第33話 零れた言葉
消毒液の匂い。白と黒の世界。無機質な空間に、一人取り残されたような感覚。
「……美湖」
ぽつりと、咲の声がして空気に溶けていった。優しく気遣うように撫でられる背中は、咲の体温が伝わってくる。
「ミルクティー、そこの自販機で買ってきたから。飲みな」
そう言って私の手に缶を握らせた咲は、また黙り込んだ。
窓の外から見えるのは暗い景色。雪がちらちらと降り、闇夜に吸い込まれていく。
まだ、終わらないのかな。
時間の感覚が完全に狂った。中原が救急車で運ばれたのがすごく前のことのように感じる。
こつこつ、と足音が聞こえ、それが私たちの前で止まった。思わず見上げると、そこにはスーツの男の人が立っている。
「……あ、」
この人は中原の応急処置をしてくれた人だ。呆然と彼を見上げていると、
「よく、耐えたね」
男の人はそう言って柔らかく微笑んだ。その言葉の意味が分からずに固まる。
「あんな状態の人を見て止血しようと動いた君はすごいよ。普通ならパニックでそれどころじゃないはずだ」
「え……あの」
「ああ、ごめん。申し遅れたね」
男の人はスーツの内側に手を入れると、そこから名刺を取り出した。
「僕はここの病院で働いている看護師です」
受け取った名刺には、確かに名前の上に看護師と記されていた。
「本当に君はすごい。よく頑張ったね」
瞬間、言いようもない感情が一気に込み上げてくる。喉の奥からせり上がり、涙と共に嗚咽となって溢れ出た。
「う、……あっ、く、」
怖かった。すごくすごく怖かった。それはあんな光景を見たからとか、そういうんじゃなくて。もっと深くにある、何か違うもの。
中原がいなくなったら――そう考えるだけで、頭がおかしくなりそうだった。止血しようとしたのも、何かしないと中原が死んじゃうって。だめだって思ったからで。
「わ、たし……何もできなかったっ……!」
この人がいなかったら今頃、――考えたくはない。だけど間違いなくこの人のおかげで命だけは助かった。
「そんなことはないよ。手を差しのべること自体が君の素晴らしい勇気だ」
「でもっ、あなたに全部、してもら、もらっただけで……」
「君が彼を必死に助けようとする姿が、僕にも勇気をくれたよ。きっと君の姿はあの場の人の心を打ったはずだ」
必死すぎて周りなんて見えなくて。無我夢中で何かを手繰り寄せていた。中原が死んだら冗談じゃない。中原は死なせない。――私が守る、って。
あの時、半ば本気で思った。この人のためなら、命を差し出すこともいとわないと。
私は両足に力を込め、立ち上がった。そして深く深く頭を下げる。
「あ、……ありがとう、ございました……!」
少しくすんだ白い床。落ちてゆく雫を他人事のように見つめた。
――その時、待合室で内線電話が鳴った。どうやら、手術が終わったらしい。
私は家族じゃないから、まっ先に駆け寄ることができない。そもそも、私のせいでこんなことになったんだから、合わせる顔もない。少し冷静になったそばからとてつもない罪悪感に襲われる。
数十分前、中原の親御さんが病院に着いた時、私は勢い余って土下座をした。そんな私に、「顔を上げなさい」と諭すように中原のお父さんは言った。
「事情は聞いたよ。君のせいじゃない。聡が自分でしたことだ」
そう言ってくれたけど、拭いようのない気持ちが私を支配している。
親御さんが案内を受けて廊下の奥へ進んでいくのをぼんやりと見送り、私は再び視線を床に落とした。麻酔が切れるにはまだ時間がかかる。その間に、先生から親御さんに手術の説明があるそうだ。
私が会えるのはあと、どれくらいなのかな。会っても許されるのかな。――中原はまた、笑ってくれるかな?
