プロローグ:「その国、クルジシタン」
砂塵――――――
―――――乾いた風はかつての文明の痕跡を忘却の彼方へと運び、同様に過ぎ去った時刻をも運んで行く。
国々とその民それぞれの、蓄積された過去の経験からは想像し得ない程の多様な気候帯と地形、そして雑多な種族から成るこの世界において、恐らくはこの「異世界」の大本を作った要素の重要な一つであろう、無限に並列する時空の間の障壁とあらゆる物理的法則とを超越した陸地、民族の大規模な突発的移動を意味する「超時空的現象」(榊靖彦 理論物理学博士)である「転移」発生以降、中央デアム大陸の一端に位置することとなったクルジシタンというその国では、歴史はそのように流れていた。
デアム地域では中程度の広さに属する国土、その内実は大半の熱風漂う荒地と僅かばかりの緑の平原、そして同じく僅かばかりの地域に密集する峻嶮な山岳帯に占められ、滋味に満ちた肥沃な国土というものに乏しいこの国で、人々はその僅かな平原の土地に穀物と野菜を育て、あるいは数多の家畜を飼うことで生を繋いできた。そして彼らの生活は「転移」というおよそ人智を超えた天変地異を経験し、それ以前とは全くに勝手の違う世界に放りこまれてもなお変わらなかった……
……そして、虐げられし彼ら民の境遇にもまた、変化は訪れなかった。
クルジシタンは王国だった。クルジシタン暦104年から凡そ「転移」後の現在まで200年続く王政は、その成立以前まで複数の群立する中小部族の連合政権に過ぎなかったこの国を、武力を以て政権を奪取し、独裁から転じて王政を開いた開祖から三代名君が続き、そして二代の凡君とこれまた三代の暗君、一人の暴君がこれに続いた。その暴君が改革派のクーデターにより追放され、新たに英明の誉れ高い王族が王位に就き、11代目の国王となった。11代目の国王は先王の暴政とそれに続く反乱による混乱の後始末に忙殺される内、おそらくは過労で死んだ。行年にして47歳という若さであった。
国王が英明であり、国民に対する愛を持っていたとしても、少数の特権者と貧困に喘ぐ大半の国民というこの国の構造は大して変わり映えがしなかった。その理由はおそらくは、国王―聖職者―貴族―官僚―都市民―農民―奴隷という複雑な身分構造と、国王と並立しこの国を支配する信仰にあった。
この国には、「王国聖教」という国教がある。
「王国聖教」とは、元来大地の神ガロを主神とする土着の多神教信仰で、元来地方や部族ごとにその教義、祭礼様式がまちまちであったそれを、国土統一が成った際に一つにまとめたものだが、国王の庇護を受けつつ年代を経るごとに次第に国政への影響力、発言力を増し、時代によっては国王以上の権勢を揮うことすらあった。教団は国王より「寺社を建立し神を祀るため」の所領の所有を許され、領民に租税とは系統の異なる「十分の一税」を課し、あるいは作物の種子や土地の貸付を強制することで土地に縛りつけた。領民はそれらの税負担の他に、寺社や聖像建立や祭礼の際の賦役、それらの際に聖教会への「寄付」を為す義務すら負わされていた。
そのようにして各地の寺院に集められた富と租税は、王国聖教の一切を監督する根本聖堂、あるいは「主神ガロの地上における代理者」たる国王への上納という形で王都へと集中し、経済的には一種の一極集中的な体制を作り上げた。経済的に潤った王都では、市が振興し華やかな文化が栄え、都の住民たちの間には文化的な優越感から生じた選民意識が芽をもたげる一方で、「貧しく文化を知らない」地方や辺境への偏見と敵意が助長され、それは彼らの内に同じ国民であるはずの地方民への露骨な差別意識すら生み出すこととなった―――――――新たな内乱と分断の芽もまた同時に、地方のみならずこの都においてもこの時点で播かれ、その先端を出してさえいたのである。
当然各地に生きる大多数の農民は貧窮に喘ぐこととなったが、抑圧的な体制は皮肉なことに、地方社会の閉鎖性を一層に助長し、そして閉鎖された社会においては弱者たる農民の、教団への依存を一層に強めることとなった……それが、時を追うごとに教団の国政への影響力を強めることとなった。
七階級に跨るこの国の階層制もまた、国土統一と期を同じくして整備され、固定化されたものの一つだ。
