第9話「海外の状況」
翌朝の研究室は、まだ夜の冷気の膜が部屋の隅々に張り付いているように静まりかえっていた。
空調が稼働し始めているはずだが、壁や床に染み込んだ寒さは容易には抜けない。それは物理的な気温の低さというより、この建物全体が巨大な氷室の中に閉じ込められてしまったかのような、底冷えする感覚だった。空気そのものが凍りついているような、そんな感触。呼吸をするたびに、肺の中まで冷気が侵入してくる。
廊下からは、まだ人の気配がない。他の研究室も、まだ静まり返っている。この時間に来るのは、よほど熱心な研究者か、あるいは眠れなかった者だけだ。
洋子が重い防火扉を開けて研究室に入ったのは、午前七時半を少し回った頃だった。
扉は重く、開けるのに少し力が必要だった。金属の軋む音が、静寂の中で大きく響いた。
「……おはよう」
誰もいない空間に向けて小さく呟く。
その声は、虚しく部屋に吸い込まれていった。返事はない。当然だ。まだ誰も来ていない。だが、声を出すことで、自分がここにいることを確認する。存在の確認。それが、今の洋子にとって重要だった。
睡眠時間は短かったが、頭の中は不思議とクリアだった。昨夜の浩との会話、そして交わした「約束」が、熱を持った小さな種火のように胸の奥に残っている。
あの約束は、洋子を変えた。恐怖は消えない。だが、恐怖に飲み込まれることはなくなった。誰かが自分を覚えていてくれる。その確信が、洋子を支えていた。
以前なら、朝目覚めた瞬間に「私はまだ私か?」と恐怖していただろう。鏡を見るのが怖かった。そこに自分が映っていなかったらどうしよう。そんな非合理的な恐怖に支配されていた。だが今朝は、鏡に映る自分の顔を見て、浩がそれをどう記録してくれるかを想像することで、恐怖を飼い慣らすことができていた。
不安が消えたわけではない。けれど、足元の床が抜けていくような頼りなさの中に、一本だけ太い杭が打ち込まれたような、確かな安堵感があった。
その杭が、浩だった。彼が、洋子を現実に繋ぎ止めてくれている。その実感が、洋子に力を与えていた。
窓の外では、早朝の青白い光に照らされて、無数の六花結晶が舞っていた。
その光は、まだ弱々しかった。太陽は、まだ地平線の向こうにある。だが、その光が、雪を照らしている。雪は、光を反射して、幻想的な光景を作り出していた。
洋子は荷物を置き、いつものようにガラス越しに空を見上げた。
その動作は、習慣になっていた。研究室に来たら、まず窓の外を見る。雪の状態を確認する。それが、気象学を専攻する者としての本能だった。
雪は、今日も異常だった。
その異常さは、一目でわかった。自然の雪ではない。何か、人工的なものを感じさせる。
風がないのに、すべての雪片が一定の速度で、垂直に落ちてくる。その一つ一つが、定規で線を引いたように正確な六角形をしており、顕微鏡を使わずともその鋭利な構造が見て取れるほどだ。
通常の雪は、もっと不規則だ。風に流され、軌道を変え、時には空中で舞う。だが、この雪は違う。すべてが同じ速度で、同じ方向に落ちている。まるで、プログラムされているかのように。
「……コピー&ペーストみたい」
洋子は独り言を漏らした。
その言葉は、的確だった。自然界特有のゆらぎや個性が完全に排除され、まるで空という巨大な工場が、一つの完璧な型枠を使って無限に複製を続けているようだ。その光景は美しかったが、同時に生理的な拒絶反応を引き起こす種類の不気味さを孕んでいた。
美しいものが、恐ろしい。その矛盾が、洋子を不安にさせた。
洋子は、窓に近づいた。ガラスに手を当てる。冷たい。その冷たさが、現実を実感させた。
「……来たか、洋子」
部屋の奥から声がして、洋子は振り返った。
その声は、予想外だった。まだ誰もいないと思っていた。心臓が跳ねる。
浩はすでに到着しており、デスクの周りに資料を積み上げていた。昨夜の優しげな雰囲気とは打って変わり、その背中は張り詰めた弓のように硬い。彼はメインモニターに複数のニュース映像を同時表示させながら、険しい表情で画面を睨みつけていた。
