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魔王に転生した。死にたくないので、拾った赤子を農業大臣に任命します

作者: くみの
掲載日:2026/10/05

玉座は、思っていたより硬かった。


目を開けて最初に思ったのが、それだった。


目の前には、黒い石の柱が並ぶ大広間。血のように赤い絨毯。そして、その両脇にずらりと並ぶ魔族たち。


角のある者。翼のある者。なぜか顔が三つある者。


その全員が、俺に向かって膝をついていた。


「新たなる魔王陛下に、栄光あれ!」


野太い声が、びりびりと広間を揺らす。


(……え?)


何これ。


俺、さっきまで残業帰りにコンビニの肉まんを買って……いや、そこから先の記憶がないな。


とりあえず、自分の手を見る。


黒い。爪が長い。というか、爪が鋭い。人を刺せそうなレベルで鋭い。


視界の端には、頭の両側から生えた湾曲した角。肩には重たい黒のマント。


(待って)


(これ、見たことあるぞ)


玉座の背後の紋章。広間の柱の配置。壁に並ぶ燭台の形。


あのゲームだ。


何十時間もやり込んだ、あの勇者が魔王を倒しに行くやつの、ラストダンジョン。その最奥にある、魔王の間。


つまり俺が今座っているのは――魔王の席。


(俺、魔王なの?)


(魔王って、最後に勇者にボコボコにされるやつだよな)


(…………死にたくないんだけど)


背中を冷たい汗が流れた。


いや、汗が出たかどうかも分からない。それくらい動揺している。


「陛下」


玉座のすぐ脇で、白髪の老魔族が恭しく頭を下げた。宰相のヴァルドだ。ゲームにも出ていた。


「就任の御言葉を、賜りたく存じます」


御言葉。


つまり、何か喋れということだ。


何を? どうやって? 「みなさん初めまして」とか言うのか?


口を開く。


「…………うむ」


出たのは、それだけだった。


しかも妙に低い。腹の底に響く声だ。自分の声のはずなのに、他人のものみたいに聞こえる。


広間が、しん、と静まり返った。


そして次の瞬間。


「おお……!」


「なんと威厳に満ちた……!」


「言葉少なにして、この圧……!」


(いや、緊張で喋れなかっただけなんだけど)


ざわめきの中、俺は玉座の肘掛けを握りしめたまま、微動だにできずにいた。


微動だにしないのが、また「魔王の貫禄」に見えているらしい。


違う。足がすくんで動けないだけだ。


* * *


就任の儀式のあと、そのまま広間で現状報告を受けることになった。


幹部たちが前に並ぶ。


最初に進み出たのは、全身筋肉みたいな巨漢の将軍、ガルザだった。


「ご報告いたします! 先日の北方戦線にて、人間どもの砦を二つ落としました!」


「……うむ」


「しかしながら、前線の士気がやや下がっておりまして! 次の戦いまでに、勢いを取り戻す必要がございます!」


「……うむ」


声がでかい。耳が痛い。


その後ろで、宰相のヴァルドが淡々と補足を入れていく。戦力の数、人間側の動き、次の攻勢の予定。


聞きながら、俺はずっと同じことを考えていた。


(勇者って、今どのへんにいるんだ)


ゲームの流れだと、魔王が倒れる最終決戦までには、まだ時間があるはずだ。


でも、その「時間」がどれくらいあるのか分からない。


分からないなら、備えるしかない。


備えるって、何を?


戦力? いや、そもそも勝てる気がしない。ゲームでは勇者に負けるのが、魔王の仕事だった。


じゃあ、どうやって死なずに済む?


考えている間に、報告が終わったらしい。


「では、新たなる魔王陛下より、今後の戦いに向けてのお言葉を」


広間の視線が、一斉に俺に集まった。


また喋れってことか。


何かないか。何か。とりあえず戦争の話をしているんだから、戦争に関係することを。


戦争。戦争って、何が要るんだっけ。


兵隊。武器。それから――。


「……兵糧は、どうなっている?」


言った瞬間。


広間が、また静まり返った。


さっきとは違う、変な静けさだ。


「ヒョウロウ……?」


ガルザが、きょとんと首をかしげた。


「兵が食らう糧のことかと」


ヴァルドが小声で助け舟を出す。


「おお、メシのことですか!」


メシのことです。


「それならば心配ございません! 現地で調達しております!」


「……現地とは」


「人間どもの村にございます!」


胸を張るガルザ。


いや、そこ、胸を張るところじゃない。


「蓄えは」


「蓄え、でございますか?」


「…………」


「ございません!」


(ないの!?)


(ないの!? 兵糧、ゼロ!?)


