ってるよ。中原でしょ?」
なんだ知ってるのか、とあからさまに肩を落とした咲に、疑問に思ったことを訊いてみる。
「咲はいつから知ってたの? 中原が王子様だって」
「いつって……そりゃもう、」
と言葉を切った咲は、にやりと不敵な笑みを浮かべた。
「もはや朝ヶ谷高校の常識でしょ。あんたが王子様のエピソード、廊下で私にでっかい声で話した時からよ」
「え!? それだけで分かるの!?」
咲は呆れたようにため息をつくと、「あのね」と子供を諭す口調で仕切り直す。
「校内にあんたの王子様エピソードが広まったら必然的にそれは誰かって話になるでしょ。そしたら噂好きなやつがどうにかして突き止めるに決まってんのよ」
「へ、へえ」
「それが中原くんだって分かったら一気に広まって、知らない人の方が少ないわよ今は」
まああんたは特殊だからね、と付け足された。おい特殊って何だ。特殊って。
「ま、もうそれはいいの。……幸せになりなよ、美湖」
珍しく真面目な口調で純粋に祝福の言葉をもらい、何だか照れくさい気分になる。
「うん、ありがとう」
「あー、やっぱムカつく。リア充このやろう」
「三秒前と態度真逆!?」
そんな会話をしながら、私はずっと温かい気持ちに包まれていた。
放課後、いつものようにみんなで集まっていた。
「やー、本当におめでとう。やっとだね」
大垣くんがそう言うので、少し首を傾げる。みんな言ってたけど、やっととかついにとか……どういうことだろう。私の表情が分かりやすかったのか、大垣くんが説明を加えてくれた。
「二人ね、周りから見たらどう考えても両想いなんだよ。なのに本人たちはまったく気付かないし。見てるこっちがはらはらしたよ」
そうだったのか! 両想いに見えてたんだ……なんかちょっと、嬉しい。
そう考えると、今までの中原の行動がすごく愛おしくて。あれはこういうことだったんだなとか、こういう意味だったんだなとか。
その本人はといえば、私たちと少し離れたところで勉強している。
「聡さん、どうしてあんなところにいるんですか?」
森岡くんが問うてきた。私は「うーん」とためらった後、
「何かねー恥ずかしいんだって。まだ色々と気持ち整理しきれてないんだって」
昨日、メールで言われた。両想いになったことは純粋に嬉しいけど、まだ実感がわかないって。もしかしたら慣れるまで不快な思いをさせるかもしれない。だから先に謝っておく――と、確かそんな内容だった。
「シャイかよ。けっ、かっこつけやがって」
なぜかやさぐれモードに入った安本くんが頭の後ろで手を組んだ。かっこつけてるんじゃないもん、かっこいいんだもん。
私は椅子から立ち上がると、中原の方へ近寄った。そしてその後ろから目隠しをする。
「うわっ!?」
何とも間抜けな声を上げた中原に、私は笑いを必死にこらえた。
「だーれだ?」
「バカ、離せ。菊地だろ」
ちぇっ、すぐバレちゃったか。仕方なく手を離した私は、中原の手元を覗き込んだ。こんな時にも勉強か、と思って見てみたら。
「え、これ……」
無造作に開かれた参考書やノートの隣。私が渡したはずの一冊の本が、存在していた。
「読んでたの?」
「……悪いか」
どうしよう、嬉しい。それと同時に、そんな彼をちょっとだけ困らせたくなる。
「ねえ、ひまわりの花言葉知ってる?」
「言えって言ってんのか」
「訊いてるだけじゃん」
私はあなただけを見つめる。――純愛の言葉。甘く甘く愛を誓う言葉。
でも、彼は照れ屋だから。そんなキザなセリフなんて使わない。
「……勉強の邪魔するなよ」
これが彼の、最大級の照れ隠しなんだから。
頬を赤く染める中原に、私は笑いかけながら隣の椅子に腰を下ろした。
ねえ、照れ屋な王子様。この先、例え私が笑えなくなったとしても。あなたが好きだって言う、私の笑顔が見れなくなったとしても。
ずっと私だけを見つめていて欲しいんだ。私も、ずっとあなただけを見つめているから。
中原は柔らかな笑顔で「バカ」とそれだけつぶやいて、私の頬に優しくキスを落とした。