愛すべき贄を探す
昨晩の雨でぬかるんだ土を、少女は裸足で踏みしめていく。
その少女に気づいた村の大人たちは、談笑を止めた。そして、一様に表情を強張らせる。ひそかに警戒するような視線が、一人の小柄な少女に向けられた。
容易く折れそうな細い脚だった。膝丈の麻のワンピースは、着るものに頓着がないのか、彼女の美しさを損なうように薄汚れている。
きつく結ばれた少女の唇が、ふと綻んだ。妖しい光を孕む紫紺の瞳に、ある少女の姿が映っている。
白銀の長い髪を風になびかせながら、少女は周囲の視線を気にも留めずに歩みを進めた。
そして、白銀の少女は、金髪の少女に呼びかける。
「サラ、会いたかったぞ?」
サラは、内心の喜びを表に出さないように気を付けながらため息をついた。
「まったく。ジェーンはいつもそんな軽口ばっかり」
「本心だといつも言うておるのに」
年寄りくさい口調で不平を述べたジェーンは、口を尖らせる。
こうして和やかに会話している間も、大人たちは二人を――否、ジェーンだけに警戒した視線を向けつづけている。
ジェーンは、昔から大人たちに畏れられていた。
(だから、待ち合わせは森にしようって言ったのに)
サラは、心の中で呟いた。
そして、気を取り直して声をかける。
「さ、行こっか」
「うむ」
サラの言葉に嬉しそうに頷いたジェーンは、サラの手を掴んで、森へ向かった。
王都から遠く離れた閉鎖的な村で、サラは育った。
ジェーンは村から少し離れた森の中に住んでいるようだった。サラは、ジェーンの親を見かけたことがない。ジェーンは、いつも一人でふらりと村に現れて、森に去っていくのだ。
およそ八年前、村の近くでワイバーンの目撃情報があった。
村中から戦える人間を集めたとしても敵わないだろうと大人たちは噂した。救援を要請したとしても、助けが来る頃には手遅れであることは明白だった。村は緊張につつまれた。
目撃情報から数日して、ジェーンが村を訪れた。
ワンピースには、返り血がついていた。そして、その小さな手に引きずっていたのは、彼女の体躯の数十倍はあるワイバーンの死体だった。
それを目にした大人たちは、彼女の前に跪き感謝を述べた。しかしその顔に浮かぶのは喜色ではなく、畏れだ。
ジェーンは跪く大人たちを睥睨して、偉そうに、そして退屈そうに告げた。
「盟約に従い、村の脅威は取り除いた。皆はもとの生活に戻るがよい」
興味のない様子で、ジェーンは大人たちに背を向けた。
そして、物陰に隠れていたサラを見つけると、嬉しそうに駆け寄った。花が綻ぶような笑顔で、いつものようにサラの手を取る。
「サラ、遊んでくれるか?」
甘えるようなその声と表情に、脳が痺れるような悦びを感じた。
ジェーンは、サラとはまったく異なる尺度で世界を見ている。ワイバーンを一人で倒すほどの強さを持ち、大人たちに取り繕わず、高圧的に振舞いさえする。それなのに、次の瞬間には、あどけない笑顔をサラに向けてくれる。
胸の奥底で、ほの暗い情熱が灯るのを、サラは感じた。
あの紫紺の瞳には、どんな風に世界が見えているのだろう。
(どんな風に、私は見えているのだろう)
あの日から、サラの心はジェーンに囚われつづけている。
森に入った二人は、談笑しながら木の実や薬草の採集を始めた。
「もうすぐ成人の儀かー」
サラは大きなため息を漏らす。ザクロを採ろうと足を踏み出すと、足元で枯れ葉が乾いた音を立てた。
成人の儀を受ければ、一人前の大人として認められる。と同時に、独り立ちして異性と結婚するのが当たり前とされており、まだ相手の決まっていないサラは両親からせっつかれていた。
「ついこの間までこーんなに小さかったのに、人の成長は早いものじゃのう」