その姿は、研究者のそれだった。何かを調べている。何かを探している。その集中力は、並外れていた。
「早いのね、浩くん。……何かあったの?」
洋子が近づくと、浩は椅子を回転させ、ゆっくりとこちらを向いた。その顔色は悪く、目の下には濃い隈が刻まれている。
彼は、一睡もしていないのかもしれない。あの後、ずっとここにいたのか。それとも、一度帰ってから、また来たのか。いずれにせよ、疲労が顔に刻まれていた。
「ああ。……始まっちまったよ」
浩の声は低く、乾いていた。
その声には、諦めに似た響きがあった。だが、それ以上に、覚悟があった。
「海外でも……消失が確認された」
その言葉を聞いた瞬間、洋子の体が硬直した。
洋子は息を呑んだ。
その言葉の意味を理解した瞬間、胸の奥で温かい種火として燃えていた安心感が、冷水を浴びせられたように激しく揺らいだ。昨夜感じた希望が、一瞬で崩れ去りそうになった。
海外。つまり、日本だけではない。世界規模。その意味が、洋子の頭の中で広がっていく。
「海外って……この現象、日本だけじゃなかったの?」
洋子の声は、震えていた。
「残念ながらな」
浩は無言でリモコンを操作し、モニターのボリュームを上げた。
画面に映し出されていたのは、海外のニュース専門チャンネルの速報映像だった。画面右上のテロップには《BREAKING NEWS》の文字が赤く点滅している。その赤い文字が、緊急性を物語っていた。
映っているのは、極寒の北欧の街角だった。おそらくノルウェーかフィンランドだろう。厚手の毛皮を着込んだ人々が、吹雪の中で立ち尽くしている。
その光景は、どこか非現実的だった。まるで、映画のワンシーンを見ているような。だが、これは現実だ。今、この瞬間に起きていることだ。
カメラは、現地のレポーターと思われる女性記者を映し出した。彼女はマイクを握る手を震わせながら、青ざめた顔で早口にまくしたてている。同時通訳の音声が、無機質にその内容を伝えてくる。
その声は、機械的だった。だが、その内容は、生々しかった。
『現在、この地域だけで十二件の行方不明報告が警察に寄せられています。しかし、状況は極めて不可解です』
十二件。その数字が、洋子の胸を締め付けた。
映像が切り替わり、警察署の前でインタビューに応じる初老の男性が映った。
その男性の顔には、困惑が刻まれていた。理解できない事態に直面している。その表情が、すべてを物語っていた。
『家族全員が、同じ人物を「知らない」と証言しています。しかし、家の防犯カメラには、昨日まで確かにその青年が生活していた映像が残っているのです』
男性は困惑しきった様子で首を振り、言葉を続けた。
『物理的な証拠はある。しかし、誰の記憶にもない。まるで彼だけが、幽霊のように歴史から切り離されているようです』
その言葉が、洋子の心に突き刺さった。
洋子は画面に釘付けになったまま、動けなかった。
言葉も文化も違う遠い国で、全く同じことが起きている。
それは、偶然ではない。何か共通の原因がある。そして、その原因は、国境を越えて広がっている。
「……幽霊」
洋子の口から、乾いた音が漏れる。
その言葉が、すべてを表していた。存在するが、認識されない。そこにいるが、誰も知らない。それは、幽霊と同じだった。
「向こうの人たちも、同じように感じてるんだね。記憶がないのに、記録だけがある恐怖を」
洋子の声には、共感があった。遠い国の人々。会ったこともない人々。だが、同じ恐怖を抱えている。その連帯感が、奇妙な慰めを与えた。
「ああ。現象のプロセスは完全に一致してる」
浩はキーボードを叩き、別のウィンドウを開いた。その動作は、素早く、慣れていた。彼は、すでに何時間もこの作業をしているのだろう。
そこには地球儀の3Dモデルが表示され、北半球のあちこちに赤いマーカーが点灯している。
その光景は、衝撃的だった。赤い点が、無数にある。それぞれが、消失事例を示している。一つ一つが、誰かの消失を意味している。
