第12話 その策略の先に
菊地美湖、いま最大の悩みにぶつかっております。
「美湖、なしたの? ご飯食べないの?」
不思議そうに私の顔を覗き込んでくる咲に、私は思い切って顔を上げた。ええ、食べますとも! ご飯は食べますとも!
朝ヶ谷祭が終わって次の週の月曜日。教室の空気はどこか重い。それもそうだ、行事のあとは授業がだるいのだ。
箸を握って「いただきます」と手を合わせる。咲もひとまずは安心したのか、お弁当に視線を戻した。
「咲、ちょっと聞いて欲しいんだけどさ」
そう切り出した私は、咲がこちらを見るのを確認して続けた。
「王子様って本当にいると思う?」
「ぶっ」
「あ、こら! 吹き出すな!」
ごめんごめん、と口元を押さえる咲は恐らく反省していない。
「本当にいるかどうかはさ、美湖が一番知ってるじゃん」
いやまあ確かにそうなんですけども。そりゃ毎日図書室に通ってましたけども。
「実はね」
意を決して、私はあの日のことを咲に打ち明ける。
「王子様が……迎えに来たの」
「美湖……」
心底悲しそうに眉根を寄せた咲は、私の両手を握って言った。
「保健室行こうか」
「行きません! どこもおかしくありません!」
「それ素で言えんのがすごいわよ、本当に。尊敬に値するわ」
はあ、と呆れた様子で咲がため息をつく。そんなことを言われてもこれが素なんだから致し方ない。
「迎えに来たって……誰が?」
「えーと……」
いざ口に出すとなると臆病になる。もしかしたらあれは夢だったのかもしれない、と少し思い始めているのも事実だった。
「八組の遠藤くんって知ってる?」
そうストレートに訊いてみる。
「遠藤くんって、遠藤咲弥くんのこと? あの爽やか系王子のこと?」
「うん、たぶん」
爽やか系王子っていうのは知らないけど。うん、まあ咲が勝手につけたあだ名だろう。
「知ってるも何も、知らない人いないでしょ。狙ってる子、大勢いるわよ」
「へえ、そうなんだ」
「あんたって子は……本当に疎いわね」
だって八組とか離れてるから知らないじゃん。とか心の中で言い訳を並べつつ。
「その遠藤くんに、王子様だって……言われたんだよ」
「は?」
遠慮なく声を上げたのはもちろん咲。は? って……私は事実を言ったまでですけど、ね?
「遠藤くんが? 美湖に?」
「うん」
「僕が君の王子様だよって?」
「いや、そんな言い方はしてないけど」
「ふーん?」
訝しげに見てくる咲に、私は思わず「何よ」と反抗した。
よく考えれば、遠藤くんみたいな人がどうして私に……とは思う。でもあんなことを言われた手前、意識せずにはいられない。身の程わきまえろって? んなもんとっくに分かってるわ!
「それで、美湖はどうしたわけ」
「どうって……突然だったしわけ分かんなくて」
挙句の果てに――
『菊地さん。……好きです』
だぁ――――――っ!! 思い出すだけでくすぐったい!
「美湖? なに赤面してんの?」
「な、何でもありません。はい、断じて」
「……怪しい……」
すると咲は急に満面の笑みを見せ、
「ほらほら、私に言ってごらーん? 何でも相談に乗ってあげるよー?」
「け、結構ですっ!」
その笑顔の方が怪しいです! 絶対何か企んでるぞこの人!
「じゃあいいや。遠藤くんに直接聞いちゃうから」
「やめて!?」
思わず立ち上がったその時。
「僕がどうかしたかな?」
……この声は。恐る恐る振り返ると、そこにはいま一番会いたくない人が佇んでいた。
「菊地さん、ちょっと話があるんだ。来てくれる?」
「え? 話って……」
何のことでしょう。ていうかどうしてみんなの前でそんな意味深発言しちゃうんでしょう。
「菊地さん借りるね」
咲にそう微笑んだ遠藤くんは、私の右腕を取ると歩き出した。慌てて後ろを振り返る。
助けを乞おうとした私を、咲は――
「うわぉ」
口に手を当て、大袈裟に驚いてみせた。
咲、あんたは……友達なんだから助けなさいよっ!
