第8話「洋子の恐怖」
深夜の研究室は、時間の流れがそこで淀んでいるかのように静まり返っていた。
蛍光灯の一部は消され、部屋の隅で稼働し続ける加湿器の低い駆動音だけが、一定のリズムで空気を震わせている。シュー、シュー、という湿った音と共に、白い蒸気が細い糸のように立ち上り、天井付近の闇へと溶けていく。その音は、単調で、催眠的だった。だが、洋子にとって、それは孤独を際立たせる音でもあった。
外の世界は、すでに眠りについている。窓の外には、街灯の光に照らされた雪景色が広がっている。静寂の中、雪が降り続けているのが見えた。音もなく、ただひたすらに。
洋子は机に突っ伏した姿勢のまま、その頼りない白煙のゆらぎを目で追っていた。
頬を机の冷たい表面に押し付け、半ば焦点の合わない目で、加湿器から立ち上る蒸気を見つめている。蒸気は形を変え、揺らぎ、やがて空気と混ざり合って見えなくなる。まるで、この世界における人間の存在そのものの隠喩を見せつけられているようだった。生まれ、存在し、そして消える。痕跡も残さずに。
体は疲れ切っていた。だが、眠ることができなかった。目を閉じれば、悪夢が襲ってくる。自分が消えていく夢。誰も自分を覚えていない夢。鏡を見ても、そこに何も映っていない夢。そんな夢ばかりを見る。だから、目を開けていた。現実を確認し続けるために。
――今日も、消えなかった。
胸の奥で、その言葉を反芻する。
じわりと熱いものがこみ上げ、それだけで目頭が熱くなる。その感情は、安堵と恐怖が混ざり合ったものだった。
朝、目が覚めて自分の手足の感覚があること。鏡の中に自分の顔が映ること。浩が自分の名前を呼んでくれること。
そんな当たり前の「存在の継続」に、これほど安堵し、感謝する日が来るなんて、半年前の自分には想像もできなかっただろう。あの頃は、毎日が退屈だった。研究も、日常も、すべてが当たり前で、変わらないものだと思っていた。だが、今は違う。かつては退屈だと思っていた日常が、今は薄氷の上を歩くような奇跡の連続によって成り立っていることを、痛いほど思い知らされている。
朝起きることが奇跡。名前を呼ばれることが奇跡。記憶されていることが奇跡。
すべてが、奇跡だった。そして、その奇跡は、いつ終わってもおかしくない。
しかし、その安堵は長くは続かない。
一瞬の安らぎの裏側から、冷ややかな別の声がすぐに囁くのだ。その声は、理性の声だった。現実を見ろという声。
――明日は、どうかわからない。
――今はまだ形を保っているけれど、次の瞬間には雪のように崩れ落ちて、誰の記憶にも残らない「空白」になってしまうかもしれない。
その声は、容赦なかった。希望を奪い、不安を増幅させる。だが、それは真実でもあった。誰も、明日のことは保証できない。消失現象は、予測不可能だ。いつ、誰が、消えるか、わからない。
洋子は、その恐怖と共に生きていた。毎日、毎時間、毎分。自分が消えるかもしれないという恐怖。そして、それ以上に、周りの人々が自分を忘れるかもしれないという恐怖。
洋子はゆっくりと体を起こした。強張った背骨が小さくきしむ音を立てる。
長時間、同じ姿勢でいたからだ。首も肩も痛かった。だが、その痛みが、かろうじて自分が生きていることを実感させた。痛みは、存在の証明だった。
冷え切った指先で、机の脇に置いてあった厚手のノートを引き寄せた。
そのノートは、使い込まれていた。表紙は少し汚れ、角は丸くなっている。だが、洋子にとって、これは宝物だった。
日記。
この一週間、毎晩欠かさず書き続けている、自分がこの世に存在した唯一の"物的証拠"だ。
もし、周囲の人間の記憶から私が消えてしまっても、物理的なインクの跡だけは残るかもしれない。そう信じてすがるしかない、最後の命綱だった。記憶は消えても、記録は残る。それを信じて、洋子は毎日書き続けていた。