あの向こうには私の大好きな人がいる。手術を終えて、一命をとりとめた彼が。
大丈夫、生きてる。中原はちゃんと……そこにいる。
結局私が会うことができたのは、一週間後のことだった。大人数で行くのもちょっと、ということになり、代表して私一人でやってきた。手には美味しいと評判のスイーツ店の箱。
受付を済ませ、エレベーターから降り、まっすぐな廊下を進んで行く。病室の番号を一つひとつ確認し、中原の名前がある部屋を見つけた。
一度深呼吸。思い切ってその病室に一歩踏み出す。
中原は、奥のベッドにいた。窓の外を見つめ、虚ろな瞳はその景色を映していない。黒いパジャマを着ていた。
「……菊地?」
ふと視線をこちらに戻した中原が、口を開く。――もう、だめだ。
「……よ、かった……」
ほろほろと、自分の中で静かに崩れていく不安。湧き上がるどうしようもない愛しさ。
「中原……良かった……!」
せき止めていたものがすべて溢れた。せっかく会えたのに、視界が滲んで中原の顔が見えない。
「菊地……」
その声が聞きたかった。どんな姿であっても、無事でいて欲しかった。
私は中原のベッドまで近寄ると、横にあった椅子に腰を下ろす。
「中原……ごめんね」
こんな体当たりで守ってくれた。なりふり構わず守ってくれた。ねえ、中原にとって私はそんな存在だって思ってもいい?
「守ってくれて、ありがとう」
力なくベッドの上に乗っていた彼の手。自分の両手を重ねた。
「……お前、こんな時くらい俺に心臓の休息時間を与えろ」
ふ、とおかしそうに笑った中原の顔を見て、心の底から安心する。私がずっと見たかった笑顔だ。
「あ、忘れてた。これお土産」
白い箱を差し出すと、「そこに置いといてくれるか」と言われたのでそうした。
改めて中原を見つめると、顔には明らかに疲れが出ている。どことなく辛そうだ。
「……私、帰った方がいい?」
会話するだけでも気力消耗するし。もともと長居はできないし。
「怒るぞ。……こんな時くらい側にいろ」
きゅん、と久しぶりに胸が高なった。色々考えていたけど、もう全部吹っ飛んでしまう。
「ん、側にいるよ。ずっといる」
中原が望むのなら、いくらでも。その瞳を見つめていたら、ふいっと逸らされた。
「……あんまり見るな、変になる」
何か前にもそんなこと言われたような気がするな……とりあえず見るなと言われたので視線を外す。
すると中原がぽつりと、本当にぽつりと言った。
「あの時、菊地の声が聞こえた」
「え?」
「意識が朦朧として、何が何だか分からなかった。でも菊地の俺を呼ぶ声が……聞こえた」
ちゃんと届いてた。中原は死なせないって思いも込めて。
「……中原は、私が守るって決めたんだよ」
もうこれからは、絶対こんな目にはあわせないから。私のせいで中原が傷つくのは嫌だ。
「中原が死ぬなら、私が代わりに死ぬよ。絶対絶対、死なせない」
好きだとか、大好きだとか。それはもちろんそうだけど、そんな枠を超えた感情。
「中原が泣きたい時は私も泣くし、笑いたい時は一緒に笑う。苦しい時は私も共有したい」
大事な人の大事な時に、寄り添っていたい。そう思うよ。
中原からの返事がないから不審に思って視線を向ける。すると彼はベッドに横になっていた。
「中原?」
顔は向こうを向いているので表情が分からない。立ち上がって恐る恐る覗き込むと、彼は目を閉じて眠っていた。
「……嘘でしょ」
よくこのタイミングで寝れるな……私、一人でなかなか恥ずかしいこと語ってたんだけど。
「おやすみ」
一言そうつぶやいて、私は病室を後にした。
*
中原が入院をしている間、色々なことが分かった。
犯人はあの場で現行犯逮捕され、ストーカーを行っていた人と同じだと判明。朝ヶ谷高校の女子生徒が目をつけられたのは、つい最近だったらしい。