「北欧だけじゃない。ロシアのシベリア地方、カナダの北部、そしてアラスカ。……すべて、現在進行形で激しい降雪が観測されている地域だ」
浩の説明は、冷静だった。だが、その目には、恐怖があった。この事態の深刻さを、彼は理解している。
洋子は、その地図を見つめた。赤い点が、北半球全体に広がっている。寒冷地。降雪地域。すべてが該当する。
浩は画面上の地球儀をゆっくりと回転させた。
その動作は、静かだったが、意味深だった。何かを示そうとしている。
「これを見てくれ。赤いマーカーの発生時刻を追っていくと、ある法則が見えてくる」
浩の声には、発見の興奮があった。科学者としての本能が、パターンを見出している。
彼は指で、地球の自転方向になぞってラインを引いた。
その線は、西へ西へと続いていた。まるで、何かが地球を一周しているかのように。
「地球の自転に合わせて、結晶密度指数のピークが西へ西へと移動している。まるで、夜明けが来るのと同じように、『消失の波』が地球を一周しようとしているみたいだ」
その説明を聞いた瞬間、洋子の全身に鳥肌が立った。
「それって……」
洋子は背筋に悪寒が走るのを感じた。
その意味を理解した。これは、局地的な現象ではない。地球規模の、システマティックな現象だ。
「ただの局地的な異常気象じゃない。……地球規模のシステムエラーってこと?」
洋子の声は、震えていた。システムエラー。その言葉が持つ意味。地球そのものが、何かのシステムだとしたら。そして、そのシステムにエラーが生じているとしたら。
「あるいは、意図的なアップデートか、だな」
浩は苦々しげに吐き捨てた。
その言葉は、さらに恐ろしい可能性を示唆していた。エラーではなく、意図的な変更。誰かが、あるいは何かが、地球のシステムを書き換えている。
「俺たちが相手にしているのは、一地域の雪雲なんてレベルじゃない。この惑星の大気循環そのものが、何らかの『仕組み』に従って、人間の記憶を間引き始めている」
浩の言葉は、重かった。その言葉が、現実の重さを伝えていた。
"仕組み"。
その言葉の持つ冷徹な響きが、研究室の空気を歪めたように感じられた。
自然災害ならば、いつかは過ぎ去る。台風は去り、地震は収まり、津波は引く。だが、これがシステムの変更だとしたら? 雪が止むまで待てばいいという話ではなくなる。これは、恒久的な変化かもしれない。新しい常態かもしれない。
洋子は無意識に自分の腕を抱いた。世界中どこへ逃げても、雪が降る限り、この恐怖からは逃れられない。
赤道直下に逃げるか。だが、それもいつまで安全かわからない。もし、この現象が拡大していけば。もし、雪以外の要因でも発生するようになれば。
その想像は、恐ろしすぎた。
その時だった。
研究室のドアが、ノックもなく静かに、しかし重々しく開かれた。
その音は、予期していなかった。二人は、画面に集中していた。外部からの侵入を、警戒していなかった。
「……入ります」
その声は、聞き覚えがあった。
現れたのは、内閣危機管理監付・特別監察班の岸本だった。
彼女の登場は、さらなる悪いニュースの前触れだった。彼女が来るということは、事態が深刻化しているということだ。
いつもは氷のように冷静な彼女だが、今日ばかりはその表情に隠しきれない焦燥と疲労が滲んでいる。整えられたスーツの肩には、払いきれなかった雪の粒子が白く残っていた。
その雪が、何を意味しているのか。彼女は、外を歩いてきた。雪の中を。その雪もまた、異常な雪だった。
「岸本さん……」
浩と洋子は、弾かれたように椅子から立ち上がった。
その動作は、反射的だった。権威への敬意というよりも、緊張からくるものだった。
岸本は挨拶もそこそこに、二人のデスクへと歩み寄った。その足音は硬く、緊急事態を告げるメトロノームのように響く。
一歩、一歩。その足音が、運命の接近を告げていた。
「急ぎの情報共有があります。事態は……我々の想定よりも遥かに悪い」
岸本の声は、抑制されていた。だが、その奥には、動揺があった。彼女ほどの人間が動揺している。それは、よほどのことだった。
