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気がつくと私は公園に立ち尽くしていた。
男性が写真に撮っていた公園。朝練のときに毎回訪れる公園。見慣れた景色。遊具の配置も、桜の木も完璧に再現されている。しかしながら、その公園は本物ではなかった。決定的な物が抜け落ちていた。
色。全てに色が無かった。色彩というものが存在していなかった。男性の写真展と同じように。
写真の中に入り込んだのだ、と私は理解した。科学的な説明は不可能だった。しかし、現状として、私は公園にいて、そこには写真と同様に色がなかった。非現実的でも、それを認めるしかないのだと思う。目の前で起こっていることは、覆しようがない。不気味なほどに冷静に、私はこの現象を受け容れていた。
桜の木の下に、男性が立っていた。桜は満開で、しかし当然ながら色が無かった。枯れ木に咲いた、枯れた桜。それはどこか悲しい光景に思えた。一方で、男性からは色は喪われていなかった。私は自分の身体を見つめる。赤色のジャージ、そこに引かれている白いライン。悴んで少し赤くなっている手。私自身からも、色は喪われていないようだった。
「お嬢ちゃんには、この世界が何色に見えているかな」
この現象に関する説明は何もなかった。木漏れ日のような声で、真っ直ぐに私の目を見て、男性はそう質問した。その切ない表情に一瞬魅入られてしまう。胸が壊れそうになる。しかし、だからこそ、私は誤魔化さずに、正直にそれに答える。
「あの写真と同じで、色が付いていません」
「そうか、なるほどね。だが私には、」
男性は顎髭に触れる。
「私には、しっかりと色が付いて見える。ベンチの青色。滑り台の赤色に、銀色。そして、この桜の薄桃色もね」
諭すような、真摯な表情で男性は言う。目を凝らしてみても、世界は冷たい色のままだった。しかし、男性が嘘を言っているとも思わない。そのことは、直感的にわかる。私には、男性の目に映る光景を感じることは出来ない。私の世界と彼の世界は、同じようでいて違うのだろう。同じものを見ているつもりでも、きっとその見え方は異なっている。それは些細なようで、実は途方もなく大きな違いなのかもしれない。
「この世界が貴方の願いですか?」
「そうかもしれないね。でもまだ未完成だ」
男性は桜の木に手をついた。そうして満開の桜を見上げる。
「待っている人がいるんだ」
どこか暖かく、安心するような雰囲気。しかしそれで覆い隠したはずの悲しい響きが、少しだけ漏れ出ていた。
「あの公園で写真を撮っているとね、時折彼女の姿を見つけるんだ。レンズ越しに見つけたり、普通にベンチに座っていたり、撮った写真の中にちらりと現れたりする。彼女に会うために、私は写真を撮るんだよ」
男性の表情は穏やかだった。子どもに童話を語り聞かせるような、愛情と鳥瞰に彩られた声音。悲しい結末を知らないふりをして、希望の台詞をはつらつと読み上げるような態度。
私は理解する。男性が待っている相手は、きっともうこの世にはいない。彼が見たという彼女の姿は、きっと何かの幻に違いない。強すぎる願いに呼び寄せられて、現実に介入する幻。それは少し突いただけで弾けてしまう、泡のようなものだと思う。
「二人は愛し合っていたのですね」
私の台詞に男性は少し目を見開き、
「うん、そして、今もまだ愛しているよ」
あの公園が、二人にとってどういった場所だったのかはわからない。桜の木の下で愛を誓い合ったのかもしれないし、ベンチに座ってとりとめのない会話をしながら、お互いへの理解を少しずつ深めていったのかもしれない。二人にとってこの場所は大切な場所で、そのことは紛れもない真実として在るのだろう。途方もなく広大な時間軸に、確かに穿たれているその点。
「彼女は来てくれると思いますか?」
私は少し酷な質問をした。男性を試そうという気持ちがあったかもしれない。
しかし、その質問に男性は動じなかった。
「いつか必ず、来てくれるさ」
優しい笑顔で顎の髭を弄る。
「信じることはやめてはいけないよ」
強い、強い意志を感じさせる瞳だった。もう彼女は来ない。世界中の人々にそう言われたとしても、男性は信じ続けるのと思う。その強さに、私は心が疼くのを感じる。自分でも知らない部分。これまでの自分になかった激しさを感じる。
