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雪の哲学  作者: 唯野眠子
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第6話「雪と記憶」

研究室の北側に面した大きな窓には、午後になっても静かに、執拗に雪が貼り付いていた。

重力に逆らうように風に乗って斜めに流れる白の粒が、まるでガラス越しの向こう側から、誰かが指先でなぞっているような不規則な軌道を描く。カツ、カツ、と微かな音を立てては、室内の暖かさに触れて透明な涙のように溶け落ちていく。

その音は、規則的ではなかった。時折、間隔が開き、また急に連続する。まるで、何かを訴えかけているかのような、不安定なリズム。

洋子は窓際に立ち、その細い軌跡を目で追いながら、自分の中を満たす"ざらついた空白"に耳を澄ませていた。

何かを、忘れている。

それは確信に近い感覚だった。だが、何を忘れているのかがわからない。その矛盾が、彼女を苦しめていた。

それは、出かける前にガスの元栓を閉め忘れたような一過性の不安ではない。もっと根源的で、自分の存在の基盤を揺るがすような欠落感だった。お気に入りの小説の本棚から、一番大切だった一冊だけが抜き取られ、最初からそこには何もなかったかのように隙間が埋められている――そんな違和感が、胸の奥でずっと燻っている。

洋子は、自分の記憶を辿ろうとした。昨日のこと。先週のこと。先月のこと。だが、どこかに穴がある気がする。連続性が途切れている部分がある。

その"何か"の輪郭は掴めず、けれど確かにそこにあったという温かな感触だけが、幽霊のように指先に残っている。雪の結晶が、掌の上で一瞬だけその精緻な六角の形を見せて、次の瞬間にはただの水へと還ってしまうように、記憶の端が音もなく、静かに崩れていく。

それは、恐ろしい感覚だった。自分が自分でなくなっていく。何かを失っていく。だが、それが何なのかわからない。

「……洋子、集中できてるか?」

背後からかけられた声に、洋子はハッとして振り返った。

その声は、現実に引き戻す声だった。思考の迷宮から、彼女を救い出す声。

浩は隣のデスクに座り、複数のモニターに展開された観測データを睨みつけていた。画面の青白い光が、彼の眼鏡の奥にある瞳を鋭く照らし出している。

その姿は、いつもの浩だった。だが、どこか違う。より集中している。より緊迫している。

そこには、過去数十年にわたる降雪データと、ここ数日の異常値が、大量の数値となって重なり合っていた。画面上を走る複雑な曲線は、まるで巨大な蜘蛛の巣の網目のようだ。昨日ようやく見え始めた"ある規則性"――雪の結晶構造と消失現象のリンク――は、まだ断言できるほどの確証を持つには至っていない。

だが、確実に近づいている。答えに。真実に。

洋子は少しだけ顔を上げ、強張った頬を緩めて、かすかに笑ってみせた。

その笑顔は、作り笑いだった。だが、浩を安心させようとする優しさがあった。

「……うん。たぶん。いや、努力してるって言ったほうが正しいかな」

その言葉には、正直さがあった。嘘をつくことはできない。だが、心配させたくもない。

「無理するなよ。昨日のあの会議のあとで、平気でいられる奴なんていない。誰だって落ち着かないさ」

浩の手は止まっていたが、その指先はキーボードの上で微かに震えているように見えた。彼もまた、恐怖と戦っているのだ。

昨日の会議。政府からの要請。消失現象の予測。それらすべてが、重くのしかかっている。

「落ち着かないっていうより……」

洋子は胸のあたり、心臓の少し奥の方にそっと手を当てた。

その仕草は、痛みを抑えるようだった。物理的な痛みではない。心の痛み。

「ここが、ずっとぐらぐらしてるの。足元の床が抜けていくみたいに、頼りなくて」

その表現は、的確だった。地面が、確かでない。いつ崩れるかわからない。その不安定さ。

浩は息を呑んだ。

"空白"。

彼女がそう口にしたときの、ガラス細工のように脆い不安を、昨日から何度も見ている。それは、窓の外で雪が舞う静けさとは対照的に、彼女の内側だけが激しく波立っているようだった。彼女の記憶の地層が、見えない浸食によって少しずつ削り取られているのかもしれないという予感が、浩の胸を締め付けた。