「ごめんね。突然だからびっくりしたでしょ?」
人気のない階段。立ち止まった遠藤くんはそう切り出した。
「あ、いや全然……気にしないで。あはは」
もう本当に笑うしかないですね、これは。泣きたい、いっそ全速力で逃げ出してしまいたい。
「実は僕、生徒会に入らないかって勧誘を受けているんだ」
そうなんだ。中原も先輩に気に入られてたけど、遠藤くんもそうだったんだ。私は「へえ」と相槌を打つ。
「中原聡くんも、そうだよね?」
そう訊かれて頷くと、遠藤くんは微笑んだ。
「菊地さん、僕と生徒会入らない?」
「はい!?」
何でそうなるんですか!? 勧誘受けてるの中原だよ? 中原と二人で仲良く入りなよ……って、それはだめだ。でも、何で私に?
「自分で言うのもおかしな話なんだけど……僕、生徒会になぜか気に入られてるみたいで」
うん、それはあなたが完璧人間だからだと思いまーす! 嫌味でもなんでもありません!
「ちょっと融通効かせることもできるんだよ。だから、もし中原くんを生徒会に渡したくないって言うなら……」
菊地さんを代わりに生徒会に入れられる。遠藤くんはそう言って困ったように首をかしげた。
中原の代わりに私を? でも、それじゃ意味がない。結局誰を代わりにしても、私たちは完全なる五人にはなれない。
「ごめん、それは……できないよ。私たちは五人で一つだから」
誰を抜いたって同じこと。五人揃っての私たち。
「菊地さん」
遠藤くんが一歩、私に近づく。
「僕、やっと君に会えたんだ。君にとっての王子様は僕しかいないよ」
――遠藤くん? この前はこんなにはっきり言われなかった。
遠藤くんが距離を詰めてくる。一歩、また一歩。そして、私の両脇に手をついた。
「どうして中原くんが生徒会に誘われてると思う?」
妖しく口角を上げる彼が、何だか違う人に見えた。「教えてあげるよ」と耳元で囁かれる。
「中原聡が生徒会長になることは――入学する前から決定事項なんだ」
「え……?」
――意味が分からない。中原が……生徒会長? 何で? しかも入学する前から?
「現生徒会長、立花葵さんの幼馴染みなんだよ。彼は」
頭の中が真っ白になって、必死で理解しようとしても脳が受け入れてくれなかった。いや――受け入れたくなかった。
「いいの? 中原くん、立花先輩にとられちゃうよ?」
「と、とられるって……」
中原は別にそんなのじゃない。そう、そんなんじゃないから……いいの、かな……?
「それともやっぱり、僕と抜け駆けしちゃおうか」
遠藤くんが甘く囁く。優しく、妖麗に。だめだ、流されちゃいけない。ちゃんと考えなきゃ。
引き分けで終わったイベントは、中原への生徒会勧誘をとめてはくれなかった。曖昧で終わったからこそ、決着はついていない。
だから生徒会も諦めきっていない。中原を引きずり込もうと――必死なのだ。
やっぱり立花先輩がいるから? だから中原は生徒会に入らなきゃいけないの? 立花先輩は、
――中原は、どうしたいの?
思えば中原の意見は聞いたことがなくて。ある意味、私の意見を押し通してきた部分も多い。
もしそれが、中原にとって望んだことじゃなかったら――
キーンコーンカーンコーン……
「あ……も、戻るね」
そう告げて私は遠藤くんの腕をすり抜けた。正直、ほっとした。
「菊地さん」
力強い口調。振り向かない私に遠藤くんは投げかける。
「僕はいつでも……君の味方だから」
最後に優しい言葉を聞けてよかったかもしれない。このままだったら泣いてしまいそうだった。
「うん、ありがとう」
小さく返して廊下をただ一人、駆け抜けた。
放課後、帰り際に私は中原を呼び止めた。
「中原」
「何だ?」
「……今日、ちょっと時間あるかな」
その言葉に中原は「分かった」と頷き、少し急ぎめに帰り支度を始める。そういうところは優しい。
あれから教室に戻ると、咲に心配そうな顔を向けられた。さっきだって大垣くんに「大丈夫?」と声をかけられる始末だ。
それほど、今の私は悲壮感が漂っている。どうして自分が悲しいのか、よく分からなかった。
「いつものとこでも行くか?」
いつものとこ、というのは近くのカフェで、私は静かに頷く。それからお店の中に入るまで、私たちは無言を貫いたままだった。
「……そろそろ何か話せ。耐えられない」
コーヒーを受け取った中原が、シュガースティックを片手に持って言う。また砂糖ぶっこむつもりだこいつ。
「何の話だ?」
訊かれて俯いた。こういう時、何から話せばいいんだろう。
「中原、さ。バレバレだよ」
「は?」
「まだ生徒会の人に勧誘されてるでしょ。毎日されてるでしょ」
知っちゃったんだよ。朝ヶ谷祭が終わってからずっと、中原は生徒会の人につかまってる。それを中原は毎回律儀に断ってる。
「断ってるのは、何で?」
私が勝手に中原をとられたくないとか言ったから? だから責任感じちゃった?