いや、待て。


落ち着け。ここは聞き間違いの可能性がある。


「足りなくなったら、どうするのだ」


「奪えばよいのです! それが前魔王陛下の教えにございます!」


ガルザの目はまっすぐだった。一点の曇りもなかった。


(……そうか)


(そういうことか)


(前の魔王、とんでもない遺産を残していったな)


なのに、広間のあちこちから聞こえてきたのは、こんな声だった。


「さすがは新魔王陛下……戦の根幹をお尋ねになった……」


「兵糧に目を向けられるとは、なんと深いお考え……」


違う。深くない。


ごく普通の、当たり前の疑問を口にしただけだ。


* * *


報告会のあと、俺は一人で執務室に引っ込んだ。


椅子に深く座って、頭を整理する。


分かったことを並べてみよう。


魔族は、食料を「狩るもの」「奪うもの」だと思っている。


作る、という発想がない。


備蓄もない。足りなくなったら、人間の村を襲う。


で、襲った村は食い尽くして、荒らして、次の村へ。


(……あれ)


(これ、メシがないから戦争してるんじゃないか?)


食料がない。だから奪う。奪うから戦争になる。戦争するから土地が荒れる。土地が荒れたから、さらに食料がなくなる。


ぐるぐる回って、悪くなる一方の円だ。


(前の魔王、何してくれてんだよ……)


「力こそパワー」だか何だか知らないが、とんでもなく雑な経営をしてくれた。


おかげで、その尻拭いが俺に回ってきた。


しかも、問題はそれだけじゃない。


あのゲームでは、勇者パーティにも「空腹」の概念があった。


食事をすればバフがかかる。食べていなければ弱くなる。


つまり、メシを食える側と食えない側では、そもそも勝負にならない。


(腹ぺこの魔族と、満腹の勇者)


(……勝てるわけないよな)


このままだと、俺は死ぬ。


それも、かなり高い確率で。


「…………」


机に肘をついて、頭を抱えた。


死にたくない。


ほんとに死にたくない。


じゃあ、どうする。


勇者に勝つ方法なんて、すぐには思いつかない。でも、戦争が起きる原因を減らせるなら、話は変わってくる。


食料。


そこをなんとかできれば。


(まず、現状を確認しよう)


こういうのは、現場を見ないと分からない。


俺はそう決めて、立ち上がった。


「ヴァルド」


「はっ」


「領地を見て回る。供をせよ」


「陛下自ら、でございますか!?」


「うむ」


宰相が、何度も瞬きをした。


「……承知いたしました」


その顔には、「なんと民草に目を向けられる魔王陛下……」と書いてあった。


いや、民草のためとかじゃなくて、自分が死にたくないからなんだけど。


* * *


魔王城を出て、数時間。


俺はガルザと数名の護衛を連れて、魔王領を歩いていた。


見渡す限り、荒れ地だった。


乾いた土。ひび割れた地面。ところどころに生えている黒っぽい草。折れた木の根。


建物らしい建物はほとんどない。


「ここは、かつて村があった場所にございます」


ガルザが指さす先には、崩れた石壁の跡があった。


「いつから、こうなっている」


「さあ……某が生まれる前からでは」


(そんなに前から?)


「魔界の大地は、呪われているのです。何を植えても、何も育ちませぬ」


ガルザは当然のことのように言った。


呪われている。


何も育たない。


ふうん、と流しかけて、俺は足を止めた。


「……少し待て」


その場にしゃがんで、足元の土をつかむ。


乾いている。パサパサだ。握っても固まらず、さらさらと指の間からこぼれていく。


でも、匂いは普通の土だ。


石だらけでもないし、変な色でもない。


(……これ、ただの痩せた土じゃないか?)


呪い、とか言うからもっとヤバいものを想像していた。


だけど、水が足りなくて、ずっと放置されたら、地球の荒れ地もこんなふうになる。たぶん。


「かつて人間から奪った土地は、どうなった」


「はっ。数年のうちに、すべて枯れ果てました!」


「奪ったあと、何をした」


「奪い尽くしました!」


「……尽くしたのか」


「はい! 作物も、家畜も、井戸の水も、根こそぎにございます!」


誇らしげに言うな。


(そりゃ枯れるだろ!)


思わず内心で叫んだ。


(根こそぎ持っていって、何も戻さなかったんだろ? そんなの、どんな土地だって死ぬわ!)


だけど、ガルザは本気で、それを「魔界の呪い」だと信じているらしい。


俺は立ち上がって、遠くを見た。


地平線の向こう。


ぼんやりと、緑がかった一帯が見える。


人間の国との境だ。


同じ空の下なのに、あっちは緑で、こっちは茶色。


(……ほんとに、呪いのせいなのか?)


疑う気持ちは、ここで初めて芽生えた。


でも、まだ確信じゃない。


確かめる材料がない。


俺は黙ったまま、また歩き出した。


* * *


昼を過ぎたころ、俺たちは森に入った。


森といっても、ほとんど枯れ木の群れだ。


葉っぱのない枝が、骨みたいに空へ伸びている。足元は落ち葉も少なくて、踏むとかさかさ乾いた音がした。


「この先は、獲物もおりませぬ。引き返しますか」


「……もう少しだけ進む」


特に理由はなかった。


ただ、なんとなく、まだ戻りたくなかった。


しばらく進んだところで。


「……ん?」


視界の端に、色が飛び込んできた。


緑。


濃い、深い緑だ。


「あれは」


「む? 某には、見えませんが」


俺が近づくと、ガルザたちも慌てて追ってきた。


枯れ木の間を抜ける。


そこだけ、開けた場所になっていた。


柔らかな草が一面に生えている。


白い小さな花が、ぽつぽつ咲いている。


乾いた森の真ん中に、人ひとりが立てるほどの範囲だけ、緑が残っている場所があった。


(……なんだ、ここ)