ふと、男性が公園の入り口を見やった。瞬間、優しく細い目が一瞬だけ見開かれ、そうしてまた柔らかな、全てを知っている表情に戻る。一瞬遅れて私も男性の視線を追いかけた。その先にある物体を見て、心が叫び出しそうになるのを、背筋が粟立つのを感じる。
女性が立っていた。腰まである髪が、そのことを説明付ける。季節違いの日除け帽。肩の開いた西洋風のドレス。くびれた胴とスカート部分の膨らみは、その下のコルセットの存在を示している。露出した肩は細く、どこか弱々しい。
女性には、やはり色が付いていなかった。そして、顔に至っては真っ黒に塗りつぶされていた。
それはそのまま、それが幻であることを意味していた。
慎重にも見える、ゆっくりとした足取りで、女性は男性へと歩み寄っていく。どこからともなく、夏の香りが鼻を掠める。ピンヒールの踵が、ざくり、ざくりと地面を抉り、やがて男性の目の前へと到着した。その間、私は凍ったように立ち尽くしていた。嫌悪はない。恐怖でもない。何か、膨大な違和感。消しゴムを持ったまま消しゴムを探しているような、簡単すぎて見落としている問題。
「来てくれたんだね」
男性は穏やかな笑顔で、彼女の手を取った。女性はどんな表情をしているだろうか。笑っているだろうか、悲しんでいるだろうか。黒塗りの表情の上からは、それを知ることは出来なかった。
「もう随分と年を取ってしまったよ」
男性の言葉に、女性は応答していないように見えた。しかし、男性は皺だらけの顔にもっと皺を寄せて、嬉しそうに女性に相槌を打つ。私には見えていなくても、男性には見えているのだろう。内面にある、何か、決定的な違いがそうさせるのだろう。
桜の木の下で、二人は見つめ合っていた。桜は満開で、しかし舞い散る桜にも女性にも色が無かった。
これは、壊れた景色だと思う。これは、間違った景色だと思う。しかし、何がどう間違っているのか、私にはわからなかった。虚構? 紛い物? 目の前の景色を私は否定しようとする。否定しなくてはいけないような気がする。これを肯定してはいけないような気がする。しかし、もう一人の自分が言う。
でも、何が間違っているのだろうか。
これが間違っているというのなら。男性のあの穏やかな微笑みは何だろうか。私の頭を撫でた大きくて暖かい手。その手は今彼女の手を握っていて、そこには紛れも無く体温が宿っているはずだ。そこに、間違いが存在するだろうか。正しくないと言えるのだろうか。
あぁ、と私は思う。妄信者。嘘も幻も、全てを真実にしてしまうその強さ。紛い物だと指摘されても、それがどうしたと跳ね除けるだけの信仰。願い。男性は、きっとそこにいる。この世界も、その願いの強さを私に突きつけている。
私には、こんなに強い願いを抱くことは出来ない。私は目に見えるものばかりを見てきた。与えられたものをこなしてきた。妄想や空想をする能力が劣っているのだろうと思う。理想を描いて、それに向かって進んでいく才能に欠けている。男性は、私と正反対の人物だった。どこか近いような、似ている気がして、でも根底の部分では大きく異なっている。
それを私は、羨ましいと感じたらしかった。悔しいと感じたらしかった。胸がざわつく。これまでに知らなかった感覚。私は男性の願いの力に圧倒されていた。憧憬? 焦燥? 届くことのない、決定的な実力差。とっくに手遅れで、取り返すことの出来ない違い。
壊れているようで、間違っているようで、真っ直ぐに純粋な願い。混じり気のない願い。泉から湧き出たばかりの剥き出しの感情、その発露。その結晶。
気が付くと涙が零れていた。物心付いてから泣いたことはほとんど無かった。どうして泣いているのか自分ではわからなかった。自分がわからない。感情の正体がわからない。私はどうしてしまったのだろうか。でも、間違いなくそれは心の奥底から湧き上がってきたものだった。それは、これまで知らなかった、私の深い部分にある小さな灯し火の存在を証明してくれているのかもしれない。
ジャージの袖で涙を拭う。ぼやけていた視界が元に戻る。
そこで私は、異変に気付いた。
僅かではあったが、世界に色が戻っていた。まだ鮮明ではない。しかし、モノクロだった景色には少し温度が戻っていた。朝日が昇って、徐々に町が色付き出すように。冷たかった世界にゆっくりと温もりが広がるように。
「お嬢ちゃんにも、見えたんだね」
男性は柔らかい声でそう言った。祝福しているようで、どこか悲嘆が入り混じっていることに私は気付いた。それでも、その声に安心する。胸を撫で下ろす。そうして、世界は色付いていく。
世界に彩りが戻っていく。
戻っていく?
