魔王に転生した。死にたくないので、拾った赤子を農業大臣に任命します
玉座は、思っていたより硬かった。
目を開けて最初に思ったのが、それだった。
目の前には、黒い石の柱が並ぶ大広間。血のように赤い絨毯。そして、その両脇にずらりと並ぶ魔族たち。
角のある者。翼のある者。なぜか顔が三つある者。
その全員が、俺に向かって膝をついていた。
「新たなる魔王陛下に、栄光あれ!」
野太い声が、びりびりと広間を揺らす。
(……え?)
何これ。
俺、さっきまで残業帰りにコンビニの肉まんを買って……いや、そこから先の記憶がないな。
とりあえず、自分の手を見る。
黒い。爪が長い。というか、爪が鋭い。人を刺せそうなレベルで鋭い。
視界の端には、頭の両側から生えた湾曲した角。肩には重たい黒のマント。
(待って)
(これ、見たことあるぞ)
玉座の背後の紋章。広間の柱の配置。壁に並ぶ燭台の形。
あのゲームだ。
何十時間もやり込んだ、あの勇者が魔王を倒しに行くやつの、ラストダンジョン。その最奥にある、魔王の間。
つまり俺が今座っているのは――魔王の席。
(俺、魔王なの?)
(魔王って、最後に勇者にボコボコにされるやつだよな)
(…………死にたくないんだけど)
背中を冷たい汗が流れた。
いや、汗が出たかどうかも分からない。それくらい動揺している。
「陛下」
玉座のすぐ脇で、白髪の老魔族が恭しく頭を下げた。宰相のヴァルドだ。ゲームにも出ていた。
「就任の御言葉を、賜りたく存じます」
御言葉。
つまり、何か喋れということだ。
何を? どうやって? 「みなさん初めまして」とか言うのか?
口を開く。
「…………うむ」
出たのは、それだけだった。
しかも妙に低い。腹の底に響く声だ。自分の声のはずなのに、他人のものみたいに聞こえる。
広間が、しん、と静まり返った。
そして次の瞬間。
「おお……!」
「なんと威厳に満ちた……!」
「言葉少なにして、この圧……!」
(いや、緊張で喋れなかっただけなんだけど)
ざわめきの中、俺は玉座の肘掛けを握りしめたまま、微動だにできずにいた。
微動だにしないのが、また「魔王の貫禄」に見えているらしい。
違う。足がすくんで動けないだけだ。
* * *
就任の儀式のあと、そのまま広間で現状報告を受けることになった。
幹部たちが前に並ぶ。
最初に進み出たのは、全身筋肉みたいな巨漢の将軍、ガルザだった。
「ご報告いたします! 先日の北方戦線にて、人間どもの砦を二つ落としました!」
「……うむ」
「しかしながら、前線の士気がやや下がっておりまして! 次の戦いまでに、勢いを取り戻す必要がございます!」
「……うむ」
声がでかい。耳が痛い。
その後ろで、宰相のヴァルドが淡々と補足を入れていく。戦力の数、人間側の動き、次の攻勢の予定。
聞きながら、俺はずっと同じことを考えていた。
(勇者って、今どのへんにいるんだ)
ゲームの流れだと、魔王が倒れる最終決戦までには、まだ時間があるはずだ。
でも、その「時間」がどれくらいあるのか分からない。
分からないなら、備えるしかない。
備えるって、何を?
戦力? いや、そもそも勝てる気がしない。ゲームでは勇者に負けるのが、魔王の仕事だった。
じゃあ、どうやって死なずに済む?
考えている間に、報告が終わったらしい。
「では、新たなる魔王陛下より、今後の戦いに向けてのお言葉を」
広間の視線が、一斉に俺に集まった。
また喋れってことか。
何かないか。何か。とりあえず戦争の話をしているんだから、戦争に関係することを。
戦争。戦争って、何が要るんだっけ。
兵隊。武器。それから――。
「……兵糧は、どうなっている?」
言った瞬間。
広間が、また静まり返った。
さっきとは違う、変な静けさだ。
「ヒョウロウ……?」
ガルザが、きょとんと首をかしげた。
「兵が食らう糧のことかと」
ヴァルドが小声で助け舟を出す。
「おお、メシのことですか!」
メシのことです。
「それならば心配ございません! 現地で調達しております!」
「……現地とは」
「人間どもの村にございます!」
胸を張るガルザ。
いや、そこ、胸を張るところじゃない。
「蓄えは」
「蓄え、でございますか?」
「…………」
「ございません!」
(ないの!?)
(ないの!? 兵糧、ゼロ!?)
