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魔導大陸年代記

雷光の境界戦

掲載日:2026/07/13

焼糧戦争より未来。帝国と魔導国は度々小競り合いを繰り返していた。

その未来の一つの紛争と、新たに生まれる英雄の英雄譚。

昔、帝国と大きな戦いがあった。魔導国が騎士団中心の古い軍制を改め始めたのも、その戦争の後だと言われている。


それでも国境から争いが消えたわけではない。魔導国と帝国は講和の後も互いを警戒し、小さな衝突を繰り返していた。そんな中、魔導国と帝国の緩衝地にある検問所で、商団が襲われる事件が起きる。報せから数日後、砦には落ち着かない空気が残っていた。


帝国が抗議してくることは分かっていた。商人保護の名目で圧力をかけてくることも、誰もが予想していた。だが、兵が国境を越えるとは、まだ誰も思っていなかった。


その発端は、数日前の検問所にあった。レーヴェンブルク魔法国とグランツ帝国の境には、地図の線だけでは扱いきれない土地がある。


緩衝地。


魔導国の旗が立つ砦と、帝国の商人が通る街道。その境に置かれた検問所は、どちらの言葉も通じ、どちらの貨幣も流れ、どちらの兵も目を光らせていた。


事件は、その砦の検問所で起きた。


帝国から来た商団が、冬越し用の魔道具部品と、治水用の小型機構を運び込んだ。魔導国の兵がそれを検分し、通行税の名目で足を止めた。


そこまでは、よくあることだった。


だが、その日は違った。


兵の一人が荷箱を開け、もう一人が荷車の縄をつかんだ。御者が抗議して手綱を離すまいとすると、剣が抜かれた。最初に倒れたのは、その御者だった。血のついた荷車を、魔導国の兵が奪い取った。それで、検問所は戦場になった。


ただの偶発にしては、帝国側の動きは早すぎた。商団が襲われ、御者が斬られ、荷車が奪われた。その報せを受けてから兵を集めたのでは、ここまで整った隊列にはならない。魔導国側の兵が何を思って剣を抜いたのかは、まだ分からない。だが、誰かがその兵を焚きつけたか、買ったか、少なくともそう疑うだけの手際だった。


エドガーがこの砦へ送られたのは、その少し前だった。緩衝地では、小競り合いが珍しくない。商人同士の揉め事、兵の小競り合い、通行税を巡る押し問答。だが、最近の帝国は妙に静かすぎる。そう言った王宮の上役が、最後にエドガーを見た。


