第23話 その代わりに
「――はい、そこまで!」
先生のその言葉と共に、みんながシャーペンを机に置く音が教室に響いた。
「後ろから回収してー」
今日最後の科目が終わり、私は息を吐き出す。問題用紙を前の人に渡しつつ、なんとはなしに窓の外を見つめた。
もう九月の末だというのに、太陽は健全だ。朝晩は少し肌寒い時もあるけれど、まだまだ秋は遠い。
そのまま帰りのホームルームも終わり、私は咲のところへ駆け寄った。
「咲、帰ろう」
テスト期間の今は同好会も活動禁止になっているので、家に帰って勉強するのみ。でも、今の私にとってはそれがちょうど良かった。
「はいよー。ちょっと待って」
咲がいそいそと帰り支度を始める。その待ち時間の間にも、廊下に目を向けてしまう自分が嫌だった。一体、私は何を期待してるんだろう。そんな都合よく来てくれるはずないって、分かってるのに。
「美湖、何ぼけっとしてんの。帰るんでしょ」
腕を引っ張られて我に返った。「あ、うん。ごめん」と返事をして、咲と教室を出る。
「何かさー、大体予想はつくけど。あんた、中原くんと何かあったでしょ」
唐突にそう訊かれて、私は言葉を詰まらせた。特に否定する必要もないので、素直に頷く。
「やっぱりねー。二人して心ここにあらずって感じだから、これは絶対何かやらかしたなと思ってたけども」
咲が一人でそう言いながら私の顔を覗き込んだ。目を合わせたくなくて顔をそらす。
「……そんなこと言われたって、私には分かんないよ」
勝手にあんなわけ分かんないことしたのは中原なんだからさ。何で私がこんなに悩まなきゃいけないのかな、とか。
「そうね、今回は何だか面倒くさいことになってるわねー」
「何で咲が知ってんの」
「大垣くんが親切に教えてくれましたが何か?」
ていうことは、中原が大垣くんに色々相談したってことだ。何て言ったんだろう。すごく気になる。
「本当に面倒くさい二人だわ……何を回りくどいことやってんだか……」
「私は悪くないもん、中原が意味分かんないことするからだもん」
言い返した私に、咲は「まあいいわ」と呆れた様子でため息をついた。「本人たちが気づかないと意味ないしね」
本当のことを言ってしまえば、中原に会いたい。ちゃんと顔を見て、「好きだよ」って言いたい。でも今それをしたところで無駄なのは分かっている。期待しすぎたらダメだった時のダメージが大きい。そう、立花先輩と中原が付き合った時のような。
「とりあえず、テスト終わるまでは勉強に集中するよ。じゃないと……」
同好会解散も有り得るから――とは、言いたくなかった。中原に会えなくなるなんて、考えなくなかった。
勉強することで何とか気持ちを保っている私。もうこれ以上、崩れるわけにはいかない。
中原は……どうなんだろう。私のことなんて気にせずに、勉強してるのかな。だったらどうして私にあんなことしたのかな。
『――ごめんな』
頭に残って消えない、鮮明な響き。どうして、どうして?