彼女は手元のタブレットを開き、二人の前のメインモニターに接続した。
その動作は、機械的だった。だが、手が微かに震えているように見えた。
画面上の地図が切り替わり、世界地図全体が投影される。
そして、その光景を見た瞬間、洋子は息を呑んだ。
そこには、先ほど浩が表示していたものよりもさらに広範囲に、そして高密度に、赤い点が散らばっていた。
それは、悪夢だった。地図が、赤く染まっている。北半球全体が、赤い点で覆われている。
「深夜から今朝にかけて、記憶の消失報告、および"認知不全"の事例が世界各国で同時多発的に発生しました」
岸本の声は、事実を伝えるためだけに感情を削ぎ落としていた。
その声は、機械的だった。だが、それは彼女の自衛本能だった。感情を出せば、崩れてしまう。だから、事実だけを述べる。
「現時点で確認されただけで二十七件。予備軍を含めれば三桁に達します。そして、その全てが――」
三桁。百人以上。その数字が、洋子を圧倒した。
「……雪の観測地域、ですね」
浩が先回りして言うと、岸本は深く頷いた。
その頷きは、重かった。予想が、現実になった。
「はい。北欧、ロシア、カナダ、さらには南半球のアルゼンチン南部まで。寒冷地、および寒波が到来している地域で、爆発的に広がっています」
南半球まで。それは、北半球だけの問題ではないことを意味していた。地球全体の問題だ。
洋子は画面上の赤い点を見つめた。
それは単なるデータ上のマーカーではない。一つ一つの点の裏側に、誰かの大切な人がいて、その存在が世界から抹消されたという事実がある。
その重みが、洋子の肩にのしかかった。
「……結晶密度指数が、世界中で同期しているみたい」
洋子が震える声で指摘すると、岸本はわずかに目を細め、彼女を見た。
その目には、評価するような光があった。洋子の理解力を、認めている。
「その通りです。日本であなた方が発見した"異常成長する雪のパターン"と、全く同じ兆候が世界各地の観測所から報告されています」
岸本の言葉は、確認だった。洋子の推測は、正しかった。
岸本は一度言葉を切り、重い口調で告げた。
その間は、意図的なものだった。次の言葉の重みを、強調するための。
「日本政府だけでは対処しきれません。各国政府と協議し、これ以上の拡大を防ぐため、緊急で"雪結晶国際解析班"を発足させることになりました」
その言葉は、宣言だった。
国際的な対応。それは、事態が国家の枠を超えたことを意味していた。
人類全体の危機。
その認識が、研究室に重くのしかかった。
洋子と浩は、顔を見合わせた。
これは、もう研究ではない。
戦争だ。
見えない敵との。
「国際解析班……ですか」
浩が、噛み締めるようにその言葉を繰り返した。
その言葉を口にすることで、現実を受け入れようとしている。だが、簡単には受け入れられない。
あまりにもスケールが大きすぎて、現実感が追いつかない。北関東の一大学の、古びた研究室で行っていた地道な雪の観測が、今や地球規模の危機管理の中枢に組み込まれようとしている。
つい数週間前まで、自分たちは学生だった。研究者の卵。論文を書き、データを集め、学位を取るために勉強していた。それが、今や世界を救う立場にいる。その転換が、あまりにも急激だった。
浩は、自分の手を見た。この手で、世界を救えるのか。この手で、消失現象を止められるのか。その自信は、なかった。だが、やるしかない。
岸本は事務的に頷き、タブレットの画面をスワイプした。
その動作は、機械的だった。だが、その指は、わずかに震えているように見えた。彼女もまた、この事態に動揺している。だが、それを表に出さない。職務を遂行する。それが、彼女の役割だった。
「はい。あなた方が見つけ出した『結晶密度指数』と『消失の相関モデル』は、現在、国際的な監視基準として暫定採用されました。通称『Murakami-Protocol』として、各国の気象機関に共有されています」
