第18話 潮風に乗せて
流れていく景色を車内から眺める。誰にもバレないように小さくため息をつくと、隣からくすっと笑い声が聞こえた。
「何にもないからつまんないよね。音楽でもかけようか?」
ハンドルを握りながら訊いてくるのは、森岡くんのお兄さん。さらさらの黒髪と対照的な白い肌。そして漂う優しそうな雰囲気。想像通り、真面目で紳士で清楚な人だった。
「あ、すみません……」
森岡くんのお兄さんは、拓という名前なんだそうだ。拓さんは機械操作を簡単に済ませる。オーディオからはジャズ――かどうかは定かではない――音楽が流れ始めた。
後ろからはみんなの話し声が聞こえてきて、少しだけ私を落ち込ませる。
結局、大垣くんと出かけた日から一週間後。私たちは拓さんの車で海へと向かっていた。
大垣くんは、まだ気持ちが晴れない私に爽やかに接してくれる。私もいつも通り接するように努めた。
「兄さん、もっと明るい曲かけてよ」
そう要望を出したのは森岡くんで、拓さんは「えー?」といたずらっ子のように笑う。
「じゃあ……何だっけ、ほら。ジャニーズとかのならいいかな」
そう言って拓さんはボタンを押した。うーん、まあジャニーズは王道ですよね。
後ろには私以外のメンバー。真後ろに森岡くん、その隣に安本くん。そして一番後ろの席は大垣くんと中原。
胸の中はもやもやが残ったまま。あれから中原とは何も連絡をとってないし会ってない。
だから、ごちゃまぜで複雑な気持ちも全部。水着と一緒にリュックに詰め込んだ。
「みんな宿題は終わったの?」
拓さんの問いかけに一番に答えたのは安本くんだった。
「もちろん手つけてないです!」
自信持つとこ違うわ! ほら、拓さんも苦笑いしてるでしょうが!
「あ、あともう少しで着くよー」
上手に安本くんの発言を受け流した拓さんが、嬉しそうにそう言った。
ほどなくして、窓の外には真っ青なものが姿を現す。太陽の光を反射してキラキラと揺れる海。無条件に好奇心をくすぐるそれは、大きな口を開けて私たちを待っていた。
「ひゃっほーう!」
三十分後、私たちは水着に着替えて砂浜を踏んだ。雄叫びのような声を上げて海に飛び込んでいったのは、安本くんと大垣くん。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
後ろから慌てて追いかける森岡くんと、笑いながらそれに続く拓さん。
「二対二で水かけ合戦だ、おら!」
ばしゃばしゃと水をすくい始めた大垣くんが、「洸は俺と同じチームな!」と一方的に言う。
「よっしゃ、森岡兄弟とバトルだぜ!」
安本くんもそれに加わり、本格的に水かけ合戦が始まった。何か男子って海に来たら子供っぽくなるよなあ。そんなことを考えつつも、私はふと気づく。
……いま大垣くん、「二対二」って言ったよね? 何となく嫌な予感がして後ろを振り返ると、難しい顔で腕を組む中原がいた。
どうしよう、めっちゃ気まずいんですけど。いいや、私も入れてもらおう!
足を踏み出した時、大垣くんと目が合った。「私も入れて」と言うより先に、彼が口を開く。
――頑張れ。
声はない。口の動きだけ。でも確かに、大垣くんはそう言っていた。
「……大垣くん……」
どうして君はそんなに優しいのかな。私は傷つけたんだよ? そんなに優しい君に、苦しい顔をさせるほど。
――ありがとう。
だから私も同じように、声を出さずにそう返す。もう、傷つく覚悟はできた。
「中原」
再び振り返ってそう呼ぶと、中原もちょうど私の方を見つめていた。
分かってるでしょう? 私が何を訊きたいかなんて、知ってるよね……?
