第15話 秘めた想いは淡く儚く
次の日の登校中。見上げた空は曇っていて、私の心境そのものだった。
はあ、と大げさにため息をつき、肩からずり落ちたスクバをかけ直す。だめだ、こんなんじゃ授業も集中できない。
「美湖、おはよう」
軽く肩を叩かれ振り返ると、咲が「元気ないわね」と首を傾げた。
「あ、咲……おはよう」
否定はしない。元気が出ないのは本当のことだから。それでも、どうしてこんなにモヤモヤするのかが分からなかった。
「昨日どうだったの? 生徒会室行ったんでしょ?」
「うん、行ったよ」
生徒会が私たちを解散させたい理由はよく分かった。だけど立花先輩のことがまだ分からない。
どうして急に同好会を全部解散させるの? 最初の目的は私たちだけだったんじゃないの?
それに、立花先輩の複雑そうな表情。あれは見逃すことができなかった。
「咲、知ってた? 中原と立花先輩って幼なじみなんだって」
「へえ、知らなかった。それ誰から聞いたの?」
遠藤くん、と言おうとして――胸がまた、つきりと傷んだ。あの人は平気で人を騙せるんだ。そもそも、中原と立花先輩のことだって嘘をついているかもしれない。
――いっそのこと、嘘だったらいいのにな。
そんな考えが頭に浮かんで焦った。何で。別にあの二人が幼なじみだからって困ることは何もないのに。
「噂で聞いたの。本当かどうかは分かんないけど」
もう遠藤くんのことは考えたくなかった。綺麗さっぱり忘れて、本当の王子様だけを好きになりたい。
ふーん、と相槌を打った咲は、私の顔を覗き込んで訊いた。
「美湖は気にならないの?」
「……何が?」
「中原くんと立花先輩が幼なじみって聞いて、『へえそうなんだ』で済ませられるの?」
咲は鋭い。心の中を見透かされているんじゃないか――そんな気がして、私は思わず目を逸らした。
私には関係ない。関係ない、けど……でもやっぱり気になるんだ。せっかく中原が心を開いてくれそうだったのに、立花先輩っていう存在が現れたから。
だからどうしようもなくもどかしくて、この距離をどうにかしたくて。――ああ、そっか。
私は中原がとられそうで怖いんだ――
「無理だよ」
そう口に出すと、後はためらいなく言えた。
「中原が立花先輩と仲良くなったら、きっと生徒会に入っちゃうもん。そしたら私たち同好会は……」
壊れてしまう。消えてなくなってしまう。それこそが生徒会の最大の狙いで目的。そんなこと、させてなるものか。
絶対、私たちは解散しない。生徒会の思惑通りにもならない。そのためにはきっと。
「咲」
ふわりと咲の髪が風に舞う。それを押さえる咲の口元は綻んでいた。
「私、頑張るね」
何も悩む必要ないじゃん。私はこの同好会を守るためなら何でもするって、最初から決めてるんだから。
「なーんだ。初めからちゃんと決まってるじゃない」
「うん。いま思い出した」
美湖はそうじゃないとね、と少し可笑しそうに言った咲の背中を追いかけ、私は校門をくぐった。
「美湖ちゃん、行こう」
その日の授業が終わり、教科書をスクバに詰め込んでいると大垣くんに声をかけられた。
「あ、ごめん。先に行っててくれる?」
無理矢理押し込んだスクバはぱんぱん。おかしいなあ、朝は普通に入ったのになあ。
大垣くんは「分かった」と頷くと、そのまま教室を出て行った。
――さて。
「行きますか!」
自分の両頬をぺちんと叩き、気合を入れる。今なら何を言われても大丈夫。全部受け止める。ただ一つ、同好会解散という事実は別として。
教室を出て階段を駆け下り、生徒会室の前に来ると恐る恐るノックした。でも、中からは何も聞こえない。
「失礼しまーす……」
ゆっくりドアを開けると、そこには誰もいなかった。あれ、どこに行っちゃったんだろう。
仕方ない。とりあえず立花先輩のクラスに行こう。立花先輩は確か三年四組だった気がする。生徒会長選挙の時にそう言っていた。