ムラカミ・プロトコル。その名前は、村上の名前から来ている。彼らの研究室の名前が、世界中で使われている。その事実が、現実味を帯びてきた。
「僕たちの名前が……」
浩は困惑し、視線を泳がせた。
光栄だと思う余裕など微塵もなかった。自分たちの名前が冠されたプロトコルが、世界中の誰かの"死刑宣告"に使われるかもしれないという事実に、胃の腑が重くなる。
このプロトコルによって、消失の予測が可能になる。だが、それは同時に、誰が消えるかを予測するということだ。そして、予測できても、止められない。その無力感が、浩を苛んだ。
洋子もまた、同じことを考えていた。彼女の顔には、複雑な感情が浮かんでいた。誇りと、罪悪感と、恐怖が混ざり合っている。
「責任を感じる必要はありません。今は、使える武器は何でも使うしかないのです」
岸本は冷徹に告げたが、その声にはわずかな焦りが滲んでいた。
その焦りは、彼女の本心を示していた。彼女もまた、追い詰められている。時間がない。対策を立てなければ。だが、有効な対策が見つからない。
「現在、世界気象機関(WMO)と連携し、この研究室をアジア地区のデータ集積ハブに指定する手続きを進めています。数時間後には、各国のスパコンとここのサーバーが直結されるでしょう」
データ集積ハブ。この小さな研究室が、世界中のデータが集まる場所になる。その責任の重さが、浩と洋子の肩にのしかかった。
洋子は、部屋の隅で唸りを上げているサーバーを見やった。
そのサーバーは、古いものだった。何年も前から、ここで稼働している。だが、今や、世界中のデータを処理する重要な役割を担おうとしている。
黒い筐体が、まるで脈打つ心臓のように見えた。ここを通って、世界中の雪のデータと、それに紐付いた人々の悲鳴が流れ込んでくる。
その想像は、恐ろしかった。世界中の悲しみが、ここに集まる。その重さに、耐えられるだろうか。
「……逃げられないんですね、もう」
洋子が静かに呟くと、岸本は彼女を真っ直ぐに見つめ返した。
その目には、同情があった。だが、それ以上に、覚悟があった。逃げることは許されない。戦うしかない。
「ええ。この星に雪が降る場所がある限り、安全地帯はありませんから」
その言葉は、冷酷だった。だが、真実だった。逃げ場はない。地球上のどこにも。
一通りの業務連絡を終え、岸本はタブレットを閉じた。
パタン、という乾いた音が響くと同時に、彼女が纏っていた鉄壁の"官僚としての鎧"が、ふっと緩んだように見えた。
その変化は、微妙だった。だが、確かにあった。彼女の肩の力が抜け、表情が柔らかくなった。
彼女は長く、深い溜息をつき、無意識のように窓の外へ視線を向けた。
その溜息には、疲労があった。そして、何か別の感情も。諦めか。それとも、悲しみか。
ガラスの向こう、無機質に降り続く白い六花。
その雪は、変わらず降り続けていた。美しく、冷酷に。すべてを奪いながら。
「……昨夜、家に帰ったときのことです」
唐突に、岸本が口を開いた。その声は、先ほどまでの業務報告とは全く違う、ひどく個人的で、頼りない響きを含んでいた。
その変化に、浩と洋子は驚いた。岸本が、個人的な話をする。それは、異例のことだった。
「私は都内のマンションで一人暮らしをしています。仕事が忙しくて、結婚もしていませんし、同居人もいません。……少なくとも、私の記憶ではそうです」
その言葉の最後に、不吉な響きがあった。「私の記憶では」。その言葉が、何を意味するのか。
浩と洋子は顔を見合わせ、黙って次の言葉を待った。
二人とも、嫌な予感がしていた。岸本に、何かが起きた。そして、それは、彼らにも起こりうることだ。
岸本は窓の外の雪を見つめたまま、独白のように続けた。
その声は、遠くを見つめるような響きを持っていた。まるで、過去を探っているかのような。
「ですが、昨夜遅くに帰宅して、洗面所で顔を洗おうとしたとき……ふと気づいたんです。歯ブラシ立てに、歯ブラシが二本あることに」
その言葉を聞いた瞬間、洋子の背筋に冷たいものが走った。
室内の空気が、シンと冷え込んだ。
