誤認の入り口
二日後。
立花は最寄り駅のロータリーで、榊の車を待っていた。
やがて見慣れたセダンが駐車場に滑り込んでくる。
助手席に乗り込むと、榊は軽く会釈するだけでエンジンをかけ、車はそのまま長野方面へと走り出した。
高速道路に入ってしばらくした頃、立花は事前に目を通してきたネット記事をスマホで開いた。
「──N県U市の某トンネルでは、半年前から幽霊が出るという噂でもちきりだった。昭和四十年代、トンネル工事中の事故で亡くなった女性の霊だとされている……」
読み上げながら、立花はちらりと榊を見る。
「本当なんでしょうか」
「昭和の事故が理由かどうかは知らんが、事故自体はあったようだな」
榊は前方から視線を外さず、淡々と答えた。
「そうですね。昭和四十二年、入込沢トンネルは竣工から一か月後に崩落事故を起こしています」
立花はスマホの画面を操作し、保存していた別の記事を示す。
「作業員が数名亡くなったって記録も残ってます」
「ふむ……」
榊は短く相槌を打ち、ハンドルを握る指にわずかに力を込めた。
「問題は、だ」
榊は少し間を置いて続ける。
「どうして“赤い女の幽霊”と、その崩落事故が結び付いたのか、という点だ」
立花は頷いた。
「幽霊の噂が出始めたのは、令和から今の新美に変わった頃ですよね」
「そうだ。一方で事故は昭和四十年代。五十年以上の隔たりがある」
榊はそこで初めて、立花の方をちらりと見た。
「この二つが自然に結び付く理由が、今のところ見当たらん」
立花はスマホを伏せ、シートに深く背を預けた。
「……つまり、“事故があったから幽霊が出た”って話は、後付けの可能性が高いってことですか」
「少なくとも、安直すぎる」
榊はそう言って、わずかに口元を緩めた。
「人は説明のない現象に出会うと、必ず過去に理由を探す。事故、怨念、悲劇──分かりやすい物語にな」
車は山間部へと入っていく。
フロントガラスの向こうで、トンネルがいくつも口を開けては閉じていった。
「だが今回は、色まで付いている」
「赤、ですよね」
「そうだ。
未名現象に“赤い女”という具体性が付与されるのは、少々出来すぎている」
榊はそう言い切った。
「だから、現地を見ないことには何とも言えん。
噂が現象を生んだのか、現象が噂を呼んだのか──」
榊は前を見据えたまま、静かに続ける。
「その順番を確かめに行く」
立花は、シートベルトを握り直した。
心霊スポット巡りなど、軽い気持ちで引き受けた覚えはない。それでも、不思議と引き返したいとは思わなかった。
この先で何が待っているのか。
それを“幽霊”ではなく、“現象”として見る目を、もう自分は持ってしまったのだと──
立花は、ようやく自覚し始めていた。
*
夕方の空は、山の稜線に沿って薄く茜色に滲んでいた。
入込沢トンネルの坑口は、その光を拒むように影を落とし、内部だけが早くも夜の色を帯びている。
榊はウインカーを出し、車をトンネル手前の路肩へ寄せた。
エンジン音に重なるように、後続車が一台、また一台と脇を抜けていく。風圧とともに、乾いた走行音が短く反響し、すぐに消えた。
立花は助手席でスマートフォンを取り出し、あらかじめ開いていた記事に視線を落とす。
「トンネルの入り口──ここに幽霊が現れるんですよね」
坑口を指で示しながら言うと、榊は前方から目を離さず、低く答えた。
「ああ」
榊の指先が、ハンドルの上を一定の間隔で叩く。
無意識の癖なのか、考え事をしている時の合図なのか、立花にはまだ分からない。
榊はトンネルそのものではなく、坑口の縁、上部のコンクリート、そしてその向こうの山肌へと視線を巡らせていた。
「本木ビルの時と同じだ。現象は“出る”んじゃない。“起きる”」
立花はスマホから目を離し、思わずトンネルを見つめる。
「……じゃあ、幽霊が立ってるとか、そういう話じゃない?」
「可能性は低いな。少なくとも、ここは“人が何かを見る場所”というより──」
榊は、トンネルの天端、側壁、路面へと順に視線を走らせた。
「“人が何かを誤って認識させられる場所だ」
立花は唾を飲み込んだ。
榊の言葉は断定調だったが、その目はまだ何かを掴んだというより、慎重に距離を測っているように見えた。
「……誤って、認識させられる?」
榊はすぐには答えなかった。
ハンドルから手を離し、ドアミラー、バックミラーを一つずつ確認する。その動作は必要以上に丁寧で、まるで周囲の“状態”そのものを記憶に刻みつけているかのようだった。
「断定はできん」
ようやく、そう前置きしてから言う。
「だが、少なくとも“見る側の条件”が揃わなければ、何も起きない場所だとは思う」
「条件……ですか」
「ああ。時間帯、天候、交通量、視線の高さ、それから――」
榊は言葉を切り、トンネルの内部をじっと見つめた。
「光の入り方だ」
夕方の光は、坑口の縁をなぞるように斜めから差し込んでいる。
トンネル内部は暗いが、完全な闇ではなく、奥へ行くにつれて段階的に色が沈んでいく。その境目が、妙に曖昧だった。
立花は気づいていなかったが、榊はしばらく前から、トンネルに入っていく車を一台ずつ目で追っていた。
ライトを点ける車。
点けないまま入る車。
ブレーキを踏む車。
そのたびに、坑口の暗さがわずかに揺らぐ。
「今のところ、まだ“材料”が足りん」
榊はそう言って、ドアを開けた。
「外に出るぞ。中を覗く前に、まず“外からどう見えるか”を確かめる」
立花も慌てて車を降りる。
トンネルの前に立った瞬間、空気が変わった。
冷たいというほどではないが、皮膚の表面を撫でる感触が、外とは明らかに違う。
立花は無意識に、坑口の中央を見つめていた。
――何かが、見えそうな気がする。
だが、それは形ではなかった。
輪郭でも、色でもない。
ただ、“そこに視線が吸い寄せられる”感じだけがある。
「……先生」
「見えてないな?」
榊は立花を見ずに言った。
「はい。何も」
「それでいい」
榊はそう答え、しゃがみ込んで路面に手をかざした。
指先でアスファルトをなぞり、坑口付近と数歩後ろとで、表面のざらつきを確かめている。
「本木ビルの時もそうだったがな」
独り言のように続ける。
「現象そのものより先に、“違和感の置き場所”がある。
人は、そこに意味を見出そうとしてしまう」
立花は、その言葉の意味を噛みしめながら、再びトンネルを見た。
確かに――
何かが“見えた”わけではない。
だが、見てしまいそうになる場所は、はっきりと存在している。
「赤い女、という噂も……」
立花が口にすると、榊はすぐには否定しなかった。
「赤、という色が先にあったのか。それとも、後から意味づけされたのか」
榊は立ち上がり、坑口の縁に落ちる夕日の色を見つめる。
「どちらにせよ、今はまだ推測だ。だが一つだけ言える」
榊は静かに言った。
「ここは、“見せようとしている場所”じゃない。“見えてしまう瞬間”が、偶然重なる場所だ」
立花は背筋に、微かな寒気を覚えた。
幽霊が出る場所ではない。
だが、人が何かを“見てしまう理由”が、確かにここにはある。
その理由を、まだ誰も言葉にできていないだけなのだ。
(続く)




