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雪の哲学  作者: 唯野眠子
7/7

第7話「最初の犠牲者」

研究室の張り詰めた沈黙を切り裂いたのは、思いのほか小さく、しかし神経に直接触れるような無機質な電子音だった。

「ピピッ、ピピッ……」

その音は、規則正しく繰り返される。機械的で、冷たく、容赦がない。警告の音。何かが起きている。何かが、始まろうとしている。

深夜二時を回った研究棟は、人の気配が絶え、生命活動が停止した巨大な石棺のような静けさに包まれていた。その中で、サーバーの警告音だけが、不吉な心拍数のように規則正しく鳴り響く。

昼間は学生や職員で賑わう建物も、今は死んだように静かだ。廊下には誰もいない。他の研究室も、電気が消えている。この時間に残っているのは、彼らだけだ。

室内の空気は、暖房が効いているはずなのに、足元から這い上がるような冷たさを孕んでいた。それは温度としての冷気というより、窓の外を支配する雪の質感が、ガラスを透過して直接肌に触れているかのような錯覚だった。

物理的な寒さではない。もっと根源的な、存在的な寒さ。それが、部屋を満たしている。

洋子はパイプ椅子に浅く腰掛けたまま、その窓を見つめていた。

彼女は、何時間もそこに座っていた。データを見て、雪を見て、また データを見る。その繰り返し。疲労が溜まっているはずだが、緊張が それを上回っている。

闇に沈むキャンパスを、白い粒子が無数に舞い続けている。ガラス窓には、薄い氷の膜のような白がへばりつき、室内の明かりを鈍く反射していた。

外の世界は、完全に雪に支配されている。地面も、木々も、建物も、すべてが白い。その白さは、美しいが、恐ろしい。

昼間よりも、粒が明らかに細かい。そして恐ろしいほど均質だ。

洋子は、その違いに気づいていた。気象学者でなくても、わかる。この雪は、異常だ。

風に煽られて不規則に舞うのではなく、まるで目に見えないグリッドに沿って整列させられたように、狂いのない速度と角度で降り注いでいる。

まるで、プログラムされているかのように。意図されているかのように。その規則性が、不気味だった。

「……形が、揃いすぎてる」

洋子の乾いた呟きは、誰に聞かせるでもなく、ただ事実を確認するためのものだった。個性を奪われ、規格化された雪。それはこれから世界に訪れる「均一化」の予兆そのものに見えた。