気になるなら、お前が見てこい、と。


エドガーは、石壁に掛けられた古い戦況図を見ていた。風向き、街道、低地、石垣、井戸の位置。地図の上にあるものより、地図に載らないものの方が多い。


青緑の稀色の髪が、窓から入る光を細く返す。魔力量は多くない。だが、戦場の穴を見落とさない目と、必要な一点だけを撃つ精密さで王宮魔導師に選ばれた男だった。


稀色は、澄んだ強い魔力を宿す者の証とされる。魔力の質が高いほど髪の色素が薄くなり瞳に魔力の色が乗る。この国では、稀色であることが優秀な魔導師であることを示す。


中庭から、号令より半拍早い踏み込みの音が聞こえた。エドガーは戦況図から目を離し、窓の外の訓練場へ視線をやる。


「お、元気なのがいるな」


「ハロルドね。元気だよ。元気すぎて、たまに槍より先に本人が飛んでいきそうだけど」


背後で、篭手の金具が小さく鳴った。水の魔導師 アイリス・ウェイクフィールドが、魔石を埋め込んだ篭手を締め直しながら答える。


青い稀色の髪が、篭手の魔石の光を淡く返していた。準男爵家の娘。高位貴族たちはその家格を軽く見るが、出力だけなら砦の魔導師の中でも抜けている。


「槍より先に飛ぶなら、まだいい」


「よくないよ」


エドガーは地図から目を離さず、少しだけ笑った。


「目が先に飛んでいる。次に肩。最後に足だ。あの順番で敵を見る子は、初撃を外すと二歩目が遅れる」


「相変わらず、見てるところが嫌。まあ、新兵だからね。訓練して三か月なら上出来だよ」


「魔力量は悪くない。槍を杖にする判断も前線向きだ。新兵にしてはよく動けている。上出来なのは間違いない」


「なのに、その顔?」


「上出来な子ほど、最初の成功を自分の実力だと思う」


アイリスは篭手の留め具を締め直し、小さく息を吐いた。


「そこが怖いんだよね」


中庭では、赤い稀色の新兵が槍を構えていた。穂先に熱が集まり、空気が揺れる。ハロルドは防衛配置の確認中も、号令より少し早く踏み込みすぎる。


「威力はある。あれは前で暴れれば目立つ。士気もあがるだろう」


「でしょ。だから余計に怖い。目立つ子ほど、敵にも注目されるわけだし」


アイリスは淡々と言った。


エドガーはそこで、ようやく少しだけ彼女を見た。


「昔も君とこういう話をしたな。なんだか懐かしいな」


「なによ。昔の話でしょ?」


「そうだな。しかし、君は本当に立派になったな」


「なにそれ。喧嘩売ってる? ...ふふ、でも、確かに懐かしいかも。学園の卒業以来だもんね。お互い立派になったよ」


その時、門楼の鐘が鳴った。


一度。


続けて、二度。


中庭の空気が凍る。門楼の兵が叫んだ。


「帝国兵、国境を越えました! 街道を南下中!」


砦の中が一斉にざわめいた。武器を取り落とす音。走り出す兵。命令を待たずに門へ向かおうとする若い者。誰かが、帝国が本当に来たのか、と声を漏らした。


「騒がない!」


アイリスの声が中庭を抜いた。


「第一小隊、正門を閉じて砦前を固めて。第三小隊、倉庫と井戸を押さえて。第四小隊は住民の退路を確保。水兵は神殿通りへ回って、逃げ遅れを拾う。伝令、町へ避難誘導の確認」


第一、第三、第四の兵たちは、一瞬だけ互いの顔を見た。自分たちの小隊長がいない。誰に従えばいいのか、その迷いが足を止めていた。


砦の中隊長は、検問所事件の報告のため後方の司令部へ出ていた。これまでの小競り合いは、緩衝地での牽制に留まっている。先の戦争以来、魔導国側の領地へ帝国兵が踏み込んだことはなかった。今回も国境の向こうで圧をかけ、抗議の材料を積み上げるだけだろう。だから中隊長が席を外していても、各小隊長が残っていれば足りる。


その見込みが、ここで裏目に出た。


砦には四つの小隊、百五十ほどの兵が残っている。だが、それを一つの中隊として束ねる中隊長はいない。第一、第三、第四の小隊長もいなかった。いずれも家柄のよい軍属魔導師で、中隊長の報告に付き添い、後方司令部で説明役を務めている。説明役という名の、顔つなぎだった。


砦に残った小隊長は、第二小隊長のアイリスだけだった。


アイリスは魔石を埋め込んだ篭手を打ち鳴らし、もう一度短く告げる。


「動いて」


兵たちが走り出した。


アイリスは門の外へ目を向けた。


「第二小隊は私と門外へ。街道で相手の出方を見る。」


アイリスはエドガーを見る。


「エドガー、どうする?」


「君が前へ出る?」


「出る。第二小隊は私の子たちだよ。あの子たちを置いて、上から眺めていられない」


アイリスは篭手を鳴らした。


「それに、私だと他の隊の面倒を見きれないし」


エドガーは戦況図の端に指を置く。


「分かっている。第二小隊は君が連れていけ。第一、第三、第四の配置と、退くタイミングは私が決める」


アイリスが一瞬だけ目を細めた。


「大丈夫? あの子たち、あなたの顔も知らないよ」


「王宮魔導師は、こういう時のために偉そうな徽章を付けている。臨時の指揮権を証明するくらいには使えるさ。王宮では、困った時にだけ便利な印だ」


アイリスは少しだけ笑った。


「助かる。じゃあ、うちの子たちは私が連れていく」


砦の見張り台からは、街道を南下する隊列が見えた。盾兵。工兵。荷車。魔道具の補助を受けた魔装兵。戦うためだけの部隊ではない。踏み込んだ土地に陣を置き、そのまま居座るための装備だった。


アイリスは第二小隊とともに正門を出た。その列には、槍を握り直すハロルドの姿もあった。


砦前の平地を越え、町との間を通る中央街道へ向かう。見張り台からは近く見えた曲がりも、盾と槍を抱えて進めば遠い。畑跡と低い石垣の間を進むあいだ、伝令だけが砦と隊列を往復した。


見張り台にはエドガーが残った。町を中心に広がる帝国軍の列と、街道へ出た第二小隊を、戦況図の上に重ねるように見ている。


アイリスは第二小隊を止めた。


「配置につけ」


街道の先から帝国の先遣が三十ほど進み出る。盾兵が前に立ち、後ろに魔装兵が二人。旗はない。だが、盾の黒鉄に刻まれた双頭鷲の印は、ただの威力偵察ではないことを示していた。