不自然すぎる。


周りは全部枯れているのに、ここだけ別世界だ。


そして、その緑の中心に。


「…………え」


布の包み。


おくるみに包まれた、小さなかたまりが置かれていた。


近づく。


その中で、何かが小さく動いている。


覗き込むと、そこには。


赤ん坊が、すやすやと眠っていた。


「…………」


「…………」


俺とガルザは、しばらく無言で見つめ合った。


いや、お互いを見ていたんじゃない。二人とも、赤ん坊を見ていた。


「……赤子、でございますな」


「……うむ」


「なぜ、このような場所に」


「……分からぬ」


本当に分からなかった。


誰かが置いていったのか。捨てられたのか。それとも。


(いや、考えるのは後だ)


とにかく、こんなところに赤ん坊を一人で放っておけない。


そう思って、さらに一歩近づいた、そのとき。


赤ん坊が、ぱちりと目を開けた。


大きくて、丸い目だった。


その目が、まっすぐ俺を見る。


怖がる様子はない。


泣きもしない。


ただ、じっと俺を見て、それから。


小さな手を、ふわりと伸ばしてきた。


俺に向かって。


(え、俺?)


こんなに角が生えて、爪も長くて、どう見ても恐ろしい見た目の魔王なんだけど。


でも赤ん坊は、そんなことはお構いなしに、ぷにぷにの指をぱたぱた動かしている。


その指先から。


ぴょこん。


小さな芽が、顔を出した。


「…………は?」


赤ん坊の、すぐ横の地面。


さっきまで何もなかったところに、緑の芽が一つ。


それがぐん、と伸びて、二枚の葉を広げた。


「な、なんと……!」


ガルザが絶句する。


護衛の魔族たちも、ぽかんと口を開けている。


俺の頭の中に、ひとつの単語が浮かんだ。


(……緑の手?)


ゲームの知識だ。


育成系のスキルで、植物を育てる才能のこと。


ただ育てるだけじゃなくて、土や植物そのものを元気にして、成長を後押しする力。


実際にそんな人間がいるのかは知らない。でも、目の前の光景は、それ以外に説明がつかなかった。


芽はまだ伸びている。


周りの草も、風もないのにざわざわと揺れた。


赤ん坊を中心に、ほんの数歩ほどの範囲だけ、枯れた地面に緑が戻っていた。


「ま、魔界の土から、芽が……」


ガルザが震える声で言った。


「ありえませぬ……ここは呪われた地のはず……」


「……ガルザ」


「はっ」


「この土は、呪われてなどいない」


自分でも驚くくらい、はっきりした声が出た。


「ただ、育てておらぬだけだ」


(言っちゃったけど)


(合ってるよな?)


さっき土をつかんだときの感触を思い出す。


あれはただの痩せた土だった。


でも、目の前の赤ん坊の近くでは、同じ魔界の土から、芽が出ている。


つまり。


この土は、植物を育てられる。


育てる力は、あるのだ。


ただ、誰もそれをやってこなかっただけで。


(……もしかして)


(農業、できるんじゃないか?)


胸の奥で、何かが動いた。


ガルザは「陛下の仰せの通りかもしれませぬ……」と呆然とつぶやいている。


そのとき、がさり、と枯れ草の向こうが鳴った。


「何奴!」


ガルザが身構える。


茂みから出てきたのは、苔むした丸いかたまりだった。


目と、小さな手足がついている。


その後ろから、葉っぱの耳をしたウサギのような魔獣。


さらに、背中に芽を生やした小さなトカゲ。


「……なんだ、こいつらは」


「緑の魔獣ですな。普段は枯れ地の隅で、ほそぼそ暮らしておる、最弱の連中にございます」


最弱。


確かに、全然強そうじゃない。


苔のかたまりなんて、ころころ転がって、たまに止まって、また転がっている。


だけどその連中が、赤ん坊のまわりにぞろぞろ集まってきた。


そして、ぺたん、と座り込む。


心地よさそうに、目を細める。


苔のかたまりの表面が、ふかふかと明るい緑に変わっていく。


ウサギの耳の葉っぱが、ぴんと立つ。


トカゲの背中の芽が、ぐんぐん伸びる。


(こいつらも、元気になってる)


赤ん坊が、きゃっ、と笑った。


その声に合わせて、緑の魔獣たちが、ぴょんと跳ねる。


懐いている。完全に。


(植物だけじゃないのか)


(この子のそばにいると、緑のものはみんな元気になるんだ)


農業をするなら、植物を育てる力だけじゃ足りない。


畑を耕す手や、作業を手伝う誰かも必要だ。


目の前には、それが全部揃っていた。


俺は、無意識に赤ん坊のそばまで歩いていた。


しゃがんで、そっと、おくるみごと抱き上げる。


軽い。


びっくりするくらい軽くて、あったかい。


赤ん坊は俺の顔をじっと見て、それから、爪の長い指に、ぎゅっとしがみついた。


(…………)


