(2) 始まりは死
俺は見上げていた。
いや、今や瓦礫と泥にまみれてしまった教会の固く冷たい床の上で、天井を向いたまま倒れていただけだ。いつの間にか降り出したどしゃ降りの雨が、ぽっかりと空いた教会の天井穴から容赦無く降り注ぐ。
鉄臭い臭いと液体が口の中から溢れ、数回咽せて咳をしたが、もうその力さえ残ってはいない。
腹部にひどい衝撃を受けたことまでははっきりと覚えているが、腹部の状態を確認することなど今の俺には到底できそうになかった。ただ、ぬるりとした嫌な触感を、地面を背にして倒れた直後に触れた指先で感じていた。
痛みは無かった。
視界の端っこに、傾いた十字架が僅かに見えた。
そして、黒く曇った空が何かを嘆き悲しんでいるんじゃいかと俺は思った。
遠くなる意識の中、僕は今朝叔父の幸太郎からかかってきた電話をふと思い出していた。
『快斗、元気か?』
俺をこっちに呼び寄せた叔父の声が、携帯の電話越しに聞こえる。
「うん、元気だってば。叔父さんてば、それ毎日訊いてる・・・」
入寮が決まった日から、叔父はこうして毎日欠かさず自らが買い与えたこの携帯に電話を入れてきていた。叔父はひどく心配性のようだ。
『しかしだな、昨日と今日じゃまた状況が違うじゃないか。君を弟から預かってるんだ。イギリスでは保護者として当然のだな・・・』
叔父の耳タコな説明が始まり、俺は腕時計をちらと見やった。
「あのさ、叔父さん。そろそろ寮を出ないと、授業に遅刻する羽目になるかも」
時計の長針はとっくにいつもの数字を通り越していた。今すぐ走って向かわなければ最悪の状況になり兼ねない。化学のアップルヤード先生は、遅刻には厳しい。たった一度の遅刻で、ずっと彼の実験の準備と片付けの手伝いをさせられる羽目にはなりたくはなかったのだ。
『ああ・・・、そうか、忙しい時間に悪かったね・・・』
叔父の戸惑った声に、俺は「じゃあね」と言って携帯の通話ボタンを押しかけた。
『ああ、だが快斗、一つだけ言わせてくれ』
俺は自室の扉のノブに手を掛けながら、首を傾げた。
『最近、何か変わったことはないか?』
「いや・・・、特に無いけど・・・?」
いつもとは様子の違った叔父の言葉に俺は少し違和感を覚えていた。
『そうか、ならいいんだ。もし、何かおかしなことが起きたとしても、決して近付くんじゃないぞ。
危険だと思ったらすぐにその場を離れなさい』
一体何を意図して言ったことなのかは全く俺には理解できなかったが、とりあえず叔父を安心させる為に俺は「わかった」と返答して通話を切ったのだった。
叔父はひょっとして何か知っているのかもしれない・・・。ふとそんなことが俺の頭を過ぎった。
いよいよ視界が霞み始めた。
見上げていた真っ黒な空の真ん中に、しっとりと濡れた見覚えのある男の顔が現れた。
立ったまま俺を見下ろすそいつは、なぜか腑に落ちないという表情でこう言った。
「なぜ僕を庇った」
庇っただって? 俺だって一体どうしてこんなことになってしまったのかわからない。逆に訊きたい位だ。叔父の言うように、何かおかしなことが起きても、近付かなければ良かったのだろうか。いや、きっとこれは避けては通ることのできなかったことに違いない・・・。
「知らねぇよ、気付いたら身体が勝手に動いてたんだよ・・・」
俺は掠れた声でなんとかそう答えた。
見下ろしたままのラディスラス・ヴァレンタインは、冷たい声で言い放った。彼の瞳は暗がりのせいか紅く染まっているようにも見える。
「内臓が飛び出している・・・。お前はもうすぐ死ぬ」