アイリスは前へ出た。


「レーヴェンブルク魔導国、アイリス・ウェイクフィールドよ。ここは魔導国領よ。引き返しなさい」


帝国の先遣は止まらない。


「聞こえているでしょう。これ以上は越境行為として扱う」


盾兵が歩幅を詰めた。


「繰り返す。引き返しなさい」


帝国の盾が上がる。


先頭の三人が、揃って一歩踏み出した。次の一歩で、盾の縁が街道の中央に立つ魔導国兵の槍先を押しのける。


「前列、動かないで」


アイリスの声に、第二小隊は踏みとどまった。


帝国兵は返事をしない。ただ、盾を並べたまま歩幅を詰める。黒鉄の縁が近づき、槍を構えた兵の足元を石畳の端へ追いやった。押し返せば、こちらから手を出した形になる。


「……こいつら」


ハロルドが槍を上げる。


熱が穂先に集まった。目の前で仲間が押し込まれ、帝国兵の盾がさらに一歩迫る。


「待って!」


アイリスの声が鋭く飛んだ。だが、若い炎の魔導師は、止めるより先に前へ出ていた。アイリスが篭手を地面へ向ける。


「氷鎖」


薄い氷が石畳を走り、ハロルドの足首に絡む。


「え」


そのまま、ぐいと後ろへ引かれた。ハロルドが尻もちをつく。


帝国の先遣は、盾を構えたまま足を止めた。


「威嚇で十分。下がるよ」


アイリスはハロルドの肩を押さえた。


「でも」


「向こうは撃たせたかっただけ。これ以上は付き合わない」


ハロルドは歯を食いしばり、それでも一歩退いた。帝国の先遣もまた、盾を構えたまま後ろへ退いていく。魔法を撃たせた。それだけで、彼らには十分だった。


アイリスが低く息を吐く。彼女は手を上げた。第二小隊は前列から順に間合いを切り、来た道を砦へ戻る。背を向ける兵の後ろで、盾兵たちは追ってこなかった。


---


砦前の平地へ戻る頃には、正門の内側で第一小隊が盾を並べていた。アイリスは第二小隊を門内へ通し、最後にハロルドの背を押した。見張り台から降りてきたエドガーが、正門の脇で待っていた。


「撃たせに来た。返事はなし。盾で押して、こっちが手を出すのを待ってた」


「このまま鉾を合わせ続ければ、検問所の小競り合いでは済まない。戦争になる」


正門の外で足音が重なった。避難誘導に出ていた第四小隊が、町側の道から戻ってくる。肩を貸されて歩く老人の姿はもうない。兵たちの間には、避難を終えた後の張りつめた静けさだけが残っていた。


先頭の兵が門をくぐり、エドガーの前で敬礼する。


「第四小隊、帰還しました。住民の避難は完了しています」


「敵は」


「町を抜け、中央街道を砦へ進んでいます。先頭は盾兵。荷車と工兵は町の広場で隊列を整え、後続を送り出していました」


「町を通過して、砦を取る気か」


「はい。前衛だけでも、このままでは砦前まで来ます」


正門の外で、荷車の車輪が石を噛む音がした。町の方角からではない。砦の中で、第一小隊が盾を並べ直している音だった。


エドガーは第四小隊の兵へ視線を戻す。


「数は」


兵は息を整える暇もなく答えた。


「見えた限りで、歩兵二百。工兵五十。魔道具付きの盾兵が前列にいます。町の広場には荷車が残り、後続を街道へ送り出していました」


「指揮官は」


兵の喉が鳴った。


「おそらく、カイネル・オルドレンです。黒鉄の旗に、銀の爪痕の紋がありました。広場で工兵の列を止め、荷車の向きを変えさせていたのを見ました」


エドガーの目が細くなった。


「帝国評議会の軍需派閥に席を持つ、オルドレン家の嫡男だ。魔装具で距離を詰め、盾と工兵で拠点を押さえる戦い方を得意とする。道を開けて、後ろから隊列ごと押し込んでくる。最初からここが狙いか」


アイリスが小さく舌打ちした。


「最初から砦を取るつもりで来てるってことよね」


エドガーは、しばらく黒鉄の旗と町並みの境目を見ていた。町の方から、黒鉄の旗がまたひとつ、街道へ動いた。


「嫌な布陣を敷いてくれるな……町への被害を避けたい。撃ち込むのは難しいか。他になにかないか...?」


彼は地面に指を置いて、探査の魔法を唱える。


「リュミアよ、青水を満たし、ヴェリアよ、翠風を巡らせ、土に沈む水脈と道に残る息を照らす眼を欲す。俯探」


指先から探査が広がった。土の硬さ。地下水の流れ。石垣の割れ目。荷車の轍。人が踏み固めた道。


「南の低地は使えない。北の石垣も古い。この状況を覆せるものはなにもなさそうだ。受けるなら中央の街道しかないな」


エドガーは顔を上げた。


「伝令に伝えろ。第一小隊は正門を出て、中央街道の曲がりで盾列。第二小隊は右の石垣沿い。第三小隊は荷車道の出口を押さえろ。第四小隊は町側の脇道を見張れ」


第四小隊の兵が、まだ町の土を靴に付けたまま向きを変える。第二小隊も門内の壁際へ寄り、篭手を締め直すアイリスの後ろへ集まった。


「第一小隊が盾を並べるまで、第二は石垣から出るな。第三は荷車を一台でも通すな」


伝令が走り出す。


「町から後続を出させるな。中央街道で止める」


第一小隊が門外へ出る。その後ろを、エドガーも中央街道の曲がりへ向かった。


鎧と盾を抱えた兵が砦前の平地を横切る。荷車道へ散る第三小隊。町側の脇道へ急ぐ第四小隊。伝令は走りながら命令を繰り返した。


小競り合いで終わる段階は過ぎている。


このまま押し込ませれば、帝国は町を越え、砦へ届く。こちらが大きく撃てば、向こうには兵を増やし、戦を広げる理由ができる。町を焼かず、兵を積み上げず、それでも進軍だけは止めなければならない。