すべてが同じになる。違いが消える。個性が失われる。その未来が、この雪に現れている。

「……来た」

静寂を破った浩の声が、微かに震えていた。

その声は、緊張していた。何かを見つけた。何かが、起きている。

洋子は弾かれたように視線を彼に向けた。浩はデスクにかじりつくようにして、メインモニターを凝視している。その顔は青白く、眼鏡の奥の瞳が一点に釘付けになっていた。

画面の光が、彼の顔を照らしている。その表情は、緊張と恐怖が混じっていた。

パソコン画面の右端、時系列グラフの現在時刻を示すライン上に、小さな、しかし決して無視できない深紅の点が明滅していた。

赤い点。警告の色。危険の印。それが、点滅している。

「こんな時間に……また跳ねてる」

浩の声には、信じられないという思いが滲んでいた。

洋子は浩の背後に駆け寄り、息を呑んだ。

椅子を蹴って立ち上がり、数歩で浩の隣に辿り着く。画面を覗き込む。そして、理解する。

画面上を走る『結晶密度指数』のラインが、正常値を示す緑のゾーンを突き破り、危険域を示す赤の領域へと侵入しようとしている。

その曲線は、急激に上昇していた。まるで、何かが爆発したかのように。

「前回の消失……あの学生がいなくなった時の波形に近いわ」

洋子の声も、震えていた。これは、予兆だ。また、誰かが消える。

「いや、それよりも鋭い」

浩はキーボードを叩き、時間軸のスケールを拡大させた。

その動作は、速かった。指が、キーボードの上を滑る。画面が切り替わる。グラフが拡大される。

波形は緩やかな山なりではなく、まるで平坦な地面から突如として槍が突き出したかのように、垂直に近い角度で噴き上がっていた。

その形は、異常だった。自然なカーブではない。何か、強い力が働いている。

「見てみろ、この立ち上がり方。予兆がない。大気中の水分が、ためらいなく一瞬で構造を決定されている。……何かが起ころうとしているんだ。今、この瞬間に」

浩の声には、切迫感があった。時間がない。今、何かが起きている。

数字の変動ではない。画面の向こう側にある物理的な現実世界で、世界のバランスが音を立てて崩れようとしている"気配"が、モニターを通じて伝わってくるようだった。

洋子は、胸を押さえた。心臓が、早く打っている。恐怖と、そして焦り。

その時、廊下の方から荒い足音が響き、研究室のドアが乱暴に開け放たれた。

その音は、突然だった。静寂を破る音。

バンッ! という衝撃音とともに、冷たい外気が一気に流れ込んでくる。

その冷気は、部屋の温度を一瞬で下げた。肌に刺さるような冷たさ。

「二人とも……急ぐぞ。特別班が動いた」

飛び込んできたのは村上だった。厚手のコートを着込み、マフラーも巻いたままだが、その肩にはうっすらと新しい雪が積もっている。今しがた外から戻ってきたのか、あるいは外へ飛び出そうとしていたのか。その表情は、疲労と焦燥で強張っていた。

村上の顔は、蒼白だった。額には、汗が浮かんでいる。呼吸も荒い。走ってきたのだろう。

夜の大学は警備員を除けば無人に近いはずだ。だが、村上の背後には、目に見えない巨大な組織の影が動めいている気配があった。

政府が動いている。特別班が動いている。事態は、さらに深刻化している。


「特別班が……?」

浩が問い返すと、村上は手に持っていた業務用タブレットを二人の前のデスクに滑らせた。

その動作は、乱暴だった。余裕がない。一刻を争っている。

画面には、政府の危機管理監付からの緊急指令が表示されていた。装飾のない簡素なテキストが、かえって事態の切迫さを物語っている。

その文面は、冷たく、事務的だった。だが、その意味は重い。

《緊急警報:指定区域内(セクターD)にて、高リスク人物ハイ・リスク・パーソンの存在反応を確認。至急、監視および特定を強化せよ》

高リスク人物。

その言葉が、画面に浮かんでいる。だが、その意味がわからない。

「高リスク……?」

洋子は聞き慣れない単語に眉をひそめ、胸のあたりをきつく押さえた。心臓が嫌なリズムで脈打っている。

その鼓動は、恐怖からくるものだった。何か、悪いことが起きている。

「どういうことですか、村上さん。その人自身が危険人物だということ?」

洋子の声には、困惑があった。高リスク人物とは、テロリストか? 犯罪者か?

「いや、違う」

村上は首を横に振り、苦渋に満ちた声で告げた。

その表情は、痛ましいものだった。真実を告げることの苦しさ。

「逆だ。消失現象が発生する直前、世界に対して激しい"記憶の揺れ"を発信している人物のことだ」

記憶の揺れ。

その言葉は、抽象的だった。だが、何か重要なことを示している。

「記憶の……揺れ?」

浩が聞き返す。その声には、理解しようとする意志があった。

「特別班の分析官が言っていた。消失の前触れとして、その対象者の精神状態が、周囲の降雪パターンと異常な同期シンクロを起こすらしい」

同期。

雪と、人の精神が。それは、ありえない話だった。だが、今は、ありえないことが現実になっている。

村上は窓の外を指差した。闇の中、整然と降り注ぐ無機質な雪。

その雪は、まだ降り続けている。止まることなく。

「雪の結晶が形を揃えようとする力と、その人物が持っている『忘れたくない』という強い執着あるいは恐怖が、波長のように共鳴する。その摩擦がノイズとなって、観測データ上に現れるんだ」