洋子もまた、消失の犠牲者になりつつあるのではないか。その恐怖が、浩を襲った。

「……俺のほうも、落ち着いてるわけじゃないさ」

浩は自らを鼓舞するように強く息を吐き、画面に向き直りながら言った。

その声には、努めて冷静さを保とうとする意志があった。ここで動揺すれば、洋子はさらに不安になる。

「でもな、データの海を泳いでいて、少しわかってきたことがある」

その言葉には、わずかな希望があった。まだ、すべてが失われたわけではない。戦える。

「何が?」

洋子が歩み寄ると、浩はキーボードを叩き、ひとつの解析結果をメインモニターに拡大表示させた。

画面が切り替わる。データが、視覚化される。

そこには、赤と青のラインが交錯するグラフが映し出されていた。特に赤いライン――結晶密度指数を示す線が、平坦な推移を見せた後、ある一点で突然、狂ったように鋭く波打ち、警告音のような鋭角を描いていた。

その形は、異常だった。自然な曲線ではない。何かが爆発したかのような、急激な変化。

「この跳ね上がりを見てくれ。雪の結晶の密度が、ある『閾値』を超えた瞬間だ」

浩は指で、グラフの山が弾けるように跳ね上がっている部分を示した。

その指は、震えていなかった。研究者としての集中力が、恐怖を抑えている。

「直後の時間帯に、消失の報告が多発してる。これはもう、統計的な誤差や偶然じゃない。明確なトリガーだ」

トリガー。

その言葉は、決定的だった。原因と結果。因果関係。それが、明確に存在する。

洋子は食い入るようにグラフを見つめた。

数字の山が、単なるデータではなく、まるで記憶の"断層"に見えた。静かに続いていた人生の地層が、ある瞬間に理不尽な力で裂け、断絶してしまうポイント。

その山の向こう側に、何があるのか。消失した人々は、どこへ行ったのか。

「……雪が、人の記憶に直接影響してるってこと?」

洋子の声は、小さかった。だが、その問いは核心を突いていた。


「まだメカニズムまでは言い切れない。電磁波なのか、もっと未知の波動なのか。けれど、特定の気象条件が揃ったときに、世界から"何か"を奪うスイッチが入ってることだけは確かだ」

浩は慎重に言葉を選びながら続けた。その声には、科学者としての探究心と、人間としての畏怖が入り混じっていた。

科学者として、現象を解明したい。だが、人間として、その真実を恐れている。その葛藤が、浩の声に滲んでいた。

「結晶密度指数が高くなると、観測される雪の構造が異様に均質化するんだ。本来ならひとつとして同じ形のないはずの六花結晶が……まるで工場製品のように、無理やり"同じ形を作ろうとしている"みたいに」

その説明は、恐ろしいものだった。多様性の喪失。個性の消失。すべてが同じになる。それは、美しいことではない。恐ろしいことだ。

洋子の胸に、昨日の記憶が冷たい水のように流れ込んだ。

中庭で見た雪。

あの時、確かに感じた違和感。それは、気のせいではなかった。真実だった。

――雪の粒がいつもと違う。

――枝が揃って見えて、あまりにも整然としすぎている。

その時の感覚が、今、言葉になる。理解になる。

「ねえ浩くん。もし六花結晶が……自分たちの形を無理やり揃えようとしているなら」

洋子は自分の抱いた直感を、恐る恐る言葉にした。

その言葉は、仮説だった。だが、確信に近い仮説。直感が、真実を捉えている。

「私たちの記憶も、その巨大な流れに引きずられて……"何かを揃えられている"ってことはない?」

揃えられている。

その表現は、受動的だった。自分たちの意志ではない。何か大きな力によって、強制的に。

浩は目を細め、怪訝そうに眉を寄せた。

その表情は、困惑していた。洋子の言葉の意味を、理解しようとしている。

「……"消されている"って意味か?」

浩の解釈は、単純だった。記憶が消される。だが、洋子が言おうとしているのは、もっと複雑なことだ。

洋子はゆっくりと、噛み締めるように頷いた。

「うん。単に消えるだけじゃない。記憶のほうが、雪の持っている冷徹な"秩序"に合わせられているみたいな……そんな感じがするの。余計な凸凹を削ぎ落とされて、均一な白に塗りつぶされていくような」