――謝るくらいなら、あんなことしないでよ。
咲と二人、晴れた空を見上げながら帰った。
*
月曜日の朝。金曜日に終了したテストの順位が貼り出された。廊下は順位を確認しに来た人であふれている。私は咲とその人だかりに近づいた。
すると、私たちが歩くそばからみんなが避けていく。何だろう、と不審に思いつつも順位表の前までたどり着いた。
「えっ、嘘!?」
一番最初に目に飛び込んでくる一位の文字。――そこには確かに、私の名前があった。
やった、と声を上げようとした刹那、気づいてしまった。中原の名前が見当たらないことに。
「……嘘、でしょ……」
その代わりに見つけたのは。
「やあ、久しぶりだね」
爽やかな声が後ろから飛んできた。その人は、学年五位のところに名を連ねている。
「遠藤くん……」
遠藤咲弥。五位の欄にはその名前が憎らしいほどはっきりと記されていた。
「一位おめでとう、菊地さん」
嬉しくない。この人に言われても全然嬉しくないよ……
返事はせずにもう一度、順位表に視線を戻す。一位から順に、私、大垣くん、森岡くん、安本くん。そして遠藤くん。
五位以降のところにも目を向けると、九位の欄に中原の名前を見つけた。
「あーあ、やっちゃったね。中原くんどうしたのかな」
どこか愉しげな声でそう言う彼に、私は耐えきれず言い返した。
「中原をバカにしないで……いつもいつも頑張ってるんだから!」
そんな私とは対照的に、遠藤くんは不敵な笑みを浮かべる。
「大丈夫? 成績が下がったら、同好会解散なんだってね」
すっと血の気が引いた。視界がぼやける。周りの音も聞こえない。
「残念だよ。君たちならこんなことにはならないと思っていたんだけどな」
「……いや……」
いやだよ。解散なんてしたくないよ。まだ終わりたくない。――中原と一緒にいたいよ……!
「――ねえ、いい案があるんだ」
遠藤くんはいっそ清々しいほどの笑顔で言う。
「僕が立花先輩にはうまく言っておくよ。同好会は解散しないように。その代わり、」
言葉を切って私に向き直った彼は、確かにこう言った。
「僕を君たちの仲間にしてよ。――中原くんの代わりに」
中原の代わり? そんなの、嫌に決まってる。中原は中原しかいない。代わりなんて誰にも務まらない。けれど。
解散してしまったら最後、中原が戻ってこれる場所がなくなってしまう。
「……分かった」
これが罠だと、重々承知している。それでも私はかかるんだ。知った上で、その罠に――。
「これからよろしく、美湖」
そんな言葉に騙されてなるものか。私の肩に触れようとした遠藤くんの手を容赦なく振り払う。
「つれないなあ」
笑う遠藤くんには構わず、私は咲を置いて小走りに教室へ戻った。
「ねえ、美湖。何で無視すんの」
昼休みだというのに、目の前の彼は図々しくも私の教室まで来ていた。
次の日からというもの、遠藤くんはずっとこんな調子で私に構ってくる。
「ねえってば。寂しい。構って」
最初は遠藤くんを受け入れなかった大垣くんたちは、私が事情を説明すると渋々といった様子で承諾した。
「聡のためだもんな……うん、分かったよ」
大垣くんはそう言っていたけど、瞳は不安げに揺れていて、中原を心配しているのがよく伝わってきた。本当に中原は……どうしちゃったんだろう?
「美湖。返事してくれないとキスするよ」
遠藤くんの声で現実に引き戻される。そろそろうるさくなってきたので、私は立ち上がって廊下に出ることにした。
そんなこと言ってさ、一ミリも思ってないくせに。
廊下に出たところで腕をつかまれた。確認するのも面倒くさい。どうせ遠藤くんだ。
「ねえ、どこ行くの」
声はやっぱり遠藤くんのそれで、私はうんざりする。もう嫌だ。中原に会いたい。中原の声を聞きたい。
「どこだっていいじゃん。ついてこないでよ」
「へえ、そういうこと言っていいんだ?」
「は……?」
突然声が低くなったと思ったら、遠藤くんは私の腕を引っ張って歩き出した。
「ちょ、待ってよ! 痛いってば!」
叫んでも離してくれる気は毛頭ないようで、どんどん進んでいく。
しばらく歩いて人気のない階段付近に着いた。遠藤くんは「ここでいいか」と周りを見渡す。
「美湖、キスしていい?」
……もうこの人、一回殴っても許されるんじゃないだろうか。私は「あのね……」とため息をついて俯く。
「もうその手には乗らないよ? 言っとくけど、私は遠藤くんのこと何とも思ってないし、王子様のことも好きじゃないから」
「違うよ」
遠藤くんの言葉に、私は思わず怪訝な顔で彼を見上げる。何が違うのか。からかっているのには変わりないはず。
「ちょっと試すだけだから」
何を、と訊こうとした時、遠藤くんの顔が近づいて至近距離で止まった。しかし、それ以上は何もしてこない。
ただ目を閉じて、黙ってこの距離で止まっているだけ。そんな状態が数秒続いた――と、次の瞬間。
慌てたような足音が聞こえ、私たちが歩いてきたところから姿を現したのは中原だった。私と遠藤くんをその目に映すや否や、中原は駆け寄って私たちを引き離した。
「何してんだお前!」
そんな言葉と共に。
「何って、見れば分かるでしょ。あと少しだったのに邪魔しないでくれないかな」
遠藤くんが中原に視線だけ寄越してそう言う。
「ふざけるな。……来い、菊地」
少し乱暴に私の手を取った中原は、そのまま階段を降り始めた。――まさか。まさか、遠藤くんは……?
