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男性の言ったとおり、家までは数分で到着した。見るからに豪邸だった。大きな門、広い庭、白く左右対称な建物は、外国のお城を連想させる。
がちゃり、と大きな音を立てて門が開かれる。黒く大きな、仰々しい門だった。平然と中に入っていく男性の後ろを、私は少し緊張しながらついていく。庭には花壇や池まであった。この男性はひょっとすると世界的に有名な写真家なのではないか、そんな考えがわきあがってくる。
「土足のままで構わないよ」
男性はそう言って玄関扉を開いた。男性の後ろに続いて中に入ると、広い空間に出た。目を引いたのは赤黒い絨毯。天井は高く、大きな照明が細々と館内を照らしている。正面には階段があり、焦げ茶色の手摺がその年季と質感を感じさせる。階段を上った先からは壁伝いに廊下が伸び、廊下には等間隔にドアが並ぶ。
まさに洋館だった。もっと照明や内装が華やかなものだったならば、それこそお城や宮殿にも見えただろう。
薄暗く静かな館内に、扉を閉める歯軋りのような音が響き渡る。どこか幻想的で素敵な空間だったが、暗い夜に一人で訪れたら不気味に感じるだろうなと思う。怨霊が出てきたとしても不思議ではない。
「立派なお家ですね」
「どうもありがとう。私のおじいちゃんのそのまたおじいちゃんのそのまた……とりあえず歴史ある家なんだよ」
顎の髭を弄りながら、男性は正面左にある扉に向かって歩いていく。
「さて、こっちだ」
男性は扉を開き、部屋の中へと入っていく。私もそれに続いて中に入った。その部屋を見回して、唖然とする。
その部屋こそが、写真展だった。長方形で、窓はない。天井には大きな照明が光り、
しかし、色が無かった。
「これは全て、あの公園の写真ですか」
「ああ、そうだよ」
洋館の一室で開かれる小さな写真展。そこには、あの公園の写真がところ狭しと飾られていた。大きな桜の木のある公園。大きく立派な額縁がいくつも使われている。壁だけではなく、天井にも写真は飾られていた。写真の大きさもさることながらその数も甚大で、写真が壁の面積の半分以上を占めている。天井には空の写真があり、左側の壁には滑り台や砂場、右側の壁にはブランコにベンチ、そして正面奥には桜の木の写真が飾られている。その位置関係はあの公園を再現していて、まるで部屋全体が公園を模しているようだった。そしておそらく、男性もそれを意識してこの写真展を作っている。そして特筆すべきは、
飾られている写真は全て、モノクロだった。
「気味が悪いと感じるかな」
男性は苦笑しながらそう言った。公園を出るときに見た表情が脳裏に蘇る。
「正直、長くここにいると気分が悪くなりそうな気がします」
三百六十度を新聞紙に囲まれたようだった。酔いそうな感覚。
「どうして写真に色が無いのですか?」
私がそう質問すると、男性は少し考える素振りを見せた。口髭に手を当てる。
「私は目が悪くてね。しっかりと色が認識できないんだ」
「そうでしたか。すみません」
色の無い世界。それはきっと、暗くて寂しい景色だと思う。その景色の中で、男性は生きている。男性の朗らかな笑顔を思い返せば思い返すほどにその衝撃は膨らみ、胸の奥を鈍く蹴りつける。
「この写真を見たら誰だってそう聞くものさ。謝ることはない。ただ時折目の状態が良くなるとね、この写真に色が戻って見えることがあるんだよ。そうか、お嬢ちゃんには見えなかったか」
言っている意味がよく分からなかった。写真に色が戻る。そんなことがあるはずがない。私の目には、この部屋の写真は全てモノクロに見えている。青いベンチに青はなく、赤い滑り台に赤はない。何かの比喩かもしれなかった。しかしそう考えてみても、それが何のことを言っているのか、やはり私にはわからない。
「貴方の目の状態が良くなっても、写真に色が戻ることはないはずです」
直接的に疑問をぶつける。すると、ふぉっふぉ、と男性は笑う。
「確かにその通り!でもね、願いが現実を凌駕することだってある」
意味が分からなかった。深い意味が込められているのかもしれない。しかし、私にはやはり何を言おうとしているのかわからなかった。
「願い?」
「あぁ、願いさ。お嬢ちゃんにもあるんじゃないかな」
願い。私の願い。願い?
私は逡巡する。私の願いとはなんだろうか。私が、追い求めるものとはなんだろうか。
「今はまだ無いかもしれないね。でも、いつか必ず見つかるさ」
優しい声音で男性は言う。全てを見通しているような表情。たくさんの物を見て、たくさんの人に出会ってきた、その齢の説得力が、色を映さないその瞳には宿っていた。
「貴方の願いとは一体なんですか?」
私が、そう質問した瞬間だった。
視界が歪み出した。
初めはゆっくりとだった。しかし確実に、有無を言わさぬ力強さでそれは進行した。
水彩画のように世界がぼやける。色が混ざっていく。男性の形が崩れて、溶けて、世界に飲み込まれていく。部屋を取り囲んでいたモノクロの写真たちが水に溶けたように広がり、やがて視界は全てモノクロに支配される。温度の無い、冷たい色。私を包み込むように、取り囲むように広がっていく。寒いような、生温いような、どこか落ち着かない感覚。
上下がわからなくなる。立っているのか、漂っているのか、それすらわからない。水中から見上げる水面のように、世界がぐにゃぐにゃと揺れている。
私はその間、ただただ呆然としていた。目の前で繰り広げられる不可思議な光景を、分析するでもなく、ただただ甘受する。何が起こっているのかわからない、しかし抗うことはしない。いや、出来ない。しようと思い立たない。思い付かない。どうして? その問いに私は応答出来ない。頭がぼーっとする。怠惰なまどろみ。私はそれに身を委ねる。意識が遠のいていく。どうして? どうして? どこからともなく響いてくるその声に気付かぬふりをしながら、私はただただ次に起こる何かを待ち受けていた。