とんでもないことを口にしたクラスメイトに、俺は思わずくすりと笑いを溢した。
(は・・・、こんな外国の田舎の地でグロい死に方するとはな・・・。母さん悲しむかな・・・)
ただ、もうすぐ死ぬんだろうなということはすんなりと理解できた。
けれど、十七歳という若さで人生に幕を下ろすことと、見知らぬ地で息絶えること、そして横浜にいる両親に別れを言えなかったことだけが只々悔やまれる。
「僕の僕になれ」
朦朧とする意識の中で、奴が何かとんでもないことを言ったような気がしたが、俺はもうそんなことはどうでも良くなっていた。
ただ、今は眠りたい。俺は目を閉じた。
「おい、返事を聞く前に死ぬな、カイト・オオミ」
今度はすぐ耳の傍で奴の声を聞いた。
「もう一度質問する。僕の僕になるか?」
眠くてもうどうでも良かった。早く静かにして欲しくて、俺は取り敢えず小さく頷いた。まさか、あんなことになるとは知らずに・・・。
「契約成立だ、カイト・オオミ。お前は今から僕のものだ」
最期の力でなんとか目を開いたそのすぐ前に、赤く光を放つ奴の眼と、そして青白く美しい顔が不敵な笑みを浮かべて俺を見つめていた。それを最期に、俺の意識は遠のいていった・・・。
イギリスのパースシャー州の北端、片田舎の森の奥に、快斗の留学先であるリディストン校は存在する。
この辺りに住んでいた大貴族から買い取った古城を校舎として使用しているこのリディストンは、由緒正しくそして古めかしい風習の残る学校だ。
大見快斗はそんなところへやってきた、世間知らずのただの日本人だった。
そして、あの日、トイレで出会ったクラスメイトのあいつ。ラディスラス・ヴァレンタインは、このリディストン校の理事長をつとめる人の近しい親戚にあたるそうだ。なんでも、由緒ある貴族の血筋だそうで、誰とも馴れ合わないのが奴の主義。唯一行動を共にしているのが、ケイティー・マクレーンとレイモンド・ウォレスの二人で、二人の家も古くからヴァレンタイン家に仕えてきている家の出身だと密かに噂になっていた。
兎も角、快斗はあの日以来、ラディスラス・ヴァレンタインのことを考えただけでむかっ腹を立てていた。
しかし、それは放課後に起こった。
リディストンの素晴らしいところは、空気が澄んで綺麗なところと、そしてこの素晴らしい自然だ。
快斗はこの堪らない陽気に、思わずオレンジジュースの紙パックを片手に中庭のベンチで暢気にうとうとしていた。
「お前には緊張感というものがまるで無いな」
突然降ってきたぶっきら棒な声に、快斗はびくっと小柄な身体をこれ以上ない程に揺らして数センチベンチから飛び上がった。
まだ夢心地の視界に入ってきたのは、あの人を見下したような顔つきのラディスラス・ヴァレンタインだ。
「ふふ」
そのすぐ傍から、可愛らしい声が湧いてきたかと思えば、リディストンのマドンナ、ケイティーの姿がそこにあった。
そのケイティーが自分の口元を指差して何か合図している。
慌てて口元を空いた手の甲で拭えば、ねっとりとした涎の痕。
顔から発火しそうな程赤面して、快斗の頭から一気に眠気が吹っ飛んだ。
「な、何か用?」
あのトイレでの一件を根に持っていることもあり、次にすれ違ったときに厭味の一つでも言ってやらなくてはと思っていたのに、反して突然の出現に、快斗の計画はすっかり狂わされてしまっていた。
「お昼寝の邪魔してごめんなさいね、カイト。今、いいかしら?」
憧れの女の子に恥ずかしい場面を見られてしまったことに、すっかり動揺していた快斗は、こくこくと頷いて先程の失敗を頭から葬り去りたい一心だった。