その小さな手の力が、思ったより強くて。


胸の奥が、じんわりした。


いや、今は感傷に浸ってる場合じゃない。


頭の中で、考えが一気に走り出す。


(この子がいれば、植物が育つ)


(時間はかかるけど、この土地でも食料が作れる)


(食料があれば、人間から奪う必要がなくなる)


(奪わなくていいなら、戦争する理由も減る)


(戦争が減れば――勇者に殺される確率も、下がる)


繋がった。


全部、繋がった。


「ガルザ」


「はっ」


「城へ戻る」


「その赤子は、いかがなさいますか」


「連れ帰る」


「……は」


ガルザが一瞬、固まった。


「その、どのような処遇で」


「それは、帰ってから告げる」


俺は赤ん坊を抱いたまま、枯れた森を引き返した。


腕の中で、赤ん坊がもぞもぞ動く。


後ろを、緑の魔獣たちがころころ、ぴょこぴょこ、ついてきた。


* * *


魔王城の大広間に、再び幹部たちが集められた。


玉座に座る俺の腕には、おくるみに包まれた赤ん坊。


眠いのか、ふあ、と小さくあくびをしている。


「陛下、そ、その赤子は……」


ヴァルドが、困惑を隠せない顔で尋ねた。


「森で拾った」


「拾った!?」


「うむ。この子には、特別な力がある」


広間に、ざわざわと動揺が広がる。


俺は、ゆっくりと立ち上がった。


赤ん坊を抱えたまま、幹部たちを見渡す。


こういうときは、堂々としていた方がいい。


内心はドキドキだったけど、体は勝手に威厳を出してくれるので助かる。


「この者は、大地に緑を育む力を持つ」


実際にやって見せた方が早いだろう。


足元に、おくるみを抱えたまま屈むと、赤ん坊がぱたぱた手を動かした。


ぴょこん。


玉座の前の絨毯の隙間から、芽が出た。


「「「おおおお……!」」」


どよめきが走る。


「よって、この者を――」


一拍置いて。


「魔界の農業大臣に任命する」


しーん。


さっきの「兵糧は」のときより、さらに深い沈黙が落ちた。


「…………」


「…………」


ヴァルドが、ゆっくりと口を開いた。


「陛下。恐れながら」


「何だ」


「その……農業大臣、とは」


「大地を耕し、糧を育てる役目だ」


「その者は、赤子にございますが」


「うむ」


「…………」


「何か問題があるか」


「いえ……ございませぬ……」


ヴァルドは額に汗をにじませながら、深々と頭を下げた。


腕の中の赤ん坊が、ふにゃ、と笑った。


俺は大真面目だった。


この子は、魔界の食料問題を変えられる。


俺が生き延びる未来のために、必要な人材だ。


だから任命した。それだけだ。


幹部たちの顔には「陛下は何を考えておられるのだ」と書いてあったが、そこは気にしない。


* * *


任命してから、最初の数週間。


俺は、とても合理的に赤子を扱っていた。


世話は、侍女頭のモルナに任せた。


腕っぷしの強そうな、肝っ玉の据わった女魔族だ。育児経験があるらしい。ありがたい。


「陛下、農業大臣は、おなかがすいております」


「……うむ。何を飲むのだ」


「山羊に似た魔獣の乳を、温めたものにございます」


「分かった。用意せよ」


「陛下、おむつを」


「それは、そなたに任せる」


「……はい」


俺は、赤ん坊の生育状況を確認するだけだ。


朝と夕方に、様子を見る。


体重、顔色、泣き声の大きさ。


緑の手の力は、体調に左右されるかもしれない。だから、毎日の確認は必要だ。


完全に、ビジネスだ。


(農業大臣の健康管理は、国家事業だからな)


そう思って、執務の前後にこまめに様子を見に行く。


「異常はないか」


「ございません」


「そうか」


「陛下、先ほども同じことを仰いました」


「……そうか」


別に深い意味はない。


ただ、確認は大事だ。


あと、寝ているところを見ていると、仕事の疲れがなんとなく取れる気がする。


それも、効率の話だ。


* * *


赤子が、ハイハイを覚えた。


覚えた直後に、俺の後を追うようになった。


きっかけは、朝の会議だった。


ガルザの戦況報告を聞いているとき、広間の入り口あたりから、ぺたぺたと音がした。


「……ん?」


見ると、赤ん坊が、床を這ってこちらへ向かってきていた。


その後ろを、モルナが慌てて追いかけている。


「申し訳ございません、陛下! 目を離した隙に!」


「構わぬ」


反射的に言っていた。


そのまま、赤ん坊はぺたぺた、ぺたぺた、広間の真ん中を横切って。


俺の座る玉座の段の下で、止まった。


そして、マントの裾を、小さな手でぎゅっと握った。


「あー」


見上げてくる、丸い目。


(…………)


会議が、完全に止まった。


幹部たちが、固まったまま俺を見ている。


(やばい、これどうするのが正解だ)


(抱き上げる? 無視? いや、無視はない)


(ていうか、俺のところに来た……?)