どう戦う。


エドガーは、街道の先に並ぶ黒鉄の列を見た。


中央街道の曲がりで、第一小隊が盾を並べ終えた。盾の底が石畳を削り、兵たちの肩がひとつずつ隣へ押し込まれていく。


右手の石垣沿いでは、第二小隊が身を低くした。アイリスは篭手を確かめ、ハロルドの槍先が列から出ていないことを一度だけ見た。


荷車道の出口から、伝令が腕を上げる。


「第三小隊、配置完了!」


少し遅れて、町側の脇道からも短い返事が飛んだ。


「第四小隊、見張りに入ります!」


町の方から、金具の触れ合う音が近づいてくる。帝国の盾兵が前に出た。盾の縁には見慣れない金具が並び、歩くたびに低い唸りを返している。


「盾兵が来ます」


副官の声。


「まずは牽制からだ、撃て」


エドガーの指示を待つことなく、ばらばらの魔法名が戦列に響いた。火球が盾の前で潰れた。風刃は縁を滑り、土槍は石畳ごと砕け散る。火の粉と土煙が晴れた後にも、黒鉄の列は一人も欠けていなかった。


盾兵たちは肩を寄せ、間を埋めたまま進む。正面には穴がない。エドガーは、盾ではなく、その後ろへ視線を送った。


どこを止めれば、この列は止まる。


「防がれた!? 第二小隊、前へ」


アイリスの小隊が帝国兵の前に飛び出す。その中で突出する赤。赤い稀色を持つ炎の魔導師が前へ出た。槍を握る腕に力が入り、肩まで固く上がっている。


「魔法を弾く盾でも、近づけば、抜ける!」


杖として使う槍をぎゅっと構え直す。


「アルデアよ、赤火を槍に。灼風槍!」


槍先から熱風が走る。盾の内側へ滑り込ませるには、熱を細く絞る必要がある。だが、ハロルドの槍先では赤い魔力が膨らみすぎていた。風は荒れ、熱は太くなる。


熱風は盾の縁を舐めた。薄い膜に触れた瞬間、裂かれ、左右へ逃がされる。


「っ、くそ!」


槍を持つ手が跳ね、ハロルドは一歩よろめいた。


その隙を、帝国側は見逃さなかった。盾兵の後ろから、魔装兵が飛び出す。脚部と腕部に組み込まれた魔道具が唸り、兵たちの動きを人の限界から押し上げていた。魔装兵は低く跳び、盾の隙間から走り抜けた。魔道具が生み出す純粋な推進力によって、魔導国の前列兵が、なぎ倒される。


「下がって、ハロルド」


アイリスがたまらず前へ出た。兵の列を割り、最前列へ出る。


「前列、左右に割れて伏せて。巻き込まれたくなければ、飛んで!」


アイリスが篭手へ魔力を叩き込み、力任せに大気と地中の水を引きずり出した。


「リュミアよ、蒼流を呼び、敵列の足を閉ざす白き滝を欲す。」


石畳の継ぎ目から、水が噴き上がった。


「氷瀑!」


水は前列を越えて扇状に広がり、魔装兵の膝まで絡みついた瞬間、白く凍った。


魔力を無理やり爆発させて放つ力技の魔法。繊細な魔力操作に行き着けなかった少女が磨き上げた力。

精密ではない。形も荒い。ただ、量が違った。魔装兵の足をまとめて氷漬けにし、突撃の速度を殺すための水の暴力だった。


だが、先頭の魔装兵は止まらない。対魔法のブーツが淡く光った。靴底から振動が走り、氷を砕く。水の魔法が足元でほどけ、先頭の一人だけがそのまま踏み抜いた。


帝国は、アイリスを知らないわけではなかった。彼女はこの砦に長く赴任し、帝国との小競り合いで何度も部隊を止めている。水と氷で足を奪う小隊長。偵察がそう報告していても、不思議はなかった。


「ブーツに対氷式……」


アイリスが言い切る前に、魔装兵の盾が彼女の腹を打った。細身の身体が激しく吹き飛ぶ。伏せっていたハロルドが息を呑む。


後方から見ていたエドガーが、顔を上げた。


「まずい」


アイリスが崩れた前線へ、エドガーは飛び込んだ。崩れた場所から、前線はさらに崩れる。


大きく押し返す術は間に合わない。


風を絞る。水を氷の粒にして擦る。二つを針穴ほどの道へ押し込み、魔力を一点に重ねる。保てるのは、瞬き一つだけだった。


「ヴェリアよ、風を絞れ。リュミアよ、水を凍て粒に。紫電」


指先の前で、空気が鋭く鳴った。


白い閃光の芯を、紫の放電が一本だけ走る。押し潰された魔力がほどける一瞬の圧力だけが、狙った場所へ突き抜けた。魔装兵の脚部魔道具が弾けた。膝の横に組み込まれていた補助具の留め具だけが砕け、先頭の兵が地面へ転がった。