二本の歯ブラシ。その意味が、すぐに理解できた。
「一本は私のものです。でも、もう一本。青い柄の、使い古された歯ブラシが、当たり前のように隣に並んでいました。……私はそれを手に取って、捨てようとしました。誰のかわからない、不気味なゴミだと思って」
岸本の声は、震えていた。その震えは、彼女の内面の動揺を示していた。
岸本の指先が、微かに震えていた。彼女は自身の左手を右手で強く握りしめ、その震えを止めようとしていた。
だが、止まらない。震えは、心の震えだった。
「でも、捨てられなかった。ゴミ箱に入れようとした瞬間、猛烈な吐き気と、胸が引き裂かれるような悲しみが襲ってきたんです。……脳は『知らない』と言っているのに、体が『捨ててはいけない』と叫んでいるようで」
その描写は、生々しかった。記憶は消えても、感情は残る。体が覚えている。その矛盾が、岸本を苛んでいた。
洋子は、痛いほどその感覚がわかった。
理屈ではない。記憶でもない。もっと深い、細胞レベルに刻まれた愛着の痕跡。
それは、洋子も経験していた。何かを忘れている。だが、その何かを失った悲しみだけが残っている。その感覚を、洋子は知っていた。
「……岸本さん」
洋子は思わず歩み寄り、彼女の背中に手を伸ばそうとして、ためらった。
その手は、空中で止まった。触れていいのか。慰めていいのか。岸本は、そういうことを望んでいるのか。わからなかった。
だが、洋子は、岸本の痛みがわかった。同じ痛みを、自分も抱えている。忘れたくないのに、忘れている。その矛盾が、心を引き裂く。
岸本は、薄く笑った。自嘲気味で、けれどどこか泣き出しそうな笑顔だった。
その笑顔は、痛々しかった。強がっている。だが、その奥には、深い悲しみがあった。
「滑稽ですよね。国家の危機管理を担当する人間が、自分の家の歯ブラシ一本の出処さえわからないなんて。……私にも、既に守るべき『空席』ができてしまっていたようです」
その言葉には、諦めがあった。だが、それ以上に、自分自身への怒りがあった。なぜ、守れなかったのか。なぜ、忘れてしまったのか。
空席。その言葉が、再び浮かび上がる。岸本にも、空席がある。誰かがいた。大切な誰かが。だが、今は、その存在が消えている。
浩は、黙って聞いていた。何も言えなかった。慰めの言葉が、見つからない。この痛みは、簡単には癒えない。
その告白は、彼女もまた「あちら側」ではなく、同じ恐怖に怯える「こちら側」の人間であることを痛烈に示していた。
権力者も、一般人も、関係ない。どんなに権限を持っていても、どんなに優秀でも、雪は平等に何かを奪っていく。
それは、残酷な平等だった。誰も、逃れられない。誰も、例外ではない。
「……滑稽じゃありません」
洋子は強く言った。
その声には、確信があった。岸本を否定する確信。彼女の自己嫌悪を、否定する確信。
「それは、岸本さんが何かを大切にしていた証拠です。思い出せなくても、その感情だけは本物です。……私たちと同じです」
洋子の言葉は、温かかった。その温かさが、岸本の心に届いた。
記憶は消えても、感情は残る。愛は残る。その事実が、岸本を救った。完全には消えていない。まだ、何かが残っている。
岸本はハッとしたように洋子を見た。
その目には、驚きがあった。そして、感謝があった。洋子の言葉が、岸本の心を動かした。
数秒の沈黙の後、彼女はゆっくりと姿勢を正し、再び官僚の顔へと戻った。だが、その瞳に宿る光は、先ほどまでの冷徹な光ではなく、もっと人間的な、共有された痛みに基づく強さに変わっていた。
その変化は、明確だった。岸本は、変わった。弱さを見せた。そして、それを受け入れられた。その経験が、彼女を強くした。
彼女は、もう一人ではない。同じ痛みを共有する仲間がいる。その連帯感が、彼女に力を与えた。
「……ありがとうございます。弱音を吐きました」
岸本の声は、落ち着いていた。だが、その奥には、温かさがあった。人間らしい温かさ。
彼女は一礼し、踵を返した。
その動作は、決然としていた。もう、迷いはない。やるべきことをやる。それだけだ。