表紙を開くと、そこにはびっしりと書き込まれた文字の羅列があった。
昨日の天気、食べたサンドイッチの味、研究データの解析結果、窓の外の雪の結晶の形状、そして浩とかわした何気ない会話。
どれも取るに足らない日常の断片だ。特別なことは何もない。ただの、ありふれた日常。けれど、"無くなるかもしれない"という根源的な恐怖が、ペンを握る手に過剰な力を込めさせていた。筆圧で紙が波打ち、所々でインクが滲んでいる。文字は乱れ、読みにくくなっている箇所もある。だが、それでも書き続けた。書かなければ、すべてが消えてしまう気がしたから。
洋子は新しいページを開き、震える手でペンのキャップを外した。
ペンは、安物のボールペンだった。だが、このペンで、毎日自分の存在を刻んでいる。インクが切れることを恐れて、予備のペンも机の引き出しに何本も入れてあった。
『午前二時。……私は今日もまだ、ここにいる』
その一文を書くだけで、涙が溢れそうになった。なぜ、こんな当たり前のことを書かなければならないのか。なぜ、自分の存在を証明しなければならないのか。
『名前は洋子。気象学を専攻している。好きなものは古い科学エッセイと、冬の澄んだ空気』
自分のプロフィールを書く。まるで、自己紹介のように。だが、これは自分への確認だった。自分が何者であるかを、忘れないための。
『怖い。記憶の隅が削られていく感覚が消えない』
その感覚は、日に日に強くなっていた。何かを忘れている。大切な何かを。だが、それが何なのか思い出せない。その焦燥感が、洋子を苛んでいた。
書き進めるうちに、視界が歪んだ。
文字が涙で滲み、インクが黒い染みになって広がる。涙が紙の上に落ち、文字を溶かしていく。だが、止められなかった。涙も、感情も。
「……大丈夫、大丈夫……」
誰に言い聞かせているのか、自分でもわからなかった。
自分自身に言っているのか。それとも、存在しない誰かに。ただ、声に出して音として空気を震わせなければ、押し寄せる不安の重力に耐えきれず、心が圧し潰されてしまいそうだった。声は、存在の証明だった。音を出せるということは、生きているということだ。
私が私であることを、誰か証明して。
世界が私を忘れても、私だけは私を忘れたくない。
その祈りは、空しく研究室の闇に消えていった。
ふいに、静寂を破る音が響いた。
コン、コン。
控えめだが、明確な意思を持ったノックの音。
その音は、予期していなかった。この時間に、誰が来るのか。
洋子は心臓が跳ね上がるのを感じ、ビクリと肩を震わせた。
一瞬、恐怖がよぎる。あの「雪」が、ついに迎えに来たのではないか。ドアの向こうには誰もいなくて、ただ白い虚無が広がっているのではないか。消失現象が、自分を選んだのではないか。
身構えながら、恐る恐る顔を上げる。
心臓が早鐘を打っている。呼吸が浅くなる。ドアを見つめる。そこに、何があるのか。
「……洋子? 起きてるか?」
扉の向こうから聞こえたのは、聞き慣れた、そして何より聞きたかった声だった。
浩の声。その声を聞いた瞬間、洋子の体から緊張が抜けていった。恐怖が、安堵に変わる。消失現象ではなかった。ただの、人間だった。それも、最も信頼できる人間。
洋子は肺に溜まっていた空気を一気に吐き出し、安堵で崩れ落ちそうになる体を支え直した。
椅子の背もたれに手をついて、体を支える。足が震えていた。心臓は、まだ早鐘を打っている。だが、それは恐怖からではなく、安堵からだった。
「……うん、起きてる。入って」
洋子の声は、わずかにかすれていた。泣いていたからだ。だが、それを隠そうと努めた。できるだけ普通の声で答える。だが、完全には隠せなかった。
ドアが静かに開き、浩が姿を見せた。
