彼らしく、彼女らしい、デート(3)
(……顔が熱い)
アリエッタはシュナイゼルの居る遊郭、『早熟なる桃』へと向かいながら、熱を帯びた頬を冷たい手で押さえ付けながら、必死に冷ましていた。
アリエッタは山で暮らしており、彼女の知っているのはシュナイゼル、パーシー……後はこうしてシュナイゼルに連れてかれる街で出会う人達だけ。
そんな小さな世界が、アリエッタの知る世界だった。
あの山奥にパーシーのように訪ねてくれる人はほとんどおらず、パーシーとの出会いだって彼女からしてみれば短い付き合いであって、名前だってなかなか覚えられなかった。
あの時、触手をうねうねと動かす気味の悪い怪物から助けられなければ、今もきっとパーシーの事はアリエッタの記憶からうっすらとしか記憶に残らなかっただろう。
けれども今のアリエッタの頭の中では、パーシーという乙女の唇を奪った彼の事を忘れる事は出来そうになかった。
「……//////」
アリエッタは確かに野生児である。
しかし、アリエッタは同時に乙女である。
誰にも教わっていなかったとしても、キスという人間の生殖的な、本能に語りかける行為は、彼女の本能を刺激して脳に語りかけていた。
「……パーシー、だっけ//////」
さっきの、階段での事故が、彼女に彼という存在を強く印象付けていた。
結果的にはパーシーが常日頃から願っていた、アリエッタに彼の存在を強く印象付ける事には成功したのだが、予想以上に彼女はキスの事を長引かせていた。
「……とにかく、シュナイゼルのとこ、ろにいかないと」
そう思いながらアリエッタは急いで、シュナイゼルのところへ向かうために急いで道を引き返していた。
シュナイゼルにアリエッタに心配をかけてはいけないと彼女が感じたからである。
アリエッタにとって、シュナイゼルは大事な人物だった。
親であり、兄であり、保護者であり、そして家族であった。
「早く行かないと……」
アリエッタは自分がなんとなく頭で覚えている、というよりも食べ物で覚えている露店の道を、自分のぐーぐーと鳴る腹の音を押さえながらアリエッタが道を戻って行って――――結局、買い食いをしながらアリエッタはようやく交差点へと戻って来ていた。
「えっとたし、かあっちだっ、た?」
それは本当になんとなくあっちに居ると物覚えが悪い自分の頭からなんとか記憶を引っ張り出して、アリエッタは恐る恐る騒がしい方へ、騒がしい方へと道を進んで行く。
騒がしい方へ進んでいるのは、前にシュナイゼルがこのパミューズメントに居る際に、自分をどう探せば良いかを教えてくれたからである。
『パミューズメントはこの我にとって庭みたいな、それよりも王宮みたいなものである。我が居る際はこの街はお祭り状態である。この街にて我を探す際は、騒ぎの中心へと向かいなさい。
――――パミューズメントの王、シュナイゼル・ポーレルはそこに居る』
最初はその意味も理解出来なくて、今でも彼女はどうしてこの街でシュナイゼルが来る度に騒いでいるかは理解出来ない。
けれども、一つだけ確かな事があるとするならば、この街に連れて来られたら、とりあえず騒いでいる場所に向かえば必ず彼、シュナイゼル・ポーレルの所に辿り着ける。
アリエッタにとって、その程度分かっていれば十分だった。
「……あっ!」
そうしてアリエッタは見つけ出す。『早熟なる桃』というその店を。
幸い、彼はまだ出て来ていないようで、まだ女遊びをしているみたいである。
アリエッタは保護者のシュナイゼルに心配をかけずに済んだ事にホッとしつつ、パーシーの事を思い浮かべていた。
彼はどういう人物なのだろう?