「……私、中原に訊きたいことがある」
あの時みたいに、私からはそらしたくないから。中原の目をまっすぐ見据えて。
「菊地」
そう呼ばれて、なぜか気持ちが落ち着いた。中原と苦いクレープを食べたのはほんの少し前。だけどもうずいぶん、その声を聞いていないような気がしてた。
「俺も……お前に訊きたいことがある」
お互いが心の奥を見透かすように。しばらく見つめあっていたけれど、中原が唐突に背を向けて歩き出した。
「場所、変えるぞ」
拓さんが持ってきてくれたパラソルの下。中原と二人で日陰に腰を下ろす。
どう切り出そうかなと迷っていると、向こうから先に口を開いた。
「……何であの時、愁といたんだ」
いつもより距離が近いせいか、中原の声が低く聞こえる。私は「何でって……」と俯いた。
何て言えばいいんだろう。デートなんて単語は使いたくない。軽い女なんだって思われたくなかった。
「お前ら、前に付き合ってないって言ってたよな。あれ嘘だったのか」
「ち、違うよ! 嘘じゃない……付き合ってない!」
疑ってるの? そういう風に思ってたの? 胸の奥がどうしようもなく、ちくちくと痛い。
「中原こそ……立花先輩と付き合ってるでしょ!」
思わず声を荒らげた私に、中原は素っ気なく「ああ、そうだ」と返した。「付き合ってる」
「……じゃあいいじゃん。良かったね、デートなんて羨ましいよ」
半分嘘で半分本当。良かったなんて思ってないけど、でも立花先輩が中原のこと好きなら、それは良かったのかもしれない。
「いつまでもお幸せに」
そう言った途端、なぜだか猛烈に悲しくなった。いつまでも。そう、これからずっと。
私は中原を見る度に立花先輩も見ることになるだろう。二人はきっと、笑い合って――そして、手をつなぐんでしょう?
「――菊地」
何で。何で私がこいつのために泣かなきゃいけないの。
「何で泣くんだよ……」
どうして私に純愛ものが好きだって教えてくれたの? どうして咲に聞いてまでクッキー用意してくれたの?
ねえ。――どうして私に「ありがとな」って笑ったの……?
「何でよ……何で私のこと嫌いなままでいてくれなかったの」
いつもみたく、突き放して。お前はバカだって、見てられないって、そう言って遠慮なく小突いてよ。
『聡を好きになりそうになったら、一番に俺に相談して』
『ないない、神に誓ってない』
あの時は余裕で笑って返した。だけど今は――私、ちゃんと笑ってかわせるのかな?
「嫌いになれるわけないだろ」
はっきりと聞こえた言葉に、私はすんと鼻を鳴らした。その声が優しくて、切なかったから。
「お前といると本当に困る」
小さく笑って、中原は続ける。
「うるさくて癇に障ることばっかり言ってきて、本当に嫌いだった。初めはな」
だけど、とまた優しい表情をした。流れるのは穏やかな時間。
「だけどお前は……いつでもバカ正直で、素直すぎる。何の気なしに恥ずかしいこと言いやがって」
「う……ごめんなさい」
前も同じこと言われたような気がするけど……まあいっか。中原は少し間をあけて、「でも」とつぶやいた。
「そういうところが人を惹き付けるんだろうな」
もう、だめだ。顔が熱い。きゅうっと心臓が苦しく鳴った。
「……俺が付き合ったのは立花先輩が初めてだ。この前も二人で出かけて思ったが……」
俺は立花先輩を好きになれない。中原は、そう言った。
「やっぱり違うんだ。俺の中であの人は幼なじみ以外の何ものでもない」
今度ははっきりと、この前よりはっきりと断言した。中原は立花先輩のことを好きではないと。
私は、咲との会話を思い出していた。
『美湖が知りたいって言ったら、中原くんは答えてくれると思うわよ』
私が知りたかったこと。それはたぶん、中原の本当の気持ち。心の奥に眠っているはずの本心。