彼もまた、眠れぬ夜を過ごしていたのだろう。目の下には薄い隈があり、髪も少し乱れている。普段の彼からは想像できないほど、疲れた様子だった。だが、その姿が、かえって洋子を安心させた。彼もまた、同じように苦しんでいる。一人ではない。
手には自動販売機で買ってきたばかりの、温かい缶のココアが二本握られていた。
その缶からは、わずかに湯気が立ち上っている。外の冷気の中を歩いてきたのだろう。コートの肩には、雪の結晶が幾つかついていた。
「ごめん、起こしたか? 明かりが見えたから」
浩は努めていつも通りの調子で言いながら、部屋に入ってきた。その声には、いつもの優しさがあった。洋子を気遣う優しさ。
外の冷気をまとったコートからは、冬の夜の匂いがする。冷たい空気と、雪の匂い。その現実的な存在感が、洋子には何よりの救いだった。彼は、確かにそこにいる。実体を持って、存在している。
「ううん、考え事してただけ。……浩くんこそ、まだ残ってたの?」
洋子は、できるだけ普通の声で答えた。だが、その声には、わずかな震えが残っていた。
「ああ。データの再検証をしてたら、こんな時間になっちまった。脳みそが糖分を欲しがっててさ」
浩は苦笑しながら近づき、温かい缶の一本を洋子のデスクに置いた。
カタリ、という金属音が優しく響く。
その音は、現実的で、温かかった。日常の音。ありふれた、だが確かな音。
「ほら、お前も好きだろ。ココア」
浩の言葉には、洋子への気遣いがあった。彼は、洋子がココアが好きだと知っている。それは、彼が洋子のことを覚えているということだ。記憶が、まだ失われていない。
洋子はその缶を両手で包み込んだ。
金属越しに伝わる熱が、冷え切った掌から血管を通って、凍りついた心の芯までじんわりと染み渡っていく。その温もりは、物理的なものだけではなかった。心の温もりでもあった。誰かが自分のことを気にかけてくれている。その事実が、洋子を温めた。
缶の表面には、結露した水滴がついていた。その水滴が、洋子の手に触れる。冷たいが、生々しい感触。それが、現実を実感させた。
「……ありがとう」
その言葉は、小さかった。だが、心からの感謝が込められていた。ココアをくれたことへの感謝だけではない。ここにいてくれることへの感謝。自分を覚えていてくれることへの感謝。
顔を上げようとして、洋子は自分の目が赤く腫れていることに気づき、慌てて俯いた。
見られたくない。こんな、子供のように怯えている情けない姿を。研究者として、大人として、もっと強くあるべきなのに。だが、できなかった。恐怖は、理性では制御できない。
けれど、浩の視線はすでに彼女の震える肩と、机の上に広げられた涙の跡が残る日記を捉えていた。
彼は、すべてを見ていた。洋子の涙を。日記を。そして、その意味を。彼は、理解していた。洋子がどれほど恐怖しているかを。どれほど孤独であるかを。
浩は、何も言わなかった。だが、その沈黙は、非難ではなかった。理解の沈黙だった。共感の沈黙だった。
「洋子……」
浩の声のトーンが、ふっと柔らかく、真剣なものに変わる。
その声には、いつもと違う響きがあった。普段の軽い調子ではない。もっと深い、真剣な響き。
彼は椅子を引き寄せ、洋子と目線の高さを合わせるようにして座った。
その動作は、ゆっくりとしていた。洋子を驚かせないように。慎重に。椅子を洋子の隣に置き、腰を下ろす。二人の距離が、近くなった。
浩は、洋子の横顔を見つめた。その顔は、泣き腫らしていた。だが、それを責めようとは思わなかった。当然のことだった。この状況で、泣かない方がおかしい。
「……泣いてたのか?」
その問いかけはあまりに優しく、洋子が必死に築いていた我慢の堤防を、いとも簡単に決壊させた。
