坑口にて
その夜、二人はトンネルから車で二十分ほどの場所にある、古いビジネスホテルに入った。
フロントで鍵を受け取る際、榊は迷いなく二部屋を指定した。隣同士ではあるが、部屋は分けてある。
「先生、一部屋で良かったんじゃ……」
「いや。今日は別々がいい」
それだけ言って、榊はそれ以上説明しなかった。
*
夕食は、ホテル一階の食堂で簡単に済ませた。
土地柄、味付けは濃いが、立花はほとんど味を覚えていない。
食後、榊の部屋に集まる。
ベッド脇の小さなデスクにはノートパソコンが置かれ、
画面には、いくつかのグラフと数値が並んでいた。
立花が理解できるのは、そのうちのごく一部だけだ。
「……つまり、これが本木ビルの時で、こっちが今回のトンネル?」
「そうだ」
榊はマウスを操作し、二つのデータを並べて表示させる。
「共通点を挙げてみろ」
突然振られて、立花は一瞬言葉に詰まった。
「えっと……時間帯は、どちらも夕方から夜にかけてですね」
「他は」
「人の出入りがある場所……完全な廃墟じゃない」
「うむ」
榊は短く頷き、次の項目を表示する。
「気温だ」
数字が並ぶ。
本木ビルも、入込沢トンネルも、
外気より内部の温度が、わずかに低い。
「……でも、トンネルなら普通じゃないですか?」
「普通だな。だから、これは“異常”ではない」
榊はそう言いながら、その項目に小さく印を付けた。
「次、明るさ」
照度のグラフが現れる。
「本木ビルは蛍光灯。トンネルは自然光と照明の混在。条件は違う」
「じゃあ、関係ない?」
「関係がないとは言えん。だが、まだ結論は出さない」
榊は一つ一つ、否定も肯定もせず、
ただ「保留」という箱に放り込んでいく。
立花は、そこで気づいた。
榊は――
答えを探しているのではなく、答えにならないものを削っているのだと。
「排気ガス濃度」
画面に数値が並ぶ。
「トンネルの方が高いのは当然だ」
「じゃあ、これも……」
「単体ではな」
榊は言葉を切り、少し考え込む。
「だが、“見る側”に影響を与える要素としては無視できん」
立花は眉をひそめた。
「見る側……?」
「人間の知覚は、想像以上に脆い。
視覚は、特にだ」
榊はデスクに置いていたメモ帳を手に取り、
ペンでいくつかの単語を書き出す。
――明暗差
――残像
――期待
――過去の物語
「本木ビルの時、何が起きた?」
「……自分の声が聞こえた、って人が増えた」
「そうだ。現象そのものより、“聞こえたいう報告”が先行した」
榊は、ペン先で「期待」に丸を付ける。
「今回も同じだ。赤い女という像が、先に共有されている」
「でも、それって……ただの思い込みじゃ」
「思い込みで済むなら、ここまで来ん」
榊は静かに否定した。
「問題は、思い込みが成立してしまう条件が揃っていることだ」
榊は画面を切り替える。
トンネル坑口の写真。
夕方、車が通過する瞬間の映像データ。
「夕暮れ時、逆光。テールランプ。トンネル内外の輝度差。排気ガスによる散乱」
言葉を一つずつ、噛みしめるように並べていく。
「これらが重なった時、何が起きる?」
立花は、すぐには答えられなかった。
だが、昼間に感じた“違和感”が、
少しずつ輪郭を持ち始めているのを感じる。
「……“見えてしまう”?」
榊は、そこで初めて小さく笑った。
「まだ仮説だ。だが、“幽霊がいる”よりは、よほど現実的だろう」
時計を見ると、もう日付が変わりかけていた。
「今日はここまでにしよう」
「え、でも……」
「焦るな。答えは、夜より朝の方が見えやすい」
榊はそう言ってパソコンを閉じた。
立花は立ち上がり、ドアの前で一度だけ振り返る。
「先生」
「何だ」
「……本当に、幽霊じゃないんですよね」
榊はすぐには答えなかった。
視線を落とし、ほんの一拍、考える間を置いてから口を開く。
「立花君、これは幽霊さ」
立花は一瞬、言葉を失った。
「幽霊と呼ばれている科学現象だ。これまでも、そうだったろう」
断定でも否定でもない、その言い方に、立花はかえって納得する。
――名前が幽霊なだけで、正体はまだ分かっていない。
それが、この世界で扱われる“未名現象”なのだと。
榊はそれ以上何も言わず、デスクの灯りを落とした。
*
翌朝、二人はホテルをチェックアウトすると、その足で再び入込沢トンネルへ向かった。
空は高く、雲も少ない。昨夕の茜色とは打って変わって、光は均質で、影も浅い。
トンネルへ至る山道にも、人の気配はほとんどなかった。
坑口の手前で車を止めると、榊は機材をいくつか取り出し、無言のまま準備を始める。
立花は周囲を見回し、思わず口にした。
「……昼間は、静かですね」
「ああ」
榊は短く答え、道路の先へ視線を向けた。
車は来ない。
十分、二十分と待っても、通過するのはせいぜい一台あるかどうかだった。
昨日の夕方とは、明らかに様子が違う。
榊は携帯端末の画面を確認しながら、淡々と数値を読み取っていく。
「気温、安定。坑口内外の差も小さい。
照度も問題なし。昼光が奥まで届いている」
立花はトンネルの中を覗き込む。
内部は暗いが、恐怖を感じるほどではない。
昨夕に感じた、あのひやりとした圧は、確かに薄れていた。
「排気ガス濃度も、ほぼゼロだな」
榊はそう言って、センサーを一度止めた。
「車の往来が少なすぎる。
これでは、何も“起きようがない”」
「……エネルギーも、ですか」
「ああ。粒子レベルの変動も見られん。
少なくとも、今この時間帯ではな」
榊は坑口を見上げる。
コンクリートの縁、天端、側壁――どこにも異常は見当たらない。
「現象が幽霊だろうと、未名現象だろうと、必ず条件がある」
そう言って、榊は静かに続けた。
「そして今は、その条件が一つも揃っていない」
立花は、昨日の夕方を思い出す。
車の流れ。反響音。沈みかけた太陽。
そして、説明しきれない違和感。
「……じゃあ、やっぱり」
「時間帯だな」
榊は即答しなかったが、否定もしなかった。
「少なくとも、“昼ではない”ということだけは、はっきりした」
トンネルの中を吹き抜ける風が、乾いた音を立てる。
そこには、幽霊の気配も、赤い影もなかった。
――だが、何もないこと自体が、ひとつの答えでもあった。
榊は機材を片付けながら、ぽつりと言う。
「夕方まで、待つか」
立花は頷いた。
昨日と同じ場所で、同じ時間に。
同じ現象が、再び起きるのかどうか。
二人は、その確かめに来ているのだと、立花は改めて理解していた。
(続く)