その比喩は、詩的だった。だが、真実を捉えている。記憶が、均質化される。個性が失われる。すべてが白に塗りつぶされる。

それは論理的な説明というより、研ぎ澄まされた感覚に近い言葉だった。

だがその感覚は、モニターに映る数値の波形よりも正確に、今起きている現象の核心を撃ち抜いているように思えた。個人の記憶というノイズが排除され、世界が静かな純白の虚無へと統一されていく恐怖。

浩は、その言葉を噛みしめた。洋子の直感は、いつも正しい。彼女は、数字では見えないものを見る。感じる。そして、言葉にする。

均質化。秩序への服従。個性の消失。

それは、死よりも恐ろしいことかもしれない。死んでも、記憶は残る。だが、記憶が消えれば、最初からいなかったことになる。

「もしそうなら……」

浩は、画面を見つめたまま呟いた。

「俺たちは、世界の均質化を目撃しているってことになる。すべてが同じになる。違いがなくなる。そして……」

その先を、浩は言えなかった。言葉にすることが、恐ろしかった。

だが、洋子は理解していた。

そして、最後には何も残らない。

白い虚無だけが。

その時だった。

沈黙が、二人を包もうとしていた。重く、冷たい沈黙。だが、それは長くは続かなかった。

研究室の重い防火扉が、短く、強くノックされた。

その音は、緊急を告げる音だった。何かが起きた。

返事を待たずにドアが開き、村上が入ってくる。

その動作は、礼儀を無視していた。だが、それだけ切迫しているということだ。

いつもなら穏やかな笑みを浮かべている彼の表情に、今日は余裕の欠片もなかった。肌は青白く、瞳には隠しきれない緊張と疲労の色を纏っている。彼が纏う空気だけで、事態が悪化したことが痛いほど伝わってきた。

