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夕方の呼び出し

 北鴎ほくおう工科大学の三回生、立花彰たちばな あきらのスマートフォンに、量子情報物理学の榊宏一さかき こういち教授から着信があった時、彼は思わず立ち止まった。


 前回の本木ビルの一件以来、連絡先は交換していた。だが、それはあくまで「何かあった時のため」であって、実際に電話がかかってくるとは思っていなかった。


 通話は短かった。


《時間は取れるか》

《今日、少し話したい》


 理由はそれ以上語られなかった。


 アルバイトを終えた立花が北鴎工科大学に戻った頃には、時計はすでに十六時半を回っていた。キャンパスはまだ人の気配を保っているが、講義を終えた学生たちの足取りはそれぞれの帰路へと向かい始めている。


 西日が校舎の壁面を斜めに染め、ガラス越しに長い影を落としていた。


 見知った顔に軽く手を振り、立花は研究棟へと足を向ける。階段を上がるにつれ、外の喧騒は薄れ、建物特有の静けさが戻ってきた。


 教授室の前で、立花は一度だけ呼吸を整える。


 ――何の話だろう。


 そう思いながら、彼は扉をノックした。


 扉を開けると、榊はいつものようにパソコンのモニターを凝視していた。

 教授室の中は相変わらず整理されているようで、どこか雑然としている。机の上には論文のプリントが積まれ、壁際のホワイトボードには数式とも図ともつかない線が残ったままだ。


「先生、ご無沙汰です。どうしたんですか」


 立花の声に、榊はようやくモニターから目を離した。眼鏡の奥の視線が一瞬だけ立花を捉え、それから、いつものように穏やかに細められる。


「すまん。少し君の協力が必要になるかもしれん」


 そう言って、榊は顎で椅子を示した。


「何ですか? 突然」


「まあまあ。まずは座りなさい」


 立花が腰を下ろすのを待ってから、榊はキーボードを操作し、モニターの向きをこちらに回した。


「少し、これを見てくれないか」


 画面に映っていたのは、夜のトンネルの写真だった。照明は心許なく、奥は闇に呑み込まれている。

 その下には、やけに装飾過多なフォントで文字が踊っていた。


 ――

「赤い女の幽霊がいると言われるN県U市の某トンネル」

 ――


 立花は思わず苦笑する。


「……随分あからさまですね」


「いちいち言わなくても分かると思うが」


 榊は肩をすくめるように言った。


「長野県上田市だ。ここに“赤い女の幽霊”が現れるらしい」


 幽霊、という言葉に含ませた皮肉は、隠そうともしていない。


「もちろん、これは幽霊ではない。何らかの未名現象のひとつだ」


 そう言いながら、榊は再びモニターを自分の方へ引き寄せた。

 画面の光が眼鏡に反射し、その奥の表情は読み取れない。


「――そしてな」


 一拍置いて、榊は続ける。


「この話、どうも“見え方”が妙なんだ」


 その言い方が、立花の胸に小さな引っかかりを残した。


「先生、何が妙なんですか」


「色だよ」


 即答だった。


 だが、色と言われても、立花には何が問題なのか分からない。

 画面に映っているのは、暗いトンネルと、それに付随する胡散臭い見出し文だ。そこから先の情報は、どこにでもある怪談記事と変わらない。


 榊は、立花の表情を見て察したように、椅子に深く腰を下ろし、言葉を継いだ。


「いくら未名現象とはいえ、“幽霊”と呼ばれる科学現象に、はっきりした色彩が付随することはほとんどない」


 榊は指先で机を軽く叩く。


「ああいうものは大概、輪郭が曖昧で、半透明で、色が抜け落ちている。言ってしまえば、情報として不完全だ」


 榊は再びモニターに視線を戻した。


「ところが今回は違う。最初から“赤い女”だ。

 色だけじゃない。性別まで特定されている」


「……ネット記事だから、適当に書いたんじゃないですか?」


 立花はそう言いながらも、どこか釈然としない気持ちが残っていた。


「そうかもしれん」


 榊はあっさりと頷く。


「だが、そうでない可能性もある。だから調査に行く」


 その言葉に、立花は思わず身を乗り出した。


「だから君にも来てほしいんだ」


「ちょっと待ってください」


 即座に立花は言った。


「僕にだって都合がありますよ」


 突然の申し出に、胸の奥がざわつく。

 こちらの都合も考えず、何を言い出すんだ──。


 立花の視線を受け止めながら、榊は少しだけ口元を緩めた。まるで、その反応も織り込み済みだったかのように。


「頼むよ。旅費も私が出すし、ちょっとしたバイト代も出す。君が来てくれるとありがたい」


 榊は軽い調子で言ったが、その言葉は立花の胸に引っかかった。


 ――おかしい。


 最初は、立花のほうから相談を持ちかけた。

 自室で起きたポルターガイストめいた現象を、半信半疑で榊に話し、結果として解決してもらった。


 二度目は、本木ビル。

 就活に疲れ、気晴らしのつもりで教授室を訪れたところ、たまたま話題に上がっていた事件に巻き込まれただけだ。


 どちらも、立花が起点だった。


 だが、今回は違う。


 今回は――

 榊のほうから電話をかけてきた。

 しかも、最初から現地調査を前提にしている。


 立花は、無意識のうちに椅子の背にもたれ、腕を組んだ。


「……僕じゃないと、だめなんですか?」


 自分でも驚くほど、冷静な声が出た。


 榊はすぐには答えなかった。

 モニターの端に映るトンネルの写真を、もう一度だけ見つめる。


「だめ、というほどではない」


 やや間を置いてから、そう前置きした。


「だが、君がいたほうがいい」


 その言い方は、研究者のものだった。

 感情でも、善意でもなく、仮説と経験に基づいた判断。


 立花は、その理由をまだ聞いていないのに、

 胸の奥で、嫌な予感だけが先に形を持ち始めていた。


 自分は、

“巻き込まれている”のではなく、

“呼ばれている”のではないか――。


 そんな考えが、頭をよぎる。


 立花はそれを振り払うように、視線を榊に戻した。


「……少し、考えさせてください」


 榊は頷いた。


「もちろんだ。急がせるつもりはない」


 だが、その声には、立花が断らないことを、どこかで確信している響きがあった。


            *


2日後、立花は榊の研究室を訪れた。


「わざわざ来なくても、電話で済んだのに」


「いえ、この後授業なので来ました」


「そうか。それで、長野の件はどうだ」


立花はまだ迷っていた。だが、これまで自分の知らない常識を榊に見せつけられ、さらに未知の現象があるなら目にしたいという気持ちも確かにあった。


「レポートとバイトがあるので、明後日だったら都合がつきます。でも、1日か2日で済みますよね」


「ああ、おそらくそれくらいで解決するとは思う。もし解決しなくても、君は帰って構わない」


立花は軽くため息をつき、目を細める。少し戸惑いながらも、どこか胸の奥でわくわくしている自分に気づく。


「もう“ゴーストバスターズ”は無しですよ」


(続く)

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