小走りに廊下を進んでいると、前方に背筋をぴんと伸ばして歩く人を見つける。きっとあの後ろ姿は立花先輩だ。
「立花先輩!」
叫んでその後ろ姿を追いかける。先輩は足を止めると、振り返って微笑んだ。
「どうしたの?」
二つ年が上なだけなのに、この人は大人っぽい雰囲気をまとっている。自分と比べたら悲しくなるからやめておいた。
「お話したいことが、あります」
だからせめて私は……あなたから、目を逸らさない。対等な立場で向き合いたい。
「そう」
場所を変えましょうか、と小首を傾げて言う先輩に頷き、私は一人深呼吸。歩き始めた先輩の背中についていく。
立花先輩は拒否しなかった。「嫌だ」とも言わなかった。私が何を言いたいのか、聞きたいのか。分かっているのかもしれない。
着いたのは立花先輩のクラスで、私たちの他には誰もいない。窓際の机が太陽光を浴びて光っていた。
「何を言われても、決めたことを覆すつもりはないわよ」
そう吐き出したのは先輩だ。同好会のことを言っているのはすぐ分かった。私が訊きたいのはそれもあるけど、それだけじゃない。
「はい。分かってます」
そう答えた私に、「物分かりがいいのね」と先輩が微かに笑う気配がした。
「頭だけはいいですから」
そんなことを言って強がるけど、それも限界だ。私はずっと気になってる。訊きたいことがあってうずうずしてる。
「先輩は……」
その先を言うのが少しためらわれた。これを訊いて嘘だと言われたら、どんな反応をしていいのか分からない。
でも、やっぱり気になる。
「立花先輩は中原と幼なじみって、本当ですか?」
私の声だけが教室に響いて、溶けていく。
先輩は質問には答えずに窓を開けた。瞬間、ふわりと生暖かい風が前髪を持ち上げる。
「少なくとも、私はそう思ってたわ」
寂しさを帯びた声。もうそれだけで、私には何となく分かってしまった。
立花先輩がどうして中原を生徒会に勧誘したのかも。どうして中原に構うのかも。同じ女子だから。分かってしまったんだ。
「……昔は仲良かったんですか?」
なるべく普通のことを訊こうとすると、そんな質問しか出てこなかった。
「昔は、ね。でも幼なじみってそんなものよ。もう私たち高校生なんだから」
こんな風になって当たり前よね。先輩はそう言った。それが悲しくて、見ていられなくて、私は思わず口を開く。
「当たり前じゃないです」
そんな風に思って欲しくない。まだまだ二人の関係は崩れないって、そう思って欲しい。
「まだ今なら間に合います。立花先輩が卒業する前に絶対、仲良くなってください」
ああ、バカだ私。余計なお世話だこんなの。分かってるのに。
「そうね」
それだけ答えて、先輩は窓の外を眺めた。――うう、もうだめだ。じれったい!
「――先輩! 言いたいことあるんなら本人にちゃんと言わなきゃだめです!」
突然声を張り上げた私に、先輩は一瞬びっくりしたように肩を揺らす。そしてこちらを向くと、困惑気味に眉を下げた。
「何のこと?」
まだとぼけるの? 人の気持ちに鋭くない私でも分かるよ。立花先輩はきっと――
「本人に言わないと、言葉で言わないと分からないんですよ。こっちの気持ちは」
「今さらよ。言わなくてもきっと気付くわ」
「向こうが幼なじみって思ってなかったらどうするんですか」
私が言うと、先輩の瞳に動揺の色がにじむ。ひどいこと言ってるのは分かってる。だけど今の先輩はとても辛そうだから。
「幼なじみだとしても空気だけじゃ伝わらないこと、たくさんあります」
そう、それは片方の恋心。一方通行に過ぎていくそれはあまりにも残酷で。
「立花先輩」
先輩はすっかり俯いてしまった。そして目元を制服の袖で押さえつけている。
「……あなたには、悪いことしたって思ってる」
ぽつりとつぶやかれたのは中原への想いではなかった。代わりに私は「え?」と間抜けな声を上げる。
「遠藤くんを使ったのは私。指示を出したのも私。本当はもっと軽く済ませるつもりだったの」