その優しさが、かえって洋子の涙腺を刺激した。強がる必要はない。この人の前では、弱くてもいい。そう思った瞬間、涙が溢れてきた。
隠そうとしても、唇が震えて言葉にならない。
喉が詰まる。声が出ない。ただ、涙が流れるだけ。止められない。
ただ、ココアの缶を握りしめたまま、小さく頷くことしかできなかった。
その頷きは、認めることだった。泣いていたことを。恐怖していることを。弱っていることを。
浩は、それ以上何も聞かなかった。ただ、そこにいた。洋子の隣に座り、同じ空間を共有していた。
その存在が、洋子にとって、何よりの慰めだった。言葉はいらなかった。ただ、そこにいてくれるだけで。
洋子は、缶を握りしめたまま、静かに涙を流し続けた。その涙は、恐怖の涙であり、安堵の涙でもあった。一人ではない。まだ、誰かが自分を覚えている。その事実が、洋子を支えていた。
研究室の静寂が、二人を包んでいた。加湿器の音だけが、規則正しく響いている。窓の外では、雪が降り続けていた。
だが、今は、その雪も恐ろしくなかった。浩がいる。それだけで、世界は少し優しく見えた。
洋子は、ゆっくりと息を吐いた。震えが、少しずつ収まっていく。缶の温もりが、体を温めていく。
そして、浩の存在が、心を温めていく。
消失現象は、まだ続いている。明日、何が起こるかわからない。だが、今この瞬間は、洋子はここにいる。浩と共に。
それだけが、確かなことだった。
そして、それが、洋子にとって、何よりの救いだった。
時間が、ゆっくりと流れていく。急ぐ必要はない。ただ、この瞬間を、大切にすればいい。
洋子は、ようやく缶を開けた。プルタブを引く音が、小さく響く。ココアの甘い香りが、鼻をくすぐる。
一口飲む。温かい液体が、喉を通っていく。甘さが、口の中に広がる。
その味は、生きている味だった。
浩は何も言わず、ただ静かにココアのプルトップを開け、湯気の立つ飲み口を洋子の方へ少しだけ押しやった。
その動作は、優しかった。押し付けがましくなく、自然で。まるで、ずっと前からこうしていたかのような、自然な仕草。
「……飲めよ。冷めるぞ」
そのぶっきらぼうな優しさが、今は何よりも温かかった。
浩は、いつもこうだった。言葉は少ない。感情を直接的に表現することは苦手だ。だが、行動で示す。その不器用な優しさが、洋子には心地よかった。
洋子は両手で缶を持ち上げ、一口だけ啜った。甘く、少し粉っぽい懐かしい味が、喉を通って胃の腑へと落ちていく。その熱が、凍りついていた感情をゆっくりと溶かしていくようだった。体の内側から、温もりが広がっていく。物理的な温度だけではない。心の温度も、上がっていく。
洋子は、その味に懐かしさを感じた。子供の頃、冬の夜に母が作ってくれたホットココア。あの味に似ている。缶のココアは、もちろん手作りとは違う。だが、その温もりは同じだった。誰かが自分のことを気にかけてくれている、という温もり。
「浩くんは……」
洋子はカップの縁を見つめたまま、ずっと喉の奥につかえていた問いを口にした。
その言葉は、ゆっくりと出てきた。言うべきか、言わないべきか、迷っていた。だが、聞かずにはいられなかった。
「怖くないの? 自分が消えちゃうかもしれないこと。あるいは、私が消えて、私のことを全部忘れちゃうかもしれないこと」
その問いには、洋子の根源的な恐怖が込められていた。消えること。忘れられること。そして、大切な人を忘れてしまうこと。
浩はすぐには答えなかった。
その沈黙は、長く感じられた。洋子は、浩の横顔を見た。彼は、何かを考えている。言葉を選んでいる。
彼は自分のココアを一口飲み、天井のシミを見上げるようにして、深く息を吐いた。
その息は、重かった。何かを決意するような息。あるいは、何かを諦めるような息。
「……怖いよ。めちゃくちゃな」