いや、待て。
落ち着け。ここは聞き間違いの可能性がある。
「足りなくなったら、どうするのだ」
「奪えばよいのです! それが前魔王陛下の教えにございます!」
ガルザの目はまっすぐだった。一点の曇りもなかった。
(……そうか)
(そういうことか)
(前の魔王、とんでもない遺産を残していったな)
なのに、広間のあちこちから聞こえてきたのは、こんな声だった。
「さすがは新魔王陛下……戦の根幹をお尋ねになった……」
「兵糧に目を向けられるとは、なんと深いお考え……」
違う。深くない。
ごく普通の、当たり前の疑問を口にしただけだ。
* * *
報告会のあと、俺は一人で執務室に引っ込んだ。
椅子に深く座って、頭を整理する。
分かったことを並べてみよう。
魔族は、食料を「狩るもの」「奪うもの」だと思っている。
作る、という発想がない。
備蓄もない。足りなくなったら、人間の村を襲う。
で、襲った村は食い尽くして、荒らして、次の村へ。
(……あれ)
(これ、メシがないから戦争してるんじゃないか?)
食料がない。だから奪う。奪うから戦争になる。戦争するから土地が荒れる。土地が荒れたから、さらに食料がなくなる。
ぐるぐる回って、悪くなる一方の円だ。
(前の魔王、何してくれてんだよ……)
「力こそパワー」だか何だか知らないが、とんでもなく雑な経営をしてくれた。
おかげで、その尻拭いが俺に回ってきた。
しかも、問題はそれだけじゃない。
あのゲームでは、勇者パーティにも「空腹」の概念があった。
食事をすればバフがかかる。食べていなければ弱くなる。
つまり、メシを食える側と食えない側では、そもそも勝負にならない。
(腹ぺこの魔族と、満腹の勇者)
(……勝てるわけないよな)
このままだと、俺は死ぬ。
それも、かなり高い確率で。
「…………」
机に肘をついて、頭を抱えた。
死にたくない。
ほんとに死にたくない。
じゃあ、どうする。
勇者に勝つ方法なんて、すぐには思いつかない。でも、戦争が起きる原因を減らせるなら、話は変わってくる。
食料。
そこをなんとかできれば。
(まず、現状を確認しよう)
こういうのは、現場を見ないと分からない。
俺はそう決めて、立ち上がった。
「ヴァルド」
「はっ」
「領地を見て回る。供をせよ」
「陛下自ら、でございますか!?」
「うむ」
宰相が、何度も瞬きをした。
「……承知いたしました」
その顔には、「なんと民草に目を向けられる魔王陛下……」と書いてあった。
いや、民草のためとかじゃなくて、自分が死にたくないからなんだけど。
* * *
魔王城を出て、数時間。
俺はガルザと数名の護衛を連れて、魔王領を歩いていた。
見渡す限り、荒れ地だった。
乾いた土。ひび割れた地面。ところどころに生えている黒っぽい草。折れた木の根。
建物らしい建物はほとんどない。
「ここは、かつて村があった場所にございます」
ガルザが指さす先には、崩れた石壁の跡があった。
「いつから、こうなっている」
「さあ……某が生まれる前からでは」
(そんなに前から?)
「魔界の大地は、呪われているのです。何を植えても、何も育ちませぬ」
ガルザは当然のことのように言った。
呪われている。
何も育たない。
ふうん、と流しかけて、俺は足を止めた。
「……少し待て」
その場にしゃがんで、足元の土をつかむ。
乾いている。パサパサだ。握っても固まらず、さらさらと指の間からこぼれていく。
でも、匂いは普通の土だ。
石だらけでもないし、変な色でもない。
(……これ、ただの痩せた土じゃないか?)
呪い、とか言うからもっとヤバいものを想像していた。
だけど、水が足りなくて、ずっと放置されたら、地球の荒れ地もこんなふうになる。たぶん。
「かつて人間から奪った土地は、どうなった」
「はっ。数年のうちに、すべて枯れ果てました!」
「奪ったあと、何をした」
「奪い尽くしました!」
「……尽くしたのか」
「はい! 作物も、家畜も、井戸の水も、根こそぎにございます!」
誇らしげに言うな。
(そりゃ枯れるだろ!)
思わず内心で叫んだ。
(根こそぎ持っていって、何も戻さなかったんだろ? そんなの、どんな土地だって死ぬわ!)
だけど、ガルザは本気で、それを「魔界の呪い」だと信じているらしい。
俺は立ち上がって、遠くを見た。
地平線の向こう。
ぼんやりと、緑がかった一帯が見える。
人間の国との境だ。
同じ空の下なのに、あっちは緑で、こっちは茶色。
(……ほんとに、呪いのせいなのか?)