身をかがめて己の踝ほどで手をかざすジェーンに、サラは苦笑する。
「大げさだって」
確かに、この数年でサラの身長は一気に伸びた。一方で、ジェーンの身長は昔と変わらない。
否。身長だけでない。その容姿も、何もかも、十年前に出会った頃から何一つ変わることがない。
成長も衰えもしない。それは、端的に表現すれば、異常だった。
その事実に気づいたのだろう、幼い頃は一緒に遊んでいた村の子も、少しずつジェーンから距離を取った。
サラだけが、その“異常”から意図的に目を逸らして、ジェーンの友達を続けている。
「サラは、誰のものにもならんでおくれ」
ジェーンが、弱々しく呟く。
サラは薬草を見つけた振りをして、ジェーンに背を向けてしゃがみ込んだ。そして、思わずにやけそうになる口を引き締める。
サラは、意識していつもの声色をつくって、応えた。
「そうは言っても、『早く相手見つけろ』って、両親がうるさいんだよね」
「なら、儂にすればよかろう」
「きゃっ」
耳元から聞こえた声に驚いて、サラは尻もちをつく。
「ジェーンにすればって……」
俯いたサラの頬を、何かがくすぐっている。その正体が白銀の髪だと気づいて、サラは天を仰ぐ。
逆さまの紫紺の瞳と、視線がぶつかった。
いつの間にかサラの背後にいたジェーンは、頭上からサラを覗き込んでいた。
蠱惑的な紫紺の瞳。それを縁取る長い睫毛。ゆっくりとされた瞬きが、蝶の羽ばたきのように妖しく見える。
ジェーンの薄い唇が開いて、少し掠れた声でサラの名前を呼ぶ。
サラの鼓動が早鐘を打つ。
今、サラの視界は、ジェーンに埋め尽くされていた。
咄嗟に地面についていた手は、少し汗ばんでいた。きっと、取り繕えないほどに顔は赤くなっているだろう。
絡みつくような視線が、ふと逸らされる。
「お、カマキリじゃ」
「ぎゃっ」
色気の欠片もない悲鳴を上げて、サラは再び飛びのいた。
先ほどジェーンの視線が向けられた方向、サラにとっては十時の方向を確かめると、たしかにカマキリがいた。しかも、二匹。交尾中だった。
よく森で採集しているにも関わらず、サラはどうにも虫が苦手だった。とりわけカマキリは、その生態が一等嫌いだった。交尾の最中に、メスがオスを捕食するのだ。
薄目を開けて、遠目にカマキリの様子を伺う。まだ交尾は続いている。やけに視力がいいので、様子を伺うだけのつもりでも細部まで見えてしまう。
メスが、オスの目を噛んだ。オスがそれを嫌がるように押しのけようと前足を動かす。すると、メスはその前足を口にする。身体は重ねたまま。
目を背けて不快そうな表情を浮かべるサラを見て、ジェーンはけらけらと笑う。
メスがオスを食べるのは、栄養のため。そう考えられているのだと、いつかジェーンが教えてくれた。
でも、それだけではないとジェーンは思っているらしい。
曰く、一つの愛の形なのだと。
『空腹と寂しさは似ている。寂しいと、愛を求めたくなる。触れたい、一つになりたいという渇望が沸く。サラには分かるか?』
そのとき向けられた眼差しが、彼女にしてはやけに頼りないものだったのをサラは覚えている。
愛が純粋で美しいのは、童話の中だけだ。童話のお姫様を羨望する年代はとうに過ぎ去った。
触れたい。一つになりたい。
そんな独りよがりで邪な欲を、ジェーンに抱いている。それを知ったら、彼女はどう思うだろうか。
これまでのように、一緒にいてくれるだろうか。
§
家に帰ったサラは、母とともに夕食の準備を整えた。
食卓を囲むのは、サラと両親だけだ。兄や姉たちは既に独り立ちしており、末っ子であるサラだけがこの家に残っている。