村上の説明は、科学的であろうとしていた。だが、その内容は、科学を超えている。

洋子は、その説明を聞きながら、理解した。忘れたくない。記憶を守りたい。その強い思いが、雪と共鳴する。

「それが、さっきのあの鋭い波形……」

浩が呻くように言った。その声には、悟りがあった。

「じゃあ、この赤い点は……誰かが今、必死に記憶を留めようとして、世界に抗っている証拠だって言うんですか」

その言葉は、真実を突いていた。グラフの赤い点。それは、誰かの叫びだ。

「そうだ。だが、皮肉なことに……」

村上は声を落とし、残酷な事実を口にした。

その声は、重かった。言いたくない真実。だが、言わなければならない。

「その強い"揺れ"こそが、雪にとっては異物となる。均一な白に染まろうとする世界において、突出した個人の記憶は排除すべきノイズでしかない。……だから、雪はその人物を標的にするんだ」

標的。

その言葉が、部屋に落ちた。重く、冷たく。

洋子は言葉を失った。

抗おうとすればするほど、雪に見つかる。

その皮肉。その残酷さ。それは、あまりにも理不尽だった。

大切なものを守ろうとする強い想いが、皮肉にも消失への引き金を引いてしまう。

守ろうとすることが、失うことに繋がる。その矛盾。

「揃えられた雪の形に、記憶もまた強制的に同調させられる。……そして、規格外の想いは余白から消されていく」

浩が震える声で結論を紡いだ。

その言葉は、論理的だった。だが、その内容は、感情的に受け入れがたいものだった。

洋子は、胸を押さえた。痛い。心が痛い。その人物は、誰なのか。どこにいるのか。

村上はタブレットを強く握り直し、二人を見据えた。その目には、研究者としての冷静さと、人間としての義憤が入り混じっていた。

彼もまた、この状況に怒っている。無力感を感じている。だが、諦めていない。

「政府は、その人物を単なる『サンプル』として回収しようとしているかもしれない。だが俺たちは違う」

彼は強く言い放った。

その声には、決意があった。研究者としてではなく、人間として。

「このまま観測データを全力で解析しろ。波形の発信源……つまり"跳ねる前触れ"の場所を特定するんだ。特別班よりも先に俺たちが場所を割り出せれば、誰かが消えてしまう前に……現場で阻止できるかもしれない」

阻止。

その言葉には、希望があった。まだ、間に合うかもしれない。救えるかもしれない。

浩は、即座に頷いた。

「わかりました。今すぐやります」

その声には、迷いがなかった。やるべきことは、明確だ。

洋子も、頷いた。

「場所を特定する……どうやって?」

その問いは、技術的なものだった。だが、重要な問いだ。

「複数の観測点のデータを重ね合わせる。波形の時間差から、三角測量の要領で震源地を割り出すんだ」

浩の説明は、的確だった。彼は、すでに方法を考えている。

「時間がないぞ。急げ」

村上の声が、二人を急かす。

浩は、キーボードに手を置いた。その指が、動き始める。

洋子も、自分のデスクに走った。ノートパソコンを開く。データを呼び出す。

二人は、無言で作業を始めた。集中している。完全に。

部屋には、キーボードを叩く音だけが響いている。

村上は、窓の外を見た。雪が、降り続けている。

時間がない。

誰かが、今、消えようとしている。

それを、止めなければならない。

村上は、拳を握りしめた。無力感と、戦っている。

だが、この二人なら。

彼らなら、できるかもしれない。

その希望に、村上は賭けた。

部屋の空気は、緊張に満ちていた。

時計の針が、進んでいく。

一分、一秒が、貴重だった。

浩の画面に、データが表示される。複数の観測点からのデータ。それらを重ね合わせる。

洋子も、計算をしている。時間差を測る。距離を推定する。

二人の作業が、シンクロしている。

そして、次第に、答えが見えてくる。

場所が、絞られてくる。

「……ここだ」

浩の声が、静寂を破った。

その声には、確信があった。


浩はデスクに戻り、キーボードに指を走らせた。

カチャカチャカチャ……という硬質な打鍵音だけが、深夜の研究室に反響する。彼は複数のウィンドウを並列させ、リアルタイムで変動する『結晶密度指数』と、地域の地図データを重ね合わせる作業マッピングに没入していた。

