第26話 動き出した想い
「美湖。私はね、あんたを見くびってたわ」
月曜日の朝。がっしりと私の両肩を掴み、咲はそう言った。軽くデジャヴを覚えつつも私は「何が?」と至極冷静に訊く。
「中原くんと、今度こそデートしたんだって?」
「……は、」
「でかした! やっぱり私の見立て通り!」
うん、ちょっと待とうか。まず「今度こそ」って何だ。しかもあれデートじゃないし。
「デートじゃないってば。だいたい、中原には好きな人が……」
「美湖ちゃーん、聞いたよ。聡と動物園行ったんだって?」
横から顔を覗かせたのは大垣くん。え、待って。何で大垣くんがそれ知ってるんですか!?
「いやー、まさかこんな急展開が起こるとは思ってなかったなー」
と大垣くんが言えば、
「本当よねー。たまにはやるわー、中原くんも」
と咲がにやにやと笑みを浮かべた。
何だかものすごく嫌な予感がする。しかも前にも似たようなことがあった気がする。すると案の定、
「菊地さん! 中原くんとデートしたって本当!?」
「やだ、嘘なわけないじゃん! だって二人でいるとこ見たって人いるんだよ!」
うわあ……
私は思わずそうこぼしそうになった。まずい。これは非常にまずい。これはもしかしなくても結構広まってる感じですか!?
慌てて私は「それは違うの!」と否定する。
「誤解だから! デ、デートとかそういうんじゃなくて!」
それでも騒がしい教室内は静まるところを知らない。
「きゃー、菊地さん顔真っ赤! やっぱ二人って付き合ってんのー?」
「じゃなきゃ二人で出かけないかー、そうだよねー」
終わった、と半ば絶望的に天井を仰いだ。うん、終わった。確実に終わった。
「まー、安心しなって。もう校内認定の仲だからあんたたちは」
咲に後ろから肩に手を置かれ、とどめをさされる。校内認定って……やっぱりそんなに広がっちゃってるんだ。どうしよう。このままじゃ本当に誤解されちゃう。中原は私のことなんか好きじゃないのに。大事に大事に想っている人がいるのに。
「違うよ……」
俯いた私に、咲は「美湖?」と覗き込んできた。涙腺が緩む。泣きそうになる。でも。
「違うよ! 中原とはデートなんてしてないし付き合ってもいない!」
叫んだ途端、胸がどうしようもなく苦しくて、張り裂けそうで、涙がこぼれた。
好きなんだよ。大好きなんだよ。だけど中原が好きなのは私じゃないんだよ。
だって、このまま誤解されるのは嫌。中原が困っているところなんて見たくないし、このままにしておいたら中原を傷つける。
好きだから。大好きだから。好きな人の幸せも守れない人になりたくない。
ぐいっと目元を拭ったその時、頭に温もりが降ってきた。
「――泣くな」
優しい声。頭に乗る温かい手のひら。私はこの手を知ってる。
「一人でどうにかしようとするな、バカ」
分かってますか。最後にバカって言うのは、君だけだってこと。
「……中原っ」
見上げてそう呼ぶと、彼は困ったような、照れくさそうな、そんな顔で笑った。こんな時でさえ、その笑顔にきゅんとなる。
「菊地の言う通り、俺たちは付き合ってない。ただ二人で出かけたのは事実だ」
すっかり静かになった教室内。中原の声がよく響き渡る。
すると突然、肩を抱き寄せられた。
「お前らに悪気がないのは分かってる。だが、こいつを泣かせたら俺が許さない」
揺るがない意志を持ったその言葉に、私はかあっと体温が上がる。
「菊地、ちょっと来い」
腕を掴まれ、そのまま中原と教室を出た。怒ってるのかな。怒らないわけ……ない、よね。
だって好きでもない人と付き合ってるって噂されたら、誰だって不快だ。他に好きな人がいるんだったらなおさら。
「中原……ごめん」
私の言葉に、中原は立ち止まる。その顔は「何がだ?」と問うていた。
「あんな噂……校内に広がっちゃって……」
「バカ。気にするな。あんなのすぐ消える」
「で、でも!」
すっと中原の手が伸びてきて、私の目尻を拭った。その手つきがまるで壊れ物を扱うかのようで、くすぐったい。
「……それ以上言うな。謝るのは俺の方だ」
切なげに眉根を寄せる彼に、私はまた泣きそうになる。
「ごめんな。俺のせいで泣かせた」
とくん、と心臓が大きく鳴った。私はぶんぶん首を振り、「そんなことない!」と叫ぶ。
「中原だって傷ついたのに……私、何もできなくて……」
「本気でそう思ってんのか?」
とん、と壁に軽く押さえつけられ、私は混乱した。何で? 何でこんなことするの?
「俺はデートのつもりだった」
「……え?」
「誤解されようが勘違いされようが、構わなかった」
どういうこと、だろう。中原は時々、難しいことを言う。
「……私だから?」
そう訊いてみた。
私だから、誤解されてもすぐ誤解をとけると思ったのかな。いつも一緒にいたから、ただの友達だって言えば済むと思ったのかな。
「私だからどうでも良かったの……?」
そう言った瞬間、中原は目を見開く。だってそうだろう。私の目からは止まったはずの涙がまた溢れていた。
顔をそらした中原は、
「――どうでもいいわけ、ないだろ……!」
絞り出すような声で言い放った後、私の目を見る。
「頼むから……そんなこと言うな」
そして私との距離をぐっと近づけると、耳元で優しく囁いた。
「……気づけよ、バカ」
「んっ」
やばい、変な声出た! 慌てて口元を押さえると、中原は「お前……」と頬を真っ赤に染める。
「ご、ごめ……今のなし!」
恥ずかしすぎる! 十秒前に戻って自分を止めたい!