砂場の色、空の色、ブランコの色。桜の色。
少しずつ、世界の彩度が戻っていく。これが、願いの力。私にはない、理想を追い求める力。
涙が止まらない。それを拭うたびに、世界は完成していく。桜の鮮やかな薄桃色。目の前を花びらが通り過ぎる。それだけのことが、胸を締め付ける。私はどうしてしまったのだろうか。強くてしなやかな想いに触れて、私の中の何かが溶けて、解けていく。私を私たらしめていた、決定的な何か。頑丈な鍵で塞いだ扉、その鍵に一切手を触れずに隙間風のように侵入する。閉じ込めていた柔らかい場所が、蕩けて、引き摺り出されていく。
色が戻っていくのと同時に、女性の顔の黒色が、少しずつ晴れていく。凹凸がわかる。鼻の高い女性だった。輪郭だけでも、その美しさがわかる。向日葵のような、眩しい人だ。
世界はもう殆ど完成していた。
ポケットに、百円玉があった。私はそれを握り締める。本来ならば、百円玉が入っているはずはなかった。私は走りに行く前に、一枚だけ百円玉をポケットに入れるのだ。そして、それはもうここに来る前に使ったはずだった。自動販売機には、色取り取りの飲み物が並んでいた。赤、緑、黄色。黄色を飲みたい、と思う。部活で禁じられている炭酸飲料。それを飲みたい、と思う。なぜこれまで飲まずにいたのか、不思議に思う。これまでずっと、我慢してきたのかもしれない。我慢していることにすら気付けぬまま。それは、酷く勿体なくて、哀れなことのように思える。
自動販売機に歩き出そうとしたとき、何かに引き止められたような気がした。不意に蘇る夏の香り。胸を掻き乱す、切ない匂い。後ろを振り返る。あの女性がこちらを見ていた。
女性の顔の黒は、もう殆ど晴れていた。世界に色が戻っていくのと同時に、女性の表情も少しずつ鮮明になっていく。私は、朗らかで喜びに満ちた笑顔を想像していた。男性との再会に胸を躍らせて、世界中の幸福を集めてきたような表情を浮かべているものだとばかり思っていた。しかし、それは間違いであることがわかった。女性は、笑顔だった。しかし、どこか寂しそうな笑顔だった。
彼女もまた、この世界の脆さを知っているのだとわかった。自らが、願いによって生み出された存在であることすらも。
世界を見渡す。色付けはもう仕上げに入っていた。空気の彩度、光の明度。もうすぐ完成する。男性が作り上げた、願いの城。本当も嘘もすべてを真実に変える魔法の国。
私は、ここに留まっていていいのだろうか。ここは、私とは正反対の場所であるような気がする。しかし、世界は出来上がっていた。色の無かった世界に、色が戻っていった。私がこの目で見ている、私が感じている、私の世界に。そのきっかけは、私自身の変化なのかもしれない。砂糖水を膨らませて作った泡のような、脆く儚くて、でも甘く美しい理想の世界。その世界に身を委ねる能力が、覚悟が、私の中に芽生えたのかもしれない。それは、喜ぶべきことであるようにも思える。
桜が散って、私の目の前を舞う。手を出すと捕まえることが出来た。何色にでも染まりそうな、薄くて軽い花びら。真実だった。確かに、そこにあった。掌のそれを見つめていると、また涙が浮かんで、視界が薄桃色に滲む。意識が朦朧として、眠りに就く前のまどろんだ感覚がやって来る。
魔法の国へと、誘われる。
迎えに来るのは、悪魔だろうか。それもきっと捉え方次第で変わるのだろう。思考を止める。思考が止まる。これまでのように、逆らわないで。のらりくらりと。