狙い澄ました一撃。


エドガーは間合いを詰めながら、紫電を続けざまに放った。次の紫電は、二人目の腕部魔道具を撃ち抜いた。三人目は、背の蓄魔管を割られて動きを止めた。


「もう一発だ」


遅れて、盾兵の列にも閃光が走った。


盾を支えていた魔道具の留め具だけが弾け、前列の三人が膝をついた。

次の紫電は、前列の号令役が掲げた信号杖を砕いた。

その次は、伝令の馬の前足を掠め、馬だけを転ばせた。


人を殺すより、命令を止める。戦場の流れを切る。それが彼の戦い方だった。


---


短い間に撃ちすぎた。エドガーは一度だけ浅く息を吸い、乱れた魔力の流れを整えていると、乱れた盾兵の列の奥で、黒鉄の影が動いた。


次の瞬間、帝国の盾兵が一人、横へ吹き飛んだ。その兵は敵に倒されたのではない。背後から伸びた腕に襟を掴まれ、邪魔だと言わんばかりに投げ捨てられた。


「邪魔だ! ...ふん、稀色をちらつかせれば、兵がひざまずくと思ったか。魔導国の色硝子どもめ!」


黒鉄の鎧。


カイネル・オルドレンが前線に出た。魔道具の補助で脚力を強め、前線の兵をなぎ倒し始める。


エドガーは指を払った。


「リュミアよ、青水、刃と為せ。蒼流刃」


圧し固められた水が、低く街道を走る。石畳を薄く削りながら、オルドレンの膝を狙った。オルドレンは止まらない。篭手を前へ突き出す。


「赤火、我が前を裂く火を放て。火弾」


炎の玉が膨らみ、蒼流刃へぶつかった。白い蒸気が弾け、熱が街道を薙ぐ。形を乱された水の刃が黒い鎧に迫る。


「まだまだ!金礎、防げ。石壁」


オルドレンが踏み込んだ。脚部の魔道具が金色に光り、石畳へ踵を打ち鳴らす。砕けた石畳がせり上がり、彼の前に石の壁を作った。蒼流刃は壁で妨げられ、その向こうの鎧へは届かない。


「くっ、防ぐか。 ヴェリアよ、我が足を運べ。風駆」


足裏を風が押す。エドガーは石畳を滑るように右へ走り、土壁を回り込み、詠唱を重ねる。


「金礎、穿て。飛礫」


指先が石畳を弾く。壁を削られた石の礫が、石壁の側面からオルドレンへ飛んだ。篭手が横へ伸びる。石礫は一つずつ弾かれ、火花を散らして街道へ落ちた。


その一瞬だけ、兜の下が空く。いまだ!


「ヴェリアよ、翠風を巡らし、リュミアよ、青水を満たせ、砕けた氷を擦り、敵を穿つ雷を顕せ。紫電」


指先の前で、空気が鋭く鳴る。白い閃光がオルドレンの頭を狙う。


一筋。


オルドレンの兜が弾け飛んだ。


だが、倒れない。


血の筋が額を伝っても、男は笑った。脚部の魔道具が悲鳴のような音を立て、中央街道の石畳を砕く。


「その程度か、魔導国!!」


オルドレンは手にした剣を低く構えた。


次の瞬間、身体が跳んだ。人の跳躍ではない。魔道具で脚力を無理やり引き上げた、砲弾のような跳躍だった。


狙いはエドガー。


隙を突かれた。エドガーは動けなかった。これで取ったと思った。だがオルドレンは耐えてきた。


狙いすました一撃分の前借りの集中で、エドガーの反応が遅れる。その一呼吸が、戦場では長すぎた。


「させるかよ!」


横から赤い熱が爆ぜた。灼風が石畳を叩き、新兵が身体を前へ弾き出す。飛び込み、オルドレンの剣の勢いと対抗するように槍を横に払う。魔力は間に合わない。ただ、穂先ではなく柄を剣に合わせ、身体ごと押し込んだ。


「っ、重……!」


ハロルドが身体を呈して押し留めた剣の勢いはエドガーの肩を外れ、石畳を深く裂いた。槍の柄が跳ね上がり、肩から後ろへ吹き飛ばされた。石畳を転がり、息を詰まらせる。


吹き飛ばされていたアイリスが、石畳に片肘をついた。立ててはいない。腹を押さえ、息も乱れている。それでも、篭手だけは地面へ向けていた。


「よくやった、ハロルド……リュミアよ、残る水を凍て顎に。敵の足を噛み砕け。氷顎」


這いつくばるようにして、アイリスが篭手を叩きつける。さっき吹き出させた水が、割れた石畳の下でまだ残っていた。


氷が跳ね上がる。荒い氷の塊が上下から噛み合い、跳躍の勢いを失ったオルドレンの足首を挟み込んだ。


エドガーは息を吸った。肺の奥まで入らない。


氷が軋む。


その音だけが近かった。


砕けた石畳の欠片が、まだ落ちきらずに空を回っている。オルドレンの身体は片側へ傾き、黒鉄の鎧がわずかにずれた。篭手は届かない方へ残り、背の装具を覆っていた革紐が浮く。


背の蓄魔管が、鎧の下で脈打っていた。


あの黒鉄を着て、あれだけ跳べる。脚部の補助だけでは足りない。鎧全体に軽量化を掛け、背の管から魔力を回しているはずだ。


あれを抜けば、鎧は重さを取り戻す。


目の前にある鎧の継ぎ目と、傾いた背だけが、ひどく鮮明だった。


「紫電っ!」


収束しきれない本来の紫電の姿。オルドレンごと背に積まれた蓄魔管を貫いた。男の身体を抜けた瞬間、紫電の輝きが彼の体を穿つ。殺すための一撃ではない。


だが、身体を支えていた魔道具の補助と、無理に引き上げられた筋肉の動きが一瞬で途切れた。


一瞬だけ、戦場の色が変わる。黒鉄の盾も、濡れた石畳も、倒れた兵の槍先も、紫の光を帯びて光る。


男の身体が、ようやく地面へ落ちた。オルドレンは石畳に叩きつけられ、目を見開いたまま意識を失った。


帝国兵が足を止めた。だが、退かなかった。列の奥で盾が上がり、左右の兵が倒れたオルドレンを囲むように間合いを詰める。前へ押し出すための盾列ではない。黒鉄の鎧を回収するための壁となる。