疑う気持ちは、ここで初めて芽生えた。
でも、まだ確信じゃない。
確かめる材料がない。
俺は黙ったまま、また歩き出した。
* * *
昼を過ぎたころ、俺たちは森に入った。
森といっても、ほとんど枯れ木の群れだ。
葉っぱのない枝が、骨みたいに空へ伸びている。足元は落ち葉も少なくて、踏むとかさかさ乾いた音がした。
「この先は、獲物もおりませぬ。引き返しますか」
「……もう少しだけ進む」
特に理由はなかった。
ただ、なんとなく、まだ戻りたくなかった。
しばらく進んだところで。
「……ん?」
視界の端に、色が飛び込んできた。
緑。
濃い、深い緑だ。
「あれは」
「む? 某には、見えませんが」
俺が近づくと、ガルザたちも慌てて追ってきた。
枯れ木の間を抜ける。
そこだけ、開けた場所になっていた。
柔らかな草が一面に生えている。
白い小さな花が、ぽつぽつ咲いている。
乾いた森の真ん中に、人ひとりが立てるほどの範囲だけ、緑が残っている場所があった。
(……なんだ、ここ)
不自然すぎる。
周りは全部枯れているのに、ここだけ別世界だ。
そして、その緑の中心に。
「…………え」
布の包み。
おくるみに包まれた、小さなかたまりが置かれていた。
近づく。
その中で、何かが小さく動いている。
覗き込むと、そこには。
赤ん坊が、すやすやと眠っていた。
「…………」
「…………」
俺とガルザは、しばらく無言で見つめ合った。
いや、お互いを見ていたんじゃない。二人とも、赤ん坊を見ていた。
「……赤子、でございますな」
「……うむ」
「なぜ、このような場所に」
「……分からぬ」
本当に分からなかった。
誰かが置いていったのか。捨てられたのか。それとも。
(いや、考えるのは後だ)
とにかく、こんなところに赤ん坊を一人で放っておけない。
そう思って、さらに一歩近づいた、そのとき。
赤ん坊が、ぱちりと目を開けた。
大きくて、丸い目だった。
その目が、まっすぐ俺を見る。
怖がる様子はない。
泣きもしない。
ただ、じっと俺を見て、それから。
小さな手を、ふわりと伸ばしてきた。
俺に向かって。
(え、俺?)
こんなに角が生えて、爪も長くて、どう見ても恐ろしい見た目の魔王なんだけど。
でも赤ん坊は、そんなことはお構いなしに、ぷにぷにの指をぱたぱた動かしている。
その指先から。
ぴょこん。
小さな芽が、顔を出した。
「…………は?」
赤ん坊の、すぐ横の地面。
さっきまで何もなかったところに、緑の芽が一つ。
それがぐん、と伸びて、二枚の葉を広げた。
「な、なんと……!」
ガルザが絶句する。
護衛の魔族たちも、ぽかんと口を開けている。
俺の頭の中に、ひとつの単語が浮かんだ。
(……緑の手?)
ゲームの知識だ。
育成系のスキルで、植物を育てる才能のこと。
ただ育てるだけじゃなくて、土や植物そのものを元気にして、成長を後押しする力。
実際にそんな人間がいるのかは知らない。でも、目の前の光景は、それ以外に説明がつかなかった。
芽はまだ伸びている。
周りの草も、風もないのにざわざわと揺れた。
赤ん坊を中心に、ほんの数歩ほどの範囲だけ、枯れた地面に緑が戻っていた。
「ま、魔界の土から、芽が……」
ガルザが震える声で言った。
「ありえませぬ……ここは呪われた地のはず……」
「……ガルザ」
「はっ」
「この土は、呪われてなどいない」
自分でも驚くくらい、はっきりした声が出た。
「ただ、育てておらぬだけだ」
(言っちゃったけど)
(合ってるよな?)
さっき土をつかんだときの感触を思い出す。
あれはただの痩せた土だった。
でも、目の前の赤ん坊の近くでは、同じ魔界の土から、芽が出ている。
つまり。
この土は、植物を育てられる。
育てる力は、あるのだ。
ただ、誰もそれをやってこなかっただけで。
(……もしかして)
(農業、できるんじゃないか?)
胸の奥で、何かが動いた。
ガルザは「陛下の仰せの通りかもしれませぬ……」と呆然とつぶやいている。
そのとき、がさり、と枯れ草の向こうが鳴った。
「何奴!」
ガルザが身構える。
茂みから出てきたのは、苔むした丸いかたまりだった。
目と、小さな手足がついている。
その後ろから、葉っぱの耳をしたウサギのような魔獣。
さらに、背中に芽を生やした小さなトカゲ。
「……なんだ、こいつらは」
「緑の魔獣ですな。普段は枯れ地の隅で、ほそぼそ暮らしておる、最弱の連中にございます」
最弱。
確かに、全然強そうじゃない。
苔のかたまりなんて、ころころ転がって、たまに止まって、また転がっている。
だけどその連中が、赤ん坊のまわりにぞろぞろ集まってきた。
そして、ぺたん、と座り込む。
心地よさそうに、目を細める。
苔のかたまりの表面が、ふかふかと明るい緑に変わっていく。
ウサギの耳の葉っぱが、ぴんと立つ。
トカゲの背中の芽が、ぐんぐん伸びる。
(こいつらも、元気になってる)
赤ん坊が、きゃっ、と笑った。
その声に合わせて、緑の魔獣たちが、ぴょんと跳ねる。
懐いている。完全に。
(植物だけじゃないのか)
(この子のそばにいると、緑のものはみんな元気になるんだ)