村上の姿を見た瞬間、洋子の心臓が跳ねた。また、何かが起きた。

「二人とも……急ぎの話だ」

村上は挨拶もそこそこに、手に持っていたタブレットを浩たちの前に差し出した。

その動作は、焦っていた。手が震えている。

画面には地図が表示され、赤いマーカーが点滅している。

その赤い点は、警告だった。危険を示す色。

洋子は、その地図を見た瞬間、息を呑んだ。その場所は、知っている。見覚えがある。

「また一件、新たな消失が確認された。……場所は、ここからわずか五キロ圏内だ」

五キロ。

その距離は、近い。あまりにも近い。自分たちのすぐ近くで、消失が起きている。

浩は、立ち上がった。その動作は、反射的だった。

「いつ?」

その声は、緊張していた。

「今朝。……詳細は、まだ確認中だが」

村上の声も、震えていた。彼もまた、恐怖している。

洋子は、地図を見つめた。赤い点が、点滅している。その点滅が、まるで心臓の鼓動のように見えた。

五キロ圏内。

それは、安全圏ではない。危険圏だ。

次は、自分たちかもしれない。

その予感が、洋子を襲った。

浩も、同じことを考えていた。その表情から、わかる。

村上は、二人の顔を見た。そして、言葉を続けた。

「政府からも連絡があった。この地域を、重点監視地域に指定すると」

重点監視地域。

その言葉は、公式なものだった。もはや、隠せない。事態は、公然化している。

「避難勧告は?」

浩が聞く。

「まだ出ていない。……パニックを避けるために」

村上の答えは、予想通りだった。だが、それは正しい判断なのか。

洋子は、窓の外を見た。雪が、まだ降っている。その白さが、今は恐ろしく見える。

あの雪の中に、消失の原因がある。

そして、自分たちは、その中にいる。

逃げることはできない。

ここで、戦うしかない。

解明するしかない。

止めるしかない。

洋子は、拳を握りしめた。恐怖はある。だが、それを超える意志がある。

「私たち……何をすればいい?」

洋子の声は、静かだった。だが、その中には決意があった。

村上は、少し驚いたような顔をした。だが、すぐに理解した。彼女は、戦う気だ。

「データの解析を続けてほしい。そして……予測モデルを作ってほしい」

「予測モデル?」

「次に、どこで消失が起きるか。それを予測するモデルだ」

その依頼は、重い。だが、必要なことだ。

浩は、頷いた。

「やる。……やらせてくれ」

その声には、覚悟があった。

洋子も、頷いた。

「一緒に」

その言葉は、短かった。だが、意味は明確だった。

二人で、戦う。

村上は、安堵したような表情を浮かべた。

「頼む。……時間がない」

その言葉を残して、村上は去っていった。

残された二人は、顔を見合わせた。

そして、無言で頷き合った。

始めよう。

戦いを。


村上の指が地図上の赤い点をタップすると、詳細なプロフィールが表示された。

画面が切り替わる。そこに、一人の学生の情報が現れる。顔写真、名前、学籍番号、所属。すべてが、そこにある。

「記録上は、同じ理学部の四年生だ。昨日まで普通に講義に出席し、卒論の指導も受けていたはずなんだ」

村上の声は震えていた。その震えは、恐怖からくるものだった。こんなことが、現実に起きている。それが信じられない。

「なのに……指導教官も、同じ研究室の仲間も、全員が口を揃えて『知らない』と言う。名簿にある名前を見せても、まるで架空の文字列を見ているような反応しか返ってこないんだ」

架空の文字列。

その表現は、的確だった。実在する人物の名前が、意味を失っている。認識されない。記憶と結びつかない。

浩は息を呑んだ。

その学生が過ごした四年間の日々、交わした言葉、積み上げた研究。それらすべてが、周囲の人間の脳内から綺麗に削り取られている。残っているのはサーバー上の電子データと、物理的な学生証などの"モノ"だけ。

人の記憶の中には、何も残っていない。その人物は、存在しなかったことになっている。

「……そこまで完全に、消えるんですか」

浩の呟きは、重苦しい室内に吸い込まれていった。その声には、信じられないという思いが滲んでいた。

「ああ。まるで最初からその席が空席だったかのように、世界が整合性を保って書き換わっている。それが一番恐ろしい」

世界の書き換え。

その言葉は、SFのようだった。だが、これは現実だ。今、この瞬間に起きている。

村上の言葉には、科学者としての無力感があった。理解できない現象。説明できない現象。それに直面している。

その時、洋子がふらりとモニターに近づいた。

その動作は、ゆっくりとしていた。まるで、何かに引き寄せられているかのように。

画面に表示された学生の顔写真。どこにでもいそうな、真面目そうな青年の顔。

眼鏡をかけ、少し照れたような笑顔を浮かべている。ごく普通の学生。だが、もう誰も覚えていない。

彼女はその画面を食い入るように見つめ、小さく息を吸い込んだ。

その目は、何かを探している目だった。記憶の中を、必死に探している。

「……私、知ってる気がする」

その声は、消え入りそうなほど小さかったが、確かな熱を帯びていた。

その言葉に、浩と村上は驚いた。知っている? 他の誰もが忘れているのに?

「知ってる?」

浩が驚いて振り返る。その声には、期待と不安が混じっていた。

「名前がわかるのか?」

「ううん、名前は出てこない。漢字を見ても読めないの。……でも」

洋子は眉間に皺を寄せ、閉ざされた記憶の扉をこじ開けようとするように目を閉じた。

その表情は、苦しそうだった。何かを思い出そうとしている。だが、思い出せない。もどかしさが、顔に刻まれている。

「色とか、声の調子とか……霧の奥に人影がいるみたいな感じで、確かに"あそこにいた"って思うんだよ。図書館の閲覧席の隅とか、学食の窓際とか……そういう風景の中に、彼が座っていた気配だけが残ってる」