その正直な告白に、洋子は顔を上げた。
浩が、自分の恐怖を認めた。それは、洋子にとって意外だった。彼は、いつも冷静だ。科学者として、理性的に物事を考える。だが、今、彼は感情を見せた。
「俺だって、夜中にふと目が覚めて、自分の名前がわからなくなるんじゃないかって恐怖で心臓が跳ねることがある。鏡を見て、映ってるあいつが誰なのか、確信が持てなくなる瞬間があるんだ」
浩の声には、わずかな震えがあった。それは、彼もまた、同じ恐怖を抱えていることを示していた。
浩は苦笑いのような、自嘲のような表情を浮かべた。
その表情は、複雑だった。恐怖、諦め、そして何か別の感情。それらが混ざり合っている。
「でも、俺より絶対に怖い思いをしてる人がいるだろ。……お前みたいに、感受性が鋭すぎて、世界の『軋み』を直接肌で感じちまう奴のほうが」
その言葉には、洋子への理解があった。彼は、わかっている。洋子がどれほど敏感であるかを。どれほど深く、この現象を感じ取っているかを。
洋子は、胸が熱くなるのを感じた。理解されている。その実感が、洋子を慰めた。
浩は視線を落とし、洋子の手元にある日記帳を見た。
その日記帳は、開いたままだった。涙で滲んだ文字が、そこにあった。浩は、その文字を読んでいるのかもしれない。あるいは、読まないように気を遣っているのかもしれない。
「今日、村上さんから聞いた話だ。……先週消えたあの研究員のこと、覚えてるか?」
浩の声が、少し低くなった。それは、重要な話をする前兆だった。
洋子は頷いた。顔も名前も思い出せないが、確かにあのデスクには誰かが座っていたという感覚だけが残っている。
それは、奇妙な感覚だった。何かが欠けている。だが、何が欠けているのかわからない。空白がある。だが、その空白の形さえ、はっきりしない。
「その日……洋子、お前言ってたよな。『研究室の椅子がひとつだけ、不自然に空いてる気がする』って」
浩の言葉に、洋子は記憶を手繰り寄せた。そう、そんなことを言った気がする。あの日、研究室に違和感があった。何かが、おかしかった。
「うん。……理由もわからず、ただ気持ち悪かった。歯が一本抜けたみたいに、そこだけ空間が歪んでる気がして」
洋子の説明は、感覚的だった。論理的に説明できない。だが、確かにそう感じた。空間の歪み。存在の欠落。
「それだ」
浩は真剣な眼差しで洋子を見据えた。
その目には、何か重要なことを伝えようとする意志があった。
「特別班の分析によると、記憶が完全に消去された人間のことを、残された人々の脳は『空席』として処理するらしい」
その言葉は、衝撃的だった。
「空席……?」
洋子は、その言葉を反芻した。空席。誰も座っていない席。だが、そこには何かがあった。
「ああ。満席の通勤電車の中に、ぽっかりとひとつだけ座席が空いているような状態だ。周囲はぎゅうぎゅう詰めなのに、誰もそこに座ろうとしない。そこに『誰かがいた』という事実だけが、質量のない空白として残る」
浩の声が、夜の静寂に低く響く。
その説明は、明瞭だった。そして、恐ろしかった。
「名前も顔も消え失せて、ただ『何かが足りない』という喪失感だけが、棘のように残された人々の心に刺さり続ける。……それが、消失の正体だ」
浩の言葉は、重かった。それは、科学的な説明であり、同時に、詩的な表現でもあった。
言われた瞬間、洋子の背筋に冷たいものが走った。
忘れられることよりも恐ろしい。
自分が「最初からいなかったこと」にされるのではなく、「いたはずなのに、誰にも認識されない空白」として世界に穴を開け続けること。それは、幽霊になることよりも残酷な孤独に思えた。存在しているのに、存在していない。そこにいるのに、認識されない。それは、生きながら死んでいるようなものだった。