その作業は、複雑だった。複数のデータソースを統合し、リアルタイムで解析する。だが、浩の手は迷わない。彼は、完全に集中している。

画面には、数字とグラフが溢れている。それらを、一つ一つ確認していく。パターンを探す。異常を見つける。

「ノイズが多すぎる。……雪の勢いが強すぎて、発信源の信号がかき消されそうだ」

浩が焦燥を滲ませて呟く。その声には、苛立ちがあった。時間がない。だが、答えが見つからない。

モニターの中では、赤い波形が荒れ狂う海のように乱高下を繰り返している。それはまるで、雪そのものが意思を持って、ターゲットの位置を隠蔽しようとしているかのようだった。

データが、乱れている。規則性が見えない。どこを見ても、ノイズだらけ。これでは、場所を特定できない。

浩は、焦っていた。だが、焦れば焦るほど、答えは遠のく。冷静にならなければ。だが、時間がない。

洋子はその隣で、浩の肩越しに画面を凝視していた。

彼女は、じっと見ていた。データを。数字を。グラフを。理解しようとしている。

彼女はデータ分析の専門家ではない。だが、今の彼女には、数値の羅列が不思議と「感情の起伏」のように見えていた。

数字が、語りかけてくる。何かを訴えている。

誰かが叫んでいる。

その声が、聞こえる気がした。データの向こう側から。

誰かが、忘れ去られることを恐れて、必死に世界にしがみつこうとしている。

その必死さが、伝わってくる。数字を通して。

その悲痛な"声"が、不規則なグラフの揺らぎとして可視化されている。

洋子は、それを感じ取っていた。感性で。直感で。

「……浩くん、もっとノイズフィルタを弱めてみて。きれいな波形だけを追わないで、もっと微かな、不協和音みたいな歪みを拾って」

その提案は、直感的なものだった。論理ではない。だが、確信があった。

「え? でもそれじゃ誤差ばかり拾っちまうぞ」

浩の反応は、当然だった。ノイズフィルタを弱めれば、データは乱れる。意味のない情報ばかりになる。

「いいから。雪がきれいに整列しようとしているなら、逆に『整っていない部分』にその人がいるはず」

洋子の言葉は、逆説的だった。だが、理に適っていた。

秩序の中の混沌。整列の中の乱れ。それが、抵抗の証だ。

浩は一瞬ためらったが、洋子の真剣な眼差しに押され、即座にパラメータを変更した。

その目を見て、浩は決断した。彼女を信じる。その直感を。

フィルタリングを解除し、生のデータをそのまま投影する。

画面が変わる。ノイズが増える。混沌とした情報が、溢れ出す。

すると――。

その瞬間、何かが変わった。

画面上の地図の一角に、砂嵐のようなノイズの中から、蛍の光のように明滅する一点が浮かび上がった。

それは、小さな光だった。だが、確かに存在している。

周囲の雪のデータが完璧な六角形を描こうとする中で、そこだけが激しく歪み、抵抗している特異点。

秩序に抗う、混沌の点。それが、そこにあった。

「……あ」

洋子が思わず声を上げ、画面に指を伸ばした。

その声には、驚きと、そして確信があった。見つけた。

指先が触れそうな距離で、その光は今にも消え入りそうに弱々しく、しかし確かに脈打っていた。

まるで、命の灯火のように。消えそうで、消えない。抵抗している。

「ここ……! ここ見て! 結晶密度指数が、不自然に波打ってる」

洋子の声には、興奮があった。これだ。ここに、その人がいる。