「この前のトイレのことなんだけど、ラディがすごくひどい態度を取ったみたいで・・・。謝りに来たの」
申し訳無さそうなケイティーの隣で、むすっと不機嫌な表情のラディスラスが面倒くさそうに溜息をついている。
「なぜ僕がこんな奴に謝罪しなければならない」
やっぱりどうも好きにはなれそうにないこの男の態度に、快斗は口元をひくつかせた。
「ラディ」
静かで可憐なケイティーの声に諌められ、ラディスラスはぷいっとそっぽを向いてすたすたと立ち去っていってしまう。
「ちょっと、ラディ!?」
「いいよいいよ、俺は全然気にしてないし」
慌てたケイティーの声に、快斗は苦笑いしながら止めに入った。これ以上彼の機嫌を損ねて後始末に追われる彼女が不憫に思えたからだ。だが、決して彼に憤りを覚えていない訳では無かったが。
「ほんとごめんね。彼の代わりに謝わらせてくれないかしら。
彼、ここのところ体調が優れなくて・・・。この前のトイレで酷い態度だったのはそのせいなの」
ケイティーの意外な話に、快斗は持っていたオレンジジュースのパックをベンチの上にそっと置いた。
「ヴァレンタインの奴、病気なのか?」
そう訊ねた快斗に、ケイティーはちょっと困った表情を浮かべて微笑んだ。あまりの可憐さに心臓が飛び出しそうになるのをなんとか堪えて、冷静を装ってもう一度彼女の瞳を見つめる。
「そうね、病気みたいなものかもしれないわね・・・。」
確かに、あの日、彼の顔色がひどく悪かったのは覚えている。あれは持病の発作か何かを起こしていたのか・・・。
「でもね、これは個人的なお願いなんだけど・・・、その・・・。ラディの病気のことは誰にも話さないでいて欲しいなって」
どうやらあまり公にはして欲しくないケイティ様子に、何か事情があることを悟った快斗は、個性豊かな友人達には話さずに、そっと心の中に留めておこうと決めたのだった。
「いいよ、わかった。秘密にしておくよ。何か事情があるんだろ?」
こくりと頷くと、ケイティーはそっと俺の耳元で耳打ちした。
『もし秘密がばれたら、彼、君を殺しかねないわ』
真っ青になって固まってしまった日本青年の姿を見て、ケイティーがぷっと笑いを吹き出した。
「カイトったら、冗談よ? 君って本当に純情なのね」
小さくウィンクすると、ケイティーはふふっと笑いながら手を振った。
「じゃあね、カイト。楽しかったわ。またお話しましょうね」
ふわりと春風のように走り去る彼女の背を目で追い、ほんの他愛の無い話にも関わらず、まるで夢の一時だったと思わず口元を緩めてしまう。ラディスラス・ヴァレンタインの一件さえ無ければの話だが。
「やっと追いついた」
ケイティーが相変わらず不機嫌なラディスラスに声を掛けた。
「あいつに余計なことを言ってはいないだろうな」
ちっとも怯んだ様子も無く、ケイティーは早足で歩を進めるラディスラスに返す。
「いいえ。ちょっぴり貴方の体調が優れないって言っただけよ」
明らかに気に障った様子で、ラディスラスは僅かに目を細めた。
「あいつに関わるな。人間と関わるとロクなことが無い」
肩を竦め、ケイティーは小走りで彼の後を追う。
「そうかしら。ラディだってまんざらでもないかと思ったけど。
彼に珍しく興味持ってるみたいだったから」
ふんっと鼻で笑うと、
「僕が?」
ラディスラスは周囲を警戒したように見回すと、声を落として言った。近くに誰の気配も無いことを確認したのだ。
「それより、まずいことになった。血清の効果が切れかかっている」
えっと目を丸くし、ケイティーはラディスラスに振り返った。
「でも、まだ一週間しか経ってないわよ?」
