見えるという事
「先生、これからどうするんですか?」
「どうする、とは?」
榊は即答せず、坑口の闇に視線を残したまま、少しだけ思考を巡らせてから聞き返した。
「赤い女の幽霊の正体は分かりました。でも……」
立花は言葉を選びながら続ける。
「幽霊が出るって騒いでる人たちに、今の説明をそのまま伝えても、納得しないと思うんです」
「まあ……そうだろうな」
榊は否定も肯定もせず、短く息を吐いた。
「だったら、この騒ぎ、収まらないんじゃないですか」
榊はそこで初めて立花の方を見た。
「そりゃあ、仕方がないさ」
「先生……」
「これはな、立花君」
榊は静かに言葉を選ぶ。
「私自身の好奇心から始めた調査だ。どこかの機関や、行政から正式に依頼された仕事じゃない」
「だからって──」
思わず強くなった声が、坑口の内側に反響した。
自分の声が遅れて返ってくるのを、立花は一瞬だけ意識した。
「だからって、このままにしておいていいんですか?」
榊は責めるような視線を向けることはなかった。
代わりに、現実的な重さを帯びた声で答える。
「公道だからな。勝手に機材を設置するわけにもいかない。できるのは、現象の整理と、説明だ」
「説明……」
「行政にだ。こういう条件で、こういう視覚現象が起きている可能性が高い、と。注意喚起を出すか、照明を変えるか、反射条件を変えるか――判断するのは、私じゃない」
榊はトンネルの坑口を、もう一度だけ見上げた。
「学者にできるのは、正体を“幽霊のままにしない”ところまでだ」
立花は、すぐには返事ができなかった。
納得したわけではない。
だが、無責任とも違う。
世界は、いつもこうやって、説明と感情のあいだに、置き去りにされてきたのだと――
立花は、初めて実感していた。
しばらく沈黙が落ちたあと、榊はふと、独り言のように言った。
「……一つ、気になっていることはある」
立花は顔を上げる。
「何ですか」
「君が、最初に異変に気づいたことだ。本木ビルでも、今回もな」
榊は言葉を選ぶように、間を置いた。
「未名現象には、起きやすい場所と、起きやすい条件がある。そしてもう一つ――気づきやすい人間、というのがいる」
「それって……」
「仮説だ。まだ、確証はない」
榊はすぐに付け足した。
「体質と言うと語弊があるが、注意の向き、感覚の使い方、無意識の反応速度……そういうものが、平均から少しズレている人間はいる」
榊は、立花を見た。
「君がそうだ、と決めつけるつもりはない。だが――無関係とも言い切れない」
*
それからしばらくして。
入込沢トンネルの“赤い女の幽霊”という話題は、驚くほどあっさりとネットの海から姿を消した。
まとめサイトは更新されず、動画は非公開になり、
あれほど騒がれていた掲示板のスレッドも、いつの間にか沈んでいた。
理由は、どこにも書かれていない。
ただ、地元の短いニュース欄に、
「トンネル周辺で視認性向上のための対策工事を実施」
という一文が載っただけだった。
照明が変えられたのか。
反射材が撤去されたのか。
あるいは、坑口の形状がわずかに修正されたのか。
それを確かめに行く理由は、もうなかった。
*
立花は、いつもの日常に戻っていた。
講義を受け、レポートに追われ、アルバイトをこなす。
街の夕方は相変わらず雑多で、ネオンや車のライトが入り混じり、影と光は、いたるところで重なり合っている。
交差点の向こう。
ガラスに映った人影。
ビルの隙間に溜まる、赤みを帯びた光。
一瞬だけ、
――何かの“像”に見えなくもない。
だが、立花は立ち止まらなかった。
それが何で出来ているのかを、もう知っているからだ。
光。
反射。
視線の位置。
脳が像を確定させる、ほんの一瞬の条件。
そして、それらが揃えば、
人は“いないもの”を、簡単に見てしまう。
立花は、軽く息を吐き、前を向く。
怖くないわけじゃない。
だが、分かっている。
それは幽霊ではない。
世界が、少しだけ誤って見せた像だ。
――そして、
そうした“未名の現象”は、
これからも、どこにでも起こり得る。
ただし今はもう、
それに名前を与える前に、
立ち止まって考えることができる。
立花は、人の流れに紛れながら、
夕暮れの街を歩いていった。
影と光の境界を、
以前よりも、ほんの少しだけ意識しながら。
(終わり)




