第25話 諦めたくないから
土曜日の駅前。たくさんの人たちが通り過ぎていく中、私は一人立ち止まって深呼吸を繰り返していた。
「大丈夫大丈夫、きっと大丈夫。いつも通りいつも通り……」
そう、平常心! 無理に女の子ぶったら余計に恥かくから! 自分にそう言い聞かせて一歩踏み出す。視線を上げると、待ち合わせ場所に佇む中原の姿が目に入った。
うわあ、何かもうすごいオシャレなんですけど。――ものすごくかっこいいんですけど!
白いインナーにさらっと羽織ったグレーのカーディガン。そこからすらりと伸びる足は、黒のスキニーパンツを履いている。
待って。本当に待って。今日の中原を至近距離で見て、心臓を保つ自信ないです!
するといいのか悪いのか――私にとっては全然良くなかった――中原が私に気づいた。ああもう心の準備というものが……!
「……菊地、だよな?」
私に近づいた中原の第一声がこちら。え、嘘でしょ? この後に及んで私、顔すら覚えられてなかったの?
「う、うん……ごめんね待たせて」
ショックを受けながらもそう返すと、中原が突然がばっと顔を背けた。どうやら顔も合わせたくないそうです。……うん、開始一分で私もう泣きそう。
「あ、いや……待ってない。全然、本当に」
弱々しい声で言う中原に、私は耐えきれず訊いた。
「……ごめん、私そんな顔も合わせたくないほど嫌なことしたっけ……?」
だとしたら土下座しよう、と半ば本気で思っていると、
「は!? 違っ、これはその……」
慌てた様子で中原が否定する。次の瞬間、私は自分の耳を疑った。
「……お前があんまりにも……可愛い格好で来るから……」
ただでさえ小さい声で「可愛い」の部分をさらに小さく言った彼に、私の心臓は簡単に打ち抜かれた。可愛い!? いまこの人、可愛いって言った!?
「え、と……可愛い……?」
今日の私は、確かに頑張った。デニムのワンピースに淡い黄色のカーディガン。靴は歩きやすいスニーカーだけど、ドット柄のお気に入り。
そりゃ好きな人と二人で出かけるんだから、おしゃれするのは当たり前だけど……
「……もういい、そこだけ繰り返すな! 行くぞ!」
そう叫んで歩き出す直前、見えた彼の頬は朱色に染まっていた。
「わあ……やっぱり混んでるね」
駅から約三十分。私たちは多くの人で賑わう動物園に足を踏み入れた。
数日前のメールで、中原が「動物園行かないか」と提案してきた時は意外でちょっと可愛かった。本人にはバレないようにこっそり思い出し笑い。
すると突然振り返った中原が、無言で手を差し出した。えっと……これはもしや手をつなごうということでしょうか?
動かない私にしびれを切らしたのか、「はぐれるなよ」と半ば無理やり手を握られる。ちょ、――ちょっと待ったあ!
「あ、あの! これ誰かに見られたら誤解生むと思うんだけど……」
「知るか。誤解させておけ」
いやいやいや! それはだめでしょう、それは! 本当のことを言えば、誤解うんぬんよりも心臓が壊れそうだから放してほしい。
「誤解されたら……困るの中原だよ!」
好きな人いるんでしょ。本当はこんなこと知りたくなかったし思いたくもなかったけど。今日ぐらい忘れれば……なんて、できっこないのが私の厄介なところで。
「何がだ?」
純粋に疑問に思ったらしい。中原が怪訝な顔でそう訊いてきた。
「……好きな人いるくせに」
ぽつりと言うと、次の瞬間、頬に痛みが走る。
「いたたたたた痛い痛い痛い!?」
ほっぺ! ほっぺつねらないで!? まじで痛いからやめて!? 容赦ないなあんた!
「バカ。……むかつく」
「は!?」
バカは慣れてるけどむかつくは初めてかな! そうか、私はそこまで嫌われちゃったのか……ショック。
「いいか、よく聞け。――今日は俺のこと以外、考えるな」
真剣な瞳。急にそんなことを言うから、私だって何も言えなくなる。何でそういう期待させる言葉かけるの? 私の気持ち、何にも知らないくせにさ。
「……うん」
心の中では色々思っていても、実際口に出せるのはその一言だけ。黙って頷いた私の顔はたぶん、さっきの中原と負けないくらい赤かったと思う。
そんな私を見て満足そうに微笑んだ中原は、再び歩きだした。――今度は二人、しっかり手を握って。
「ねえ、見て! 立った! 立ったよ今!」
レッサーパンダの檻の前。私は中原に向かってそう叫ぶ。
「……言われなくても見えてる」
テンション低いなあんたは! 目の前には可愛い動物がいるっていうのに。
再びレッサーパンダに視線を戻すと、二匹がお互いに立ったまま取っ組み合いを始めている。うー、かーわーいーいー。
にやにやしつつ中原の方を見た。すると彼の口角がわずかに上がっている。おっと、これはもしかして笑ってるのかな?