穏やかな団欒の時間がしばらく続いていたが、父は食事の手を止めると、真剣な眼差しでサラを見つめた。
「日中、どこで何をしていた」
「別に……。森で木の実とか薬草を採ってたよ」
「誰とだ?」
またこの話か、とサラはうんざりした気持ちで父をじとりと睨みつける。
「ジェーンじゃなくて、もっと他の子と関わったらどうだ。ほら、カイルくんなんかいい子だろう。昔はよく遊んでたじゃないか」
「そうよ。あなたももういい歳なんだし……」
父に加勢するように、母もサラを諭すように語りかける。
「私が誰と一緒にいようと、私の勝手でしょ」
「頼む、お前のためなんだ。あの子とは関わりすぎない方がいい」
父の声は、震えていた。
その様子に、サラの苛立ちは激しさを増す。
「どうして私からジェーンを遠ざけたいの?」
サラの問いに、父は苦々しそうな表情で答える。
「理由は、言えない」
「またそれ? いい加減にしてよ」
村の大人は、ジェーンを遠巻きに見るだけで深く関わろうとしない。だから、どうせジェーンをよく知らないまま、彼女の強さを恐れているんだ。私からジェーンを遠ざけて、空いた枠に男をあてがおうとしているに違いない。
サラはそう決めつけて、強い偏見を持つ両親を疎ましく思った。
「いくら親だからって、交友関係まで口出ししないでよ」
「他のことには口出ししない。だが、あの子だけは――」
「うるさい!」
苛立ちを抑えきれず、サラは立ち上がる。
そして、怒りのまま大きな足音を立てながら寝室に入ると、戸を後ろ手に閉じた。
壁越しに、すすり泣く母とそれを慰める父の声がくぐもって聞こえる。
しかし、サラの心は既に、両親から離れていた。
(こんな村、出ていってやる)
村を出て、ジェーンといっしょに生きていこう。
彼女はそれを、受け入れてくれるだろうか?
§
翌朝。
両親と顔を合わせるのが気まずかったため、サラはいつもより早く起床した。
少し厚手の服を選んだものの朝の空気は予想以上に冷たく、サラは身震いした。森に向かって俯きがちに歩く。
早く、ジェーンに会いたかった。
待ち合わせの時間はまだだったが、森へ行けばジェーンが見つけてくれる予感があった。
「おい、サラ」
背後から、低い声が呼び止めた。
うんざりした気分で、サラは振り返る。サラを呼び止めたのは、カイルだった。
カイルは、サラと同い年の少年だ。幼少のころはよく遊んでいたが、この数年は疎遠になっている。彼が、ジェーンを疎むようになったからだった。
カイルは遠慮がちに、けれどもサラを咎めるような声色で言う。
「また、ジェーンに会いに行くのか」
その言葉を聞いた瞬間、昨夜の一件に合点がいった。
「私の両親に変なことを吹き込んだのは、カイルなの?」
「変なことじゃない。事実だろう」
「私が誰といようと私の勝手でしょ。ジェーンに対して偏見を持ってるから、両親に告げ口したんでしょう」
「俺がジェーンにいい感情を持ってないのは、確かだ。でも、あいつはやめとけ」
「ジェーンのことよく知りもしないで――」
「なんで見た目が変わらないんだよ」
「それは……」
「虫をいたぶって楽しんでいるのを見たんだよ。足を引きちぎって、笑ってたんだぜ。あいつ、おかしいよ」
「…………」
その言葉をすぐさま否定することは、サラにはできなかった。
サラも、ジェーンが虫で遊ぶ様子を何度も見たことがある。その度に窘めているが、彼女が嗜虐性を持つことは事実だ。それに忌避感を覚えるのも、分かる。
「俺、サラのこと……」
熱のこもった瞳で、カイルが何かを言いかけた。
でも、その言葉の続きが紡がれるよりも先に、サラが口を開いた。
「カイルは、理解するのを諦めたんだね」
こんな閉鎖的な村で、ジェーンは独りぼっちだ。