基本的に、七階級の内奴隷から官僚層までの身分の流動化は保障されてはいたが、それ以上となるとほぼ世襲となった。それらの階層が貴族以上の身分になるには、既存の上位層と婚姻関係を結ぶ (異なる身分間の婚姻は、国王と聖教会の許可を得れば可能とされた) か、莫大な資産を以てそれらの階層を「買う」しかなかった。その一方で最下層の奴隷階級は私有財産の所有と蓄財を禁じられ、「度を越した大地神ガロの身贔屓」でも介在しない限り、それ以上の階層への昇格は実質的には殆ど不可能といってもよかった。彼らの間に培われた閉塞感はやがて反乱への意欲すら減殺させ、農民や奴隷層は黙々として、あるいは卑屈なまでの従順さで日々を生きるしかなかった。神に対する素朴なまでの従順さが、聖教会の彼らに対する支配を容易にさせてしまったと言ってもいい―――――だが、その時点で、あらたな戦乱の渦は生じ始めていたといっても過言ではなかった。
その渦の中心となった人物の名を、ガフラーデス‐ドルコロイという。
ガフラーデス‐神に愛されし者‐ドルコロイは、第九代国王の治世七年目の年、王都アーミッドにおいて一地方貴族の妾腹の子として生を享け、それから六年後に啓示を受け僧籍に入った。
母親は奴隷層の出身であったという。ということはドルコロイの生誕自体、こと彼の父方の身内からすれば望まれない種類のものであった可能性も高く、おそらくはそれが彼の母親をして息子を神門に帰依させた最大の理由であり、父親の数多い愛人の一人という弱い立場にあった母親としては、息子の身を守るための精一杯の手段であったのかもしれなかった。
そのような家庭的な事情はともかくとして、幼い彼が誠心誠意神門に励み、少なからぬ成果を上げたことは事実である。出家して八年間を地方の寺院で修行と勉学に勤め、後に王都アーミッド郊外のアブラル根本聖堂においてより上位の高僧となるための修行を許され、そこでさらに十年間を神学の他に天文学、築造学、そして薬学を修めることに費やした (クルジシタンにおいて、聖職者はその本来の役割と同様、学者であり、教育者、地域社会の指導者としての役割も期待されていた) 。
長じて齢27歳となったドルコロイは、高僧として必須の修行を悉く修め、地方で自らの寺社を拓くに、やはり必須となる印可状を与えられた。27歳での印可状授与はアブラルでの修行を修めた者としては決して早い修業成就ではなく、これはむしろ平均的な数値であった。そしてこの時代、遅かれ早かれ僧として独立することはとうに世俗の利権に塗れ腐敗した神門において、権力者としてのスタートラインに立ったことを示していた。
自らの寺社を拓くに足る資格を得たドルコロイではあったが、その後の彼の努力は自らの寺社を持ち、蓄財を求めて貴族や有力者と誼を通じることではなくむしろ全く異なった―――――言い換えれば聖職者として真にあるべき――――方向へと向かうこととなった。つまりは、自らの足で地方を回りながらの布教活動である。あるいは幼少時の彼の境遇と、地方に在ったときに直面した虐げられる民衆の貧困が、若い彼をして再び辺境へと赴かしめる決意を形成していたのかもしれなかった。そしてこの時、ドルコロイはこの時代の聖職者としては考えられない、驚くべきことをした。
権力者を自らの寺院に招き、あるいは彼らの豪奢な邸宅に招かれ、当たり障りのない美辞麗句に終始していた既存の聖職者の説教からすれば、ドルコロイの説教はあまりに破天荒で、そして異端だった。それは日本でいえば、「辻説法」である。
一匹の野良犬を供とし、薄汚れ、繕いの痕も痛々しい法衣に身を纏い、土煙と熱風吹き荒れる街角に立ち「聖経」の講釈を垂れ、あるいは体制への批判をも辞さない彼の説教を前に、権力者の搾取とそれに伴う貧窮に呻吟していた民衆が群を成さない筈がなかった。彼の説教は彼自身の意志でそれを行うのみならず、やがてその高まりゆく声望を聞きつけた民衆に請われれば無償でそれを行い、あるいは知識を用いて率先して橋の無い川に橋を架け、治水を指導し、畑を拓き、病を癒し、文字を教えた……それらの結果として、民衆の間での彼の声望は益々高まりゆくこととなった―――――当然、彼の信徒は雪達磨式に膨れ上がり、その一方で、彼に対する体制側の警戒心もまた喚起されるに至った。