農業をするなら、植物を育てる力だけじゃ足りない。
畑を耕す手や、作業を手伝う誰かも必要だ。
目の前には、それが全部揃っていた。
俺は、無意識に赤ん坊のそばまで歩いていた。
しゃがんで、そっと、おくるみごと抱き上げる。
軽い。
びっくりするくらい軽くて、あったかい。
赤ん坊は俺の顔をじっと見て、それから、爪の長い指に、ぎゅっとしがみついた。
(…………)
その小さな手の力が、思ったより強くて。
胸の奥が、じんわりした。
いや、今は感傷に浸ってる場合じゃない。
頭の中で、考えが一気に走り出す。
(この子がいれば、植物が育つ)
(時間はかかるけど、この土地でも食料が作れる)
(食料があれば、人間から奪う必要がなくなる)
(奪わなくていいなら、戦争する理由も減る)
(戦争が減れば――勇者に殺される確率も、下がる)
繋がった。
全部、繋がった。
「ガルザ」
「はっ」
「城へ戻る」
「その赤子は、いかがなさいますか」
「連れ帰る」
「……は」
ガルザが一瞬、固まった。
「その、どのような処遇で」
「それは、帰ってから告げる」
俺は赤ん坊を抱いたまま、枯れた森を引き返した。
腕の中で、赤ん坊がもぞもぞ動く。
後ろを、緑の魔獣たちがころころ、ぴょこぴょこ、ついてきた。
* * *
魔王城の大広間に、再び幹部たちが集められた。
玉座に座る俺の腕には、おくるみに包まれた赤ん坊。
眠いのか、ふあ、と小さくあくびをしている。
「陛下、そ、その赤子は……」
ヴァルドが、困惑を隠せない顔で尋ねた。
「森で拾った」
「拾った!?」
「うむ。この子には、特別な力がある」
広間に、ざわざわと動揺が広がる。
俺は、ゆっくりと立ち上がった。
赤ん坊を抱えたまま、幹部たちを見渡す。
こういうときは、堂々としていた方がいい。
内心はドキドキだったけど、体は勝手に威厳を出してくれるので助かる。
「この者は、大地に緑を育む力を持つ」
実際にやって見せた方が早いだろう。
足元に、おくるみを抱えたまま屈むと、赤ん坊がぱたぱた手を動かした。
ぴょこん。
玉座の前の絨毯の隙間から、芽が出た。
「「「おおおお……!」」」
どよめきが走る。
「よって、この者を――」
一拍置いて。
「魔界の農業大臣に任命する」
しーん。
さっきの「兵糧は」のときより、さらに深い沈黙が落ちた。
「…………」
「…………」
ヴァルドが、ゆっくりと口を開いた。
「陛下。恐れながら」
「何だ」
「その……農業大臣、とは」
「大地を耕し、糧を育てる役目だ」
「その者は、赤子にございますが」
「うむ」
「…………」
「何か問題があるか」
「いえ……ございませぬ……」
ヴァルドは額に汗をにじませながら、深々と頭を下げた。
腕の中の赤ん坊が、ふにゃ、と笑った。
俺は大真面目だった。
この子は、魔界の食料問題を変えられる。
俺が生き延びる未来のために、必要な人材だ。
だから任命した。それだけだ。
幹部たちの顔には「陛下は何を考えておられるのだ」と書いてあったが、そこは気にしない。
* * *
任命してから、最初の数週間。
俺は、とても合理的に赤子を扱っていた。
世話は、侍女頭のモルナに任せた。
腕っぷしの強そうな、肝っ玉の据わった女魔族だ。育児経験があるらしい。ありがたい。
「陛下、農業大臣は、おなかがすいております」
「……うむ。何を飲むのだ」
「山羊に似た魔獣の乳を、温めたものにございます」
「分かった。用意せよ」
「陛下、おむつを」
「それは、そなたに任せる」
「……はい」
俺は、赤ん坊の生育状況を確認するだけだ。
朝と夕方に、様子を見る。
体重、顔色、泣き声の大きさ。
緑の手の力は、体調に左右されるかもしれない。だから、毎日の確認は必要だ。
完全に、ビジネスだ。
(農業大臣の健康管理は、国家事業だからな)
そう思って、執務の前後にこまめに様子を見に行く。
「異常はないか」
「ございません」
「そうか」
「陛下、先ほども同じことを仰いました」
「……そうか」
別に深い意味はない。
ただ、確認は大事だ。
あと、寝ているところを見ていると、仕事の疲れがなんとなく取れる気がする。
それも、効率の話だ。
* * *
赤子が、ハイハイを覚えた。
覚えた直後に、俺の後を追うようになった。
きっかけは、朝の会議だった。
ガルザの戦況報告を聞いているとき、広間の入り口あたりから、ぺたぺたと音がした。
「……ん?」
見ると、赤ん坊が、床を這ってこちらへ向かってきていた。
その後ろを、モルナが慌てて追いかけている。
「申し訳ございません、陛下! 目を離した隙に!」
「構わぬ」
反射的に言っていた。
そのまま、赤ん坊はぺたぺた、ぺたぺた、広間の真ん中を横切って。
俺の座る玉座の段の下で、止まった。
そして、マントの裾を、小さな手でぎゅっと握った。
「あー」
見上げてくる、丸い目。
(…………)
会議が、完全に止まった。
幹部たちが、固まったまま俺を見ている。
(やばい、これどうするのが正解だ)
(抱き上げる? 無視? いや、無視はない)
(ていうか、俺のところに来た……?)
