表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/6

再現

 夕方の光は、すでに山の向こうへ沈みかけていた。

 入込沢トンネルの坑口は、昼間よりも一段濃い影を抱え込み、内部はほとんど闇に近い。


 榊と立花は、トンネルから少し距離を取った位置に立っていた。

 計測機器を置き、光量と角度、通過車両の頻度を確認してから、すでに一時間が経っている。


 特に変わったことは、何も起きていなかった。


 風もない。

 気温の変化も緩やかだ。

 遠くで鳥の声がするだけで、車の往来もほとんど途絶えている。


 ――何も起きない。


 立花は、内心ほっとしながらも、どこか肩の力が抜けきらないまま、トンネルの入口を見つめていた。


 その瞬間だった。


 まるで、

 スイッチを入れた蛍光灯が、一瞬の迷いもなく点灯するように。


 トンネルの入口付近に、

 赤い像が、忽然と現れた。


 「……っ!」


 立花は息を呑み、思わず一歩下がった。


 それは、確かに“立って”いた。

 人の形に近い輪郭。

 縦に伸びた赤い光の塊が、地面に根を下ろしたように、微動だにしない。


 揺らぎはある。

 だが、揺れているのは光であって、存在そのものではない。


 ――女だ。


 そう思ってしまう形だった。


 頭に相当する位置。肩の張り。腰のあたりで一度細くなり、下に向かって再び広がる。


 立花の喉が、無意識に鳴った。


「……先生」


 声が震えているのが、自分でも分かった。


「だ、大丈夫なんですか……これ」


 視線を逸らそうとしても、逸らせない。

 理屈では分かっている。

 これは幽霊ではない。未名現象だ。


 それでも、《《突然そこに現れた》》という事実だけで、身体は正直に恐怖を訴えてくる。


 榊は、立花より一歩前に出ていた。


 逃げない。

 だが、近づきもしない。


 赤い像と、自分との距離を慎重に測るように、静かに立っている。


「大丈夫だ、立花君」


 声は低く、しかし明確だった。


「落ち着くんだ。幽霊なんかじゃない」


 榊は、赤い像から目を離さずに続ける。


「昨夜も言ったろう。それは、科学で説明できる現象だ」


 立花は唾を飲み込みながら、かろうじて問い返す。


「で、でも……

 何の前触れもなかったじゃないですか」


「ああ」


 榊は短く頷いた。


「だからこそだ」


 赤い像は、相変わらずそこにある。

 近づいても来ない。

 消えもしない。


 ただ、“ある”。


「これは“呼び出された”んじゃない。

 条件が、揃っただけだ」


 榊は、ようやく立花の方を振り返った。


「蛍光灯と同じだ。

 点けようとして、点いたわけじゃない。

 回路が繋がった瞬間、結果として光っただけだ」


 再び視線を赤い像へ戻す。


「今、ここで起きているのも、それと同じだ」


 立花は、震える指で拳を握りしめながら、赤い女の輪郭を見つめた。


 ――確かに、こちらを見てはいない。


 視線も、意思も、感情もない。

 ただ、条件の上に成立している“像”。


 それでも、恐怖は消えなかった。


 理屈を理解してもなお、

 人は“人の形をしたもの”に、抗えない。


 榊は、その沈黙を破るように、静かに言った。


「いいか、立花君。

 今から、これがどうやって“女に見えているのか”を、一つずつ確認する」


 その言葉は、宣言に近かった。


「怖いだろうが――ここからが、本番だ」


            *

 

 榊は一歩だけ前へ出た。赤い女との距離が、ほんのわずかに縮まる。


 立花は思わず息を詰めた。


「まず――位置だ」


 榊は、足元の路肩に落ちている小石を一つ拾い上げ、坑口の縁へ軽く放った。

 石は乾いた音を立て、影の中へ転がり込む。


 赤い女は、動かない。


「立っているなら、位置は固定されているはずだ。

 だが、あれは“立っている場所”がない」


 榊は、懐中電灯のスイッチを入れ、あえて女の“足元”と思しき辺りを照らした。

 白い光が当たった瞬間、下半分の輪郭が崩れる。


 立花は、喉が鳴るのを感じた。


「……消えた」


「違う。“結び付いていなかった”だけだ」


 榊は光を少しずつ動かす。

 壁面の凹凸、湿った染み、補修跡が浮かび上がる。


「人の脳は、暗闇では輪郭を省略する。特に下半分だ。足元は見なくても、立っていると判断する」


 赤い女の“胴体”が、光の移動に合わせて伸びたり縮んだりする。


「次に――色」


 榊は懐中電灯を消し、しばらく待った。

 視界が再び暗さに慣れた頃、赤だけが戻ってくる。


「今、何が残っている」


 立花は、言葉を探しながら答えた。


「……赤、だけです」


「そうだ。形じゃない。赤という“情報”だけが、先に脳へ届いている」


 その瞬間、トンネルを抜ける車が一台。

 テールランプの赤が、坑口の奥を一瞬染めた。


 赤い女の“肩”が、またずれた。


 立花は、思わず声を上げそうになるのを堪えた。


「今の光だ」


 榊は冷静に続ける。


「テールランプは、点光源に近い。反射すると、壁の凹凸ごとに分断される」


 榊は、指で空中に線を引いた。


「それを脳が“縦に再構成する。結果、頭、胴、脚に見える」


 立花は、赤い影を見つめながら、ゆっくりと首を振った。


「……でも」


「分かっている」


 榊は、立花の言葉を遮らずに受け取った。


「最後の問題は、“なぜ女なのか”だな」


 榊は、坑口の前に立ち、赤い影と自分の影が重なる位置へ移動した。


「人は、不確かなものを見るとき、最初に“既知の物語”を当てはめる」


 榊は、スマートフォンを取り出し、例の記事を開いたまま画面を伏せた。


「事故。赤。トンネル。そして、“女性の霊”」


 榊は、赤い影を見たまま、静かに言う。


「ここまで条件が揃って、それ以外に見える方が難しい」


 赤い女は、もはや“女”ではなかった。だが、完全に“ただの光”とも言い切れない。


 立花の胸の奥で、恐怖と理解が、まだ絡み合っている。


「……先生」


「何だ」


「分かってきました。でも、まだ怖いです」


 榊は、少しだけ視線を和らげた。


「それでいい」


 そう言って、静かに告げる。


「恐怖が消える前に、理解が追いついた。それが、この現象の正体だ」


 夕闇が、さらに深くなる。


 赤い光は、次の車を待つかのように、坑口の奥でかすかに揺れていた。


 ――そして、榊はまだ、最後の確認を残していた。


(続く)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