ポケットからさりげなく携帯を取り出した私は、カメラ機能を起動させた。
「はい、チーズ」
パシャ、という機械音が響き、画面には微笑む中原の顔がくっきりと映る。
「は!? おまっ、何して……!」
慌てる中原に、私はにっこり笑って携帯画面を掲げてみせた。
「すごい綺麗に映ってるよー。ほら、いい感じー」
「お前な……」
「うん、可愛い可愛い。レッサーパンダといい勝負」
こんなナチュラルに笑ってるのはレアだよ。あ、でも最近は結構笑うようになったかな。今度はレッサーパンダの写真を撮ろうと、携帯を中原の前から退け――
「待て」
がっちりと掴まれた腕。中原は私の手から携帯を奪うと、
「お前の写真、撮ってないだろ」
「えっ……」
まさかだけど、私の携帯で私の写真撮るつもりですか!? それはちょっとナルシストみたいな感じになるからやめてほしいんだけども……
そう思っていると、中原は私に近付いて携帯を上に掲げた。――もしかして、これはツーショット!?
「はい、チーズ」
パシャ。さっきと同じ音が鳴り、画面には戸惑い顔の私と仏頂面の中原が映る。……うわあ、何かすごい残念な感じになったよこれ。
「ほら」
携帯を返され、渋々受け取った。
でも、と思う。今まで写真を撮ったことはなかったし、ツーショットなんてよく考えればすごくすごく嬉しいことで。しかも「はい、チーズ」とか言うんだね、中原でも。
「ふふっ」
「何笑ってんだ」
そういう中原だって、ちょっと頬が緩んでるよ。ねえ、君が笑ってるのは私と同じ理由だって思っていいの? 私にもまったく可能性がないわけじゃないって、思ってもいい?
「何でもなーい」
そう返して笑う私に、中原は「何だそれ」と呆れたように。優しく、笑った。その表情に、瞳に、私の胸はいちいち高鳴る。
「あそこに爬虫類館あるぞ。行くか?」
「はあ!? 行くわけないでしょ、バカなの!?」
「そんなに行きたいなら仕方ないな。行くぞ」
「いやいやいやいや、私の言葉聞いてる!?」
心なしか中原の歩調が早い気がしますが! 何さ、私ヘビとか見たくないからね!?
結局、爬虫類館までずるずると引きずられ、私たちはそこに足を踏み入れた。……けども。
「ぎゃ――――!? やだ無理きもい!」
「へえ、こんな種あるのか」
学習してる場合じゃないでしょう! 新発見しなくていいから! だから早く出よう!
「中原っ! ねえ、ねえってば!」
ぐいぐいと彼のカーディガンの裾を引っ張る。それでもヘビに見入る中原に、私は勇気を出して手をつないでみた。
さすがの中原も驚いたらしい。私の方を振り返り、目を見開いている。そんなに見ないでよ。何かこっちが恥ずかしいじゃん。
「は、早く出よ。……ヘビやだ」
目をそらしてそう言うと、ぐいっと手を引かれた。そして耳元で中原が囁く。
「お前の弱点、見つけた」
ぶわ、と体中を何かが駆け巡った。それは心拍数を急上昇させて、私の脳内をピンク色にする。ああ、もう。――そういうのは反則です!
耳にかかる吐息に、手のひらから伝わる熱。今はそのすべてが私をどきどきさせる原因。
「う、あ……あの、中原……近いっ」
つないでいない方の手で中原の体を軽く押した。しかしその手を取られる。
「……先につないだのは菊地だろ」
また耳元でそんなことをつぶやかれて、もう私の心臓は限界。だめだ、耳に息がかかる……くすぐったい!
「も、本当に無理……出ようってば」
抗議の声を上げると、ようやく開放された。そのまま爬虫類館を後にする。
「あーもうやだやだやだ。次あれ行こう、うさぎふれ合いコーナー!」
脳内から早くヘビの残像を消したかった。……ついでにこのドキドキもおさめたかった。
足早にうさぎのところまで向かうと、私はすぐさまうさぎを抱き上げた。
「わーっ、可愛い~!」
もふもふと白い毛を撫でると、うさぎは気持ちよさそうに目を細める。うわあ、かっわいいなあ……何でこんなに守ってあげたくなるんだろう。
そのままもふもふ撫で続けていると、唐突にパシャ、とシャッター音がした。……ん? パシャ?
