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第20話 カノジョとレモネード

「えーと、これが九十七枚目だから、あと三枚かな」

 ぶつぶつ言いながら、私は傍らに積んであったパンフレットを一人もくもくと数える。

 今日はこの朝ヶ谷高校の学校説明会。本来は生徒会の人だけが手伝いをするのだけど、今年からは少し変わった。よりリアルな学校生活を見てもらいたいという学校側の希望で、各学年から代表者が数名選ばれることになったんだとか。

「三枚ならここにあるぞ。ほら」

 不意に後ろからパンフレットを差し出され、私は思わず「わっ」と情けない声を上げた。声の主が誰かなんて、振り向かなくても分かる。

「あ、中原……ありがとう」

 おずおずと受け取り、先ほどのものと合わせた。これで恐らく百枚になるはずだ。

 選ばれたのは私たち同好会の五人。二年生も三年生も、成績優秀な五人がそれぞれ選ばれたそうだ。

「俺も手伝う」

「え、いいよ別に!」

 隣に座った中原に、私は手を振って断った。だって何かさ! 二人きりでこの距離じゃ意識しちゃうじゃないですか色々と!

「なに遠慮してんだ、気持ち悪い」

「失礼な! 私だって遠慮くらいするわ!」

 言い返しつつも、少しだけ安心した。良かった。言い合いっこできるいつもの中原だ。

「別に向こうの手伝いが終わったから来ただけだ。誰もわざわざお前のために来たとは言ってない」

「あーはいはい、そーですか」

 前言撤回。全っ然良くない。相変わらずむかつくわあ。

 それからしばらく無言でパンフレットをまとめていると、中原が唐突に口を開いた。

「……立花先輩と別れたんだ」

 以前とは真逆の言葉。付き合うことになったと言われた時は、目の前の景色がぼやけて何も考えられなくなったけれど。

 でも今は、ちょっと不謹慎なくらい清々しい。そんなこと言ったらきっと、立花先輩には悲しい顔をさせてしまうんだろうな。

「そっか。二人がそう決めたなら……それでいいと思うよ」

 これは本当。だってお互いが納得していなかったら別れる意味がない。

 私はそれ以上何を言えばいいのか分からずに黙り込んだ。前だったら、もっと自然に会話をつなげられたんだろうか。

 中原への気持ちに気づいてしまってから、考えなしに発言できなくなった。うっかり気持ちがバレるようなことをこぼしたら、それこそ取り返しがつかない。

「ああ、そうだな。……結局ずっと言いそびれていたんだが、」

 と言葉を切った中原が俯く。

「お前には、その……本当に色々感謝してる。立花先輩から聞いたんだ。お前が直接話しに行ったこと」

 あの時のことか、とごく自然に思った。立花先輩の背中に呼びかけた――教室で彼女の想いを聞いたあの日。

 あの瞬間、立花先輩は紛れもなく恋する乙女だった。あの横顔は切なく儚く、第三者の私をも美しいと思わせるほど。

「……ありがと、な。菊地」

 中原と目が合う。彼の頬は照れているせいか、ほんのり朱色。

 とくん、と自分の中で何かが音を立てた。――ああもう。ずるいなあ。

「私は何もしてないもん……」

 可愛げない返事をしてそっぽを向く。ねえ中原、分かってるの? 今あんたが照れてる以上に、私だって照れてるんだからね。まあそんなこと、言えるわけはないんだけど。

「あ、すみません……お取り込み中でしたか?」

 その声に私は焦って振り向いた。森岡くんが弱々しい笑みを浮かべてそこに立っている。しかしいつもの眼鏡は見当たらなかった。

「え、森岡くん……眼鏡は?」

 そう言ってから気づいた。そうだ、この前あの人たちに壊されたから……

「新しいのをつくるまで裸眼です。まあ休み中は小さい文字が見えなくても何とかなるので」

「そ、そっか」

 ていうかよく見たら森岡くんって、すごく顔が整っていらっしゃるんですね! 隠れイケメンってことですか!

