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午前六時。三月とは言ってもこの時間の風はどこか冷たく、ジャージの首元から侵入する風が身体を震わせる。川沿いに続く桜並木が大きな生き物のように蠢いて、薄桃色の花びらがひらりと宙を舞い、川の水面がぼんやりと揺れる。まだ寒さの残るこの時期の朝練習は敬遠されがちだが、こうした光景に出会えることを考慮すれば悪いものではない。そんなことを考えながら、私は息を切らして川沿いの舗道を駆け抜ける。
陸上を始めたのは中学生の頃だった。私の中学校には、何か一つ部活に入らなくてはならない決まりがあった。運動系の部活に入った方がいいと両親に言われていたので、誰でも始められそうな陸上を選んだ記憶がある。チーム競技だと主張する人もいるがそれはリレーや駅伝などの話で、結局のところ陸上は殆ど個人競技だったから、特に知識や素質がない私でも続けることが出来た。長距離の選手として、飛び抜けて遅いわけでもなく、かといって大きな大会に進むでもなく、特に目立たないまま三年間を過ごした。高校に入った今でも何となく陸上を続けていて、やはり目立った活躍はないにしても毎日しっかりと練習はこなしている。
四月からはもう二年生に進級し、これからは陸上部を引っ張っていく存在になっていかなくてはならないという。部活の友人は皆、そういったことに真剣に悩んでいるようだった。後輩の見本になるように。一秒でも良い記録を出せるように。ただ、私はそういう上下関係とか勝負事とかにあまり興味がなかった。部活に入っておいてこういう考えを持っていることは、周りからすればおかしいことなのかもしれなかった。でも、私は部活にそういうものを求めたことも、求めたいと思ったこともなかった。
しかしそれでも、練習には真摯に取り組んだ。それは、陸上部に所属している人間として必要なことだ。与えられた練習メニューをしっかりこなすこと。それが、陸上部員としての使命であるように思う。陸上部員である以上は、それを果たす義務がある。この早朝の朝練もその一つだ。週三回、月・水・金曜日は朝に個人でランニングをするように言われている。友人たちはたまにサボったりしているようだったが、私は一度もサボったことがなかった。
川沿いをしばらく走ったところで左に曲がり、小道に入った。緩く、長く続く昇り坂。景色は先ほどと一変して住宅地になる。この坂道にも、桜の木が多く見られる。
静寂の中に、どこかの家の目覚まし時計の音が聞こえてきた。これからゆっくりと、町が動き出すのだろう。そのことは微笑ましい反面、どこか慌ただしい感じもする。そんなことを考えながら、私は坂を駆け上がる。
坂が終わる手前で、犬の甲高い鳴き声がした。静まった朝の町にその声は大きく響く。私は足を緩めて、その声の元へと歩み寄る。柴犬だった。舌を出し、門の隙間から顔を突き出しているので、私は頭を撫でてやる。この坂を昇っていると毎回、右側に面している家の庭からこの犬が吠えるのだ。私はそれを、私を呼び止める合図だと勝手に解釈して、こうして毎回立ち止まっている。
坂を昇り切って、小道を何度か曲がり、小さな公園に到着した。中央奥に大きな桜の木が立っている公園。散った桜が地面に積もっている。私は足を緩めて息を整えると、普段部活でやっているのと同じ柔軟運動を一通りやった。身体を伸ばして、眠っている筋肉を刺激する。
時間をかけてそれを終えると、公園内にある自動販売機に向かって歩いた。ジャージのポケットに入れていた百円玉をコイン口に入れ、迷わずスポーツドリンクを選んで購入する。部活の決まりで、炭酸飲料やジュースなどは部活を引退するまで飲んではいけないことになっている。部活の帰りで一緒になった友人たちが普通に炭酸飲料を買っているのを何度か見たことがあったが、私は一度も買ったことがなかった。
スポーツドリンクを持って、公園の隅にある青色のベンチに腰掛ける。家から川沿いの舗道を通ってこの公園まで走り、柔軟運動をしたあとに自動販売機で飲み物を買って休憩して、帰り道をゆっくりジョギングで戻る。そうして家に戻ってシャワーを浴びてから学校に行くのが、朝練時の流れだった。
一息ついて、公園を見回す。決して広くなく、遊具も少ない公園だが、小さい頃に何度も友だちと来て遊んでいた。よくブランコに乗っていた記憶がある。その当時から一際存在感を放っていた、桜の木に目を移す。公園の奥に荘厳に聳え立つ、その桜の木。今はまさに満開で、静寂の中に構えるその鮮やかな小枝たちは、不思議な生き物のようにも感じられる。
その桜の木の下に、桜の写真を撮っている男性の姿を発見した。
黒く大きなカメラを構えて、真剣な表情で木の周りを練り歩く。やがてある場所で時が止まったようにぴたりと静止すると、数秒の後に、かしゃ、というシャッターの音が澄んだ空気を震わせる。
男性は初老だった。髭は白く、そして長い。茶色いベレー帽を被っているが、そこから覗く頭髪もまた白く染まっていた。写真家というよりは画家のような格好だと思った。体型は、サンタクロースを思わせる。異国からやってきたかのような雰囲気を持っていた。
その男性の姿を私が見たのは、これが初めてではなかった。
朝の練習を始めてからというもの、私がこの公園に来たとき、度々その男性を見かけていた。男性は毎回カメラを持って公園の写真を撮っているようだった。前回、私がベンチで休憩していたときは、滑り台の写真を特に熱心に撮っていたと記憶している。カメラを構える男性の表情はいつも真剣だったが、それ以外のときは穏やかな表情をしている印象があった。
