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第27話 彼の大事な人

 どくどくと痛む心臓を押さえて、私は走っていた。運動はそんなに得意ではないけど、今はそんな悠長なことを言っている場合じゃない。

 校門から少し行ったところで、中原の後ろ姿を見つけた。私は迷わず口を開く。

「中原!」

 そう叫ぶと、呼ばれた本人は一瞬肩をすくめ、振り返った。その目は彼が驚いていることを伝えてくる。

 ――数分前、大垣くんは言った。

「特別に教えてあげようか。――聡の好きな人」

 その言葉に頭が殴られたような衝撃を受けた。そうだ。今の今まで、具体的に誰なのかなんて考えたことがなかった。ただ漠然と、その人と幸せになってほしいなって。その反面、両想いになりたいなって。

 わがままなのは分かっていた。……いざ名前を聞こうと思うと、心が震えた。

「だって、聡に好きな人がいるのはとっくのとうに知ってるよね?」

「うん……知ってる、けど」

「聡のこと、諦めたくないんでしょ? だったら聡が誰を好きでもその想いは変わらないよね?」

 残酷だ、と思った。恋というのは時にして残酷だ、と。

 諦めたくないんだと言ったいつかの自分の言葉が、ブーメランのように返ってくる。

 この想いは変わらない。……変わらない、よね? 突然不安に襲われ、私は思わず俯いた。

「聡って本当に親しい人にしかあんな話し方しないよ。ねえ、美湖ちゃん。そんな人って、誰だと思う?」

 そんな言い方されたら、嫌でも分かるじゃん。中原の好きな人――

「五時から会いに行くんじゃない? いいの? このままだと聡、その人にとられちゃうよ?」

 ガタ、と椅子から立ち上がった。

「――いいわけ、ないでしょ……!」

 迷惑だとか。邪魔だとか。そんなことを考えてる暇はない。例えそう言われたとしても、私は諦めない――前にそう決めたばかりだった。

 教科書を無造作にスクバに放り込み、私は図書室から駆け足で中原を探した。

 そして今、目の前には驚いた顔の彼がいる。

「……あの、」

 こういう時、何て言えばいいのかな。単刀直入に訊いちゃっても大丈夫なのかな。

「どうした?」

 首を軽く傾げ、そう問うてくる中原。――ええい、もうどうにでもなれ!

「さっき電話してた人って誰? 中原の好きな人? 今から会いに行くの?」

 一息に吐き出すと、中原は気の抜けた顔で「は?」ともらした。は? って……何でしょう?

「……何、言ってんだお前」

「う、ごめんなさい」

 そうだよね。意味分かんないよね。突然質問の嵐が来たら誰だってそうなりますよね……

「でも気になるの! その……今から、会いに行くのかなって思って……」

「菊地」

 呼ばれて顔を上げると、中原はくしゃりと笑った。

「お前さあ……必死すぎ」

「えっ」

「勘違いしそうになるからやめろ」

 片手で顔を覆い、目をそらした彼はどこか恥ずかしそう。勘違いって……何をだ? 今度は私が首を傾げる番だった。

「そんなに知りたいか?」

 中原は口角をくいっと上げて、意地悪く訊く。初めて見るその表情に心臓が跳ねた。

「うん……そのために追いかけてきたんだよ?」

 動揺を隠して精一杯平静を保つ。彼はため息をつくと、

「……姉さん」

 と、言った。

「え?」

「だから、さっきの電話は姉さんから。妹を迎えに行ってくれって頼まれた」

 お姉さん!? 驚愕の事実に開いた口が塞がらない。

「本当に?」

「何で嘘つく必要があるんだ」

「だ、だって……大垣くんが言ってたんだもん。電話の相手は中原の好きな人だって」

 私の言葉に、中原が「あいつ……」と忌々しげにつぶやく。髪までわしゃわしゃとかき乱す始末だ。おおう、珍しい。中原が情緒不安定になっている!

「……そっか、うん。ありがとう」

 ぽつりとこぼし、私は一息ついた。何だ、大垣くんの意地悪だったのか……

「――まずい、時間がない。悪いがそろそろ行く」

 腕時計を確認して背を向けた中原に、私は思わず「ねえ!」と呼び止めた。歩み寄っていいかな。もっと君を知りたいって、思ってもいいかな。

「私も一緒に行っていい?」

「え、行くってお前……」

 だって知りたい。中原の家族のこと。今まで彼の口から家族の話を聞いたことがなかったから。

「中原の妹さん、見てみたいの!」

 言い切った私に、中原は小さく笑った。

「……本当にお前は、変わってる」

「中原に言われたくないですー」

 心底おかしそうに肩を揺らす彼の隣。私はそっと並んで、歩幅を合わせた。


 それから約十五分ほどで、保育園に着いた。

 もうそろそろ使われなくなるであろうグラウンドには、カラフルな遊具。門の前に立つ私たちの耳に入っては抜けていく、楽しそうなはしゃぎ声。ここに中原の妹さんが通っていると言う。