「僕も手伝います。手があきました」

「ありがとう……助かります」

 軽く頭を下げると、中原にぎろりと睨まれる。

「何よ?」

「……俺の時には断ったくせにな」

 そしてふいっと顔をそらす中原。え、何ですかそれ。ちょっと待ってよ、今そういうことしないでってば!

「いや、違くて! あれは何ていうかその……」

 言えない。意識しちゃうからなんて言えない。うわあ、何なんだよ! 顔が熱いじゃんかあ!

「別にいいけど」

 少し不機嫌な様子で手を動かし始めた中原に、私はただ「ごめん」と謝ることしかできなかった。

 ふと森岡くんを見ると、彼もこちらを向いていた。その表情はとても切なく、愛おしそうな笑顔。――まるであの時の立花先輩みたい。

 その視線に耐えきれず、私は目をそらして作業を再開した。

「も、もうすぐ受験生が来るねー」

 一年前のこの日、私は図書室で王子様に出会った。まばゆいほどの光に包まれ、優しく微笑んだ――かどうかは分からない――私の初恋の人。

「……会えるかな」

 ぽつりとつぶやいて、私は頭を振る。ううん、もうきっと会うことはないんだろうな。確かにもう一度会いたいけれど、いま私の心の中にいるのは……

「気が済むまで待てばいいんじゃないか」

 何てことない口調でそう言った、隣の中原が。そう、私は中原が気になって仕方ないから。

「そうだね」

 だから私も、何てことない口調でそう返して微笑んだ。

 それから一時間後には受験生がたくさん現れて、パンフレットの山は少しずつ消えていく。超難関校なだけあって、受験生はみんな真面目そうな子ばかりだ。

「こんにちはー」

 私たち一年生はパンフレットを手渡す役目。去年、私もこうして誰かからもらったのかな。

 朝は眩しかった太陽も、今では雲に隠れている。青色が広がっていた空はいつの間にか、どんよりと灰色に支配されていた。


「ええっと、資料コーナーはここかな」

 説明会もあと二時間ほどで終わるという頃。私は図書室で説明に使った資料を戻していた。

 今は学校内を受験生が自由に見て回っていい時間。私はこの図書室に憧れて、去年ここに来た。

「懐かしいなー」

 もう一年経ったのか、と思うとそんな言葉は自然とこぼれる。入学してからはまだ半年しか経ってないけど。

 ――あのね、王子様。私、あなたに報告したいことがあるんです。

 本当はずっと、あなたに憧れていた。顔も名前も知らない、あなたに。だけどいま私が隣にいたい、いてほしいって思うのは。

 素っ気ない口調で私を突き放す、あの人なんです。照れた顔で誰にも言ってない秘密を打ち明けてくれた、あの人なんです。

 ギイ、と扉が開いた。私は我に返って後ろを振り仰ぐ。

 扉を開けて、小さく一歩を踏み出したその人。私はそれを階段の上から見る。

「はあ……冷てえ、超濡れちまった」

 ため息をついて自分の頭をわしゃわしゃと掻く彼は、どうやら今年の受験生。ふと窓の外を見ると、雨粒が地面に向かって降り注いでいた。

「あ……」

 彼からそんな声が聞こえて振り返ると、目が合った。私の存在に気づいたらしい。

「あ、すみません……俺、びしょ濡れなのにここ入っちゃって……」

 申し訳なさそうに頭を下げる彼に、私は笑いかけた。

「いいよいいよ。それより君、風邪引いちゃうね」