「……」
俺は何も言わず、ただ、そっと立ち上がった。
そして、赤ん坊を抱き上げる。
「続けよ」
「は、はっ!」
ガルザが慌てて報告を再開する。
赤ん坊は、俺の腕の中で満足そうにしていた。
マントの裾を握っていた手で、今度は俺の黒い角をぺたぺた触ろうとしている。
(角、気になるのか)
(触っていいぞ、と言うか、触らせるのは威厳が……いや、でも、まあ)
少し顔を傾けて、触りやすいようにしてやった。
幹部たちが、小声でささやき合うのが聞こえる。
「見よ、あの慈悲深き御姿を……」
「戦の最中にも、将来の大臣を気にかけておられる……」
違う。
後追いされて、ちょっと嬉しかっただけだ。
……いや、嬉しくない。
嬉しくなんか、ない。
* * *
それからというもの、赤ん坊は毎日のように俺を追いかけた。
執務室の前までハイハイしてきて、扉をぺしぺし叩く。
廊下で俺を見つけると、ぱあっと顔を輝かせて、全速力で這ってくる。
(なんか、迎えに来る犬みたいだな)
いや、犬は失礼か。農業大臣だ。
ただ、そうやって来られるたびに、俺の中で何かがゆるんでいくのは、確かだった。
そんな日々の中で、畑づくりも始まった。
魔王城の裏手に、日当たりのいい荒れ地がある。
そこを、小さく区切って、畑にする。
ガルザの部下の屈強な魔族たちが、渋い顔でクワ(というか、巨大な鉄の棒)を振るっていた。
「陛下、このような土いじり、我らの仕事では……」
「作業を手伝え。大臣の指示に従え」
「大臣、というと、あの赤子の」
「うむ」
「…………はっ」
文句を言いながらも、彼らはちゃんと耕してくれた。
土が掘り返されて、黒い土が見えてくる。
俺は、その様子を少し離れたところから見ていた。
そのうち、じっとしていられなくなって、畑のそばにしゃがみ込む。
指で土をほぐしてみる。
さっきの森の土より、少し湿っている。
(深く掘れば、水気が残ってるな。これなら、いけるかもしれない)
しゃがんで、真剣に土を握る。
指で崩して、手のひらで確かめる。
地球の知識なんて、ほぼ受験の生物と、実家の家庭菜園の記憶くらいだ。
だけど、考える。どうすれば、育つ土になるか。
「ふむ……」
そのとき。
横から、ちっちゃな手がにゅっと出てきた。
「あー」
いつの間にか、モルナの腕から降りた赤子が、俺のすぐ隣にぺたんと座っていた。
そして、俺の真似をして、土をぺたぺた触り始めた。
「……大臣」
「あー」
「そなた、汚れるぞ」
「あー」
聞いていない。
赤ん坊は、土をつかんで、ぎゅっと握って、ぱらぱら落として、きゃっと笑った。
俺は、ふっと力が抜けた。
(……楽しいのか、それ)
試しに、俺ももう一度、土をつかんでみる。
ぎゅっと握って、ぱらぱら落とす。
赤ん坊が、じーっと見て、それから同じことをする。
また俺が土を握る。
赤ん坊が真似する。
俺が、土を両手で小さな山にする。
赤ん坊も、小さな両手で山を作ろうとして、崩れて、きょとん。
もう一回。
崩れる。
きょとん。
「…………ふっ」
思わず、笑いが漏れた。
次の瞬間、俺は我に返った。
(しまった、今の顔、誰かに見られたか)
あたりを見回す。
作業していた魔族たちが、遠巻きにこちらを見ていた。
全員、見て見ぬふりをして、全員、肩が小刻みに震えていた。
「……何を見ている。手を止めるな」
「は、はっ!」
慌てて作業に戻る彼らを背に、俺はもう一度、赤ん坊を見た。
赤ん坊は、泥だらけの両手を俺に向かって広げて、にっこり笑っている。
頬にも、鼻の頭にも、土がついていた。
「…………」
懐から布を出して、そっと拭いてやった。
爪を立てないよう、指先をそろえて。
(……魔王が、泥遊びって)
(いや、これは土壌の確認だ)
(そう、土壌の確認)
赤ん坊が俺の指をつかんで、ふにゃふにゃ笑った。
その手に触れていた土から、ぴょこ、と緑の芽が出る。
「……」
「あー」
「……優秀だ」
小さく、でも確かに、そう言っていた。
* * *
畑の土が、少しずつ変わっていった。
最初に芽が出たのは、魔界に昔から自生する、固い葉の野草だった。
緑の手の力で、普通なら何か月もかかるはずの成長が、数日で終わる。
それを見て、作業していた魔族の一人が言った。
「陛下……この草、食えますぞ」
「そうか」
「しかも、まあまあ旨い」
「そうか」
表情は崩さなかったが、内心では机があれば叩いていた。
(食える! 旨い! 農業、ほんとにいけるじゃん!)