「なしって……あのな、」
「ごめん! 本当に忘れて!」
中原の言葉を遮って叫ぶ。すると、ちょうど一時限目の予鈴が鳴った。
「じゃ、また放課後!」
するりと抜け出して教室へひた走る。
危なかった! あれ以上何かあったら心臓がもたなかった!
でも、と私は中原の言葉を思い出す。
『こいつを泣かせたら俺が許さない』
すごくすごく嬉しかった。勘違いしそうになった。だけど、ちゃんと分かってるから。中原が私のことを友達だとしか思ってないことは。
今の立場で中原の幸せを見守れるのなら、このままで構わない。本気でそう思った。
きっと嫉妬する。黒い感情がわきあがってくる。だけどそれ以上に、中原を愛しいと思う気持ちの方が遥かに大きいと、そう断言できる自信があった。
私の好きな人。大好きな人。一番幸せになって欲しい人。
窓の外は、もう秋の風が吹いていた。
その日の放課後、いつも通りみんなで集まって勉強。もう十月も終わりにさしかかり、来月末には再び定期テストが行われる。
私はいつも一ヶ月前からテスト勉強を始める人間だ。とりあえず今日は計画を立てて、やるべきことを整理しなくてはいけない。
「美湖、それ何?」
手帳に勉強の計画を書き込んでいると、隣に座っていた安本くんがそう尋ねてきた。
「テスト勉強の計画。名付けて、満点とろう計画!」
「いや、ネーミングセンス……」
うるさいなあ。別にいいじゃないかそんなことは。ボールペンを走らせながら私はため息をついた。
今回のテスト範囲はなかなかに手強い。
数学は私の苦手な関数、三角比。化学はみんなが苦手意識を持つモル濃度。加えて国語は現代文、古文、漢文すべてが範囲。
「今回のテストは手強いよねー。俺もそろそろ勉強始めようかな、柄じゃないけど」
そんなことを言う大垣くんは、なんだかんだ言って今まで三位の座を誰にも譲ったことはない。
私はちらりと向かいに座っている中原を見やった。視線は参考書に固定されているが、手が動いていない。しかも彼が得意なはずの数学。
「ていうかさー、洸はどうなったの好きな人と」
大垣くんが腕を組んで安本くんに話しかけた。
「え、聞きたい? 話し出したら多分とまらないけど聞く?」
「いや、遠慮しとくわ」
「聞くって言えよそこはぁぁぁ!」
安本くんが発狂し始めたので、私は慌てて「ここ図書室だから!」と止めに入る。どうやら恋の病で情緒不安定になっているらしい。
「なんつーかさ、難しいよね恋って。俺、たぶんこれから先あの子しか好きになれないわ」
「語ってるとこ申し訳ないけど、今までのお前を知ってるからまったく説得力がない」
冷静に大垣くんがそう返し、再び叫びそうになった安本くんを今度こそ「大声出さないでよ!」と叱った。
あの子しか好きになれない、か。言われてみたいなあ私も。……なんて。
するとどこからか、ピリリリリ、と電子音が聞こえてきた。何の音だろう。校内は携帯使用禁止なはずだけど。
「……あ、悪い」
中原がぽつりと言い、自らの制服のポケットから携帯を取り出す。え、中原のだったの? 電源切り忘れたのかな。珍しい。
しかしあろうことか、彼はその場で電話に出た。
「もしもし」
いやちょい待て! 何でそんな冷静に電話に出れるんだ! ここ学校だからね!? 他のみんなも唖然として中原を見つめている。
「……ああ、分かってるよ。五時すぎに行けばいいんだろ」
どこに行くんだろう……あと三十分で五時だけど。なす術もないので、私たちはただ見守るばかりだ。
「え? うん、……なるべく早く帰って来いよ」
学校にいる時より格段に優しい声。相手を気遣う口調。中原でも、「うん」とか言うんだ。そんな声で話すんだ。
やがて電話を終えた中原が席に戻った。さすがに「誰なの?」とは聞けない。
「悪い、今日はもう帰る」
帰り支度を始めた彼に、みんなが口々に「おう、分かった」「お疲れー」「さようなら」と返す。私は何も言えずに頷いた。
中原は私の方を見ることなく、急いだ様子で図書室を後にした。
――誰だったんだろう。今さらだけれど、その疑問が頭に濃く残る。
「……気になる?」
唐突に質問され、私は「はい!?」と裏返った声で返事をした。大垣くんはもう一度、問う。
「さっきの電話の相手、気になる?」
この人、絶対分かって訊いてる。気にならないわけがない。好きな人が自分の知らないところで誰かと繋がっているんだから。
「……そりゃ、一応」
むす、とした顔でそう返すと、大垣くんは「しょうがないなあ」と笑った。
「特別に教えてあげようか。――聡の好きな人」