「僕もまさかとは思ったが、切れる前の兆候が出始めている・・・。見てくれ」
ラディスラスが服の袖を捲ると、わずかに赤くなった皮膚が見られた。
「授業中に窓から差し込んだ日差しを手に浴びた。そしたらこうなった」
ケイティーとレイモンドが血清を注射したのは、ラディスラスの二日前にあたる。けれど、その効果は
いまだ持続している。けれど、その効果が確実に短くなってきていることは確かであった。
「今の血清の効果じゃ、もうラディには十分じゃなくなってきているんだわ・・・」
ケイティーは赤くなったラディスラスの腕を見つめながら、ぽそりと溢した。
「けれど、これは僕だけの問題でも無い。つまり、血清自体の純度が落ちてきているんだ。以前は一度の接種で数年効果は持続していた」
ケイティーは小さく頷いた。
「レイから連絡は?」
ラディスラスは上等な上着の胸ポケットの中から、折り畳まれた手紙を静かに取り出した。
「今朝届いた。レイモンドの奴、ロンドンの郊外で貴族院の遣いと落ち合うことに成功したらしい」
手紙を受け取ったケイティーは、そっと手紙を開くと、レイモンド直筆であろう美しい文面に目を通していった。
『昨晩、貴族院の出した遣いとロンドン郊外の酒場で落ち合うことに成功した。
血清を持って来るよう依頼していたが、残念ながら彼はそれを持ってはいなかった。今、数百年前に培養した血清がまさに底をつきかけているそうだ。血清を作り出すには、また新たな”特別な血”を探し出す他に方法が無いとのこと。貴族院は今、世界中を駆け巡り、片っ端から”特別な血”を探しあさっていると彼は話していた。どうやらしばらくは、血清無しでここを乗り切るしかなさそうだ。
おそらく気付かれてはいないとは思うが、万が一奴らにつけられていることを仮定して、俺はわざと遠回りして別ルートでそちらへ戻る。少し予定よりも戻るのが遅くなるかもしれないが、心配しないようケイティーにも伝えておいてくれ。
君の友 レイモンド・ウォレス』
ケイティーは深く息をついた。
レイモンドからの手紙は、とても深刻な内容のものであった。人間に紛れることで敵から身を隠す暮らしをしてきた三人にとって、血清が手に入らないというのは、絶対的な痛手である。
「貴族院が”特別な血”を探し回っているですって? 数百年に一人しか現れないたった一人の人間を? その人間がこの広い世界のどこに住んでいるのかもわからない、大人なのか子どもなのか、そして男なのか女なのかもわからないのに・・・? しかも、その人間が今この時代に存在するのかもわからないじゃない。いくら探したってきっと見つかりっこ無いわ! それならいっそ、全面戦争に備えるべきじゃないのかしら!」
すっかり貴族院に不信感を抱いてしまっているケイティーに、ラディスラスは諌める。
「まだその時じゃない」
「けど、ラディ! このままじゃ、奴らに今の居場所さえも嗅ぎ付けられてしまうのは時間の問題よ? 奴らは今か今とあなたの首を狙っているに違い無いのにっ」
ラディスラスは、服の袖を下ろすと、傾きかけている太陽を見つめた。
「兎も角、今はレイモンドの帰りを待つしかない。今の状態じゃこの太陽の光でさえ負担だ・・・。
僕はしばらく教会の地下へ身を隠すよ」
手紙をラディスラスに返すと、ケイティーは頷いた。
確かに、彼の血清の効果が完全に切れてしまうのはもう時間の問題と言えた。
「ええ・・・」
不安そうなケイティーの声が小さく風に消えた。
快斗は腕時計を見下ろして溜息をついた。
(テッドの奴、また遅刻か・・・? 自分が言い出したくせに)