エドガーは浅く息を吸った。紫の揺らぎを抑え込む。風を絞り、水を氷の粒にし、細く重ね直す。


「紫電」


今度は、白い光だった。


崩れかけた盾列の留め具。工兵の排水機構の軸。魔装兵の膝横に残った補助具。白い紫電が、ひとつずつ撃ち抜いた。兵を倒すのではない。武器と魔道具だけが沈黙していく。


帝国の前衛が、完全に止まった。魔導国側の兵も、一瞬だけ息を止めた。


また、細い光が走った。倒れたオルドレンへ伸びた腕が弾かれる。信号杖が砕ける。盾列の継ぎ目が裂ける。


目の前の帝国兵が、半歩退いた。


来る。


魔導国の若い兵は、そう思った。どこから来るのか分からない。誰を狙うのかも、光るまで分からない。あの光は光った瞬間、こちらの肩をかすめ、倒れた仲間の前を通り、敵の手だけを撃ち落としていく。


「……聖雷」


魔導国の兵の誰かが、息の底で呟いた。


子どもの頃、礼拝堂で聞いた歌があった。夜の戦で囲まれた聖徒の前に、一条の雷が落ちて道を開く。怖い歌だったはずなのに、いま思い出した声は震えていなかった。


別の兵が、血のついた槍を握り直した。


「違う」


その声が、少しだけ前へ出る。


雷光。


名が落ちた瞬間、戦列の空気が変わった。膝をついていた兵が顔を上げる。盾の裏で震えていた手が、もう一度革帯を握る。帝国兵が恐れて退いたその光を、魔導国の兵は追い風のように見た。


帝国軍は、なお盾を上げた。


だが、前へ出るたびに光が走った。倒れたオルドレンへ近づこうとした兵の篭手が弾け、盾列を立て直そうとした号令役の信号杖が砕ける。荷車の留め金が飛び、魔装兵の脚部補助具が沈黙し、伝令が掲げた小旗の柄だけが折れた。


殺されるなら、まだ叫べる。盾を重ね、怒号で押し返し、死体を踏んで進むこともできる。だが、あの細い光は、進むために必要なものだけを奪っていく。誰かが命令しようとすれば杖が砕け、誰かが運ぼうとすれば金具が外れ、誰かが走ろうとすれば膝の補助具が火花を散らした。


帝国の前衛は、少しずつ戦列ではなくなっていった。盾はある。兵もいる。だが、押し出す号令が続かない。魔装兵は走れず、工兵は荷車を動かせず、オルドレンの黒鎧は濡れた石畳の上に沈んだままだった。


やがて帝国兵の盾が、前へではなく、後ろへ向いた。倒れた者を隠し、壊れた装具を抱え、黒鉄の鎧へ近づく道を諦めるように、列が少しずつ下がっていく。


まもなく帝国軍の進軍は止まった。


砦の背後から、ようやく中隊長の一行が戻ってきた。後方司令部へ説明に出ていた男は、街道に散った壊れた盾、止まった荷車、濡れた石畳の上で動けずにいる黒鉄の鎧を見て、しばらく言葉を失った。


中隊長はすぐに使者を立てた。夕刻、双方の使者が街道の中央に出た。


魔導国側は、略奪を行った兵の引き渡しを認めた。帝国側は、商人保護の名目を満たしたとして進軍を止めた。


黒鉄の鎧と壊れた装具を抱え、帝国軍は国境の向こうへ退いていく。


エドガーが撃ち抜いたのは、敵将と進軍を支える兵、そして魔道具だった。町の屋根に火は上がらず、国境の火種もそこで消えた。


それが、後に雷光の魔導伯と呼ばれる男の戦功だった。そして、雷光の名は彼より先に、緩衝地の兵たちの間で語られるようになった。


兵たちは後に、この戦いを雷光の境界戦と呼ぶようになる。


---


騒動が収まると、砦にいた者たちは王都へ呼ばれた。


帝国との境界で何が起きたのか。なぜ商団が襲われ、なぜ帝国兵が国境を越え、なぜ戦争にならずに済んだのか。中隊長、各小隊長、王宮から派遣されていたエドガー・レインフォードには、それぞれ説明が求められた。


中隊長は先の馬車に乗っていた。停戦の書面、引き渡す兵の名、帝国側との確認事項を抱え、王都へ戻ってからの手順を一つずつ確かめている。


その後ろの馬車では、第一小隊長が膝の上で手袋を外したり、はめ直したりしていた。第三小隊長は窓の外を見ている。第四小隊長だけが、報告書の下書きを何度も読み返していた。