気配だけ。

それは、曖昧なものだった。だが、確かに何かがある。記憶の残滓。完全には消えていない何か。

浩は息を呑んだ。

他の誰もが忘れている中で、洋子だけがわずかに覚えている。

それは偶然ではない。何か理由がある。

それは彼女の感受性が特別だからなのか、それとも彼女自身が"境界線"に近い場所にいるからなのか。

もしかしたら、洋子もまた、消失の影響を受けつつある。だが、完全には消されていない。その境界にいる。だから、他の人が忘れたものを、まだ覚えている。

その可能性に、浩は恐怖した。

「洋子がそう言うなら、それは単なる直感じゃない」

浩は彼女の肩に手を置いた。その手は、温かかった。現実の重み。存在の証明。

「お前は今、雪と記憶を"同じ形の現象"として捉えてる。だから、システムが書き換わる前の残像が見えてるのかもしれない」

システムの書き換え。

その表現は、機械的だった。だが、的確だった。世界というシステムが、書き換えられている。記憶という情報が、削除されている。

洋子は、目を開けた。その目には、困惑と、そしてわずかな希望があった。

村上が静かに頷き、話題を変えるように言った。

彼は、洋子をこれ以上追い詰めたくなかった。彼女が苦しんでいることは、明白だ。

「実は……政府の特別班からも緊急連絡が来ている」

彼は窓の外、灰色の空を指差した。その指は、わずかに震えていた。

「この地域の降雪パターンが、今まさに"異常状態"に入りつつあるそうだ」

異常状態。

その言葉は、公式な表現だった。だが、その意味は重い。危機が迫っている。

三人の視線が、一斉に窓の外へと向いた。

その動作は、同時だった。まるで、何かに呼ばれたかのように。

雪は音もなく降り続けている。風はなく、真上から真下へ、重力に従って落ちてくる。

その降り方は、一見すると普通だった。だが、よく見ると違う。

だが、その降り方は、やはりどこか決定的に不自然だった。

粒があまりにも細かく、揃いすぎている。顕微鏡で見なければわからないはずの結晶の形が、肉眼でも感じ取れるほどに鋭利で、均質だ。

まるで空全体が、たった一つの完璧な模様を、コピー&ペーストで無限に増殖させているように見える。個性のない、冷徹な白の軍勢。

それは、美しいが、恐ろしかった。完璧すぎる。自然ではない。

「……気持ち悪いな」

浩が思わず漏らした。その声には、嫌悪感があった。

「自然のランダムさが全くない」

その言葉は、気象学者としての直感だった。自然は、不規則だ。完全に規則的な自然など、存在しない。だが、この雪は違う。


「村上さん。この地域の結晶密度指数、今どれくらいですか?」

浩の問いに、村上が手元のタブレットを確認する。

その動作は、急いでいた。指が画面を滑り、データを呼び出す。数字が表示される。

次の瞬間、彼の顔色が一気に蒼白になった。

その変化は、明白だった。血の気が引いていく。唇が、わずかに震える。

「……閾値突破寸前だ。グラフの数値が、過去の消失ケースと完全に一致する軌道を描き始めてる」

その言葉は、宣告だった。危機が、目前に迫っている。

村上は顔を上げ、二人を見た。その目には、恐怖があった。だが、それ以上に、責任感があった。

「これ、今日の夜……危ないかもしれない。大規模な消失が起きる可能性がある」

大規模な消失。

その言葉が、部屋の空気を凍らせた。一人や二人ではない。多くの人々が、消える可能性がある。

その言葉を聞いた瞬間、洋子の心臓が冷たい手で直接握り潰されたように縮んだ。

物理的な痛みではない。だが、確かに痛い。恐怖が、身体的な反応を引き起こしている。

「じゃあ……また誰かが、消えるの?」

洋子の声は、震えていた。その問いは、確認だった。だが、答えは既にわかっている。

その"誰か"の中に、自分や、目の前の浩が含まれている可能性が脳裏をかすめる。

もし、次に消えるのが自分だったら?

その想像は、耐え難いものだった。

浩の記憶から私が消えて、私がここにいた痕跡だけが残る。浩は私のマグカップを見ても「これ、誰のだっけ?」と首を傾げるのだろうか。

あるいは、浩が消えたら?