顔を上げた先には、こちらへ携帯を掲げている中原。
「ちょっと! いま撮ったでしょ!?」
「すごい綺麗に撮れてるぞ。いい感じに」
おいこら、勝手に撮るな。……って、私もさっき中原のこと勝手に撮ったから人のこと言えないか。
「あのね、せめて一声かけてくれれば……」
「可愛い可愛い。うさぎといい勝負」
だ――――っ! それさっき私が中原に言ったセリフ――――!
「もー、消してよ! 可愛くないから!」
何でさらっと可愛いとか言っちゃうかな。冗談だって分かっててもドキドキしちゃうじゃん。
「誰が消すか。こんなに綺麗に写ってんのに」
そう言う中原の目はしっかりと私を見据えていた。――何よ、そんな真剣な顔でそんなこと言わないでよ。
ああ、心臓が痛い。どうしてこの人はこんなにも私をドキドキさせるんだろう。動揺を紛らわすため、私は口を開く。
「じゃあ何? ずっと保存しとくの?」
からかったつもりだった。冗談だと思ってくれればそれで良かった。
ひょっとしたら、中原が私のことをどう思っているのか探りたかったのかもしれない。答えなんて、とっくに分かってはいるけれど。
しかし中原はふわっと頬を朱色に染めて、けれども視線だけは逸らさずに。
「――ああ、そうだよ」
驚くほどはっきりとした声色だった。まるでそれが「私のこと好き?」と訊いた後の返事みたいだったから、
「嘘だ……」
そう、つぶやいた。
だって中原には好きな人がいる。中原が初めて本気で好きになった人。――好きな人の、初恋の人。
その人になりたかったなんて言ったら、わがまますぎるのかな。散々、王子様が好きなんだって言っておいて。気づいたら中原のこと好きだったから、だから私のこと好きになってほしいって。
でもしょうがないじゃん。だって私には。
「嘘じゃない。何なら待ち受けにしてやろうか?」
もうこの人しか、王子様に見えないんだから――
「……何で……」
辛いよ。中原にそんなことを言われるたび胸が痛いよ。だってどんなに嬉しいこと言われたって、それは恋愛感情じゃないんでしょ?
「ほら」
中原がさっき撮った写真を私に向けた。画面の中にはうさぎを抱いて笑う私。うさぎの耳が顔に当たるのがくすぐったくて、はにかんだような表情になっている。
「お前は笑った顔が一番似合う」
泣きそうになった。ぎゅっと締めつけられる胸は、この人が好きって言ってる。この人じゃなきゃ嫌だって言ってる。
――だけど中原は、好きな人がいると言う。
「中原」
私はすうっと息を吸い込んだ。
中原が恋をしたならば。私にだって恋をする権利はある。中原を、想う権利はある。
「――私ね、好きな人がいるんだ」
しゃがみ込んでうさぎを撫でていた中原に、私はそう言い放った。
「王子様、か?」
こちらを見ずに、ややからかい口調で訊いてきた彼は恐らく私の気持ちに微塵も気づいていない。そうだね。ある意味、王子様かもしれないね。
「うん、そう。やっと見つけたんだ」
ぴたりと、中原の手がとまった。まだ撫でて欲しいのか、うさぎはその手に顔をすり寄せている。
「その人、私のこと好きじゃないみたいだし。だけどその人のこと、諦めたくないから」
やけに静かな時間が流れた。周りの騒がしさが私たちの空白を更に際立たせる。
「……本気で、言ってんのか」
沈黙を先に破ったのは中原だった。
「うん。本気だよ」
「……そうか」
彼の表情は分からない。いまどんな顔してるの? 私は本気だよ。中原に少しでも意識して欲しくて必死なんだよ。
「――俺もだ」
中原は立ち上がると、ゆっくり私と目を合わせた。
「俺の好きなやつも、どうやら俺のことは好きじゃないらしい」
でも、と彼は言う。
「でも諦めたくない。だから今、振り向かせようとしてる」
いいな、と純粋に焦がれた。中原に想われる人。一途に愛してもらえる人。
私じゃ、だめなのかな。私も好きなのに。いつも一緒にいたのに。
「中原なら、大丈夫だよ。きっとその人とうまくいくよ」
うまくいってくれなきゃ、困るよ。私の気持ちはどうなるのさ。とか、言ってみたり。
「ああ、そうだな。今まで遠慮してたが……それどころじゃなくなったみたいだ」
「遠慮?」
「そいつにはずっと憧れている人がいる。俺がかき乱していいのかって、自分の中で悩んでた」
中原も片想いなんだ。全力で片想い、してるんだ。
誰よりも不器用で、一途で、照れ屋で。だけど誰よりもその人のこと、想ってる。
――それでいいよ。中原はその人のことを想っている顔が、一番愛おしい表情をしてるよ。
それぞれの好きな人。誰よりも想ってるはずなのに、うまくいかないみたいだ。