その頃には、緑の魔獣たちも畑に住み着いていた。
苔のかたまりは、のそのそ転がって土を柔らかくならす。
葉っぱ耳のウサギは、種をくわえて運んでくる。
背中に芽を生やしたトカゲは、水路の掘りかけた溝に、勝手に入って掘り進めてくれる。
「えらく働くな、こやつら」
「大臣のそばにいると、元気が出るようですな」
ガルザが感心したようにうなずく。
その大臣はというと、畑の端で緑の魔獣たちとごろごろ転がって遊んでいた。
苔のかたまりに顔をうずめて、きゃっきゃと笑っている。
苔のかたまりも、満更でもなさそうだ。
「こけ!」
苔のかたまりをぺちぺち叩きながら、赤ん坊が声を上げた。
(……今、「こけ」って言ったか?)
「はっぱ!」
今度は、ウサギの耳の葉っぱを引っ張っている。ウサギは迷惑そうな顔をしつつ、されるがままだ。
(「こけ」に、「はっぱ」)
(自分のまわりにいる、緑のものから覚えてるのか)
(さすが農業大臣。語彙も農業寄りだな)
「……あれは、仕事なのか」
「仕事です、陛下。大臣のそばにいるだけで、土の育ちが違いますので」
「そうか」
仕事ならいい。
見ていて癒やされるのも、きっと仕事のうちだ。
* * *
赤子は、やがてつかまり立ちをするようになった。
きっかけは、またしても俺だった。
執務室で書類に目を通していると、足元でぺたぺた音がする。
見下ろすと、赤ん坊が俺の脚にしがみついていた。
「あー」
「こら、危ない。モルナはどうした」
「あー、う」
必死で脚にしがみついて、ぐぐっ、と体を引き上げている。
見ると、足がぷるぷる震えていた。
でも、立とうとしている。
(立つのか? 今、立つのか?)
書類を置いた。
息を止めた。
そして、ゆっくり、ほんの少しだけ、椅子を後ろにずらしてやる。
赤ん坊は、俺の膝に手をついて、ぐっ、ぐっと伸び上がって。
立った。
ほんの数秒。
でも、確かに、自分の足で。
「あー!」
どうだ、と言わんばかりの顔で、俺を見上げる。
「…………」
(立った)
(立ったぞ今)
(見たか? 誰か見てたか?)
誰もいなかった。
執務室には、俺と赤ん坊の二人だけだった。
だから、俺は自分の胸の中でだけ、小さく拳を握った。
「……よくやった」
口に出したのは、それだけ。
だけど、赤ん坊はなぜか満足そうに、ふにゃりと笑った。
その日の夜、俺は寝る前に、うっかり一人でつぶやいていた。
(明日は、歩くかもしれない)
いや、まだ早いか。
でも、見逃したくないな。
……会議、早めに切り上げるか。
歩いたのは、それから二週間後だった。
畑の脇の芝生で、俺とモルナと、緑の魔獣たちが見守る中。
赤ん坊は、よたよた、よたよたと、一歩、二歩、三歩。
そして、四歩目で、ぺしゃ、と転んだ。
「あっ」
反射的に、俺の体が前に出ていた。
駆け寄りかけて――止まる。
赤ん坊が、地面に手をついて、ぐぐっと顔を上げた。
泣くかと思った。
だが、泣かなかった。
むっとした顔で起き上がって、また立って、また歩き出す。
よたよた、よたよた。
俺のいる方に向かって。
ぼふっ、と脚にぶつかって、止まった。
「あーい!」
「…………」
見下ろす。
土まみれの顔。得意げな丸い目。
俺は、ゆっくりと膝をついて、赤ん坊を抱え上げた。
「うむ」
声が震えないよう、必死だった。
「優秀な……大臣だ」
後ろで、モルナが盛大に鼻をすすっていた。
「陛下……うう……」
「泣くな。何も泣くところではない」
「は、はい……」
「……」
「……」
「陛下も、目が」
「気のせいだ」
* * *
季節が一つ、すっかり変わったころ。
畑には、野菜がいくつも実るようになっていた。
固い葉の野草は、もう雑草じゃなくて、立派な「作物」になっている。
根菜も、ごろっとした形で収穫できた。
食堂で出された野菜のスープは、素朴だけどちゃんと旨かった。
「陛下、これは……」
「うむ。悪くない」
「悪くない、どころか!」
ガルザが、スープを三杯おかわりしていた。