『そのとき、中原くんどんな顔してた?』
今の中原は、少し清々しい顔をしている。だけどきっとこの前は幸せな顔じゃなかったんだろう。
立花先輩の告白を受け入れて、付き合って。中原は自分の気持ちに気づいた。好きじゃない人と付き合うことが、どれだけのことなのか。付き合うということが、どれほど重さを伴った行為なのか。
そして中原を好きだと言った立花先輩の気持ちを。中原は悪気がないとはいえ、傷つけた。
「……女の子はさ、みんな夢見てるんだよ。好きな人と両想いになって付き合うのを」
立花先輩だって例外じゃないはず。中原に告白して、いい返事をもらって、どれだけ喜んだんだろう。
「だからこそ、曖昧な気持ちで付き合って欲しくないの。好きか分かんないなんて言われたら……きっと傷つくよ」
これは嫌味じゃない。ただ、立花先輩の気持ちを考えたら。もし私が先輩だったら。そう思うだけで耐えられなかった。
「……悪い」
中原は短く謝ったけれど、私は「それは先輩に言わなきゃ」と返した。今この状況を知ったら、一番傷つくのは先輩だ。
「中原は……誰かを好きになったことある?」
私の質問に、中原は首を横に振った。そして困り顔で頭を掻く。
「好きという気持ちが分からない。今まで散々純愛ものを読んできたが、実際はそんなもの経験したこともない」
中原が自分からそんなことを言うのは意外だった。
「もしかしたら本を読んで知りたかったのかもしれないな。恋とやらを」
私だって初恋は王子様だし、その人には会えていない。もう恋する感覚は薄れてきている。
「大丈夫だよ。中原は絶対、運命の人に出会えるから。あの図書室でさ」
朝ヶ谷祭の時。嘘だとはいえ、中原は運命の人がいると言い放った。もう見つけたのかな。いや、その様子だとまだみたいだね。
「お前……それ覚えてたのか」
「覚えてるよ。だって騙されたんだもん」
「悪かったな」
ほらまた、無愛想でぶっきらぼう。でも照れたら誰よりも分かりやすいんだ。
「でも、あの時はびっくりしたな。中原が王子様だと思ったんだもん」
冗談めかしてそう笑うと、中原は口元を手で覆って俯いた。あ、何よ。もしかして笑ってんの?
「ちょっと、何笑って……」
中原の顔を覗き込み――息を呑んだ。
頬はなぜかほんのりピンク色に染まっていて。視線は焦ったようにあちこちを彷徨う。それはまるで、照れた時の表情。
何で? 今のどこに照れる要素あったの?
「な、何照れてんの……やめてよ」
「照れてない!」
「じゃあ何よっ」
むきになって言い返すと、弱々しい声が返ってきた。
「ちょっと焦っただけだ、バカ野郎……」
焦るって……なぜ? 余計にわけが分からなくなる。でも中原の様子が耳を下げた子犬みたいで可愛かったから――と言ったら本人は怒るんだろうけど――、私は吹き出した。
「何だよ」
ぎろりと睨まれてもあまり効果はない。私は「別にー?」と余裕の笑みをこぼす。「わんこみたいだなーって思っただけ」
「お前な……」
思わず手を伸ばして中原の頭をぽふ、となでた。よくワンちゃんにやる、いいこいいこみたいなあれ。
「ちょ、何やってんだアホ!」
「えー、だってなでてほしそうだったから」
「誰もそんなこと頼んでない!」
ありゃ、やばい。怒らせちゃった。すっかり不機嫌になってしまった中原に、私は恐る恐る訊く。
「ごめん、そんなに嫌だった……?」
しかしそんな心配は不要だったようで。中原は私を見つめると、耳まで真っ赤にして言った。
「別にお前なら……構わない」
何、それ――? どきん、と心臓が大きく跳ねた。
「う、あ……えと、その」
「……お前、顔赤すぎ」
だってあんたが変なこと言うから! 急にあんなの反則ですから!
「バーカ」
そうつぶやいた彼の言葉を、潮風が運んでいった。