アブラルを出て八年後、ドルコロイは突如として王都アーミッドへの「召喚命令」を受けた。各地で高まりゆくドルコロイの信望と、彼の個人的な信徒拡大に警戒感を覚えた僧会の守旧派が、当時、第12代国王アッカラ3世の急死を受け、若干14歳で即位したばかりの第13代国王コンラ2世に懇願し (というよりドルコロイの「脅威」を吹き込み) 、王を通じて出させた、いわば出頭命令だった。「王国聖教」の「最高主教」たるテオ7世の従妹は、この若過ぎる国王の生母であったから、ドルコロイの「脅威」を「世間知らず」の少年王に吹き込むことなど雑作もないことであった。
王命を受け、やがて単独で王都に登って来るであろうこの「異端者」を遇する途は、僧会の過半数を占める守旧的でかつ陰険な老人たちの間ではすでに定まっていたし、その先例もすでに存在した。王国としてのクルジシタンの成立以来、過去「王国聖教」の方針、そして在り方に対し、その純粋な信仰心の赴くままその内部から批判と疑問の声を上げた者は少なからず存在した。その悉くがドルコロイと同じく王都への出頭を命ぜられ、僧会の「審問会」において烈しい人格的批判と論理的誹謗の末僧籍を抹消され、社会的にも物理的にも抹殺されてきたのである。それが異端者を遇するに彼ら守旧派が為せる唯一の方法であり、当のドルコロイとて、それを知らない筈がなかった―――――
――――――だが、ドルコロイの「返事」は、彼ら老人たちの想像を超えていた。
王命を受けてから一ヶ月後、その召喚期限 (慣習により、召喚期限日を過ぎても王都に上らなかった場合、その者は国家への反逆者と看做された) の当日、王都アーミッドの民は、都の大路を行く長大な人々の列に我が目を疑った。
地方からやってきた数多の農民、職人、そして奴隷たち―――――本来ならばこの「清浄なる都」の一小路にすら足を踏み入れることを許されない筈の「賤民」が黙々と、だが堂々として王宮 (強調するが、郊外の根本聖堂ではなく、王宮である) へと続く大路のど真ん中を、列を為して向かっていたのだ。そして同じような列は外壁に囲まれた矩形の都の四方から迫り、そして大路へと延々と続いていた。当然、列の先頭にはドルコロイとその弟子たちがいた。
―――――僧会は驚愕した。恐慌じみた彼らの命を受けて派遣された使者の、半ば懇願にも似た群衆の解散と翻意を促す言葉に、ドルコロイは笑顔でこう言ったと伝えられている。
「心配することはない。私は神々の導くまま、王と話をしたいだけのことだ、それ以外に神々が私に命じておられることは何もない」
国法により、高位の聖職者は望めばいかなる時も、無条件で国王の接見を受けることができるとされていた。ドルコロイの言葉は明らかに使者と僧会の機先を制し、そして彼につき従う数万に及ぶ群衆は、外敵に対する防備のさして整っていない王都に対する無言の圧力となって彼らのみならず体制へと圧し掛かってきた―――――もしこの状態でドルコロイが殺害なり拘禁なりなんらかの危害を受けた場合、都では何が起こるだろうか?―――――そして僧会は、ドルコロイの「圧力」に屈した。だがドルコロイの要求はそれだけに留まらなかった。彼は王宮において、国王の面前で最高主教との「法論」の開催を要求したのである……僧会は、再び驚愕した。
「法論」とは、高位聖職者同士が「聖経」の解釈と信仰の内容を巡り、対等な条件で相対して議論を戦わせる業のことを言う。「法論」の場では僧の身分はその意味を失い、神前にあって己を偽ることなくただ只管に個々の「聖経」の講釈をぶつけ合い、信仰を告白することを要求されるのだった……だが喩え高位にあるとはいえ、辺境回りの一聖職者が、宗教上の最高指導者にして国王の寵臣たる最高主教をその相手に指名し、「法論」を挑むという―――――それが国家聖教に対する反逆以外の何物でもないことぐらい、下級の聖職者はもとより一介の神学生でも理解できた。それを口にし、ドルコロイに対する敵意からではなく、彼の身の安全に対する懸念から翻意を勧めた友人の高僧に対し、ドルコロイはこう言い放ったという。