洋子は、その想像に耐えられなかった。自分が空席になる。誰も自分のことを覚えていない。だが、何かが欠けているという感覚だけが残る。それは、存在の否定だった。
「もし、洋子が……そうなったら」
浩の声が少しだけ掠れた。彼は言葉を探すように一度口を閉ざし、それから意を決したように続けた。
その声には、決意があった。そして、恐怖があった。
「もし世界中の人間の脳みそが書き換えられて、お前の席が『空席』になったとしても……俺は絶対に、その空白を埋めてみせる」
その言葉は、誓いだった。
洋子は、驚いて浩の顔を見た。
その顔には、見たことのない表情があった。真剣で、必死で、そして優しい表情。彼は、本気だった。冗談でも、慰めでもない。本当に、そう思っている。
彼は震える手で、自分のココアの缶を強く握りしめていた。
その手が震えていることに、洋子は気づいた。浩も、恐怖している。だが、それでも、誓っている。その姿が、洋子の心を打った。
「記録するよ。全部だ」
浩の言葉には、祈るような熱がこもっていた。
その声は、普段の彼の声とは違った。もっと感情的で、もっと人間的だった。科学者としての冷静さではなく、一人の人間としての熱さがあった。
「お前がどんな声で笑うか。コーヒーに砂糖をいくつ入れるか。研究に行き詰まった時にペンを回す癖も、雪の結晶を見て『ロマンだ』なんて変な例えをして俺を困らせるところも。……全部、ノートに書き残す」
浩の言葉は、具体的だった。抽象的な約束ではない。具体的な、実行可能な約束。それが、洋子に確信を与えた。彼は、本当にやる。そう思った。
洋子の細かい癖まで、彼は覚えている。コーヒーの砂糖。ペンを回す癖。そして、あの日言った「ロマン」という言葉。それらすべてを、彼は記憶している。大切に、覚えている。
洋子の視界が、再び涙で滲んだ。
今度は恐怖の涙ではなかった。
それは、感動の涙だった。感謝の涙だった。愛されていることを実感した涙だった。誰かが、自分のことをこれほどまでに大切に思ってくれている。その事実が、洋子を満たした。
「俺の脳細胞が信用できないなら、文字にする。写真に残す。データにする。……お前を、ただの『空席』のままには絶対にしない」
それは、科学者としての理性を超えた、一人の人間としての誓いだった。
科学では説明できないことがある。記憶は、脳の神経ネットワークに刻まれる。だが、それが消えるなら、別の方法で残す。物理的に残す。記録として残す。
たとえシステムとしての世界が彼女を排除しようとしても、彼だけは最後までその存在を繋ぎ止めようとしている。
その決意が、洋子を救った。一人ではない。誰かが、自分を覚えていてくれる。その確信が、洋子に力を与えた。
洋子は涙がココアの中に落ちないように、ぐっと上を向いた。
天井を見る。そこには、古いシミがあった。長年の雨漏りの跡だろうか。そのシミを見つめながら、洋子は涙をこらえた。泣きたい。だが、今は笑いたかった。
「……馬鹿だね、浩くんは」
洋子の声は、震えていたが、そこには笑みがあった。
その言葉は、愛情の裏返しだった。馬鹿だと言いながら、その馬鹿さを愛している。そんな複雑な感情。
「ああ、馬鹿でいいよ。科学的に説明がつかないなら、馬鹿になって抗うしかないだろ」
浩は照れくさそうに鼻をすすり、大きな手で洋子の頭をポンと撫でた。不器用で、乱暴で、けれど何よりも温かい掌の感触。
その手の温もりが、洋子の頭から体全体に広がっていく。守られている。その実感が、洋子を包み込んだ。
浩の手は大きかった。そして、温かかった。その手が、自分の頭に触れている。その事実が、洋子を現実に繋ぎ止めた。
「だから、もう泣くな。……明日の朝も、明後日の朝も、俺がお前の名前を呼ぶから」
その約束は、シンプルだった。だが、それが何よりも力強かった。