頻繁に見かけていたため、私はお互いがお互いを認識し合っているのではないかと考えていた。彼は写真に夢中で、私の存在に気付いていない可能性すらあった。そう考えるのが自然なのかもしれなかった。それでも、心のどこかで彼もまた、私のことを覚えているのではないかという期待があった。
公園にいるのは私と男性の二人だけだった。
男性がカメラを下ろして、公園をぐるりと見渡す。おそらく私の姿も視界に入っただろう。
声をかけてみようか、と思った。その考えは以前から無かったわけではない。単純に、どうして公園の写真を撮っているのか、果たして何をしている人なのか、そういった興味があった。
男性は桜の木を離れ、こちらへ少し歩いたところで立ち止まった。左手で白い髭を遊びながら真剣な表情で公園を見回し、やはり桜の木にカメラを構える。その一連の動作は非常に洗練されていて、私は思わず息を呑んでしまう。
カメラを構えてから男性は微動だにしない。時間が止まったような感覚。張り詰めた空気が、二人しかいない公園を支配する。その静寂を切り裂くように、重いシャッター音が響き、その後に男性は唸るような表情でカメラを顔から離した。
どこか、納得のいっていない表情だった。その表情に、心のどこかが疼くのを感じる。これまでもあったが、これまでよりも強い疼き。この瞬間しかない、という根拠のない予感のようなもの。
一体何を目指しているのか。どんな一枚を追い求めているのか。何度も何度も公園に通い、写真を撮るその目的は何なのか。私は意を決するとベンチを立ち、レンズを覗き込んでいる男性に近付いた。
「すみません」
声が裏返らないか心配したが、しっかりと言うことが出来た。男性はしばらくの間動かなかった。やがて、カメラのシャッター音が澄んだ空気に響きわたり、そうしてようやく男性はこちらを振り返る。
「どうしたのかな、練習熱心なお嬢ちゃん」
男性は顔に皺をよせて、優しい声音でそう言った。やはり、向こうも私のことを認識していたらしかった。
「いつもここで写真を撮っていますよね」
「お嬢ちゃんはいつもランニングを頑張っているようだね」
「どうしてこの公園の写真を撮っているのですか?」
私の質問に、彼は少し困った表情を見せた。あまり聞かれたくない内容だっただろうか。
「どうしてだろうね。私にもよくはわからないな」
「よくわからないのに写真を撮るのですか?」
男性は、ううむ、と唸り、
「強いて言うなら、撮りたいから撮っているということになるかな。心の奥から湧いてくるようなものだよ。お嬢ちゃんにも経験があるんじゃないかな」
私は少し考えてみるが、あまり思い当たる節はなかった。私は自分でも感情的な方だとは思っていない。情熱に身を任せて、犠牲を払って何かに没頭するという経験はなかった。友達の例を考えてみる。最近カメラを買ったという友人。会うたびに嬉しそうな笑顔で、撮った写真やカメラのことを話してくれる。彼女は、写真を撮ることが今一番楽しいのだと言っていた。そしてそれは、
「好きだから、ですか?」
「そうかもしれないね。でも、きっとそれだけじゃない。たまに写真を撮るのがしんどくなるときもある」
「では、使命のようなものですか?」
「ほう、すごいねお嬢ちゃん。きっとそれもある」
男性は皺を寄せて、ふぉっふぉ、と笑うと、大きな手で私の頭を撫でた。突然のことで少し驚いたが、嫌悪は全くなかった。小さい頃におじいちゃんに頭を撫でられたことがあったが、それに近い暖かさを感じた。安心するような暖かさ。ずっと寄り添っていたいような、陽だまりのような暖かさだった。
少し間が生まれた。決して気まずさはなく、心地良いような沈黙。その原因は私にある。写真を見せてもらおうか、私は迷っていた。いきなりそんなことをお願いするのは迷惑なのではないかという懸念が胸の中で渦巻く。緩い鎖が心に絡みついて、最後の部分が抑えられている。
「写真展をやっているんだけどね。良かったら見に来るかい」
沈黙を破ったのは男性だった。その言葉に私はどこか安堵するが、しかし同時に生まれた疑問を口にする。
「写真展があるのですか?初耳です」
この町にそんなものがあっただろうか。ここは家から少し離れているので、私が把握していなくても不思議ではないが。
思慮を巡らせていると、男性はまた、ふぉっふぉ、と笑う。
「すまないすまない。写真展と言っても、そんな大層なものじゃないんだ。私の家にね、写真を展示するためだけの部屋があるのだよ」
「そういうことでしたか」
時計を見る。
「あまり時間はないのですが、大丈夫でしょうか」
「家はすぐそこにある。お嬢ちゃんの足ならそれこそ一瞬で着くだろうさ。まあ無理は言わんがね」
「それでは、ぜひ見学させてください」
男性の撮った写真は、見る必要がある気がした。写真展と言っていたので大きな写真で見ることも叶うだろう。ほんの数瞬見るだけでも価値があると思う。それに、家の場所が分かれば後日訪ねていくことも可能だ。
「時間がないんだったね。では行くとしよう」
男性はそう言うと公園の出口に向かっていった。私は急いでスポーツドリンクの容器をごみ箱に捨て、その後ろについていった。どこか安心する背中だった。後ろから覗き見る横顔が、その安心感を更に強くする。ただ、公園を出る瞬間、男性の顔が少しだけ寂しく翳った気がした。次の瞬間にはまた優しい笑顔に戻っていたから、気のせいかもしれない。彼の写真は一体どんな写真なのか。彼の使命とは一体何なのか。逡巡しながら私は、桜の散りばめられたコンクリートの上を歩いていった。




