ある平和な朝に
それから、また日常が戻ってきた。
薬草屋の朝。六時に起きて、掃除して、仕分けをして、配達をする。
レオンは相変わらず非番のたびに来た。最近は調合も手伝えるようになった。先日は自分で調合した頭痛薬を父に渡して、父が感激していた。
「レオンさん、器用なんですね」
「アリアが教えてくれたから」
「ありがとうございます」
「俺がお前に礼を言う立場だ」
この人はたまに、こういうことを言う。さらっと、当たり前のように。
……そういうところが、好きです。
◆
エミリアは月に一度来て、薬草茶を飲んで、院内の変化を教えてくれた。少しずつ、制度が変わっていると言っていた。地方への派遣が増えて、聖女の待遇も改善されつつあると。
「アリアさんのおかげです」
「私は何もしていませんよ」
「いいえ。あなたが外から声を上げたことで、院内が変わる理由ができました」
「それはエミリアさんが動いたからですよ。私は外にいるだけです」
「外にいるからこそ、言えることがある」
……そうなんでしょうか。
よくわかりませんが、エミリアさんが変わったことは確かです。それは、間違いなく本人の力です。
ガイウスは相変わらず気まぐれに現れた。先日来たときは「そろそろ弟子を取ろうと思っている」と言っていた。誰のことかは言わなかった。
……私じゃないといいんですが。
「ガイウスさん、弟子とはどなたのことですか」
「まだ決めていない。候補はいるが、本人の意思が大切だから」
「候補というのは」
「さて」
「……教えてください」
「今日は教えない。ではまた」
そう言って消えた。
……まったく、この人は。
◆
ある朝、仕分けをしながら、私は少し考えた。
前世では、平和な朝を迎えることを夢見たまま死んだ。
今世では、十二年間一人で抱えて、やっと誰かに話せた。
そして今は——父と母がいて、レオンがいて、エミリアがいて、謎のガイウスもいる。
隠さなくていい場所がある。逃げなくていい朝がある。
……これが、私が望んでいたものですね。
前世も今世も、ずっと望んでいた。
ゆっくり、平和に、誰かのそばで生きること。
扉がノックされた。
「アリア、レオンさんが来てるよ」
母の声だった。
私は薬草の束を置いて、立ち上がった。
作業場を出て、廊下を歩いて、店先に出た。
レオンが立っていた。今日は小さな包みを持っていた。
「……何ですか、それ」
「茶館で買ってきた。蜂蜜入りの焼き菓子だ」
「なぜ」
「お前が以前、美味いと言っていた」
……いつのことを覚えているんですか。
包みを受け取った。少し温かかった。買いたてらしい。
「……ありがとうございます」
「仕事が一段落したら食べろ」
「一緒に食べますか」
「……邪魔じゃなければ」
「邪魔じゃないですよ、全然」
レオンが少し口の端を上げた。
「では、手伝う」
「今日は重い配達はないですよ」
「調合を手伝う」
「……わかりました。どうぞ」
二人で作業場に入った。窓から朝の光が差し込んでいた。薬草の香りが漂っていた。
……ゆっくり、生きています。
平和に、誰かのそばで。
前世の私に教えてあげられたら、と思います。
ちゃんと、たどり着けましたよ、と。
◆
お昼過ぎ、調合が一段落したところで、蜂蜜の焼き菓子を出した。
「温かいままではないですが」
「問題ない」
二人で、作業台の端に座って食べた。窓から午後の光が入っていた。
「……美味いか」
「美味しいです。あなたは」
「ああ」
「良かった」
しばらく、二人で黙って食べた。
「帰ってから、茶館には行きましたか」
レオンが言った。
「……まだです。一緒に行く約束でしたから」
「そうだ。覚えていたか」
「覚えていますよ、当然」
レオンが少し目を細めた。
「では、今週末に行こう」
「はい」
……塔の前でした約束を、ちゃんと覚えていてくれました。
それは嬉しいです。とても。
母が作業場の入り口に顔を覗かせた。
「二人でお茶でも飲みますか」
「「……いただきます」」
二人の声が重なった。母がくすっと笑って引っ込んだ。
……声が重なりました。
そういうことが、起きるようになりました。
ゆっくり、確かに、ここに根付いています。
お茶が来た。母が二つのカップを置いて、さらっと引っ込んだ。
「……お母さん、また聞かずに引っ込みましたね」
「聞かない方が、ここにいやすいからだろう」
「……そういう人なんです、うちの母は」
「いい人だ」
「はい」
お茶を飲んだ。薬草茶だった。母の好みの、少し甘くて香りの強いやつだった。
「今週末、茶館に行きましょう」
「ああ」
「あそこの蜂蜜のお茶が飲みたいです。また飲みたいと思っていたんです」
「覚えているか」
「あなたが初めて連れて行ってくれたので。覚えています」
レオンが少し目を細めた。
……これが、当たり前になっています。
誰かと同じ時間を積み重ねることが。
前世の私が一番欲しかったものが、今、ここにあります。
午後の光が、作業台に伸びていた。
薬草の束が半分仕分けられたまま残っていたが、今日はもういいかと思った。
「少し休みますか」
「ああ」
レオンが椅子を引いた。私も隣に座った。
「……塔の中、怖かったですか。最後に聞けていなかったので」
「怖かった。でも、隣にお前がいた」
「……それで、大丈夫でしたか」
「大丈夫だった」
……私も、同じです。
あなたが隣にいたから、大丈夫でした。
「……また、どこか遠くへ行くことがあるかもしれません。そのときも来てくれますか」
「当然だ」
「ありがとうございます」
「礼はいらない。それが俺の選択だ」
選んでくれているんですね。隣にいることを。
私も、選んでいます。あなたの隣を。
――――◆――――
完