かわいそうだと思うことが、ないわけではない。でも、それだけじゃなかった。
カイルが口を挟めないように、サラは捲し立てるように言う。
「でも、私は、あの子を分かりたいと思ってるの。あの子を、もっと知りたい。あの子に寄り添いたい。私は、あの子が、ジェーンが好きだから」
「お前……」
傷ついたように、カイルは表情を歪ませた。
そこに、鈴を鳴らすような軽やかな声が響いた。
「それは、儂と添い遂げてくれるということか?」
サラは、慌てて振り返る。
そこに立つ人物を見て、心臓が跳ね上がった。
「ジェーン!?」
ジェーンに、聞かれてしまった。激しい後悔と羞恥が込み上げる。
動揺してその場から逃げ出そうとしたサラの手を、ジェーンが掴んだ。
「ほれ、逃げるなサラよ。儂の問いに答えておくれ」
ねっとりと絡みつくような、甘ったるい声だ。
左右に視線を走らせるが、解決の糸口は見えない。
サラはしばし迷った。しかし、昨夜の決意を思い返し、心を決めて小さな声で答えた。
「そう、だよ」
「そうかそうか」
サラの答えに満足した様子のジェーンは、そのままサラの手を引いて歩き出す。
ジェーンとサラの二人は、森に足を踏み入れた。
カイルは、悔し気にその場に立ち尽くしていた。
§
「お主は物好きよのう。こんなことは初めてじゃ」
けらけらと笑いながら、弾むような足取りでジェーンは森を進んでいく。こんなにご機嫌なジェーンを、サラは見たことがなかった。
くしゃりくしゃり。ジェーンの素足とサラの革靴が、枯れ葉を踏み鳴らしていく。朝の森は、澄んだ空気をしていた。遠くから、鳥の囀りが聞こえる。
ジェーンは、サラから手を放して振り返った。
ジェーンとの触れ合いがなくなり、サラは名残惜しく思う。だが、ジェーンがにんまりとした笑顔で距離を詰めてくると、思わず後ずさった。木の根っこに足が引っ掛かり、バランスを崩して尻もちをつく。無防備に投げ出されたサラの脚の間に、ジェーンは身体を割り込ませた。そして、そのままサラを押し倒す。
ジェーンは、至近距離からサラの顔を覗き込んだ。
「ああ、その愛い顔をもっとよく見せておくれ」
ジェーンの指がサラの頬を撫でる。
「儂にはサラしかいない。でも、サラには家族やほかの友人がおる」
不安そうに、紫紺の瞳が揺れた。
「儂を選べば、その者らとの縁が切れるとしても、それでも、儂を選んでくれるか?」
自分の気持ちを疑われているようで心外だった。
サラは、迷わず答える。
「私は、ジェーンを選ぶよ。ジェーンこそ、私のこと好き? 私だけを、好きでいてくれる?」
その問いに、ジェーンはけらけらと笑った。
「ちょっと、私は真剣に聞いてるんだけど」
サラがジェーンを睨みつけると、ジェーンはにんまりと笑った。
そして、髪を耳にかけながら顔を近づけると、サラに軽く口づけをした。
「な――」
サラは、顔が赤くなるのを自覚した。心臓の音がやけに煩く聞こえる。
どぎまぎするサラの様子を見て、ジェーンはまたけらけらと笑う。
ジェーンに文句を言おうと口を開こうとしたとき、ジェーンがサラの耳元に顔を寄せた。
熱い吐息が、首にかかる。そして、甘く掠れた声で、サラの耳元で囁く。
「お主は本当にかわいいのぅ」
背筋にぞくぞくと快感が駆けのぼった。
「儂を愛してくれるのは、サラ、おぬしだけだ」
心臓の音がジェーンに聞こえてしまいそうなほど、近い。
「そして、儂が愛するのは、おぬしだけだ」
脳に甘い痺れが走る。
もっと欲しい。
ジェーンが、ジェーンの愛が、欲しい。
ジェーンのすべてを独り占めしたい。自分のすべてをジェーンに委ねたい。溶け合って一つになりたい。
身を焦がすほどの欲を感じた。