 うーん、今はハンカチしか持ってないけど。拭かないよりはましかな! 私は階段を駆け下り、彼にハンカチを差し出した。

「これ使って。いま鞄からタオル持ってくるから」

 本当は汗拭くために持ってきたタオルなんだけど、今日は思ったより暑くなかったし。

「え、そんな! 申し訳ないです!」

「何言ってんの! すぐだから待ってて!」

 ふふ、何かお姉ちゃん気分。やっぱり後輩って可愛いな。

 すると、扉の向こうから「美湖ちゃーん」と呼ぶ声が聞こえた。恐らく大垣くんだ。

「私ならここだよ! どうしたの?」

 扉を開けて顔を出し、大きく問いかける。気がついた大垣くんが駆け寄ってきた。

「あ、美湖ちゃん!」

 そして大垣くんが焦ったように説明を始める。

「実はいま機材の調子が悪くて……新しいのを運ぶのに人手が必要なんだ」

「分かった、いま行くね」

 私は受験生の子を振り返ると、「ごめんね」と眉根を寄せた。

「私、今から行かなきゃ……くれぐれも風邪引かないようにするんだよ!」

 何だか捨て猫を置いていく気分だ。しかしその子は爽やかに笑って首を振った。

「いえ、本当にありがとうございました!」

 いい子だなあ、と思った私は「こちらこそ」と笑い返す。

「絶対、朝ヶ谷高校ここにおいでね!」

 そのまま大垣くんに連れていかれ、私はその場を立ち去った。

 ――そういえばハンカチ返してもらうの忘れてた、と気づいたのはその一時間後だったけれども。


          *


 いつも行くカフェだけど、目の前にいるのはイレギュラーな立花先輩。そして私は絶対飲まないような、レモネード。

「そんなに緊張しないで? 普通におしゃべりがしたかっただけなの」

 そう微笑む先輩だけど、緊張するなという方がおかしい。私はそれを紛らわすため、ミルクティーをすすった。

 説明会が終わり、帰ろうとした私を捕まえたのは立花先輩だった。それに驚きつつも、私は誘いを断らずここまで来た。――この人は中原の元カノさん。理由なんて、それだけで十分すぎる。

「おしゃべり、ですか」

 ぽつりとこぼした私に、立花先輩は「バレた?」と肩をすくめた。

「本当はね、一度あなたにお礼を言わなきゃいけないと思ってたの」

 中原といい、先輩といい、私に何を感謝しているんだろう。私は自分でやらなきゃなと思ったことをやっただけだし、ある意味それは自分のためだった。

 結局、私を突き動かしていたのはたぶん。この人への嫉妬という、汚い感情だったんだろう。

「……やめてください」

 静かに拒絶すると、先輩は「どうして?」と首をかしげる。

「だって私は、先輩の邪魔をしたんですよ」

 確かに、先輩に気持ちを伝えるべきだと言ったのは私。そうした結果、二人が付き合うことになった。その事実に動揺して、困惑して、中原への気持ちに気がついたのも本当。だけど私は、中原に余計なことを言ったと思う。

『曖昧な気持ちで付き合って欲しくないの』

 あれは私の勝手な考えだし、余計なお世話。先輩にとっては例え両想いじゃなくとも、中原と付き合えれば幸せだったかもしれない。

「自分の考え押し付けて、中原に変な決意させちゃいました。それが先輩を傷つけることだって分かってたのに」

 いま先輩は私のことをどう思ってるのかな。中原と別れさせたひどいやつ? それとも先輩は心が綺麗だからそんなこと思ってない?

