再現
夕方の光は、すでに山の向こうへ沈みかけていた。
入込沢トンネルの坑口は、昼間よりも一段濃い影を抱え込み、内部はほとんど闇に近い。
榊と立花は、トンネルから少し距離を取った位置に立っていた。
計測機器を置き、光量と角度、通過車両の頻度を確認してから、すでに一時間が経っている。
特に変わったことは、何も起きていなかった。
風もない。
気温の変化も緩やかだ。
遠くで鳥の声がするだけで、車の往来もほとんど途絶えている。
――何も起きない。
立花は、内心ほっとしながらも、どこか肩の力が抜けきらないまま、トンネルの入口を見つめていた。
その瞬間だった。
まるで、
スイッチを入れた蛍光灯が、一瞬の迷いもなく点灯するように。
トンネルの入口付近に、
赤い像が、忽然と現れた。
「……っ!」
立花は息を呑み、思わず一歩下がった。
それは、確かに“立って”いた。
人の形に近い輪郭。
縦に伸びた赤い光の塊が、地面に根を下ろしたように、微動だにしない。
揺らぎはある。
だが、揺れているのは光であって、存在そのものではない。
――女だ。
そう思ってしまう形だった。
頭に相当する位置。肩の張り。腰のあたりで一度細くなり、下に向かって再び広がる。
立花の喉が、無意識に鳴った。
「……先生」
声が震えているのが、自分でも分かった。
「だ、大丈夫なんですか……これ」
視線を逸らそうとしても、逸らせない。
理屈では分かっている。
これは幽霊ではない。未名現象だ。
それでも、《《突然そこに現れた》》という事実だけで、身体は正直に恐怖を訴えてくる。
榊は、立花より一歩前に出ていた。
逃げない。
だが、近づきもしない。
赤い像と、自分との距離を慎重に測るように、静かに立っている。
「大丈夫だ、立花君」
声は低く、しかし明確だった。
「落ち着くんだ。幽霊なんかじゃない」
榊は、赤い像から目を離さずに続ける。
「昨夜も言ったろう。それは、科学で説明できる現象だ」
立花は唾を飲み込みながら、かろうじて問い返す。
「で、でも……
何の前触れもなかったじゃないですか」
「ああ」
榊は短く頷いた。
「だからこそだ」
赤い像は、相変わらずそこにある。
近づいても来ない。
消えもしない。
ただ、“ある”。
「これは“呼び出された”んじゃない。
条件が、揃っただけだ」
榊は、ようやく立花の方を振り返った。
「蛍光灯と同じだ。
点けようとして、点いたわけじゃない。
回路が繋がった瞬間、結果として光っただけだ」
再び視線を赤い像へ戻す。
「今、ここで起きているのも、それと同じだ」
立花は、震える指で拳を握りしめながら、赤い女の輪郭を見つめた。
――確かに、こちらを見てはいない。
視線も、意思も、感情もない。
ただ、条件の上に成立している“像”。
それでも、恐怖は消えなかった。
理屈を理解してもなお、
人は“人の形をしたもの”に、抗えない。
榊は、その沈黙を破るように、静かに言った。
「いいか、立花君。
今から、これがどうやって“女に見えているのか”を、一つずつ確認する」
その言葉は、宣言に近かった。
「怖いだろうが――ここからが、本番だ」
*
榊は一歩だけ前へ出た。赤い女との距離が、ほんのわずかに縮まる。
立花は思わず息を詰めた。
「まず――位置だ」
榊は、足元の路肩に落ちている小石を一つ拾い上げ、坑口の縁へ軽く放った。
石は乾いた音を立て、影の中へ転がり込む。
赤い女は、動かない。
「立っているなら、位置は固定されているはずだ。
だが、あれは“立っている場所”がない」
榊は、懐中電灯のスイッチを入れ、あえて女の“足元”と思しき辺りを照らした。
白い光が当たった瞬間、下半分の輪郭が崩れる。
立花は、喉が鳴るのを感じた。
「……消えた」
「違う。“結び付いていなかった”だけだ」
榊は光を少しずつ動かす。
壁面の凹凸、湿った染み、補修跡が浮かび上がる。
「人の脳は、暗闇では輪郭を省略する。特に下半分だ。足元は見なくても、立っていると判断する」
赤い女の“胴体”が、光の移動に合わせて伸びたり縮んだりする。
「次に――色」
榊は懐中電灯を消し、しばらく待った。
視界が再び暗さに慣れた頃、赤だけが戻ってくる。
「今、何が残っている」
立花は、言葉を探しながら答えた。
「……赤、だけです」
「そうだ。形じゃない。赤という“情報”だけが、先に脳へ届いている」
その瞬間、トンネルを抜ける車が一台。
テールランプの赤が、坑口の奥を一瞬染めた。
赤い女の“肩”が、またずれた。
立花は、思わず声を上げそうになるのを堪えた。
「今の光だ」
榊は冷静に続ける。
「テールランプは、点光源に近い。反射すると、壁の凹凸ごとに分断される」
榊は、指で空中に線を引いた。
「それを脳が“縦に再構成する。結果、頭、胴、脚に見える」
立花は、赤い影を見つめながら、ゆっくりと首を振った。
「……でも」
「分かっている」
榊は、立花の言葉を遮らずに受け取った。
「最後の問題は、“なぜ女なのか”だな」
榊は、坑口の前に立ち、赤い影と自分の影が重なる位置へ移動した。
「人は、不確かなものを見るとき、最初に“既知の物語”を当てはめる」
榊は、スマートフォンを取り出し、例の記事を開いたまま画面を伏せた。
「事故。赤。トンネル。そして、“女性の霊”」
榊は、赤い影を見たまま、静かに言う。
「ここまで条件が揃って、それ以外に見える方が難しい」
赤い女は、もはや“女”ではなかった。だが、完全に“ただの光”とも言い切れない。
立花の胸の奥で、恐怖と理解が、まだ絡み合っている。
「……先生」
「何だ」
「分かってきました。でも、まだ怖いです」
榊は、少しだけ視線を和らげた。
「それでいい」
そう言って、静かに告げる。
「恐怖が消える前に、理解が追いついた。それが、この現象の正体だ」
夕闇が、さらに深くなる。
赤い光は、次の車を待つかのように、坑口の奥でかすかに揺れていた。
――そして、榊はまだ、最後の確認を残していた。
(続く)