アメリカ出身の彼の時間にルーズな面はいつものこと。快斗は湿っぽい空気に思わず深夜の空を見上げる。
(まずいな、もうちょっとしたら一雨くるかな・・・)
雨雲が空を覆っていて、星が一つも見当たらない。
「・・・ったく、こんな日に呼び出すなんて。・・・って、テッドらしいか」
言い出したら聞かないところは快斗自身よく知っている。そもそも、こんな片田舎で、寮を深夜に抜け出して何をしようというのか。どちらにしろ、せいぜい丘の上でテッドがどこかしらでくすねてきたビール片手に彼の男女の云々を一晩中聞き明かすことにはなりそうだ。
とはいえ、一向に来る気配の無いテッドに、快斗はとりあえず近くにある木にもたれかかって気長に待つことにした。彼が来るのが先か、雨が降るのが先か・・・。
何もない田舎の風景だが、快斗はこの田舎の風景を気に入っていた。普段の月明かりの綺麗な晩ならば尚更良かったのだが、生憎の天気で、今日は持ってきた携帯の明かり以外に周囲を照らす手助けをする物が何も無かった。
ふいに近くの茂みから土の踏み締める音が僅かに聞こえた。
「テッドか?」
振り向いたとき、暗闇の中でぎらりと赤い何かが光った。
「テッド・・・?」
明らかに彼の気配では無い。何か不気味な、背中がぞくりと粟立つような嫌な感じがした。
本能的に、なぜかすぐそこから逃げなければならないような気がした。
『そうか、ならいいんだ。もし、何かおかしなことが起きたとしても、決して近付くんじゃないぞ。
危険だと思ったらすぐにその場を離れなさい』
叔父の今朝方の叔父のセリフが頭を木霊する。
快斗はなるたけそれを刺激しないように、そっと後ずさるようにして立ち上がった。
闇の中で光る二つの赤い光は、じっと快斗の動きを追っている。
(目だ・・・! なんだ、狼か・・・? 熊か・・・? ってか、こんなとこにそんなもんがいるのか・・・?!)
そもそも赤い目の獣なんて聞いたことが無い、なんて思いながら快斗は一歩、一歩とそれからゆっくり後ずさる。
「おい、マーロウ。ここいらでそろそろ食事にしねぇか」
唸るような低い声に、快斗はびくりと身体を揺らした。
獣と思っていたその目の主が突然言葉を発したのだ。
「ちょうど美味しそうなのがいるじゃないの。アタシ、喉渇いちゃって」
その後ろから、音も無くもう一つの何かが現れ、同じような赤く光る目で快斗を見つめている。
(な、なんなんだ・・・!? こいつら、一体・・・)
きっと、今すぐ全速力で逃げなければならない。快斗は直感でそう感じ取った。
快斗はこれまで嘗て無い程の速さで丘を駆け下りた。赤い目達が動き出すよりも先に、決して後ろを振り返ることなく。
「あら、逃げてくわ」
離れゆく丘の上から、暢気そうな男の声が響いた。
快斗は恐怖を抑え込み、今はとにかく走りに走った。これ程まで本気で走ったことがない程に。
ここから一番近くて人がいそうな場所といえば、森の外れに位置する古びた教会だった。
汗身体中から噴出すのを感じたが、そんなことはもうどうでもよかった。快斗は兎に角走りに走った。
しばらく走って、ここまで走れが正直もう追っては来ていないだろうという気持ちがどこかにあっただろう。ふと足を緩めようとしたその瞬間、
「逃げてみな」
あれほど引き離した筈の声が、快斗のすぐ頭上から降ってくる。それは、音も気配も無く、それは息一つ乱すことも無く。
「人間にしては、いい走りっぷりしてるじゃない」
まるでゲームを楽しんでいるかのように、もう一つの声がの脇から突然現れた。
(くそっ、教会はまだ着かないのかよ・・・!)