しかし、サラの期待とは裏腹に、ジェーンの身体は離れていく。ジェーンがサラの気持ちを見透かすように見下ろしている。
自らの浅ましい感情を自覚して、サラは羞恥を感じた。
サラの縋るような目と、ジェーンの獰猛的な目が合う。
「今日はここまでにしておこう。続きは成人の儀までお預けだ」
野生動物を思わせる獰猛なその笑みに、心臓が早鐘のように打った。
§
それから成人の儀までの数日、成人を迎える者たち十二名の行動は制限された。夜は各々の家に帰ることが許されていたが、日中は教会で過ごさなければならない。森へ出歩くなどもってのほかだ。
儀式用の装束を確認し、儀式用の粗食を摂り、湖で身を清める。準備に追われながらも、不思議なことに儀式の詳細は成人を迎えるサラたちに知らされていなかった。
あの夕食以来、親に対する憤りをサラは変わらず持ち続けていた。しかし、これまで育ててくれた親への義理として、成人の儀は参加することにしていた。そして、成人の儀を区切りに、今後一切関わらない決意を固めていた。
時折、何か言いたげなカイルの視線を、サラは感じた。サラは、それをあえて無視した。成人の儀を終えたら村を出ていくのだから、どう思われようと構わなかった。
教会にいる間、そして家で眠る前のまどろみの時間、サラは、ジェーンのことを考えていた。
けらけらと笑う声。
風に揺れる白銀の髪。
少しかさついた唇。
熱のこもった紫紺の瞳。
サラの肌を撫でた指の、その温度。
――続きは成人の儀までお預けだ。
(早くジェーンに会いたい)
そして、成人の儀当日。
儀式が始まる前に、村の小さな広場で、成人を迎える者と両親が語らう場が設けられた。
「サラ、サラ、サラ……!」
両親はそろって泣きながら、サラを抱きしめた。鼻をすする音が聞こえる。
サラは、両親に抱いていた反感を忘れて、呆気にとられた。成人の儀に向かうだけだというのに、随分大げさだ。
両親がこれほど取り乱すところなど、サラはついぞ見たことがない。
(村を出ていくって伝えてなかったけど、もしかして気づかれてたのかな)
ジェーンに対する両親の態度には、やはり納得がいかないし憤りも感じる。それでも、両親の全てをサラが憎んでいるわけではない。両親への愛情も抱いてる。
けれども、サラの決意は変わらなかった。
成人の儀が終わり次第、村を離れてジェーンと共に生きていく。
儀式は、成人を迎える者と村長のみが参加を許されている。
定刻になると、村長が先導して、サラたちは森を進んだ。
ざわざわと、冷たい風に枝葉が揺れる。麻の装束は、この季節だというのに袖が短く肌寒かった。
定期的に人が通るからだろう、地面は踏み固められており歩きやすい。行く手を遮る枝は、村長が剣で払ってくれた。
一行は、終始無言だった。サラの心は、儀式の前の厳かな気分というより、緊張を強く感じた。
何しろ、当日になってまで儀式の仔細が分からないのだ。人は、未知のものほど恐ろしく感じる。
村長は、洞穴の入り口で立ち止まった。剣を地面に突き刺して、サラたちに向き直る。どうやら、ここで儀式を執り行うようだ。
洞穴は深い闇に満ちており、その中に何があるのか判然としない。
風が強く吹くと、洞穴から唸り声のような音が鳴った。獰猛な獣が潜んでいるのかと思ったが、サラはすぐに考えを改める。笛と似たような原理だろう。ただの風の音だ。恐怖で早まる鼓動を落ち着かせるように、サラは自分に言い聞かせる。
村長の指示に従って、サラたちは、地面に膝をついて頭を垂れた。両手は胸の前で、祈るように組んでいる。
村長が、声を張り上げる。
「村を守護する者よ、盟約に従い参上した」
(洞穴の中に、何かがいるの?)