浩は即座にその座標をロックし、拡大表示した。

その動作は、迅速だった。躊躇いがない。

画面が拡大される。詳細なデータが表示される。波形が、はっきりと見える。

「……間違いない。閾値突破の直前パターンだ。これまでの"消失の前夜"に記録された波形と完全に一致する」

浩の声には、確信があった。これは、間違いない。データが、証明している。

村上が背後から駆け寄り、二人の間のデスクに手をついて身を乗り出した。

その動作は、急いでいた。彼もまた、この瞬間を待っていた。

「場所はどこだ?」

村上の声は、切迫していた。今すぐ知りたい。今すぐ行きたい。

浩は瞬時に詳細な住所情報を割り出し、地図上に展開した。

その作業は、一瞬だった。もう、準備はできている。

「……大学から北へ1.8キロ。古い住宅街の中です」

その場所は、近かった。走れば、すぐに着く距離。

表示されたのは、どこにでもあるありふれた町並みの航空写真だった。深夜の静寂に包まれ、人々が眠りについているはずの場所。その平穏な住宅街の一角が、今まさに世界から切り離されようとしている。

その写真を見て、三人は息を呑んだ。ごく普通の住宅街。そこで、異常な現象が起きている。

洋子はハッとして、窓の外を見た。

その動作は、反射的だった。外を確認しなければ。

先ほどまで静かに降り注いでいた雪が、いつの間にか狂ったような勢いで激しさを増していた。

雪が、変わっている。明らかに。

風はないのに、雪の粒が互いにぶつかり合うような速度で落下し、視界を白一色に塗り潰している。それはまるで、特定された場所を隔離し、封鎖しようとする白いバリケードのようだった。

雪が、意思を持っているかのように。目標を、隠そうとしている。

「雪が……急いでる」

洋子の呟きに、戦慄が走る。その声は、震えていた。


「村上さん……これ、本当に誰かが"消える直前"なんじゃないですか。データ上の予兆じゃなくて、もう物理的なプロセスが始まってる」

洋子の声には、恐怖があった。これは、もう予測ではない。現実だ。今、起きている。

村上はタブレットを強く握りしめた。その関節が白く浮き出るほどに力が込められている。

その手が、震えていた。怒りか、恐怖か。おそらく、両方だ。

「……間に合うかもしれない」

彼は決意を固めた低い声で言った。

その声には、覚悟があった。もう、迷わない。行くしかない。

「政府の特別班(回収部隊)が到着する前に、俺たちが接触して……その『記憶の揺れ』を観測する。いや、可能なら保護するんだ」

保護。

その言葉には、希望があった。まだ、救える。

「保護って……どうやって?」

浩の問いは、当然だった。方法がわからない。消失を、どうやって止めるのか。

「わからない。だが、指をくわえてモニターを見ているだけで、また誰かがデータ上の『空白』に変わるのを見過ごすわけにはいかない」

村上の言葉は、感情的だった。だが、それは人間として当然の感情だ。

もう、見ているだけではいられない。行動しなければ。たとえ、方法がわからなくても。

村上はコートの襟を立て、出口へと向かった。

その動作は、決然としていた。もう、決めた。行く。

「浩くん、洋子さん。君たちはここでナビゲートを頼む。雪の干渉が強すぎて、現地のGPSが狂う可能性がある。この部屋の大型機材で、俺の現在位置とターゲットの座標を常に修正してくれ」