唐突なカミングアウトだった。うまい言葉を返せなくて、私はただ先輩の次の声を聞く。
「でも、聡の側にいるのがあなただって考えたら、ちょっと余裕がなくなった」
「先輩……」
「正直、あなたの言う王子様なんて冗談半分だと思ってた。だからたぶんあなたを傷つけること、たくさんしたわよね」
先輩、気付いてたんだ……
遠藤くんのことをまったく気にしてないと言えば嘘になる。今も少しだけ、ほんの少しだけ胸の奥がうずく。
「本当に王子様のことを好きなんだって、あなた見てたら分かるもの。自分だってあなた側の人間のはずなのに」
私はふるふると首を振った。もう先輩の気持ちは分かった。だからもういい。先輩も一人の女の子だって。ただ、それだけだから。
「ごめんなさい。許してとは、言わない」
謝罪なんていらないのに。何だかこっちが申し訳なくなってくる。
「先輩、いいです。私それについてはもう何とも思ってませんから」
悲劇のヒロインぶりたくない。いつまでも遠藤くんのことを引きずるわけにはいかなかった。
先輩は顔を上げると、優しく笑う。
「あなたにだったら……負けてもいいかもしれない」
「え……?」
「こっちの話よ」
そう言った先輩は窓側のてすりを握ると、大きく息を吸った。
「聡、好き――――!」
澄んだ声だった。立花先輩の想いがまっすぐ、外に飛び出す。
下校中の生徒も。近所の小学生も。そして――校内にいるはずの中原も。
届いているだろうか。先輩の、いま一番の心の叫び。
その声はどこまでも綺麗で、透き通って。やがて青空に吸い込まれていった。
*
場所は体育館。生徒たちの気だるい空気が辺りを支配している。
「えー、本日私が皆さんにお話したいのは、夏休みの過ごし方についてです」
校長先生の声がマイクを通してぼやぼやと私の耳を貫く。いくら進学校で真面目な生徒が多いとはいえ、この子守唄のような声には勝てない。立ったまま、こくりと船をこぐ人もいた。
もちろん、私だってその一人だ。だって眠いじゃん。お昼ご飯食べた後なんだからさ。
「まず第一に、規則正しい生活を送ってください」
七月の中旬。今日は一学期の終業式だ。来たる夏休みに、誰もが心を踊らせているはず。
しかしさすが超難関校。課題の量も半端じゃなかった。要するに、私の「夏休み遊びまくるぞ☆計画」は音を立てて崩れていったわけで。
――うん、まあ分かってたけどね! これも覚悟でここに来たんだけどね!
「そして怪我や事故には十分、注意してください」
ぼうっとしていたからか、校長先生の話は早くも終わりそうだ。ああもう、早く帰って課題終わらせたい……
「夏休み明け、皆さんの元気な顔をまた見られることを願っています」
そう言って締めくくった校長先生は、一歩下がる。それが礼の合図で、私たちも慌てて背筋を伸ばした。
「礼」
がばっと頭を下げて、また上げる。それが本当に、今から夏が始まるんだなあって気がした。
夏休み。魅惑的な響きだ。今年の夏はどうなるんだろう?
どこへ行こうかな。何をしようかな。それを共有するのは誰かな、なんて。
大丈夫、きっと今年は楽しい夏になる。――だって私は素敵な仲間に出会ったんだから。
同好会のみんながいつだって、私の背中を押してくれる。親身になって話を聞いてくれる。
そして、咲という大切な友達がいる。改めてここに来て良かったなと、そう思った。
「え、本当に? いいの?」
帰りのHRを終えた廊下、私は念を押すようにそう言った。
「全然大丈夫ですよ。兄と二人じゃ暇なので」
森岡くんは柔らかな笑みを浮かべ、頷く。うわあ、やっぱりこの子はいい子だあ。
いつものように図書室へ向かう途中、森岡くんが追いかけてきた。大垣くんは珍しく先生に雑用を手伝わされていて、(一応学級委員なのだ)今は私一人。
「あの、美湖さん……もし良かったら、夏休み海に行きませんか?」
そう言われて、私は「行きたい!」と即答した。海とか定番だよね! テンション上がります!