「……」


俺は何も言わず、ただ、そっと立ち上がった。


そして、赤ん坊を抱き上げる。


「続けよ」


「は、はっ!」


ガルザが慌てて報告を再開する。


赤ん坊は、俺の腕の中で満足そうにしていた。


マントの裾を握っていた手で、今度は俺の黒い角をぺたぺた触ろうとしている。


(角、気になるのか)


(触っていいぞ、と言うか、触らせるのは威厳が……いや、でも、まあ)


少し顔を傾けて、触りやすいようにしてやった。


幹部たちが、小声でささやき合うのが聞こえる。


「見よ、あの慈悲深き御姿を……」


「戦の最中にも、将来の大臣を気にかけておられる……」


違う。


後追いされて、ちょっと嬉しかっただけだ。


……いや、嬉しくない。


嬉しくなんか、ない。


* * *


それからというもの、赤ん坊は毎日のように俺を追いかけた。


執務室の前までハイハイしてきて、扉をぺしぺし叩く。


廊下で俺を見つけると、ぱあっと顔を輝かせて、全速力で這ってくる。


(なんか、迎えに来る犬みたいだな)


いや、犬は失礼か。農業大臣だ。


ただ、そうやって来られるたびに、俺の中で何かがゆるんでいくのは、確かだった。


そんな日々の中で、畑づくりも始まった。


魔王城の裏手に、日当たりのいい荒れ地がある。


そこを、小さく区切って、畑にする。


ガルザの部下の屈強な魔族たちが、渋い顔でクワ(というか、巨大な鉄の棒)を振るっていた。


「陛下、このような土いじり、我らの仕事では……」


「作業を手伝え。大臣の指示に従え」


「大臣、というと、あの赤子の」


「うむ」


「…………はっ」


文句を言いながらも、彼らはちゃんと耕してくれた。


土が掘り返されて、黒い土が見えてくる。


俺は、その様子を少し離れたところから見ていた。


そのうち、じっとしていられなくなって、畑のそばにしゃがみ込む。


指で土をほぐしてみる。


さっきの森の土より、少し湿っている。


(深く掘れば、水気が残ってるな。これなら、いけるかもしれない)


しゃがんで、真剣に土を握る。


指で崩して、手のひらで確かめる。


地球の知識なんて、ほぼ受験の生物と、実家の家庭菜園の記憶くらいだ。


だけど、考える。どうすれば、育つ土になるか。


「ふむ……」


そのとき。


横から、ちっちゃな手がにゅっと出てきた。


「あー」


いつの間にか、モルナの腕から降りた赤子が、俺のすぐ隣にぺたんと座っていた。


そして、俺の真似をして、土をぺたぺた触り始めた。


「……大臣」


「あー」


「そなた、汚れるぞ」


「あー」


聞いていない。


赤ん坊は、土をつかんで、ぎゅっと握って、ぱらぱら落として、きゃっと笑った。


俺は、ふっと力が抜けた。


(……楽しいのか、それ)


試しに、俺ももう一度、土をつかんでみる。


ぎゅっと握って、ぱらぱら落とす。


赤ん坊が、じーっと見て、それから同じことをする。


また俺が土を握る。


赤ん坊が真似する。


俺が、土を両手で小さな山にする。


赤ん坊も、小さな両手で山を作ろうとして、崩れて、きょとん。


もう一回。


崩れる。


きょとん。


「…………ふっ」


思わず、笑いが漏れた。


次の瞬間、俺は我に返った。


(しまった、今の顔、誰かに見られたか)


あたりを見回す。


作業していた魔族たちが、遠巻きにこちらを見ていた。


全員、見て見ぬふりをして、全員、肩が小刻みに震えていた。


「……何を見ている。手を止めるな」


「は、はっ!」


慌てて作業に戻る彼らを背に、俺はもう一度、赤ん坊を見た。


赤ん坊は、泥だらけの両手を俺に向かって広げて、にっこり笑っている。


頬にも、鼻の頭にも、土がついていた。


「…………」


懐から布を出して、そっと拭いてやった。


爪を立てないよう、指先をそろえて。


(……魔王が、泥遊びって)


(いや、これは土壌の確認だ)


(そう、土壌の確認)


赤ん坊が俺の指をつかんで、ふにゃふにゃ笑った。


その手に触れていた土から、ぴょこ、と緑の芽が出る。


「……」


「あー」


「……優秀だ」


小さく、でも確かに、そう言っていた。


* * *


畑の土が、少しずつ変わっていった。


最初に芽が出たのは、魔界に昔から自生する、固い葉の野草だった。


緑の手の力で、普通なら何か月もかかるはずの成長が、数日で終わる。


それを見て、作業していた魔族の一人が言った。


「陛下……この草、食えますぞ」


「そうか」


「しかも、まあまあ旨い」


「そうか」


表情は崩さなかったが、内心では机があれば叩いていた。


(食える! 旨い! 農業、ほんとにいけるじゃん!)