私は、彼のことを忘れるのだろうか。この研究室で、一緒に過ごした時間を、すべて忘れるのだろうか。

想像しただけで、指先が微かに震え、止まらなくなった。

その震えは、制御できなかった。恐怖が、身体を支配している。

その震えに気づいたのか、浩が洋子の肩を強く掴んだ。

その手の温もりが、洋子に伝わる。現実の重み。存在の証明。

「大丈夫だ」

力強い言葉だった。根拠などどこにもない。けれど、その熱だけが洋子を現実に繋ぎ止めてくれた。

浩の声には、確信があった。それは、科学的な確信ではない。意志の力だ。信念だ。

「今、俺たちはパターンを見つけはじめてる。結晶密度指数が跳ね上がる条件さえつかめれば、事前に予測して、防げるかもしれない。……いや、防いでみせる」

防いでみせる。

その言葉は、約束だった。誓いだった。

村上も深く頷き、覚悟を決めた目を向けた。

彼もまた、戦う覚悟を決めている。逃げることはできない。ここで、止めなければならない。

「政府も近くに監視班を配置したそうだ。だが、現象を食い止める鍵は、現場でデータを解析している俺たちにかかっている」

その言葉には、重圧があった。だが、同時に、信頼もあった。政府は、彼らに賭けている。

洋子は深く、ゆっくりと息を吸い込んだ。

冷たい空気が、肺に入る。その冷たさが、逆に意識を鮮明にする。

肺の中の冷たい空気が温められ、震えが少しずつ収まっていく。

呼吸を整える。心を落ち着ける。恐怖を抑える。

「……わかった。やろう」

彼女は顔を上げた。その瞳には、恐怖を乗り越えた先にある静かな光が宿っていた。

恐怖はある。だが、それを超える決意がある。ここで諦めることはできない。

「雪と記憶の形が似ているなら、雪のほうから逆に辿れるはずだよね。消されそうになっている記憶を、データの中から見つけ出せるはず」

その言葉には、洋子らしい直感があった。論理ではなく、感覚で捉える。

浩が、頼もしそうに微笑む。

その笑顔は、久しぶりに見る、本物の笑顔だった。希望がある。まだ、戦える。

「そうだ。どんな複雑なシステムでも、構造が似てれば必ず"重なる瞬間"がある。そのシンクロした瞬間こそが、消失の扉が開くときだ」

シンクロ。

その言葉は、核心を突いていた。雪と記憶が、同期する。その瞬間に、消失が起きる。

二人は再びモニターの前に並んで座った。

その動作は、決然としていた。もう、迷わない。やるしかない。

画面には、雪のように無数に散らばる数字の羅列と、刻一刻と変化するグラフの波形。

その混沌とした海の中から、隠されたたった一つの"形"を掘り起こす作業が始まった。

キーボードを叩く音。マウスをクリックする音。それだけが、部屋に響いている。

二人は、集中していた。完全に。時間の感覚が失われるほどに。

外では、日が落ちて暗くなり始めた空から、雪が静かに、執拗に降り続いている。

窓の外の世界は、白く染まっていく。すべてが、雪に覆われていく。

その白は、世界の表面を覆い尽くし、記憶という凹凸を埋めて平らに均そうとする薄い膜のようだった。

触れればすぐに崩れ、しかし崩れた痕跡は決して残らない。

それが、一番怖かった。

痕跡が残らない。証拠が残らない。存在した証が、何も残らない。

忘れられた人の"痕跡"すら残らないということが。

それは、完全な消失だった。存在の否定だった。

――誰も覚えていない。

――だから、最初から存在しなかったことになる。

その絶対的な虚無に抗うため、洋子は画面に浮かぶ波形を強く睨みつけた。

その目には、炎があった。諦めない意志。戦う決意。

「……絶対に見つける。この雪が、何を消そうとしてるのか」

その声は小さく震えていたが、決して折れない強さがあった。

か細い声だが、その奥には、鋼鉄のような芯がある。

浩もまた、深く頷き、椅子に深く背を預けてキーボードに手を置いた。

その姿勢は、戦士のそれだった。戦いに臨む者の姿勢。

「行こう。雪の奥に……記憶の"形"を見つけに」

その言葉は、出発の合図だった。旅立ちの言葉。未知への挑戦。

窓の外で、雪がガラスに張り付き続けている。

その様子は、まるで何かが外から覗き込んでいるかのようだった。

それはまるで、外の世界が二人を試すように、冷たく白い指先をゆっくりと伸ばしているかのようだった。

雪は、意思を持っているかのように見えた。敵意を持っているかのように。

「雪と記憶」の戦いは、こうして静かに、しかし確実に幕を開けた。

その戦いは、長く、困難なものになるだろう。だが、二人は諦めない。

戦い続ける。

真実を見つけるまで。

消失を止めるまで。

記憶を守るまで。

村上は、二人の後ろ姿を見ていた。その背中に、希望を見た。

若い研究者たち。彼らが、世界を救うかもしれない。

その可能性に、村上は賭けた。

部屋の中には、緊張感が満ちていた。だが、それは絶望的な緊張ではない。戦いの緊張だ。

時計の針が、進んでいく。夜が、近づいてくる。

そして、危機も。

だが、二人は止まらない。

データを解析し続ける。パターンを探し続ける。

答えは、必ずある。

それを信じて。

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