役目を終えて川の流れに身を任せる、桜の花びらのように。
心が吸い込まれそうになる。その感覚に、身を委ねそうになる。
そのときだった。
「ここにいてはだめ」
しっとりとした声音だった。私ははっとして顔を上げる。あの女性だった。顔の霧は完全に晴れて、凛々しい顔立ちを露わにしている。その表情は先ほど見たように、どこか寂しげだった。そして、どこか懐かしい雰囲気だった。
女性は言う。数十年来の親友のように。母のように。なぜだか、違和感がなかった。私の全てを知っているような、見通しているような雰囲気。
「貴方には、前を向いて歩いていく力があるわ。幸福を直視して、時にはそれを切り捨てる力も」
その言葉の一片一片が私の中に鈍く突き刺さる。それはやがて溶けて、解けて、凝り固まっていく。私を作っていく。私の一部になっていく。そうして、私自身の言葉となって、叫びとなってまた吐き出される。
「私は、幸福にはなれないのでしょうか」
また、涙が零れ出していた。誰も知らない、自分ですら知らなかった、自分の激しさに気付く。こんなにも柔らかい、軟い場所があったこと。閉じ込めていた部屋にあった、凍えるように孤独で寂しい冷気。
「時間がかかるかもしれないけれど。でも、きっと見つかるわ。貴方には、素敵な目があるもの」
女性は小さく笑う。
「それに、その目があの人の、私たちのためにもなるから」
その言葉の意味は、すぐにはわからなかった。
「さて、そろそろ時間ね。それじゃあね、お嬢ちゃん」
女性は私にウインクすると、ゆっくりと男性の元へ歩んでいく。
男性がこちらへと顔を向け、小さく、優しく微笑んだ。そこにはたくさんの意味があるように思えた。その全てを汲み取れたかはわからない。それでも、どこか寂しさを抱えつつも、これからの私を応援してくれているような、そんな雰囲気があった。手を振ると、男性もそれに返してくれた。最後の挨拶になる予感がした。
やがて女性は桜の木の下へと辿りつき、男性の手を取った。
そうして、二人は対峙した。女性は小さく屈んで、男性と目線を合わせ。
そして、そっとキスをした。
その瞬間、世界が歪みだす。力強く、やわらかい風が吹いて、世界から色をさらっていく。塗装が剥がれていくように世界から色がぽろぽろと喪われていく。終わりと始まりを告げる、祝福の風。空も地面も、ベンチも滑り台も、温度を失って、モノクロに戻っていく。
色彩が喪われていく中で、しかし二人は色を喪っていない。
桜の木の下、モノクロの花びらが散る中で、二人はお互いを見ている。
この世界は現実ではなくて、でもどうしようもなく真実なのだと思う。そのことを、私は知っている。男性の笑顔も、手の温もりも、この物語のことも、この目で見て、知っている。
あぁ、と私は理解する。私にはこの物語を、この景色を見届ける役目がある。この景色を、真実にする役目がある。二人の歴史を、座標軸に穿つ役目が。
水に絵筆を浸したように、視界がぼやけていく。全てが混ざり合って、しかしそこにはもう赤も黄色も緑も無い。息の詰まるような灰色に視界が覆われていく。私は目を逸らさない。白にも黒にも、何色にもなれるその色。
世界がまどろむ。身体が軽くなる。先ほどと同じような感覚。もうすぐ終わる。寂しいような、清々しいような気持ち。心地よい気分に身を任せる。願いの城が、崩れていく。優しい風を受けながら私は、その光景を二つの瞳にしっかりと焼き付けていた。