名前を呼ぶ。それだけのこと。だが、それが存在の証明だった。呼ばれることで、存在が確認される。認識されることで、存在が成立する。
洋子は深く頷いた。
その頷きは、承諾だった。信頼だった。そして、希望だった。
胸の奥に巣食っていた冷たい恐怖の塊が、少しずつ、しかし確実に溶けていくのを感じた。
恐怖は、まだある。消失現象は、まだ続いている。明日、何が起こるかわからない。だが、今は、恐怖よりも希望の方が大きかった。
「うん。……約束だよ」
洋子の声は、もう震えていなかった。強い声だった。
「ああ、約束だ」
浩も頷いた。その目には、決意があった。
二人はしばらくの間、言葉もなく並んで座り、冷めかけたココアを啜った。
その時間は、静かで、穏やかだった。特別な会話はない。ただ、並んで座り、同じ飲み物を飲む。それだけのこと。だが、それが何よりも大切な時間だった。
ココアは、もう温くなっていた。だが、その味は変わらず甘かった。洋子は、その甘さを味わった。生きている味。存在している味。
研究室の窓の外では、相変わらず無機質な雪が降り続いている。
その雪は、美しかった。だが、冷酷でもあった。
世界を白く塗り潰し、すべてを均一化しようとする圧倒的な暴力。
雪は、すべてを覆い隠す。痕跡を消す。記憶を消す。存在を消す。それが、消失現象の本質だった。
けれど、この小さな部屋の中に灯った二人の「記憶」という灯火だけは、決してその白さに飲み込まれることはないだろう。
二人の間には、約束があった。誓いがあった。そして、信頼があった。それが、彼らを守っていた。雪が何を奪おうとも、この絆だけは奪えない。
洋子は、そう信じた。信じることで、恐怖に打ち克つことができた。
日記帳のインクは、もう乾いていた。
洋子は、日記帳を見た。そこには、今日の記録が書かれていた。涙で滲んだ文字。恐怖を綴った文字。だが、それだけではない。希望も書き加えなければ。
洋子はペンを執り、今日のページの最後に、確かな筆圧で一文を書き加えた。
その文字は、しっかりとしていた。もう、震えていなかった。
『私は今日、一番大切な約束をした』
その言葉には、重みがあった。一番大切な約束。それは、存在を守る約束。記憶を守る約束。
『たとえ雪がすべてを奪い去っても、この温もりだけは、きっと最後まで残る』
その言葉は、確信だった。希望だった。そして、祈りだった。
洋子は、ペンを置いた。そして、日記帳を閉じた。今日の記録は、これで終わり。明日も、また書く。自分が存在し続ける限り。
夜はまだ深い。
窓の外は、真っ暗だった。雪だけが、白く光っている。街灯の光を反射して、幻想的な光景を作り出している。
しかし、二人の戦いは、もはや孤独なものではなくなっていた。
一人ではない。二人だ。共に戦う仲間がいる。それが、何よりも心強かった。
窓の外で舞う雪の結晶が、微かにその鋭さを緩めたように見えたのは、洋子の瞳に残る涙のせいだけではなかったかもしれない。
あるいは、二人の誓いが、世界に何らかの影響を与えたのかもしれない。希望が、現実を変える。そんなことがあるのかもしれない。
洋子は、そう思いたかった。そして、信じたかった。
浩は、まだ隣に座っていた。その存在が、洋子を安心させた。
二人は、もうしばらく、そこに座っていた。
言葉は必要なかった。ただ、そこにいるだけで。
それが、何よりも大切なことだった。
存在すること。そして、存在を確認し合うこと。
それが、消失現象と戦う、最も基本的な方法だった。
やがて、洋子は小さく笑った。
その笑顔は、久しぶりの本物の笑顔だった。
浩も、それに応えて笑った。
二人の笑顔が、研究室を温めた。
雪は、まだ降り続けていた。
だが、もう恐ろしくはなかった。