最初は「草など食えるか」と言っていたくせに。
「いやはや、まさか大地から糧を得られるとは……」
「そなたらの考えが、間違っていたわけではない。ただ、足りなかっただけだ」
自分で言いながら、ちょっと格好いいことを言った気がして、内心で照れた。
(いや、でも本当にそうなんだよな)
奪う以外の選択肢を知らなかった。
それだけの話だ。
そして、その選択肢を、あの子が見せてくれた。
そんなある日。
「陛下、大臣が、何かをお持ちでして」
モルナが、慌てた様子で執務室に入ってきた。
「何だ」
「畑の端で、小さな実を見つけたようで。ご覧になられますか」
「うむ」
俺は書類を置いて、畑へ向かった。
畑の隅。
赤ん坊が、しゃがみ込んでいた。
その手には、小さな赤い実が握られていた。
(……あれは)
見覚えがある。
魔界の端に、ひっそり自生している、小さな野いちごだ。
ガルザの部下が、別の場所で見つけて、試しに畑の端に植えていたもの。
それが、緑の手の力で、しっかりと実がなっていた。
赤くて、つやつやして、まるで宝石みたいだ。
「野いちごか」
赤ん坊は、赤い実をじーっと見つめている。
「いーちー」
俺は、しゃがんで、ゆっくり言ってみた。
「い、ち、ご」
「い……ち」
「ご」
「いち……ご」
「そうだ。いちご」
「いちご!」
はっきり出た。
出た。今、ちゃんと出た。
後ろで、モルナが「まあ!」と口を押さえている。
「いちご!」
赤ん坊は、嬉しそうに実を高く掲げて、そのまま、がぶっ、と自分でかじった。
果汁が、口のまわりにしたたる。
「ん、んー!」
目をきらきらさせて、足をじたばたさせて。
「おいちい!」
(おいちい)
(おいしい、じゃなくて、おいちい)
(なんだそれ、反則だろ)
(そうか、おいしいのか)
(初めて自分で育てた実を食べて、おいしいって顔してるのか)
胸がぎゅっとなった。
そして、いちごをもう一つ、もいで。
背伸びをして、俺の口元に、ぐい、と差し出した。
「あーん」
「…………」
「あーん!」
(…………!?)
(待って)
(待って待って待って)
(今、「あーん」って? 俺に? 食べさせてくれるの?)
頭の中が、真っ白になった。
その一方で、体はとても冷静に、威厳ある魔王の顔を保っていた。
ガルザも、モルナも、緑の魔獣たちも、全員が固唾をのんで、こちらを見ている。
俺は、ゆっくりと口を開けた。
ぱく。
小さな手ごと、いちごを口に入れた。
甘酸っぱい。
ちょっと青い香りがして、でもちゃんと甘くて、果汁が口いっぱいに広がる。
「…………」
「あー?」
赤ん坊が、期待を込めた目で、顔を覗き込んでくる。
その視線に、俺はゆっくり、まぶたを閉じて。
「……悪くない」
そう言った。
内心では。
(うまぁぁぁぁぁぁ!!!!)
(え、何これ、めちゃくちゃうまいんだけど!?)
(俺のために、あーんしてくれた! うちの子が! あーんって!)
(天才では!? 天才だろ!? いや絶対に天才!!)
(うちの子、天才ーーー!!)
内心は、お祭り騒ぎだった。
外では、微動だにしなかった。
赤ん坊は、俺の反応が薄いのを見て、首をかしげた。
そして、もう一つ、いちごをもいで。
「あーん!」
「……よい。そなたが食え」
「あーん!」
「……」
二個目も食べた。
三個目も食べた。
周りでは、緑の魔獣たちが、なぜか楽しそうにぴょんぴょん跳ねている。
あとで、ガルザが真顔で言った。
「陛下」
「何だ」
「先ほど、いちごを召し上がられるとき、お顔が緩んでおられました」
「気のせいだ」
「いえ、確かに」
「気のせいだ」
「……はっ」
* * *
それからも、日々は続いた。
赤ん坊の言葉は、少しずつ増えた。
といっても、まだ単語だけだ。「あー」「あーい」「こけ」「はっぱ」「いちご」。それから、何かをもらったときの「おいちい」。
そして、もう一つ。
ある朝、執務室の前で、赤ん坊が俺を見つけた。
「ままー!」
(……ん?)