「お前、何言って……」
「生徒会入りたいなら入ってもいいんだよ。私にとめる権利ないから」
本当は一緒にいてほしい。まだこのまま、五人で仲良くしていたい。――だけど、中原の本当の気持ちが知りたい。
「菊地」
「ごめんね、私が引き止めるようなこと言わなきゃ良かったね。……立花先輩も困っちゃうね」
ぴくりと、中原の眉が動いた。目を合わせたくなくて顔をそらした私に、中原は容赦がない。
「菊地、お前……誰にそんなこと吹き込まれた?」
いつもとは比べ物にならない低い声。中原の目を見られない。見たらきっと……泣く。
「吹き込まれたって……そんなんじゃないよ」
「嘘つけ。目が泳いでる」
言ってみろ。俺は誰にも言わない。そう付け足して、中原は黙り込んだ。
そんなこと言われたって。
『決定事項なんだよ』
遠藤くんの言葉が脳裏に浮かぶ。もう私たちに権利はないって、覆せないって、そう言われているみたいだった。
「……中原……」
「おい、待て! 泣くな、泣くなって! 分かったから落ち着け!」
「な、泣かないもんっ」
懸命に力を込めた目から、耐えきれずに涙が一滴落ちた。泣かないつもりだった。泣いたら余計に中原を困らせてしまうから。涙で引き止めるようなこと、同情を買うようなこと、絶対にしたくなかったのに。
「……ほら、拭け」
目の前に突き出されたのは、淡い水色のハンカチだった。女子力高いな、くそやろう……
「ありがとう……」
おずおずと受け取って頬にそれを当てる。ふわっといい匂いがした。石鹸かな。でもそれだけじゃないような。
「あんまり一人で抱え込むなよ」
ぽつりと中原がつぶやく。
「お前見てると、危なっかしくて放っておけない」
う、ごめんなさい……でも高校生なので一応一人でも大丈夫ですよ!
「本当にバカだし」
はい、それに関しても何も言えないですね。ええ。
「誰にでもついてくし」
失敬な! 私は小学生じゃないんだぞ! 知らない人にはついていかないぞ!
すると中原はふっと笑い、
「でもバカみたいに正直」
それ褒めてる? バカが余計じゃないですか? むっとして中原を睨んでいると、それとは対象的に微笑みを向けられる。
「たまには頼れよ」
不覚にも心臓が跳ねた。いつもの中原ならここで顔を背けて照れるはずなのに。今日は顔色一つ変えずに私を見つめる。
「あ、当たり前でしょ。頼ってるよ……」
いつも助けてもらってるよ。すごくすごく感謝してるよ。
「お前、顔真っ赤」
「えっ!?」
慌てて頬に手を当てると、熱くて焦った。でも、向かいの中原だって今はそっぽを向いてる。
「……ほんと、バカ」
バカはあんただ。何でいま照れてそんなこと言うのよ。こっちの調子が狂うっての!
「あのさ!」
突然声を張り上げた私に、中原は目を見開いた。構わず続ける。
「中原もちゃんと思ったことがあったら言ってよね。生徒会に入りたいとか、立花先輩に……」
「ストップ」
途中で遮られ、私は呆然と中原を見つめた。
「そいつの名前出すのやめろ。それと俺は生徒会に入る気はない。少しもな」
はっきりと述べてコーヒーを口に含んだ中原。……どうしよう、嬉しい。
「私たちの仲間でいてくれるってことだよね?」
「当たり前だ」
良かった。中原がそう思っていてくれて本当に良かった。
訊けないことはまだたくさんある。言えないこともたくさんある。でも。
『たまには頼れよ』
その言葉だけで、私は頑張れそうな気がした。