その指示は、具体的だった。役割分担。彼らにできることを、やってもらう。

「……村上さん、一人で行く気ですか?」

浩が立ち上がろうとするが、村上は手で制した。

その手は、強かった。止める意志。

「外は危険だ。雪の影響を直接受ければ、君たちの記憶にも干渉が出るかもしれない。……俺が行く」

その言葉には、保護の意志があった。若い研究者たちを、危険に晒したくない。

浩は、反論しようとした。だが、村上の目を見て、黙った。その目には、決意があった。覆せない決意。

洋子も、何か言おうとしたが、言葉が出なかった。村上の覚悟を、感じ取っていた。

そう言い残し、村上は重い防火扉を押し開けて、吹雪く夜の廊下へと飛び出していった。

その背中は、勇敢だった。だが、同時に、孤独にも見えた。

扉が閉まる音が、重く響いた。

扉が閉まると同時に、研究室には再びサーバーの低い唸り声だけが残された。

その音だけが、部屋を満たしている。機械的で、冷たい音。

しかし、その空気は先ほどとは決定的に違っていた。

緊張感が、さらに高まっている。村上が、外に出た。一人で。危険な場所へ。

モニターの中の赤い点滅は、今まさに消えようとする命の灯火ともしびそのものだ。

その点滅を、二人は見つめていた。消えないでくれ。まだ、持ちこたえてくれ。

浩はマイクに向かい、震える声で通信回線を開いた。

その手も、震えていた。緊張している。村上の安全を、祈っている。

「……聞こえますか、村上さん。ターゲットまで直線距離で800メートル。……雪の密度、さらに上昇しています。急いでください」

その声は、必死だった。急いでくれ。間に合ってくれ。

通信機からは、村上の荒い息遣いが聞こえてくる。走っている。全速力で。

「了解……見えてきた……この辺りだな……」

村上の声も、息が切れていた。だが、諦めていない。まだ、走っている。

洋子は窓ガラスに額を押し当て、闇の向こうを見つめた。

その額は、冷たいガラスに触れている。その冷たさが、皮膚を通して伝わってくる。

冷たいガラス越しに伝わる冷気が、自分の記憶の深層まで凍てつかせそうだった。

まるで、雪が自分の中にも入り込んでくるような感覚。記憶が、凍りつく。

今夜、誰かが消える。

その事実が、重くのしかかる。

私たちの知らない誰かが。

だが、その誰かは、確かに存在している。生きている。今、この瞬間も。

けれどそれは、明日の私たち自身の姿かもしれない。

明日は、自分が消えるかもしれない。浩が消えるかもしれない。村上が消えるかもしれない。

その恐怖が、洋子を襲った。

「……消させない」

洋子は祈るように、しかし呪文のように呟いた。

その声は、小さかった。だが、強い意志があった。

絶対に、消させない。誰も。

浩も、その言葉を聞いた。そして、頷いた。

そうだ。消させない。

二人は、画面を見つめた。赤い点が、まだ点滅している。まだ、消えていない。

村上の位置も、表示されている。ターゲットに、近づいている。

距離が、縮まっていく。700メートル。600メートル。500メートル。

「もう少しです、村上さん!」

浩が叫ぶ。声に、力を込める。

「見えた……建物が……この家か……」

村上の声が、通信機から聞こえてくる。到着した。

洋子は、息を呑んだ。間に合った。まだ、間に合う。

だが、次の瞬間――

「待て……これは……」

村上の声が、途切れた。

その声には、驚きがあった。何かを見た。何かが、起きている。

「村上さん! どうしたんですか!」

浩が叫ぶ。だが、返事がない。

通信機からは、ノイズだけが聞こえてくる。ザーッという音。

「村上さん! 応答してください!」

洋子も叫ぶ。だが、やはり返事がない。

画面を見る。村上の位置は、ターゲットの場所で止まっている。だが、信号が乱れている。

赤い点も、激しく点滅している。そして――

消えた。

画面から、赤い点が消えた。

二人は、声を失った。

消えた。

誰かが、消えた。

そして、村上は――

外では、無慈悲に整列した雪の軍勢が、静かに、しかし確実にその包囲網を狭めていた。

世界を、白く染めていく。

すべてを、均一にしていく。

そして、何も残さない。

洋子は、窓ガラスに手を当てた。その手が、震えている。

「村上さん……」

その声は、かすれていた。

浩も、通信機に向かって叫び続けた。

「村上さん! 聞こえますか! 応答してください!」

だが、返事はない。

ただ、ノイズだけが。

雪の音だけが。

部屋を満たしていた。

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