きっと、この赤い目達は、今すぐにでも快斗を簡単に殺ってしまうことなど他愛も無いことに違いなかった。今の快斗は、彼らの遊び心一つに、快斗は単に生かされているにすぎないのだ。
いつ辿り着いたのかも気付かない程に、快斗は必死の形相で教会の古びた扉を乱暴に開けた。
勢いよく空いた扉の中は、快斗の希望とは裏腹に、一人の人影も気配も無く、ただ、十字架の下の小さくなった蝋燭の火が、ゆらゆらと薄暗い教会内を灯していた。
「まじかよ・・・」
落胆して、よろめく快斗の背に、とすんと何か堅いものがぶつかった。
「ご苦労さん、やっと着いたわね、教会。楽しい鬼ごっこだったわ」
驚き降り向いた快斗の目の前に、ウェーブのきつい赤毛の長髪を、無造作に束ねた男が楽しそうに立っていた。その目は血のように赤く、肌は死人のように青白い。
「だが、そろそろお遊びも終わりだ」
いつの間に背後に回ったのか、今度はそのすぐ対面にアングロサクソン系の男が腕組みして快斗を見下ろしている。
「お、お前ら何者なんだ・・・?」
何とかそう言葉を搾り出した快斗の目に、二人の唇から通常では考えられない程の鋭い牙がぎらりとむき出しになったのが映った。
「今から食事になろうという君が、そんなこと知る必要なんてないでしょ?」
”抵抗”という言葉も出ない程、快斗を物凄い力で背後から羽交い絞めにし、その脈打つ首に二人が牙を突き立てようとしていた。襲い来る強い痛みに備え、快斗は思わずぎゅっと目を閉じて恐ろしいその時を待った。けれど、その瞬間は来なかった。
男達が、ピタリと突然その動きを止めたのだ。
「・・・何か匂わねぇか?」
小さく首を傾げ、くんくんと鼻をきかせると、マーロウと呼ばれた赤髪の男はじっと目を細めた。
「ええ、・・・同族かしら」
それと同時、誰もいない筈の教会内に、いつの間にかもう一人別の人影が増えていることに快斗は気付いた。
「だあれ?」
マーロウと呼ばれるが問うた。
羽交い絞めにされていた手を緩められはしたものの、未だ解放されず掴まれた腕はぎりぎりと痛む。快斗は、痛みに僅かに顔を顰めながら、薄暗闇の中のもう一つの影を目を凝らして見つめた。
(あいつ・・・!)
「ここに何の用だ」
この状況にも関わらず、冷静な聞き覚えのある声。
(ヴァレンタイン・・・! なんであいつが・・・!)
「あら、ここはあなたのエリア?」
突然ぱっと腕を突き放された形になり、床に尻餅をついた快斗を他所に、黒髪の男が愉快そうに口を歪ませた。
「俺達が見つけた獲物だ。横取りする気じゃねぇよな?」
快斗の頭の中で警告音が鳴り響いている。二人が彼に気をとられている隙に、今すぐにここを離れるべきだと。そうすれば、ひょっとすれば助かる見込みはあると。
「勝手なことはやてくれないか。ここで問題を起こされては迷惑だ」
不機嫌なラディスラスの声。黒髪の男が到底人間の動きとは思えない程の速さでラディスラスの目前まで瞬時に移動をした。
「悪かったな。俺らはそこの獲物を持ってさっさと出ていくさ、熱くなるなよ、同志」
ぽんと馴れ馴れしい素振りで男はラディスラスの方に腕を回すと、じっと目を細めてしばらく静止した。
「・・・ところでお前、どこの出身だ? ・・・というより、完全体じゃねぇな? お前、ハーフだろ」
男の腕を払いのけると、汚い物でも払いのけるかのように、ラディスラスはぱんぱんと肩の埃を叩き落とした。
「おい、マーロウ、こいつハーフだぜ! けっ、完全でもねぇ下っぱって訳か!」
「まじ? ハーフ? さすがこんな田舎だわね~~、この辺ってもしかしてハーフの生息地って訳?」
ラディスラスの表情は変わらぬまま。ただ、冷たく二人を静かに見つめている。出て行けとでもいうかのように。
その様子を見ていた快斗は、頭の中で鳴り響く警告音と、状況の飲み込めないパニックで今まさに頭から煙が噴出しそうな状態だった。
(今なら、きっと逃げ出せる・・・! けど、ヴァレンタインは・・・?)