「ままー!」
元気な声だった。まっすぐ、俺を見ている。
「……ふむ」
腕を組んで、少し考える。
「余の名を、呼んでいるな」
隣にいたモルナが、ぴくりと動いた。
「は……?」
「『まおー』と呼んでいる。そうであろう」
「陛下、恐れながら、おそらく違うのでは……」
「違わぬ」
「ですが、あの、『まま』と」
「違わぬ。『まおー』だ。余を呼んでいるのだ」
きっぱり言い切った。
後ろにいたガルザとヴァルドが、そっと目をそらした。
「ままー!」
「ほらな」
「…………」
「…………」
「……左様でございますか」
モルナが、悟りを開いたような顔でうなずいた。
(まだ「ま・お・う」と、ちゃんと言えないだけなんだよな)
(それでも、ちゃんと俺の名前を呼んでる。覚えるの早いな)
(さすが、うちの……農業大臣)
それから毎朝、「ままー!」と呼ばれるようになった。
そのたびに、俺は「うむ」と返す。ほんの少しだけ、気持ちが上向く。
それが、ちょっと怖い。
ある日の昼、会議のために、先に庭を離れることになった。
「大臣。余は、これから会議だ」
「あー」
「夕方には戻る」
赤ん坊は、土のついた手を、ぶんぶんと振った。
「ばいばい!」
(ばいばい、まで覚えたのか)
(……手、振ってる)
俺は、無意識に片手を上げて、ひらひらと小さく振り返していた。
…………しまった。
魔王が。手を。ひらひらと。
あたりを見回す。
全員が「何も見ていません」という顔をしている。全員の肩が小刻みに震えている。
「……何も、見ておらぬな」
「はっ、何も!」
声を揃えて返事された。
俺は咳払いをして、背を向けて歩き出す。
「ばいばい!」
後ろから、もう一度。
足が止まりかけた。
……振り返らなかった。
ただ、肩のあたりで、こっそり手を振った。
最初は、「農業大臣だから」という理由だったはずなのに。
成長を確認するのが、いつの間にか、楽しみになっている。
できることが増えるたびに、嬉しくなっている。
可愛いと思ってしまうのを、止められない。
そして、仕事が終わると、まっすぐ大臣の部屋に向かってしまう。
(……これは、あれだな)
(農業大臣の育成状況を、把握する必要があるから、だな)
そう自分に言い聞かせた。
言い聞かせている時点で、たぶん、もうアウトなのだが、気づかないことにした。
* * *
「陛下、お願いがございます」
ある日、ヴァルドが神妙な顔で執務室に来た。
「何だ」
「畑の拡張にともない、緑の魔獣と大臣の遊び場が、手狭になってきました。もう少し、日当たりのよい場所に、移せないものかと」
「ふむ」
俺は少し考えた。
畑は拡張したい。でも、土地は有限だ。
それに、赤ん坊が転んでも怪我をしないような、柔らかい地面がいい。日当たりがよくて、風通しがよくて、誰にも邪魔されなくて。
「……屋上はどうだ」
「屋上、でございますか」
「うむ。魔王城の屋上は、広い。日もよく当たる」
「確かに……しかし、土を運び上げるのは、骨が折れますぞ」
「それは、我が手伝う」
「陛下がですか!?」
「なんだ、何か問題か」
「いえ……」
ヴァルドは、目を見開いたまま、深々と一礼した。
その背中が、微妙に震えていた。
あとで聞いた話では、「魔王陛下は、城の頂にまで緑を広げ、魔界全土を見下ろそうとされている……!」と解釈されていたらしい。
そんな大層な話じゃない。
あの子が遊べる場所を、作りたかっただけだ。
……いや、違う。農業大臣の職場環境を整えたかっただけだ。
* * *
屋上の庭園が、ひとまず形になったのは、それから少し先のことだった。
魔王城の最上部。
鋭い尖塔に囲まれた平らな場所に、土を運び上げ、芝を張り、小さな畑を作った。
緑の魔獣たちが、そこら中を転がっている。
芝の上では、苔のかたまりが昼寝をしていた。
野いちごの苗は、畑の一角に並んで、赤い実をつけている。
その日の夕方。
俺は、成長した農業大臣を片腕に抱いて、屋上の端に立っていた。
眼下に、魔界が広がっている。
遠くまで、ずっと、茶色い大地。
ひび割れた荒れ地。枯れた森。崩れた村の跡。
まだまだ、荒れている。
勇者との戦いも、人間との争いも、何ひとつ終わっていない。
食料だって、まだ全然足りない。畑はようやく数枚、庭園はたった一つだ。
それでも。
眼下の荒れ地の中に、小さな緑が、ぽつりぽつりと見える。
魔王城のふもとの畑。
その向こうの、新しく耕した区画。
さらに遠くにも、ところどころ、淡い緑の点が灯っていた。
夕日の中で、それがぼんやり光って見える。
足元の芝生が、風に揺れた。
緑の魔獣たちが、跳ねたり、転がったりして、遊んでいる。
腕の中の、小さな温もり。
俺は、そっと目を細めた。
(……最初は、ただ死にたくなかっただけなんだけどな)
勇者に倒されたくなかった。
だから、メシを何とかしようと思った。
それだけだったはずなのに。
いつの間にか、この子と、この景色を、守りたくなっていた。
(死にたくないのは、今も変わらないけど)
(でも、それだけじゃなくなったな)
腕の中の農業大臣が、もぞもぞと動いて、俺を見上げた。
丸くて大きな目。
あの森で、初めて俺を見たときと同じ目だ。
俺は、威厳を込めて、ゆっくりと口を開いた。
「期待しているぞ。我が農業大臣」
赤ん坊は、じーっと俺を見て、それから。
「あーい」
はっきりと、そう返事をした。
「…………!」
(今)
(返事した!?)
(俺の言葉、理解してる!?)
(「期待しているぞ」に、「あーい」って!?)
(うちの子、天才ーーー!!)
心の中で、ありったけの花火が上がった。
でも、表情はぴくりとも動かさない。
威厳ある魔王として。
夕日を背にして。
静かに、うなずいた。
「……うむ」
ただ、それだけ。
沈んでいく太陽が、魔王城の屋上を、橙色に染めた。
そのとき。
赤ん坊の足元、あるいは、庭の片隅の、小さなひび割れから。
ぴょこん。
新しい芽が、顔を出した。




