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意識を取り戻すと、私は写真展の部屋に立っていた。相変わらず部屋はモノクロの写真で囲まれていて、先刻までいた世界を髣髴とさせる。
部屋に男性の姿は無かった。私が意識を喪っている間に出ていったのかもしれない。でも、きっとそうではないだろうなと思う。
願いの世界。男性はきっとあの中で幸福に過ごしていくのだろう。それは、端から見れば愚かなものなのかもしれなかった。私が、壊れた景色だと感じたように。肯定してはいけないと感じたように。それでも、彼にとってはそれが何よりも、どんなことよりも重要で、世界の真理だった。その結末を、私は見届けて、現実に持ち帰った。そうして彼の物語は真実になったのだと思う。そうだったらいいと思う。
部屋を見渡す。色の無い写真たち。しかし、そこに色を見出し、世界をも作り上げた盲信者。私は未だに圧倒されていた。未だに、胸が焦がれていた。
私にはあの場所には辿り着くことは出来ないだろう。そのことは、喜ぶべきことだろうか。悲しむべきことだろうか。これまでそういったことについてあまり考えたことがなかった。幸福について。自分のことについて。願いについて。興味が無かったのかもしれない。それでも、じっくりと考える必要があるように感じた。それはきっと、私にとっては大きな変化なのだと思う。
部屋の正面奥、桜の木の写真の前にやってくる。そこに私は、二人の男女の姿を見つけた。満開の、モノクロの桜。男性はがっしりとしていて背が高く、そしてベレー帽を被っているようだった。女性は腰の膨らんだドレス。ピンヒールの踵を更に上げて、つま先立ちで男性に顔を寄せている。
二人は口づけを交わしていた。表情は翳っていて良く見えなかったが、きっと二人とも幸福な表情を浮かべているに違いないと私は思った。
部屋を出ると、静まりかえった空気と赤黒い絨毯が私を迎える。世界の色は決してそれまでと変わってはいなかった。薄暗い館内と血のような赤はやはりどこか不気味で、
でも、それでも。
豪邸を後にする。時計を見ると、写真展に入ってから殆ど時間は経っていないようだった。
私は動き始めている町に向かって走り出す。普段どおり、往路を逆に行くだけの復路を走っていく。毎回通っている坂道。朝日が昇り始め、世界の彩度は跳ね上がる。家の壁、道路標識、色付き始める空。その景色に、胸が高鳴るのを感じる。朝の冷たい空気。もっと疾く。風を切って走りたくなる。誰に言われるでもなく、そうしたくなる。
いつもの柴犬が吠えた。朝の静寂にその声は凛と響く。その鳴き声に背中を押されながら、私は桜が舞い散る坂道を駆け下りていく。