見上げた私に遠藤くんは「頑張れ」って、そう小さく笑ってその場を去っていった。
一階まで降りると、中原は手を離して私に問うた。
「お前、あいつとそういう関係なのか」
そういう関係。意味を理解した瞬間、私は即座に首を振る。
「違うよ……絶対に違う」
「……あの行為は合意の上だったのか?」
重ねて訊かれ、また首を振った。
「そうか」
ふっと息をもらした中原に、今度は私が訊く。
「どうして来たの……?」
あんなに必死になることなんてないじゃん。私のこと嫌いなら放っておいてさ、勉強してなよ。
しかし中原は「知るか」と答え、やや間を開けた後、付け足した。
「体が勝手に動いてたんだよ、バカ」
もう、限界だった。私はあふれてくる涙をこらえずに、ただただ中原を見つめた。
「中原っ……ありが、」
ありがとうって言いたいのに、息が詰まって言えない。中原、ありがとう。好きだよ。そう言いたいのに。そんなの、簡単になんて言えるわけなくて。
「分かったから、泣くな」
ぽん、と頭に手が乗って、軽くなでられた。久しぶりの感覚に、さらに泣きそうになる。
ずっと、こうしてほしかった。声が聞きたかった。顔が見たかった。
好きって気持ちがどんどん、胸の奥からあふれてきてこぼれそうになる。けれども、それをこらえて私は笑った。
「うん……泣かない。笑う」
涙がとまらないのは許してね。中原がこんなことするのが悪いんだから。
「本当にお前は……ホイホイあんなやつについていくな」
「ついていったんじゃ、ないもん……」
連れていかれたんだもん。中原はため息をついて、私の頭から手を離そうとした。――でも、私がそれをつかんだ。
「……お願い。もうちょっと」
中原に近づく度、欲張りになっていく。もっと一緒にいたい、近くにいたい。そればかりが募って。
中原は目を見開いた後、頬をかっと朱色に染めた。あ、照れてる。可愛い。
そう思ったのも束の間。次の瞬間、私は中原の腕の中にいた。今度こそ本当に息が詰まって、完全に思考が停止する。
「え、中原? ちょ、待って……え?」
何、これ? いま私、どうなってるの……?
「中原……どうしたの……?」
喉から出た声は震えて、自分のものじゃないくらいか細かった。中原は私の背中に回した腕に、今一度力を込めると、耳元で言う。
「無性に抱きしめたくなった。悪いか?」
そんな優しい声で囁かれたら。何もかも、すべてどうでもよくなっちゃうわけで。
「え……あ、う……その、」
心臓が今までにないくらいバクバクして、痛いくらい。頭の中を心地良い空白が埋め尽くす。
胸がぎゅっと締め付けられて苦しいけど、それは嫌な苦しさじゃない。この人が好きっていう、そういう痛み。
「菊地……」
耳にかかる吐息に思わず肩を揺らすと、中原が慌てた様子で私から離れた。
「…………悪い」
たぶん、お互いに顔は有り得ないくらい真っ赤で。予鈴が鳴るまで、私たちは俯いたままその場を動けなかった。