 とにかく、私は色々動揺して変な理論を語ってた。先輩には全然敵わない。

 だって、告白した時点で先輩の方が勝ちなんだから――

「傷つく傷つかないは、私が決めることよ」

 先輩はレモネードを口に含み、そう言った。

「聡に告白した時点で、フラれるのは覚悟の上だったもの。あの人が私のことを好きじゃないことくらい、分かるわよ」

 恋は盲目といえどもね、と先輩は寂しそうに笑う。

「付き合ってほしいなんて、やけくそ気味に言ったのに。あの人ったら真面目に『分かった』って言うんだもの。驚いた」

 この人は知ってたんだ。中原が幼なじみとして慮った結果、その答えを出したことを。

「でも私もだめだった。その時に嘘だって言っておけば、空しいデートなんてしなくて済んだのにね」

 デート、という言葉に肩が跳ねた。先輩はそれを見逃さない。

「あなたもそう。愁とデートしてたでしょ?」

 先輩は大垣くんを愁と呼んだ。そういえば、中原は先輩とも大垣くんとも幼なじみだったっけ。

「ああ、私たち幼稚園の頃から三人一緒なの」

 じゃあ大垣くんも、色々知ってたのかな。中原と先輩のこととか。

「私、てっきりあなたは聡のことが好きなんだと思ってたんだけど」

 がたん、と私は立ち上がった。先輩が目を見開いて私を見上げる。

 ――好きだよ。私は中原のことが好き。だから動揺したし嫉妬もした。

「あれは大垣くんとの関係を線引きするためのデ、デートだったんです。やましいことは何もありません」

 どうして。どうして私こんなに必死になってるんだろう。

「私は……中原のことが、好きなんです」

 ねえ中原。私、あんたのことになると余裕ないよ。もう別れたって言ってる彼女さんにも嫉妬してさ。勝手にいらついてこんなこと口走っちゃうし。

 顔に熱が集まるのが分かった。かあっとなって、体中が酷く熱い。

「……良かった」

 先輩はつぶやいて、眉尻を下げた。

「聡も幸せね。こんな子に想われて」

「え……」

「ごめんなさい。ちょっといじわる言いたくなっただけなの」

 その言葉に、力が抜けてすとんと座り込んだ。何だ……心臓に悪いな、もう。

「私はもう全然気にしてないわ。むしろ嘘でも付き合えたんだから幸せよ」

 そう息を吐き出す先輩は、やっぱり綺麗。

「だからあなたに伝えたかった。ありがとう、って……」

「立花先輩……」

 穢れのない瞳に映されているのは、紛れもなく私。そのまっすぐさは中原と通じるものがある。

「こんな私で良ければ、これからもよろしくね」

 右手を差し出した先輩に、私は両手で応えた。力強く握って視線を交わす。

「私こそ……本当に本当にありがとうございます」

 中原が立花先輩と付き合っていなかったら、今頃どうなってたんだろう。私は自分の気持ちに気づくことなく、過ごしていたのかな。

「それと、もう一つ。――私、あなたの王子様が誰か知ってるんだけど?」

 …………はい?

「まあそれは、もう知る必要ないみたいね」

「いや、ちょっと待ってください! 必要です! ものすごく重要ですそれは!」

 聞き捨てなりません! って、あれ? 何で先輩が王子様のこと知ってるんだろう?

「ふふ、顔に出てるわよ。何で私が知ってるのかって」

 うん、だって普通はそう思うでしょう! 私、先輩に話した覚えないんだけどな。

「校内じゃ結構有名よ。まあ私は人づてに聞いたんだけどね」

「え――――――!?」

 校内じゃ有名、だと!? ていうことは。ていうことは、だよ。王子様が誰かみんな知ってるってことなの……?

「えっと、ちょっと待ってください。状況が整理できてな……」

「あのね、王子様は……」

「わ――――!? 待っ、言わないでください!」

 心の準備ができてないんだってば! ちょっと本当に何で!? 何でみんな知ってんの!?

「ま、いいわ。いつか本人に訊けばいい話だし」

 その本人が誰か分かんないんですけどね! うーむ、もしかして咲も知ってたのかな。知ってて隠してたのかな……

「菊地さん、賑やかでいいけど少し静かにね」

「う、すみません……」

 周りのお客さんからの視線が刺さる。

「私も先輩みたいに大人になりたいです……」

 思わず心の声がぽろっと口からこぼれた。だって先輩はいつでも冷静沈着で、綺麗で大人っぽい。

「意外とそうでもないんだけど……まああなたよりは大人かもね?」

 ちょっといたずらな笑顔でそう言う先輩は、いつも私の一歩先を行く。

「先輩、からかってます?」

「事実を言ったまでよ?」

 何かそれ、中原に似てるんですが! え、幼なじみってそういうとこまで似るんですかね。

 私は笑って、ふと先輩のグラスに視線を落とした。彼女のグラスにはレモネード。それを飲んだら、少しは大人になれるだろうか。

「あの、すみません。レモネードください!」

 近くを通った店員さんに注文した私を、先輩が意味ありげに見つめた。

「じゃあ私はブラックコーヒーをお願いします」

 軽く手を挙げて頼んだ先輩に、私は「えっ」と声を上げる。また一歩先に行かれてしまったじゃないか!

「まだまだね」

 そう笑った先輩がコーヒーに何も入れずに飲んだのは、その数分後。それを見て、砂糖をたっぷり入れる中原を思い出したのは――また、別の話。

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