「ねーえ、アタシほんとに喉渇いちゃった。そんな子放っておいてさっさと食事にしちゃいましょうよ」
マーロウの一言で、快斗は顔から一気に血の気が引いていくのを感じた。
「それもそうだな」
黒髪の男が何事も無かったかのように快斗に向き直った瞬間、物凄土埃がぶわりと舞い上がった。
めりめりとめりこむような音が鳴り響く。驚き、快斗は一体何が起こったのかとにかく音のした方に視線を泳がせた。
先程までラディスラスの前にいた筈の黒髪の男の姿はそこからいなくなり、変わりにどういう訳か古い教会の壁に頭からめり込むようにして倒れている姿があった。その周囲には崩れた石と砂埃が舞っている。
「あんた、いきなり何するのよ」
怒りを露わにしたマーロウから察するに、ラディスラスが黒髪の男に一撃を加えたのは明らかであった。驚くべきところは、その威力である。明らかに人間の常識から外れている。
そして、更に驚くべきところは、その衝撃を喰らって尚、少しのダメージも無いかのように黒髪の男がむくりと起き上がったことであった。
(おいおい、普通なら死んでるよな・・・? あれ・・・)
現実ではありえない光景を目にし、快斗は自分の目を疑った。
「・・・おい、てめえ。ハーフの分際でよくも・・・。ぶっ殺してやる」
黒髪の男の顔から完全に表情というものが消え去っていた。今、彼の中にあるものは”怒り”。
(ま、まずい・・・!)
男の鼻はおかしな方向に捻じ曲がっている。それが痛くもなんとも無い筈は無いのに、男は平気な顔でラディスラスに襲い掛かった。
明らかにラディスラスの分が悪い。体格差も大きい上、パワーも桁違いだった。
あっけなく吹き飛ばされたラディスラスの身体は、教会の全ての椅子をなぎ倒しながら教会の奥の壁に激突した。
それでも構うことなく、男はラディスラスの倒れた身体を人形のように引っ掴むと、バシバシとそこら中の壁に投げ当てることを止めない。
呻き声一つあげないラディスラスは、すでに死んでいるのかもしれなかった。
『嘘だろ・・・? これって悪い夢だよな・・・』
思わず口をついて出た日本語に、マーロウは首を傾げた。
骨が砕けるような、鈍い嫌な音を立て、今度は快斗のすぐ傍にラディスラスの身体が叩き付けられた。
驚きで咄嗟に目をやった時、彼の手がぴくりと動くのを快斗は見逃さなかった。
(生きてる・・・!!)
ラディスラスはこれだけの攻撃を受けておきながら、まだ生きていた。
「やめだ、この下種め」
振り下ろされた黒髪男の渾身の一発は、ラディスラスに届くことなく宙で止まった。
「・・・は・・・?」
ぴしゃりと飛び散った温かい何かに、快斗はそっと手を伸ばす。
頬を濡らす鉄の匂い。錆ようにつんとしたあの匂いは快斗が苦手なあの匂いだった。
ごとんと快斗の足元に転がったのは、男の腹部から上の上体。数センチ下に切断された下肢が無残に横たわっている。
床にぶちまけられた臓器。その背からのぞくのは明らかに生の背骨に違い無い。
悪夢のような恐ろしい光景に、快斗は胃液を噴出した。
「なん・・・で・・・たかがハーフに・・・?」
転がった黒髪の男の首がそう溢したのを最期に、男の身体は上半身と下半身が離れたままぴくりとも動かなくなった。
「ちょ・・・、ちょっと、あんた一体なんなのよ・・・? ただのハーフじゃないわね・・・!?」
マーロウという赤髪の男は、悔しげに唇を噛み締め、叫んだ。
すっくと軽やかに起き上がったラディスラスの顔や腕はぼろぼろに痛めつけられ、生きているのが不思議な程の有様になっていた。
「ヴァ、ヴァレンタイン・・・、お前・・・!」
快斗口にした名前を聞いた瞬間、マーロウの表情がさっと色を失くした。
「あ、あんた、まさか・・・!」
ちぃっと舌打ちすると、ラディスラスはマーロウに飛び掛った。
だが、スピードではマーロウが上回っていたようで、寸でのところで、避けられたラディスラスは、すぐさま体勢を整え、再びマーロウに向き直った。
「ふっ、まさかこんなところで純血統であるヴァレンタイン家の末裔をお目にかかれるなんてね・・・」