「……到着した時には、ほとんど終わっていた」


第一小隊長が言った。


「我々は中隊長に随行していたのだ。防衛に回れなかったといって咎められることはないはずだ」


第三小隊長が鼻を鳴らす。


「だが、砦にはいなかった」


第一小隊長は舌打ちを飲み込んだ。


「女一人が残って、王宮魔導師と一緒に持ちこたえた。そう見える」


「見えるのではなく、いたんです」


第四小隊長が言ってしまい、すぐに口を閉じた。


車輪が石を噛む音だけが続いた。


やがて第三小隊長が、低く言った。


「全小隊、帰還後ただちに配置へ復帰。中隊長の判断により停戦交渉へ移行」


第四小隊長は、羽根ペンを握り直す。


「第二小隊の初動は」


「前線維持に寄与」


「王宮魔導師は」


「支援魔法により敵魔道具を破損」


第一小隊長が、ようやく手袋をはめた。


「雷光は」


誰もすぐには答えなかった。馬車の中で、紙の端だけが小さく震えていた。


第三小隊長が、窓の外を見たまま言った。


「兵の噂だ」


第一小隊長が、背もたれに身体を預ける。


「砦に残っていた者ほど、話を大きくしたがるものだからな」


第四小隊長が、恐る恐る紙を見下ろす。


「……それでも、陛下の御前で読み上げられれば」


「読み上げる者にも、耳打ちする者にも、序列はある」


第一小隊長が、ようやく笑った。


「成果を過大に報告されてはたまらん。なあに、王宮には話の分かる方がいる」


馬車の中で、羽根ペンの先が小さく鳴った。


第四小隊長は、何も言い返さなかった。


----


王都の外門で、中隊長は先頭の馬車を降りた。


待っていた王宮軍務局の監察官へ、停戦の書面を渡してから言う。


「一つ、頼みがあります。小隊長たちだけで話を済ませないでください」


監察官は書面から目を上げた。


「砦にいた兵、伝令、衛生係、町から逃げてきた者にも。順に聞いていただきたい」


「分かりました」


監察官は書面を閉じた。


「陛下のお言葉です。まず、その場にいた者から聞けと」


中隊長は、短く頭を下げた。


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後日、王宮で戦果報告が行われた。


広間の端には、第一小隊長と第三小隊長の姿もあった。二人は互いに視線を交わさない。ただ、軍務の文官が書類を開く直前、同じ人物へ一瞬だけ目を向けた。


王宮軍務局の高官が、玉座の脇に控えている。高官は何も言わなかった。だが、文官が読み上げる書類の束には、赤い封蝋の跡がひとつ増えていた。


軍務の文官が、広間の中央で書類を開いた。読み上げる前に、彼は玉座へ深く頭を垂れた。


「畏れ多くも、魔導王陛下の御前にて申し上げます。王宮魔導師エドガー・レインフォード。緩衝地検問所事件において、帝国軍魔装兵の突入を阻止。帝国評議会軍需派閥に連なる指揮官カイネル・オルドレンの指揮能力を殺傷なく奪いました」