「中原くんってあとどれくらい入院するの?」
咲にそう訊かれ、私は「二週間以上はかかるって」と返した。そう、二週間。体を張って守ってくれた彼。その二週間が終わったら――
「咲。私ね、中原が退院したら言おうと思う」
出たのは自分でも驚くほど冷静で清々しい声。でも、でもね。中原が私を守ってくれた。それがもう彼の気持ちだと思うから。
私の言葉に咲は「もー」と笑い、
「当たり前でしょ、言わなかったら無理やりにでも言わすわよ」
さらっと恐ろしいこと言ったなこいつ……内心苦笑しつつも、私の胸中は穏やかだった。
中原。今すぐ会いたい。私の初恋の人で、私にとっての王子様。
会ったら、ちゃんと言うんだ。無愛想なところも、照れ屋なところも、本当は優しいところも。全部全部、大好きなんだよ。
降り続いていた雪は、いつの間にかやんでいた。
「あ、美湖ちゃんっ」
また一週間後。病室に顔を覗かせた私は、久しぶりに聞く可愛らしい声に思わず頬を緩ませた。
「結衣ちゃん、こんにちは」
麻衣さんと一緒に中原のお見舞いに来ていたらしい。結衣ちゃんは大きな瞳をぱちくりさせて、私を見つめる。
「美湖ちゃん、こんにちはじゃないよ。もうこんばんはだよっ」
「ふふ、そうだね。こんばんは」
学校帰りに寄ったので今はもう夕方。とはいえ、冬の夕方は真っ暗だ。
「せっかく美湖ちゃん来てくれたけど、結衣もいるし……私たちは帰るね」
麻衣さんは言いつつ眉を下げる。私もあんまり長居はできないな、と思いながら軽く挨拶をした。
改めて中原に向かい合い――と、急に緊張感がわいてくる。昼に咲と告白がどうのこうのという話をしたばかりだった。
「……また来てくれたのか」
中原が先に口を開いた。ああ、うんと曖昧な返事を返し、沈黙が落ちる。
そういえば私、この前も恥ずかしいこと言ってそのまま帰ったんだっけ。まあ中原は途中で寝てたから聞いてないんだろうけど。
「中原、寝ていいよ」
そう言ってそっと手を握った私に、中原は驚いたのか「は?」と素っ頓狂な声を上げる。
「この前も寝てたでしょ。私に気使わなくていいから、眠たかったら寝て?」
つないだ手に少し力を込めた。中原はふわりと頬を朱色に染めると、ため息をつく。
「……この前のは、眠たかったから寝たんじゃない。というよりも寝てない」
「え?」
「お前があまりにもすごいこと言うから……何か色々と耐えられなくなった」
そ、それはどういうことだろう! 今度は私が赤くなる番だった。つまりあの恥ずかしいのを全部聞かれてたってこと?
「……ずっと、握ってろよ」
少し無愛想にそう言った彼は、ふいっと顔を背けると体をベッドにあずけた。きっとその頬はさくら色なんだろうなあって、思っただけで心の奥がじんわり温かくなる。
「うん。……おやすみ」
何でかな。やっぱりこの人は、すごくすごく愛おしい。
ああ、好きだなあって。特にこれといったことはないけど、そう思って。
たぶん、その言葉はすごく自然にこぼれた。
「――好きだよ」
まるで息をするようだったから、自分でも気付くのに時間がかかった。気付いてから――とんでもないことをしでかしたと、体中を熱いものが駆け巡る。
「あ……え、っと」
ぱっと即座に手を離し、回らない頭で必死に考えた。けれども、何を言っても弁解のしようがない。
「わ、私帰る!」
とっさに口をついて出たのはそれだった。
ぐちゃぐちゃの思考。どうやって病室を出たかも、家に着いたのかも、よく覚えていない。ただ、心臓がうるさくて。
ああもう、もっとちゃんと言いたかったのに。目を見て顔を見て、笑顔で伝えたかったのに。
帰る道すがら、私の熱い頬を雪がかすめていった。