驚きの含まれたマーロウの笑みに、ラディスラスは不機嫌そうな視線をやった。
「あんたの首を持って帰ったら、うちの親は泣いて喜ぶでしょうね・・・」
にやりと不敵な笑みを浮かべ、マーロウが第二のラディスラスの攻撃を難なくかわした。
「どういう訳か、今のあんたはハーフの姿をしている上、その分力も格段に弱いし?」
快斗の目から見ていても、ラディスラスとマーロウの力の差は歴然としていた。
ラディスラスの動きは十分に化け物染みている。が、しかし、それ以上にマーロウの動きは人間である快斗の目では到底追うことのできないスピードであった。ましてや、ぼろぼろに近いラディスラスに到底敵う筈も無い。
マーロウの反撃が始まった。
快斗の耳には、ラディスラスが物というものにぶつかったであろう衝撃音だけが聞こえるのみ。
もう、今ここで何が起こっているのかも理解できなかった。
ただ、ここは通常の光景では無い。あの学校一優等生なラディスラス・ヴァレンタインが、一体何者なのかという疑問が頭を通り過ぎ、そしてその彼が今とんでもない事態に陥っているということだけが唯一理解できたことだ。そして、そのとんでも無い事態に陥っているのは、彼だけではなく、自分も同じだということを。
凄まじい音とともに、古い石天井が崩れ、教会内に土埃と瓦礫の雨を降らせた。
快斗はその巻き添えを食わないよう、部屋の隅でじっと様子を見守るしかできなかった。
(一体、何が起こってる・・・? ヴァレンタインは・・・・?)
兎に角今は、彼が何者であってもいい。この間の一件で腹立ちを覚えていたことはもう水に流してもいいとまで快斗は思った。ただ、最悪の事態にならないことだけを祈って・・・。
「ぎゃっ!」
劈くような悲鳴とともに、ぼてりと何かが近くの形を失った椅子の破片の上に転がった。
手。
捥げた手が転がっている。
まさに異常な光景・・・。
これがただの悪夢ならばいいと、快斗がどれ程願ったか・・・。
「フウフウフウ・・・」
荒い息で崩れた天井の瓦礫の上に舞い降りたのは、左腕を失ったマーロウだった。
そしてそこから少し離れたところに、ラディスラスの背。
彼は奇跡的に生きていた。
「あ、あんた、マジで一体なんなの・・・? ウソでしょ・・・??」
呆然としたようなマーロウの声に、快斗は思わずラディスラスを見つめた。
さっき、あれ程のダメージを受けていたボロボロの状態だったにも関わらず、彼は先程よりも寧ろぴんぴんした様子でそこに立っていた。砕けていただろう骨なども、まるで何も無かったかのように回復していいて、今や傷一つ見当たらない。
「血清の効果もちょうど切れかかっている。タイムオーバーだ」
そう呟いた瞬間、ラディスラスの姿が忽然とその場から消えた。
「!!!」
マーロウの身体が床に強く叩きつけられ、その衝撃で瓦礫の破片が無数に飛び散った。
ラディスラスが今、倒れたマーロウの頭に手を伸ばそうとしている。
「ヴァレンタイン・・・!!」
快斗は息をするのも忘れてる程瞬間的に、自らの身体が無意識に動き出していたことに気付かなかった。
腹部に強い衝撃を受けた直後、ぐるりと視界が一回転するのがやけにゆっくりと見えた。
固い床に背中から強く叩きつけられる直前、快斗は自らの腹部に触れた指にぬるりとした嫌な触感を感じていた。
自分がどうして、咄嗟にこうした行動に出てしまったのか、快斗自身にもわかっていなかった。
ただ、上体を切断されて死んだ筈のもう一人の男の身体が、どうした訳か元に戻った上に突如飛び起き、背を向けたラディスラスに向かって襲い掛かっていくのを目の前にして、じっとしていられなかったのかもしれない。
ぽっかりと空いた天井を見つめながら、いつの間にか雨が降り出していたことを知った快斗は、遠ざかる意識の中で、僅かに男とマーロウの悲鳴を聞いていた。
その直後、すっかり静かになった教会の中で、一つの足音が近付いてくる。
「なぜ僕を庇った」
ラディスラス・ヴァレンタイン。
狂い始めた歯車は、既にこの時、動き始めていたのだ。