「俺が行ってくるから、お前はここで待ってろ」

 完全な部外者である私は、その言葉に大人しく頷いた。どんな子なんだろう。きっと中原の妹さんだから、すごく可愛いんだろうな。

「あら、聡くん! 今日はお姉さんご用事?」

「はい。急遽引っ越しする友達の手伝いを頼まれたらしいので」

「そうなのー? でも良かったわ、ちょうど結衣ゆいちゃん起きたところだから」

 女の人と中原の会話が聞こえてきた。ふんふん、妹さんは結衣ちゃんっていうのか。

「結衣、帰るぞ」

「んー……おねえちゃん……」

「……今日は俺なんだけど」

 まだ眠たそうな結衣ちゃんと中原が話している。うわあ、何か新鮮。本当に兄妹って感じ!

「ほら結衣。今日はお友だち連れてきたから、早く帰ろう」

 な・に・そ・れ! 待って、私たぶん今日は心臓もたない日だ。お友だち!? あの中原が、「お友だち」!?

 そしてしばらくしてからこちらへ歩いてきた中原と結衣ちゃん。

私はその姿を視界に入れ――見惚れた。

 さっきははっきりと見えなかった結衣ちゃんの顔。ぱっちり二重の大きな瞳はつやつやと輝いていて、汚れを知らない。発色の良い唇に、すっと通った鼻筋。そしてほんのり色づく頬が、この子の幼さを表している。

「……綺麗……」

 確かに可愛い。可愛いけど、それだけじゃない。まっすぐで柔らかそうな黒髪は二つに束ねられているけど、将来それをほどいたら間違いなく大和撫子。

 二人は仲良く手をつないだまま、私の前で立ち止まった。

「結衣、挨拶は?」

 中原が結衣ちゃんを促す。彼の顔をちらっと見上げた結衣ちゃんは、それから私の方を見てとびきりの笑顔を見せた。

「こんにちはっ」

ずきゅん、と私の中で何かが打ち抜かれた。この子……この子……

「可愛いいぃっ……!」

 思わず心の声がもれて私は我に返る。何やってるんだ! 私も挨拶しないと!

 すっと静かにしゃがみ、結衣ちゃんに笑いかける。

「こんにちは、結衣ちゃん。お兄ちゃんのお友だちの、菊地美湖です!」

「お兄ちゃんの、お友だち……!?」

 大きな瞳を一層大きくさせた結衣ちゃんは、嬉しそうに語尾を上げた。しかし次の瞬間、中原を見上げると不思議そうな表情を浮かべる。

「お兄ちゃんに、お友だちいたんだねっ」

「結衣!」

 中原がたしなめるようにそう怒ったから、私は我慢出来ずに吹き出した。妹にからかわれてるよ。まあ結衣ちゃんはそんなつもり微塵もないんだろうけど……

「あーもう……帰るぞ!」

 恥ずかしいのか、頬を赤く染める中原。私は結衣ちゃんの空いている片方の手をそっとつかんだ。

「結衣ちゃん。手つないでもいい?」

「うんっ」

 こくんと頷いた結衣ちゃんに微笑んで、優しく小さい手を握る。

「菊地、どうする? このまま家に来るか?」

 行ってもいいなら行きたいけど。結衣ちゃん、嫌じゃないかな?

 すると私の思っていることが分かったのか、中原が「ああ」と付け足した。

「結衣は人見知りしないから、大丈夫だ」

 な? と視線を落として妹を見る彼は、すっかり兄の顔をしている。

 じゃあ、お言葉に甘えようかな。私が口を開きかけた時、前方から明るい笑い声が聞こえてきた。

「あらぁ、いいわねえ。可愛らしい」

「仲良く手もつないじゃってねー?」

 スーパーの袋を片手に下げ、おばさん二人が私たちを温かい眼差しで見つめている。

「可愛いカップルねえ~」

「仲良く妹さんのお迎えかしら~」

 あああ恥ずかしいいいぃ! 違うんですそういうのじゃないんです!

 赤面して俯く私と、結衣ちゃんを挟んで恐らく戸惑っているであろう中原。いやまあ確かに三人で手つないでたら微笑ましいですよね、そうですよね!

「ねえねえ、かっぷるって何ー?」

 くいくい、と手を引いて尋ねてくる結衣ちゃん。

「ばっ……か、そういうのは知らなくていいんだよ」

 そう答えた中原の顔。真っ赤だったのは、私の見間違いなんだろうか。

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