その頃には、緑の魔獣たちも畑に住み着いていた。


苔のかたまりは、のそのそ転がって土を柔らかくならす。


葉っぱ耳のウサギは、種をくわえて運んでくる。


背中に芽を生やしたトカゲは、水路の掘りかけた溝に、勝手に入って掘り進めてくれる。


「えらく働くな、こやつら」


「大臣のそばにいると、元気が出るようですな」


ガルザが感心したようにうなずく。


その大臣はというと、畑の端で緑の魔獣たちとごろごろ転がって遊んでいた。


苔のかたまりに顔をうずめて、きゃっきゃと笑っている。


苔のかたまりも、満更でもなさそうだ。


「こけ!」


苔のかたまりをぺちぺち叩きながら、赤ん坊が声を上げた。


(……今、「こけ」って言ったか?)


「はっぱ!」


今度は、ウサギの耳の葉っぱを引っ張っている。ウサギは迷惑そうな顔をしつつ、されるがままだ。


(「こけ」に、「はっぱ」)


(自分のまわりにいる、緑のものから覚えてるのか)


(さすが農業大臣。語彙も農業寄りだな)


「……あれは、仕事なのか」


「仕事です、陛下。大臣のそばにいるだけで、土の育ちが違いますので」


「そうか」


仕事ならいい。


見ていて癒やされるのも、きっと仕事のうちだ。


* * *


赤子は、やがてつかまり立ちをするようになった。


きっかけは、またしても俺だった。


執務室で書類に目を通していると、足元でぺたぺた音がする。


見下ろすと、赤ん坊が俺の脚にしがみついていた。


「あー」


「こら、危ない。モルナはどうした」


「あー、う」


必死で脚にしがみついて、ぐぐっ、と体を引き上げている。


見ると、足がぷるぷる震えていた。


でも、立とうとしている。


(立つのか? 今、立つのか?)


書類を置いた。


息を止めた。


そして、ゆっくり、ほんの少しだけ、椅子を後ろにずらしてやる。


赤ん坊は、俺の膝に手をついて、ぐっ、ぐっと伸び上がって。


立った。


ほんの数秒。


でも、確かに、自分の足で。


「あー!」


どうだ、と言わんばかりの顔で、俺を見上げる。


「…………」


(立った)


(立ったぞ今)


(見たか? 誰か見てたか?)


誰もいなかった。


執務室には、俺と赤ん坊の二人だけだった。


だから、俺は自分の胸の中でだけ、小さく拳を握った。


「……よくやった」


口に出したのは、それだけ。


だけど、赤ん坊はなぜか満足そうに、ふにゃりと笑った。


その日の夜、俺は寝る前に、うっかり一人でつぶやいていた。


(明日は、歩くかもしれない)


いや、まだ早いか。


でも、見逃したくないな。


……会議、早めに切り上げるか。


歩いたのは、それから二週間後だった。


畑の脇の芝生で、俺とモルナと、緑の魔獣たちが見守る中。


赤ん坊は、よたよた、よたよたと、一歩、二歩、三歩。


そして、四歩目で、ぺしゃ、と転んだ。


「あっ」


反射的に、俺の体が前に出ていた。


駆け寄りかけて――止まる。


赤ん坊が、地面に手をついて、ぐぐっと顔を上げた。


泣くかと思った。


だが、泣かなかった。


むっとした顔で起き上がって、また立って、また歩き出す。


よたよた、よたよた。


俺のいる方に向かって。


ぼふっ、と脚にぶつかって、止まった。


「あーい!」


「…………」


見下ろす。


土まみれの顔。得意げな丸い目。


俺は、ゆっくりと膝をついて、赤ん坊を抱え上げた。


「うむ」


声が震えないよう、必死だった。


「優秀な……大臣だ」


後ろで、モルナが盛大に鼻をすすっていた。


「陛下……うう……」


「泣くな。何も泣くところではない」


「は、はい……」


「……」


「……」


「陛下も、目が」


「気のせいだ」


* * *


季節が一つ、すっかり変わったころ。


畑には、野菜がいくつも実るようになっていた。


固い葉の野草は、もう雑草じゃなくて、立派な「作物」になっている。


根菜も、ごろっとした形で収穫できた。


食堂で出された野菜のスープは、素朴だけどちゃんと旨かった。


「陛下、これは……」


「うむ。悪くない」


「悪くない、どころか!」


ガルザが、スープを三杯おかわりしていた。


最初は「草など食えるか」と言っていたくせに。


「いやはや、まさか大地から糧を得られるとは……」


「そなたらの考えが、間違っていたわけではない。ただ、足りなかっただけだ」


自分で言いながら、ちょっと格好いいことを言った気がして、内心で照れた。


(いや、でも本当にそうなんだよな)


奪う以外の選択肢を知らなかった。


それだけの話だ。


そして、その選択肢を、あの子が見せてくれた。


そんなある日。


「陛下、大臣が、何かをお持ちでして」


モルナが、慌てた様子で執務室に入ってきた。


「何だ」


「畑の端で、小さな実を見つけたようで。ご覧になられますか」


「うむ」


俺は書類を置いて、畑へ向かった。


畑の隅。


赤ん坊が、しゃがみ込んでいた。


その手には、小さな赤い実が握られていた。


(……あれは)