そう考えると、なんだか心がポカポカしてきた。
それは彼女が初めて抱く感情であった。でも不思議と悪い気分ではなかった。
「……パーシー」
「ダメだよ、そんな風に呟いちゃったらいけない」
ガシッと後ろから衝撃と共に、強い口調が聞こえたかと思うと、そのままアリエッタは頭を地面へと叩きつけられる。
「……っ! なに、を」
アリエッタがそう言うが、強い口調の主はそれについては何も答えずに、ただ静かにこう言った。
「君はそれではいけない。それじゃあ、いけないんだよ」
アリエッタが記憶として覚えているのはそこまでだった。
「あっ! アリエッタちゃん!」
それからしばらくして『早熟なる桃』という行きつけの遊郭から、生き生きとした満足げな表情をしたシュナイゼル・ポーレルが出て来る。
全身からむんむんとした桃色の甘い香りを漂わせ、顔にいくつものキスマークと共に手で引っ叩かれた跡が付いているが、彼自身は本当に嬉しそうである。
出て来たシュナイゼルは、店の前で呆然と立ち尽くすアリエッタを見つけると、そのまま気さくに声をかけていた。
「あっ……シュナイ、ゼル?」
「そうだよー、我こそがシュナイゼルだ。そろそろ帰ろうか?」
「……う、ん」
シュナイゼルがアリエッタに手を差し出すと、アリエッタはその手を取ろうとして、
「ん……?」
アリエッタは前に会った時となんら変わっておらず、血の跡は服にも、そして体にも付いて居なかった。
が、吸血鬼という地に敏感な種族であるシュナイゼルはアリエッタから異臭を感じていた。
異臭、いやシュナイゼルにとっては良い匂いであったが、それでも彼女の事を考えると要らない臭いだった。
それはシュナイゼルが望むアリエッタの生活には要らない……血の臭いだった。
「アリエッタ。質問だ。その血の臭い……どこで付けた?」
これがもし、そこいらの動物や魔物の血の臭いだったら後で注意すれば済む話である。
人間の臭いだったとしても、どこかで無駄な戦いに巻き込まれただけかもしれないとそう思う事も出来た。
しかし、今アリエッタの身体から香っている臭いは、人間でも獣でもなかった。
それが、シュナイゼルを余計に不安にさせていた。
「……? 血?」
ポカン、とした顔で言われた後に自分の身体から血の臭いがする事にようやく気付いたアリエッタは、クンクンと自分の臭いを嗅ぐとハァハァと荒い息をあげていた。
「ハァハァ……良い匂い……この芳しさは何? 身体がとろけちゃう……。あぁ、本当に素晴らしい匂い、いつまでも……どこまでも……嗅いでいたい……。今、私の中に……」
「止めておけ」
自分の腕に付いた血を自分の腕ごと食べようとするアリエッタを、シュナイゼルは腕を掴んで止める。
「とりあえず帰ろう、あの山へ」
「う、ん……」
まだ諦めずに自分の腕の血を飲もうとするアリエッタを止めながら、シュナイゼルはあのアリエッタのために用意した茨の山へと向かいながら、アリエッタに付いた血について考える。
(あの血は我の嗅覚が確かなら獣でも、魔物でも、そして人間でもなかった。勿論、人間の血の匂いもしていたが、それ以上に問題なのはあの臭いで間違いない……よな?)
アリエッタとシュナイゼルは制御出来ない、制御出来るという違いはあるけれども、2人とも血の匂いには敏感である。特にあの匂いに関しては。
(けれどもアリエッタは、こっちから我が指摘するまで気付いてなかったよな? あんだけ強烈な、それこそ気付いたら腕ごと食べようとするくらいの匂いだったから、アリエッタも気付いてると思ったのだけれども……どういう事なんだ?)
不思議に思いつつ、それでもシュナイゼルは詳しく聞かずにそのまま一緒に帰るのであった。
☆
アリエッタがシュナイゼルと帰ったのを見送った後、すーっと建物と建物の間から1人の少年が現れる。
悪魔の印が付けられた黒い帽子を目元を隠すくらい深々と被っており、黒い毛皮の手袋を手首まで被せて黒い少し大きめのコートを着ている、全身黒ずくめの少年。
ソロモン・パガニーニはアリエッタの後姿を見ながら、「うんうん」と肯いていた。
「どうやら上手くいってるようだね。まぁ、わたくしが与えた細工が上手くいったようで何より、というべきかな?」
ソロモンがそう言いながら白いもので覆われた自身の右手をゆっくりと上へと持って行くと、そのままそれを霧散させる。
「怪物が化け物であるために、必要な事とは何か? それは人間の心を理解しない事だよ。
怪物が人の言葉を喋るのは化け物としては断じて問題はないが、人の心を理解した怪物はもう化け物ではない。
誰もがあなたを怪物から化け物ではなく、人間にしようとしているけれどもそうはいけないわ。だからこそ、わたくしがあなたを化け物であり続けてあげましょう。そう、例えば幸せな想いを、人間にしてしまうような想いを全て忘れてね。
ねっ、アリエッタ? ウフフ……」
少年が浮かべる笑みは、どこか狂気じみたものが浮かんでいた。
そう、それはまるで――――――化け物のように。