広間の端で、第一小隊長の眉がわずかに動いた。


文官は、一度だけ書類を持ち直す。


「また、盾兵および工兵の魔道具を精密に破壊し、町への被害を抑え、帝国軍の進軍停止と政治交渉への移行に寄与した功、まことに顕著でございます」


第三小隊長が、息を止めた。


赤い封蝋の跡がある書類は、まだ文官の手元に残っている。読まれるはずだった別の言葉が、そこで薄く沈黙していた。


第一小隊長の指が、膝の上で一度だけ握られた。赤い封蝋へ伸びかけた視線を、彼は文官の口元へ戻す。第三小隊長が、小さく舌打ちを飲み込んだ。


文官は続ける。


「よって、魔導王陛下の御名と御裁可により、エドガー・レインフォードに勲章名拝領の栄誉を許されます」


広間が、わずかにざわめいた。勲章名は、魔導王が功績を名として刻むものだ。古い魔導貴族でなくとも、それを受けた者は、以後その名を正式名に加えることを許される。


魔導王は、玉座からエドガーを見下ろした。


「レインフォード」


広間のざわめきが引く。


「お前は、国境を越えた帝国の将校を退けた。前衛の足を止め、町へ火を渡さず、帝国に退く理由を与えた」


王は、文官の捧げ持つ証書へ視線を落とす。


「戦場で得た勝ちを、戦争にはしなかった」


その声は広間の隅まで届いた。


「その功に、王の名のもと勲章名を授ける。ルーセントアーク」


文官が証書を開き、書記が新たな名を筆でなぞった。


ルーセントアーク。


国境の石畳を走り、戦の火を街へ渡さなかった、細い光の弧。



文官はさらに続けた。


「あわせて、一代限りの魔導伯位、ならびに河口近くの開拓領を拝領する栄に浴します」


第一小隊長の指から、ようやく力が抜けた。第三小隊長は玉座の脇に控える軍務局の高官へ、一度だけ視線をやった。高官は表情を変えず、褒賞書の次の頁をめくる。


その名を聞いて、広間の端にいた古い魔導貴族の何人かが、ほんのわずかに目を伏せた。


河口に近い。海運には向く。

雨季になれば、水が道を呑み、畑と家を押し流す。


戦を止めた者の名に添えるには、あまりに手のかかる土地だった。


文官の背後で、軍務局の高官が宰相へ目を向ける。魔導王の指が、玉座の肘掛けを一度だけ叩いた。


「領地まで与えるのか」


広間の空気が止まった。


「その裁可は、余の耳に入っていないが」


宰相が一歩、玉座の前へ出る。


「一代限りの開拓領にございます。河口の地は海運も見込めましょう。此度の功に報いるには、相応かと」


「勲章名だけでは足りぬと」


「国境で戦を退けた者です。ここで褒賞を渋れば、兵の耳にも届きましょう」


魔導王は宰相を見た。しばらくして、肘掛けをもう一度叩く。


「詳細を持て。領地の件は、その後に見る。儀は進める」


文官が、改めて証書を掲げた。


「魔導王陛下の御裁可により、エドガー・レインフォードを一代魔導伯に列し、勲章名ルーセントアークを正式名に加えることを許されます」


玉座の脇に控えていた侍従が、一歩前に出た。


「レインフォード。証書を受け、控えの間へ」


エドガーは爵位と勲章名を示す証書を受け取り、深く礼をした。




その授与の場には、魔導公アンブローズ・ヴァイオラント・ヴェイルゲイル・アッシュボーンもいた。


帝国の侵略を幾度も退けた老将は、長い髭を撫でながら、戦況図に残された細い紫電の軌跡を眺めていた。


「次代も順調に育っているな。よきことよ」


軍務関係の文官が、書類を抱えたまま姿勢を正す。


「レインフォード卿の戦果は、魔導王陛下におかれましても高くお認めでございます」


「フン、古い家の若造どもは、宮廷の廊下ではよく吠える。だが、泥と血の匂いがする場所には出てこん。そのくせ、書面を整えるのだけは達者なのだな」


アンブローズは、戦況図から目を離さない。


「この褒賞書に手を入れた者の名は、後で聞く」


文官は答えなかった。


老いた指が、国境の手前で止まった帝国軍をなぞる。


「だが、あの若者は前へ出た。将校を止め、兵の足を止め、町へ火を渡さずに帝国へ引く口実まで渡した」


指先が、細い紫電の筋へ戻る。


「そういう者が、ここにいる」


アンブローズは、わずかに口元を緩めた。


「なら、出てきた者を押し上げるしかあるまい」


「そろそろ、儂も引退できそうだな」


文官は苦笑いした。


「閣下がその言葉を本気でおっしゃったことは、一度もございません」


アンブローズは、少しだけ目を閉じた。


「……そうだな。カカカ、よく分かっておる」


---


式の後、エドガーが広間を出ると、廊下の柱にもたれる人影があった。


アイリスだった。


淡い水色の略式ドレスを着ている。正装できない怪我人が王宮へ呼ばれた時に許される、装飾の少ない礼装だった。腹に巻かれた布は隠しきれず、細い杖へ預けた肩にも、まだ力が入っている。


けれど、エドガーと目が合うと、アイリスは先に口元を緩めた。


「あーあ」


アイリスは笑った。


「先を越されちゃった」


「怪我人は寝ているものだと思っていた」


「ハロルドはここには入れないから寝ているけどね。叙爵の瞬間を見逃したら、あとでからかえないでしょ」


エドガーは証書から顔を上げる。


「からかうために来たのか」


「半分。もう半分は、おめでとうを言いに。私は一応、あの作戦の小隊長だから。別室で報奨は受けたし、ここで待つくらいは許されたの」


エドガーは証書を見下ろす。


「僕だけでは、届かなかった」


アイリスが、少しだけ眉を上げる。


「君が前線を踏みとどまらせて、ハロルドがあの剣を止めた。二人がいなければ、紫電を撃つ間はなかった」


「最後にオルドレンを止めたのは、あなたでしょ」


「それでも。二人のおかげだよ」


アイリスは一瞬だけ視線を逸らした。


「……そういうことを、急に言うんだ」


アイリスは一度だけ唇を結んだ。すぐに、いつものように片方の眉を上げる。


「おめでとう、レインフォード魔導伯」


それから片目をつむる。


「それでこそ、私のライバルだね」


言い終えた瞬間、杖をつく手に力が入った。


「痛っ」


エドガーは短く息を吐いた。


「お互い本当に無事でよかったよ」


「あなたはね。私は怪我してるんだけど?」


「分かってる。それでも、来てくれてよかった」


アイリスは、杖の先で床を一度だけ鳴らした。


「そ。なら素直に受け取ってとくわ。...ありがと」


高窓から差す夕方の光が、エドガーの証書と、アイリスの淡い水色の袖を同じ色に照らしていた。


---


後世、王宮の軍務局は、この一日を「緩衝地検問所事件」と呼んだ。


帝国は商人保護のための進出とし、魔導国は越境部隊の撤収とした。書面には、停戦の条件と引き渡された兵の名が並んだ。


だが、砦にいた兵と国境の町の者は、別の名で語った。


雷光の境界戦。


国境を越えた軍が、町へ火を渡せずに退いた日。

その日から、緩衝地の夜道で紫の光を見たという話は、雷光の魔導伯の名とともに広がっていった。


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