見覚えがある。


魔界の端に、ひっそり自生している、小さな野いちごだ。


ガルザの部下が、別の場所で見つけて、試しに畑の端に植えていたもの。


それが、緑の手の力で、しっかりと実がなっていた。


赤くて、つやつやして、まるで宝石みたいだ。


「野いちごか」


赤ん坊は、赤い実をじーっと見つめている。


「いーちー」


俺は、しゃがんで、ゆっくり言ってみた。


「い、ち、ご」


「い……ち」


「ご」


「いち……ご」


「そうだ。いちご」


「いちご!」


はっきり出た。


出た。今、ちゃんと出た。


後ろで、モルナが「まあ!」と口を押さえている。


「いちご!」


赤ん坊は、嬉しそうに実を高く掲げて、そのまま、がぶっ、と自分でかじった。


果汁が、口のまわりにしたたる。


「ん、んー!」


目をきらきらさせて、足をじたばたさせて。


「おいちい!」


(おいちい)


(おいしい、じゃなくて、おいちい)


(なんだそれ、反則だろ)


(そうか、おいしいのか)


(初めて自分で育てた実を食べて、おいしいって顔してるのか)


胸がぎゅっとなった。


そして、いちごをもう一つ、もいで。


背伸びをして、俺の口元に、ぐい、と差し出した。


「あーん」


「…………」


「あーん!」


(…………!?)


(待って)


(待って待って待って)


(今、「あーん」って? 俺に? 食べさせてくれるの?)


頭の中が、真っ白になった。


その一方で、体はとても冷静に、威厳ある魔王の顔を保っていた。


ガルザも、モルナも、緑の魔獣たちも、全員が固唾をのんで、こちらを見ている。


俺は、ゆっくりと口を開けた。


ぱく。


小さな手ごと、いちごを口に入れた。


甘酸っぱい。


ちょっと青い香りがして、でもちゃんと甘くて、果汁が口いっぱいに広がる。


「…………」


「あー?」


赤ん坊が、期待を込めた目で、顔を覗き込んでくる。


その視線に、俺はゆっくり、まぶたを閉じて。


「……悪くない」


そう言った。


内心では。


(うまぁぁぁぁぁぁ!!!!)


(え、何これ、めちゃくちゃうまいんだけど!?)


(俺のために、あーんしてくれた! うちの子が! あーんって!)


(天才では!? 天才だろ!? いや絶対に天才!!)


(うちの子、天才ーーー!!)


内心は、お祭り騒ぎだった。


外では、微動だにしなかった。


赤ん坊は、俺の反応が薄いのを見て、首をかしげた。


そして、もう一つ、いちごをもいで。


「あーん!」


「……よい。そなたが食え」


「あーん!」


「……」


二個目も食べた。


三個目も食べた。


周りでは、緑の魔獣たちが、なぜか楽しそうにぴょんぴょん跳ねている。


あとで、ガルザが真顔で言った。


「陛下」


「何だ」


「先ほど、いちごを召し上がられるとき、お顔が緩んでおられました」


「気のせいだ」


「いえ、確かに」


「気のせいだ」


「……はっ」


* * *


それからも、日々は続いた。


赤ん坊の言葉は、少しずつ増えた。


といっても、まだ単語だけだ。「あー」「あーい」「こけ」「はっぱ」「いちご」。それから、何かをもらったときの「おいちい」。


そして、もう一つ。


ある朝、執務室の前で、赤ん坊が俺を見つけた。


「ままー!」


(……ん?)


「ままー!」


元気な声だった。まっすぐ、俺を見ている。


「……ふむ」


腕を組んで、少し考える。


「余の名を、呼んでいるな」


隣にいたモルナが、ぴくりと動いた。


「は……?」


「『まおー』と呼んでいる。そうであろう」


「陛下、恐れながら、おそらく違うのでは……」


「違わぬ」


「ですが、あの、『まま』と」


「違わぬ。『まおー』だ。余を呼んでいるのだ」


きっぱり言い切った。


後ろにいたガルザとヴァルドが、そっと目をそらした。


「ままー!」


「ほらな」


「…………」


「…………」


「……左様でございますか」


モルナが、悟りを開いたような顔でうなずいた。


(まだ「ま・お・う」と、ちゃんと言えないだけなんだよな)


(それでも、ちゃんと俺の名前を呼んでる。覚えるの早いな)


(さすが、うちの……農業大臣)


それから毎朝、「ままー!」と呼ばれるようになった。


そのたびに、俺は「うむ」と返す。ほんの少しだけ、気持ちが上向く。


それが、ちょっと怖い。


ある日の昼、会議のために、先に庭を離れることになった。


「大臣。余は、これから会議だ」


「あー」


「夕方には戻る」


赤ん坊は、土のついた手を、ぶんぶんと振った。


「ばいばい!」


(ばいばい、まで覚えたのか)