その場は、一層の緊張感に包まれた。
しばらくすると、洞穴の方から小さな足音が聞こえた。足音は、だんだんこちらに近づいてくる。靴が土を踏みしめる音ではない。素足だ。
サラは、頭を上げてその正体を確認したい衝動に駆られた。その足音は、よく聞き慣れたもののように思えた。
地面だけが映っていたサラの視界に、見慣れた白い足が入る。それが、足音の主だった。その足は、サラの前で立ち止まった。
(どういうこと?)
サラには、訳が分からなかった。
「儂は、この者を選ぶ」
この世で最も愛おしい声が、頭上から降ってきた。
サラは、頭を上げて声の主を確認する。
尊大な態度のその少女は、白銀の髪に、紫紺の瞳を持っている。
そこにいたのは、ジェーンだった。
「さあ、行こう」
ジェーンは、サラの手を引っ張って立ち上がらせた。紫紺の瞳が、うっとりとサラを見つめている。
訳が分からなかった。ジェーンと会えた喜びよりも、困惑が勝った。
それに、視界の端に映る、サラを憐れむような村長の眼が気にかかった。
混乱するサラを知ってか知らずか、ジェーンはサラの手を指を絡めるように握りなおして、サラを引っ張っていく。行先は、洞穴の中だ。
サラの背後で、村長たちが立ち去る気配がした。
ジェーンとサラは、洞穴の闇に飲み込まれていく。
冷たく湿った空気が、サラの肺を満たす。
しばらく進むと真っ暗で、自分の手すら見えなくなった。目を閉じているのか開けているのかすら分からない。見えないことが、こんなにも恐怖をもたらすとサラは知らなかった。繋がれたジェーンの手だけが、頼りだった。
二人分の足音が、洞穴に反響する。時折、水滴が水たまりに落ちる音が聞こえた。二人以外に、生き物の気配はない。
(ジェーンは、何者なの?)
村の大人たちが畏怖する、小柄だが強くて尊大な少女。
嗜虐的で、誰も彼女を理解できないから村の外れ者として扱われている。
果たして、本当にそれだけだろうか?
これまで目を逸らしてきた異常が、眼前に突き付けられる。
「サラも成人か。早いものよのう」
無邪気な声が、洞穴に反響する。
自分の感情のままに振舞う彼女の生き様を、美しいと思っていた。けれども、今は不気味にすら思える。
――あの子とは関わりすぎない方がいい。
両親の忠告が耳に木霊する。
――あいつ、おかしいよ。
カイルの言葉。あれは、嫉妬だけではない。
――なんで見た目が変わらないんだよ。
成長することも老いることもない。それは、生き物の在り方として不自然だ。
それに、村長がサラに向けた憐みの目。
村のみんながジェーンを差別するのは彼女をよく知らないからだと、サラは思っていた。
でも、サラは、ジェーンを本当に理解していたのだろうか。
途端に、ジェーンが得体のしれない存在のように感じた。
肌寒い気温にも関わらず、脇に汗がにじんだ。自分の鼓動がやけに煩い。
(取り返しのつかない選択をしてしまったかもしれない)
儀式の目的に見当がついたわけではない。ただ、もはやサラには帰る場所などなく、サラはジェーンのものになったのだという確信だけがあった。
洞穴の中をどれぐらい歩いただろう。ほんのわずかな時間のようにも、途方もなく長い時間のようにも思えた。
繋がれた手が離れ、サラは立ち止まった。
甘く掠れた声が、間近に聞こえる。
「サラ、あの日の続きをしよう」
その声の主が、動く気配――否、蠢く気配があった。
洞穴は深い闇に満たされて、何が起こっているのか分からない。サラには、ジェーンの本当の姿を見ることはできない。
サラは、背中に何かが触れたのを感じた。とても小さな手だ。初めに触れた手は一つだったが、少し間をおいて二つに。そして、十、二十と増えていく。
数えきれないほどの手は、脚にも触れてくる。すると、足が地面から離れて浮遊感を覚えた。
サラは恐怖に身体を強張らせながらも、どうやら数多の腕に抱きかかえられているらしいと推察した。
ジェーンは、人間ではない。人の形を真似た、異形の化物だ。
両親の忠告は、正しかった。
(あの日の、続き)
――空腹と寂しさは似ている。寂しいと、愛を求めたくなる。触れたい、一つになりたいという渇望が沸く。
かつてのジェーンの言葉を思いだす。
パートナーを捕食するという生態を、ジェーンは自分に重ね合わせていたのかもしれない。
すなわち、あの日の続きをするということは――。
(怖い。こわい、こわい、こわいこわいこわいこわい!!!)