「実は両親が旅行に行くので、家に兄と二人なんです。兄が海に連れてってやるとうるさくて」
だから美湖さんも一緒にどうですか、と森岡くんは遠慮がちに誘ってくれたのだ。
「兄の車で行くので交通費もかからないですし」
「え、本当に? いいの?」
と、いうわけだ。ていうか森岡くんってお兄さんいたんだ。でもきっと真面目兄弟なんだろうな。
「へえ、それは楽しそうだねえ」
ぽん、と頭をたたかれ振り返る。そこにはにこにこと満面の笑みをたたえる大垣くんがいた。
「しゅ、愁さん!」
なぜだか慌てた様子で大垣くんの名前を呼んだ森岡くんは、「いやあの、違うんです」と否定し始める。
「これは決して変な意味ではなく、お友達として一緒に行きたいと思って誘っただけであって、」
変な意味って何さ、変な意味って。森岡くんは早口でまくし立て、顔の前で高速で両手を振る。
「だよねえ。だったら俺も一緒に行っていい?」
大垣くんもかあ。賑やかになりそうだな。でも、とふと思う。でも、どうせなら。
「じゃあみんなで行こうよ!」
私がそう提案すると、大垣くんは「いいねー」と笑ってくれた。一方の森岡くんは「そうですね」と眉尻を下げる。困った時の顔だ。
「森岡くん、嫌だった?」
あ、大勢で車に乗せてもらうとか図々しいかな。もうちょっと考えて発言すれば良かった……反省。
「だめだったら全然いいよ。別に私たちは電車とかで行くし。現地集合にする?」
私がそう言うと、森岡くんは「えっ」と焦り始める。
「そんなことないですよ、兄の車は大きいので六人乗れます」
じゃあお言葉に甘えようかな。そう思っていると、突然、後ろから抱きつかれた。
「三人で何の話してんのー? 俺も混ぜてよ」
「安本くん!」
びっくりするじゃないかいきなり! 一体この人の行動にどれだけ驚かされたことだろう……
そんな私にはお構いなく、安本くんは楽しそうに問いかける。
「ねえ、何の話してたの?」
「みんなで海行こうって話。森岡くんのお兄さんが連れてってくれるんだってー」
「へえ、楽しそー。で、美湖はもちろんセクシーな水着着てくれるんだよな?」
いや、ちょっと待って。……どうしてそうなった。私に色気の「い」の字もないこと知ってて言ってるんですか?
「……お前ら、うるさい」
すると不機嫌そうな声が斜め前方から飛んできた。――中原だ。
「あ、中原ちょうど良かった! 今ね、みんなで海行こうって言ってたんだ」
「海?」
わずかに首を傾げた中原は、やがて「ああ」と納得したように頷く。「夏休みの話か」
「そうだよ、明日から夏休みだよ!」
もう楽しみで楽しみで! あ、咲とお祭り行きたいな。花火大会も。
「……中原も海行くよね?」
さっきから反応が薄い中原に、私は恐る恐る尋ねた。行かないとは言わせないぞ。しかし予想とは裏腹、中原は案外あっさりと受け入れる。
「ああ、行く」
「えっ」
思わず声を上げると、中原にぎろりと睨まれた。何か文句あるのか、と言いたげな視線だ。文句なんてないですよ。ちょっと拍子抜けしただけですよ。
「な、何でもない。中原も一緒に行けるから良かったなと思っただけ!」
そう、そうだ。私は何も悪いこと考えてないんだから!
だからそんなに睨まないでよ怖いよ!
中原の視線に怯えていると、私の体に巻きついていた腕が急に締まった。
「ぐえっ。や、安本くん……苦しい、です」
「美湖は罪な女だなー。素直すぎてだめだわ」
そんなことをつぶやく安本くんに、私はとりあえず「ご、ごめんなさい」と謝る。
「ま、海行く日は後から決めようか。守の兄さんの都合もあるだろうし」
大垣くんが場をまとめてくれたので、私たちはこくこくと頷くばかりだ。うわー、早く行きたいなあ。すっごい楽しみ。
「じゃあ今日はもう帰る? 準備もあるだろうし」
私が提案すると、それぞれみんな同意して玄関への道を歩き始めた。
「菊地」
不意に名前を呼ばれて振り返る。こんな呼び方をするのはたった一人しかいないんだけど、でもやっと、名前を呼んでくれるようになった。
「クレープおごるから付き合え」
「……は、はあ」
いつからかお約束になったクレープも、中原となら飽きない。でも今日はちょっと唐突すぎやしませんか。
結局、私と中原はみんなと別れてクレープ屋さんへと向かった。
「お前には色々と礼を言う必要があるんだ」
ベンチに腰掛けて早々、中原はそう切り出した。礼って何だろう? 首を傾げた私に続ける。
「……立花先輩のこと」
あ。声を出しそうになって、慌てて口を押さえた。だって中原の瞳がいつもと違って揺れていたから。
「告白、されたんだ」
ぽつりと、彼はそうつぶやいた。
「今まで気づいていないわけじゃなかった。でも俺はあの人を幼なじみ以上の存在として見たことはない」
だから気づいていないふりをした――中原は、ため息と共に吐き出す。
それは立花先輩にとって辛かった事実。たぶん、ずっと分かりきっていたけど分かりたくなかった本当のこと。
「どうしていいか正直検討もつかなかった。だから……」
中原が口を動かす。私はそれを見つめる。時間が止まったんじゃないかって、そんな気がした。
彼の口から出た言葉。いま私はどんな顔をしているんだろう。
「立花先輩と付き合うことになった」