(……手、振ってる)


俺は、無意識に片手を上げて、ひらひらと小さく振り返していた。


…………しまった。


魔王が。手を。ひらひらと。


あたりを見回す。


全員が「何も見ていません」という顔をしている。全員の肩が小刻みに震えている。


「……何も、見ておらぬな」


「はっ、何も!」


声を揃えて返事された。


俺は咳払いをして、背を向けて歩き出す。


「ばいばい!」


後ろから、もう一度。


足が止まりかけた。


……振り返らなかった。


ただ、肩のあたりで、こっそり手を振った。



最初は、「農業大臣だから」という理由だったはずなのに。


成長を確認するのが、いつの間にか、楽しみになっている。


できることが増えるたびに、嬉しくなっている。


可愛いと思ってしまうのを、止められない。


そして、仕事が終わると、まっすぐ大臣の部屋に向かってしまう。


(……これは、あれだな)


(農業大臣の育成状況を、把握する必要があるから、だな)


そう自分に言い聞かせた。


言い聞かせている時点で、たぶん、もうアウトなのだが、気づかないことにした。


* * *


「陛下、お願いがございます」


ある日、ヴァルドが神妙な顔で執務室に来た。


「何だ」


「畑の拡張にともない、緑の魔獣と大臣の遊び場が、手狭になってきました。もう少し、日当たりのよい場所に、移せないものかと」


「ふむ」


俺は少し考えた。


畑は拡張したい。でも、土地は有限だ。


それに、赤ん坊が転んでも怪我をしないような、柔らかい地面がいい。日当たりがよくて、風通しがよくて、誰にも邪魔されなくて。


「……屋上はどうだ」


「屋上、でございますか」


「うむ。魔王城の屋上は、広い。日もよく当たる」


「確かに……しかし、土を運び上げるのは、骨が折れますぞ」


「それは、我が手伝う」


「陛下がですか!?」


「なんだ、何か問題か」


「いえ……」


ヴァルドは、目を見開いたまま、深々と一礼した。


その背中が、微妙に震えていた。


あとで聞いた話では、「魔王陛下は、城の頂にまで緑を広げ、魔界全土を見下ろそうとされている……!」と解釈されていたらしい。


そんな大層な話じゃない。


あの子が遊べる場所を、作りたかっただけだ。


……いや、違う。農業大臣の職場環境を整えたかっただけだ。


* * *


屋上の庭園が、ひとまず形になったのは、それから少し先のことだった。


魔王城の最上部。


鋭い尖塔に囲まれた平らな場所に、土を運び上げ、芝を張り、小さな畑を作った。


緑の魔獣たちが、そこら中を転がっている。


芝の上では、苔のかたまりが昼寝をしていた。


野いちごの苗は、畑の一角に並んで、赤い実をつけている。


その日の夕方。


俺は、成長した農業大臣を片腕に抱いて、屋上の端に立っていた。


眼下に、魔界が広がっている。


遠くまで、ずっと、茶色い大地。


ひび割れた荒れ地。枯れた森。崩れた村の跡。


まだまだ、荒れている。


勇者との戦いも、人間との争いも、何ひとつ終わっていない。


食料だって、まだ全然足りない。畑はようやく数枚、庭園はたった一つだ。


それでも。


眼下の荒れ地の中に、小さな緑が、ぽつりぽつりと見える。


魔王城のふもとの畑。


その向こうの、新しく耕した区画。


さらに遠くにも、ところどころ、淡い緑の点が灯っていた。


夕日の中で、それがぼんやり光って見える。


足元の芝生が、風に揺れた。


緑の魔獣たちが、跳ねたり、転がったりして、遊んでいる。


腕の中の、小さな温もり。


俺は、そっと目を細めた。


(……最初は、ただ死にたくなかっただけなんだけどな)


勇者に倒されたくなかった。


だから、メシを何とかしようと思った。


それだけだったはずなのに。


いつの間にか、この子と、この景色を、守りたくなっていた。


(死にたくないのは、今も変わらないけど)


(でも、それだけじゃなくなったな)


腕の中の農業大臣が、もぞもぞと動いて、俺を見上げた。


丸くて大きな目。


あの森で、初めて俺を見たときと同じ目だ。


俺は、威厳を込めて、ゆっくりと口を開いた。


「期待しているぞ。我が農業大臣」


赤ん坊は、じーっと俺を見て、それから。


「あーい」


はっきりと、そう返事をした。


「…………!」


(今)


(返事した!?)


(俺の言葉、理解してる!?)


(「期待しているぞ」に、「あーい」って!?)


(うちの子、天才ーーー!!)


心の中で、ありったけの花火が上がった。


でも、表情はぴくりとも動かさない。


威厳ある魔王として。


夕日を背にして。


静かに、うなずいた。


「……うむ」


ただ、それだけ。


沈んでいく太陽が、魔王城の屋上を、橙色に染めた。


そのとき。


赤ん坊の足元、あるいは、庭の片隅の、小さなひび割れから。


ぴょこん。


新しい芽が、顔を出した。


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