ぼろぼろと涙がこぼれる。
本当は、泣き叫びたかった。
(こんなつもりじゃなかった。)
ジェーンと想いが通じたときにサラが思い描いた未来は、平穏で幸せな生活だった。二人で同じご飯を食べて、寒いときは身体を寄せ合って、ジェーンにからかわれたり、時には喧嘩したり、そんな生活を送るのだと、ジェーンもそれを望んでくれていると、そう思い込んでいた。
ジェーンの見ている世界はサラのそれとは違うと、分かりきっていたはずなのに。
そんなジェーンを、好いたはずなのに。
「儂なんぞに好かれて、かわいそうにのぅ」
サラの手に、触れてくるものがあった。あの日と同じ形、体温。ジェーンの手だ。
どんな姿をしていても、人間じゃなかったとしても、ジェーンはジェーンだ。サラの恐怖が、少し和らいだ。
どうすればいいか、どうしたいか、サラは頭を巡らせる。
死にたくない。
ジェーンはサラを好きでいてくれて、おそらくそれゆえにサラの命を奪う。
死にたくないなら、ジェーンを拒むしかない。拒んで、ジェーンから逃げるのだ。
ワイバーンを屠るほどの実力を持つジェーンから本当に逃げられるのか、その問題は一旦置いておく。それ以前の問題だ。
サラに、ジェーンを拒むことなどできない。
人間ではないジェーンが恐ろしいからではない。報復が怖いからではない。
こんな目に遭っているのに、人間ではないと分かったのに、それでもなお、どうしようもなく、サラはジェーンが好きだった。だから、ジェーンの愛を、拒みたくなかった。
どうかしていると、サラは内心自分を笑った。
サラは、ジェーンの手を握り返した。
「私、ジェーンが好き。だから、いいよ。あなたの好きにして」
そう伝える声は、震えてしまっていた。
恐怖が失われたわけではない。
彼女の生態については、共感も理解もできない。
本当はジェーンの全てを分かりたいけど、どうしても分からないから、分からないまま、そのままのジェーンを受け入れることにした。
これがジェーンにとっての愛ならば受け入れると、サラは決意した。
指が深く絡みついて、力強く握られる。
「サラ、サラ……」
熱を孕んだ声が、耳元で名前を囁いた。
ジェーンの人間ではない部分が蠢く気配があって、何かがサラの肌を這う。ただ撫でているだけではないだろうと、サラは頭の片隅で思った。きっと、彼女が愛するために必要な準備だろう。
ジェーンにもっと触れたくて、空いている手で暗闇を探る。きっと、こんな暗闇でもジェーンには見えているのだろう。いつものジェーンの手がサラの手を掴んで誘導してくれる。
サラは、ジェーンを撫でた。初めに触れていたのは頬。そして耳、髪と撫でていく。ジェーンの形を確かめるように。
「ジェーン、大好き」
もっと撫でていたかったが、急に体がだるくなって、サラは手を下ろした。数多の腕の寝床に受け止められた。
少し気になって、なけなしの気力でその手で動かした。恐る恐る、自分の脚に触ろうとする。しかし、手が脚に触れることはなかった。そこには、脚など存在しなかった。
依然として、サラの全身を何かが這う感触がある。もうなくなってしまったらしい脚にも這う感触がある。だったら全部、幻覚かもしれない。
サラは、もう片方の繋がれた手に意識を向けた。
「ジェーン、ジェーン……」