「最高主教は国王と並び立つ地上における神々の代理人である……と拙僧は理解している。であれば拙僧は最高主教の口を通じ、神々の神意をこの耳にしかと留め、最高主教の耳を通じて拙僧の煩悶を受け止め、神意によって晴らして頂くようひたすら希うものである」
もはや僧会にとって、逃げ道は塞がれた。
――――果たして三日後、国王の御前という異例の形で行われたドルコロイと最高主教テオ7世との「法論」は、この国にとって文字通りの「歴史」となった。
「神の敵ドルコロイ! そなたは自分の行いが、日々を神の意に添わんと勤めておる者たちに如何なる混乱と破滅をもたらしたか、判っておるのか……!?」
この場において、およそ聖職の最高峰に身を置いている立場としては甚だ不適当とも思える最高主教テオ7世の個人攻撃にも似た論難に対し、ドルコロイは文字通りに彼自身の「信仰」を披歴した。
「多くの人間は自力で神の意に沿う行いを為すことは不可能である。人は全て神の意に沿わない行いしか為せない。であるから人が為すべきは己の非力を自覚することである。そこから衆生は神をその心の中に意識し、真に神への帰依が始まるのである。私が言う救済とは、まさしくそれなのだ」
「貴僧の言を正しいとすれば、前世にて神を冒涜せし罪人や賤民ですら、己の罪を自覚しそなたに縋れば救われるということか!?」
「そのような者こそ、真に救うに値する者である。多くの者は自らが善良なるがゆえに、自らが知らず神の意に沿わぬ行いをしていることを自覚してはいない。だが世に悪行を為し、神の意に沿わぬ行いをしている者の多くは自らの行いの神の意に沿わないものであることを知っている。そういう者にこそ、信心は与えられるべきである」
「それは自力を以て自らを救わんと真に欲し、善行を積む我ら聖職に在る者に対する許し難い侮辱である! 今すぐに撤回し、神前で死を以て詫びよ!」
「拙僧が救わんと欲するは拙僧自身に非ず。真の信心を知らぬが故に末世に呻吟せる衆生である。信心とは神々から我ら救いを求める衆生へ与えられるもの。信心は聖俗の別なく神々より与えられ、自ずと生じるものではない。もし自ずと生じたものであるというのならば、それは偽りの信心である」
「それでは神を讃え、救済を得るにあたり、我ら僧籍に在る者は必要ないということか!?」
「その通り、煩雑な祭礼や、豪奢な寺院もまた衆生の救済に際し全く不要である。神に帰依するに当たり衆生は一心の『聖経』を唱えればよい。常に神への信心を心に置き、神に救済を求めるにあたりそれ以外の何物も不要である」
「何を世迷い事を!……無間地獄にでも墜ちるがよい!」
「この世に在る全ての衆生が救われぬ限り、私ガフラーデス‐ディワナ‐ドルコロイは決して地獄へは往かぬし浄土へも往かぬ……!」
「――――――!!?」
腐敗した僧会が直面したのは、堅固なる信念の響きだった。最高主教を始め僧会の主だった面々も反駁らしい反駁すらできず、文字通り信念一つで王宮からの「生還」を果たしたドルコロイを、外で王宮を包囲するようにして待ち構えていた群衆は歓呼の声を以て迎えたのである。圧倒的な数の信徒の手前、国王は事前に決定されていたドルコロイの処刑を命令することすらできず、ドルコロイに対する所断は無期限の王都追放に留まり、その瞬間に彼を止めることのできる者は、もはや存在していなかった。そしてこの一件が、ドルコロイとその信徒たちが勢力を一層に拡大する契機となり、そして後に続く波乱の直接的な原因となった。
新進の改革派聖職者と旧態依存とした僧会、そして両者を前に為すところを知らない国王―――――その構図は、国土統一以来中央集権的な体制の下で王国に対する面従腹背を貫き通してきた部族勢力にとって、分離独立への恰好の機会到来の瞬間であるように思われた。それらの勢力は王都を追われたドルコロイとその信徒たちを手厚い待遇を以て遇し、そして年月を経るに従い、おそらくは彼自身がそれを自覚しない内に、ドルコロイは抵抗勢力の主張と中央に対する敵意を象徴する指導者として祀り上げられることとなったのであった。それは文字通りに国土が分断され、反乱が生じた瞬間だった。
そして反乱から十年後―――――
―――――クルジシタンは「転移」した。
その荒漠たる国土に多大なる災厄と、混沌とを抱えながら―――――