「国際回線の接続準備に入ります。あなた方も、覚悟を決めてください。……私たちは、必ずこの『白い侵略』に抗いましょう。たとえ、記憶が穴だらけになっても」
その言葉は、宣言だった。誓いだった。そして、希望だった。
白い侵略。雪による、記憶の侵略。それに、抗う。記憶が消えても、諦めない。戦い続ける。
ドアが閉まり、岸本の足音が遠ざかっていっても、その言葉の余韻は部屋に残り続けていた。
その余韻は、力強かった。三人の間に、絆が生まれた。同じ戦いを戦う仲間としての絆。
浩は、しばらく黙っていた。岸本の言葉を、噛み締めていた。白い侵略。その言葉が、この現象を的確に表していた。
洋子もまた、窓の外を見つめていた。雪が、まだ降り続けている。その雪が、敵だ。美しいが、残酷な敵。
浩はデスクに戻り、キーボードに手を置いた。
その手は、もう震えていなかった。迷いはない。やるべきことが、明確になった。
「……やるぞ、洋子」
その声には、迷いはなかった。
決意の声だった。覚悟の声だった。そして、希望の声だった。
「世界中のデータが集まるなら好都合だ。サンプル数が増えれば、雪が記憶を消す『決定的な瞬間』の法則をもっと正確に割り出せるはずだ」
浩の言葉は、論理的だった。科学者としての視点。データを集め、分析し、法則を見つける。それが、彼らの戦い方だった。
「うん」
洋子も自分の席に着き、モニターを見据えた。
その目には、決意があった。恐怖はある。だが、それ以上に、やる気があった。
画面の中では、世界地図上の赤い点がまだ増え続けている。
その光景は、恐ろしかった。だが、同時に、データでもあった。一つ一つの点が、情報を提供してくれる。その情報を分析すれば、答えが見つかるかもしれない。
一つ一つの点滅が、世界のどこかで誰かが「空席」に変わったことを告げている。
北欧の村で、カナダの都市で、ロシアの平原で。
言葉も知らない誰かが、大切な人の名前を忘れ、呆然と立ち尽くしている。
その悲しみが、今、世界中で起きている。同時多発的に。止まらない。
その悲しみの総量が、今は自分たちの背中を押すエネルギーに変わっていた。
彼らのために。消えた人々のために。そして、これから消えるかもしれない人々のために。戦う。
洋子は、キーボードに手を置いた。その手は、温かかった。生きている温もり。
浩と洋子は、顔を見合わせた。無言で頷き合う。
言葉はいらない。二人の間には、理解があった。信頼があった。そして、決意があった。
窓の外では、雪が降り続いている。
それは美しく残酷な、終わりのない行進のように見える。
白い軍勢。記憶を奪う軍勢。その行進は、止まらない。
だが、二人はもう目を逸らさなかった。
恐怖から目を背けない。現実を直視する。それが、戦いの第一歩だった。
この白い絶望の向こう側に、必ず「答え」があると信じて。
その信念が、二人を支えていた。答えはある。必ず見つかる。諦めなければ。
科学は、答えを見つけるためにある。未知を既知に変えるために。その使命を、二人は果たそうとしていた。
世界中が雪に閉ざされていく中で、小さな研究室の戦いは、いよいよ最終局面へと向かおうとしていた。
それは、人類と消失現象との戦い。記憶を守るための戦い。存在を守るための戦い。
その戦いの最前線に、浩と洋子はいた。
二人は、モニターに向き合った。データが流れ込んでくる。世界中から。
その一つ一つを分析する。パターンを見つける。法則を導き出す。
それが、彼らにできることだった。
そして、それが、世界を救う鍵になるかもしれなかった。
雪は、まだ降り続けている。
だが、二人は戦い続ける。
記憶が消えても。
名前が忘れられても。
それでも、戦い続ける。
それが、彼らの誓いだった。
浩は、キーボードを叩き始めた。その音が、研究室に響く。
洋子も、データを開き始めた。画面が、数字で埋め尽くされていく。
二人の戦いが、始まった。
長い、長い戦いが。
だが、希望はある。
必ず、答えは見つかる。
そう信じて。