弱々しい声で、愛しい人の名前を呼ぶ。
どうか、この恐怖が彼女に伝わりませんように。
どうか、この愛のすべてが彼女に伝わりますように。
少しずつ、サラの思考が鈍くなっていく。
脳が、多幸感に満たされる。
理性が、恐怖を主張する。
サラは、これまでそうしてきたように、恐怖から目を逸らして、ジェーンを愛しているという事実だけを確かめた。
(あなたの瞳に私がどう映るのか、結局分からなかった)
サラの名前を呼ぶジェーンの声が、段々、遠くくぐもっていく。
(だけど、今、私という存在があなた自身に組み込まれる。あなたを構成する材料となる。私は私のままではいられないけれど、あなたとして、あなたの世界を生きられる)
繋がれたはずの手のぬくもりが、感触が、もう分からない。
(あなたの瞳に映らなくなる代わりに、あなたを構成する材料になる)
それは、きっと至上の喜びだ。
あたたかい。やわらかい。しあわせだ。
いつかのジェーンの言葉を思い出す。
――空腹と寂しさは似ている。寂しいと、愛を求めたくなる。触れたい、一つになりたいという渇望が沸く。
(その寂しさは、私で埋められるのかな)
§
広場で楽しそうに遊ぶ我が子を眺めて、カイルは目尻を下げた。
サラが姿を消してから、十年が過ぎていた。
村を守ってもらう代わりに、成人の儀を迎えた人間を生き贄とする。
それが、遠い遠い祖先が、あの化物と結んだ盟約だ。
サラは、村のための生贄になったのだ。
成人の儀の翌朝、その事実を知らされたカイルは、自分の無力さに打つひしがれ、そして化物への憎悪と怒りを募らせた。
しかし、何もできなかった。
怒りを胸に滾らせたままどこにも発散することができず、時間だけが過ぎていった。
そんなカイルも、今や妻と三人の子を持つ父親だ。
畑を耕しながら、遠目に子どもたちを見守っている。
ふと、一際強い風が吹き、木々がざわめいた。
嫌な気配に身震いして、カイルは森へ目を向ける。
白銀の髪が、風になびいていた。
カイルは、奥歯を噛みしめる。
森から現れたその人影は、堂々と村へ立ち入り、子どもたちの遊びの輪に加わった。
カイルは、憎々しげな視線をそれに向ける。
小さな体躯に白銀の長髪、紫紺の瞳。
彼女は――ジェーンは、昔と全く変わらない容姿だった。
子どもたちは、あの化物と結んだ盟約を知らない。子どもたちに盟約について教えた者が過去にいたらしいが、一族郎党皆殺しにされたらしい。
あれは、人間のような道徳心や倫理観を持たない、人とは異なる理のなかに存在するものだ。相互理解なんてできない。カイルはそう確信している。
それでも、この村はジェーンに守られている。彼女がいなければ、魔獣による被害や豪雨による水害、飢饉で多くの人が死ぬだろう。
だから、大人たちは罪悪感に胸を痛めジェーンを恨みながらも、数多の悲劇を見過ごしてきた。
多くの命を救うことと引き換えに、化物は子供たちと親交を結び、次の生贄を選ぶ。
彼女はまた、愛すべき贄を探している。
これまで何度繰り返されてきたのだろう。
これから何度、繰り返すのだろう。
選ばれるのが、どうか自分の子どもたちではありませんように。
化物に抗う術を持たないただの人間であるカイルには、祈ることしかできなかった。




